LOGINクロフト博士とのビデオコールが終わり、会議室は安堵と興奮に包まれた。
「さすが如月社長だ! あのドクター・クロフトと見事に交渉をまとめ上げるなんて」
「数式のやり取りは正直、理解不能だったけど。社長がどれだけ高い知性の持ち主かはよく分かったよ」
チームメンバーたちが口々に蒼也を称賛する中、彼は静かな声で美桜に告げた。
「高梨リーダー。これで、君の描くプロジェクトの心臓部が手に入った。思う存分、腕を振るうといい」
彼の言葉は美桜を単なるリーダーとしてではなく、このプロジェクトの創造主として認める響きがあった。美桜は強い信頼に、胸が熱くなるのを感じる。
会議が終わった後、美桜は蒼也に改めて礼を言った。
「本当にありがとう、如月社長。あなたがいなければ、このプロジェクトは終わっていたわ」
「礼なら、ディナーでも奢ってもらおうかな。君と二人きりでね」
蒼也はさらりと微笑む。それは次のデートへの誘いでもある。
そのやり取りを、陽斗は黙って聞いている。
プロジェクトが暗礁に乗り上げず救われたことは、心の底から嬉しい。けれど美桜が蒼也に向ける憧れと感謝に満ちた眼差しが、彼の胸に突き刺さった。それは、陽斗が禁じ手としていた一条家の力を使ってもなお、この件を失敗してしまったせいでもある。(結局、俺は何もできなかった。俺自身の力はもちろんのこと、一条の家に頼ったにもかかわらず、無力だった。先輩が本当に困っている時に、俺の『力』は役に立たなかった。彼女を救ったのは、俺じゃない……。如月社長、なんだ……)
陽斗は人生でほとんど初めての致命的な失敗に、無力感を感じていた。
美桜は、陽斗の表情が曇っていることに気づいた。彼がプライドを傷つけられていることを察して、慌てて声をかける。
「一条君。あなたが最初に動いてくれたから、私も諦めずにいられたのよ。ありがとう」
美桜の優しい言葉に、陽斗は無理に笑顔を作った。
「いえ。俺は、何もできませんでした」
その笑顔はいつもの
クロフト博士との提携やゴーストデータの騒ぎから数週間が経過し、プロジェクトは再び確かな足取りで前進していた。チームに活気が戻り、会議室は建設的な意見が飛び交う熱気に満ちている。 陽斗もサブリーダーとして以前と変わらず、否、それ以上に精力的に働いていた。彼の明るい声と人懐っこい笑顔は、チームの雰囲気を和ませる潤滑油のようだ。 けれど美桜だけが気づいていた。彼がふとした瞬間に見せる、どこか遠くを見つめる目に宿る翳りや、一人でいる時の物憂げな表情に。(クロフト博士の一件。やっぱり、陽斗君は失敗をまだ引きずっているのかもしれない。無理もないわ。『必ず成功させてみせる』って、あんなに自信に満ちていたのに……。プライドをひどく傷つけてしまったのね。初めて味わう大きな敗北だったはずだから) デスクでPCに向かいながら、美桜はプロジェクトルームのガラス壁の向こうにいる陽斗の背中を盗み見る。 陽斗のダメージが、恋のライバルである蒼也に完膚なきまでに負けてしまったせいもあるとは、彼女は気づいていない。(陽斗君はいつも私を支えてくれるけど、彼自身の弱さは決して見せようとしない) 美桜の胸が、ちくりと痛んだ。 チームの輪の中心で笑っている陽斗の顔。けれどその瞳の奥には、一瞬だけ誰もいない場所を見ているような、深い翳りがよぎる。プロジェクトが再び軌道に乗ってから、彼は以前にも増して完璧な「明るい後輩」を演じているように見えた。(私が、彼を傷つけてしまったんだわ……) クロフト博士との一件での敗北は、陽斗のプライドをどれほど傷つけたことだろう。陽斗はいつも美桜を助けて、守ってくれた。その彼が初めて見せた弱さを、美桜はただ見ていることしかできなかった。(今度は私が、彼の力になりたい) 何か声をかけたい。でも、どんな言葉をかければいいのだろう。「頑張って」は、もう十分すぎるほど頑張っている彼には酷な言葉だ。「元気出して」も、今の彼には空々しく響くに違いない。(そうじゃない。言葉じゃなくて) ふと、自分の心が疲弊
それから数日後、陽斗は目当ての資料を探し当てていた。 それは水濡れの後が色濃く残る、日報の束である。当時、日報が書かれた現地で大規模な洪水が起こり、三ツ星商事の施設も浸水したのだ。水濡れはその痕跡だった。 陽斗はかなりの精度で資料を絞り込むことに成功したが、それでもまだかなりの量が目の前に積まれていた。「良くやった、一条君。あとは僕に任せてくれ。自社開発のAIで分析し、内容を精査する」 蒼也はすぐに最新のスキャナを三ツ星商事に送り届けた。 陽斗と美桜、蒼也も含むチームのメンバーが手分けして、資料の山をスキャンしていく。 だが、その結果は思わしくなかった。 蒼也のチームの技術者から「社長、AI-OCRの分析では、エラーが数千件単位で検出されています」という悲観的な報告が上がったのだ。しかし蒼也は、スキャンした資料の一点を鋭い目で見つめていた。「いや、待て」 彼は何か閃いたように、指で顎をなぞる。「人間は、ランダムな間違いは犯さない。間違いには、必ずパターンがある。そう……例えば、水で滲んだ『3』は、『8』に見える可能性がある」 彼の推理は、単なる技術論ではなかった。15年前に、洪水災害の疲労困憊の中でデータを再入力したであろう、名もなき社員の心理状態までを、蒼也は正確に読み解いていた。 そして蒼也は自社の技術者に、的確な指示を飛ばす。「全データの突合分析を中断しろ。AIに新しい命令を与える。『15年前の、この期間のデータに限り、『8』と入力されている数値を、一時的に『3』と仮定して、全体の再計算を実行せよ』と」 技術者たちが、大慌てでコマンドを打ち込む。数秒の沈黙の後、モニターに映し出されたグラフから、異常値を示す赤いグラフだけが、すっと綺麗に消え去った。 ゴーストデータが完全に消滅した瞬間だった。「やった……!」「これで間違いないぞ!」 プロジェクトは最大の危機を脱した。安堵と興奮が、皆の間に流れる。 蒼也は陽斗に向き直った
(諦めるな。どんなに複雑に見える問題も、必ずどこかに綻びがあるはずだ) 彼は紙の資料探しと並行して、AIが検出した「ゴーストデータ」のパターンを、時系列で徹底的に分析し始めた。 画面には過去20年分の物流拠点の在庫データが、グラフとして表示されている。そのほとんどが正常な範囲で上下している中、問題の東南アジア拠点だけが、ある時点を境に毎年、物理的にありえない量の在庫を計上し続けていた。(このグラフの形。ランダムな入力ミスじゃない。まるで心電図にバグが起きたみたいに、一定の法則で、異常値が続いている。これはどこか大元の計算式か、参照データそのものが汚染された証拠だ) 陽斗は、その「異常が始まった時点」を特定するため、さらにデータをさかのぼっていく。 5年前、エラーは存在する。10年前、存在する。14年前、存在する。 そして――。(……15年前) 陽斗の指がぴたりと止まった。 15年前のデータまでは、異常値は存在しない。しかし、14年と364日前のデータから、突如として、あの「ゴースト」が現れている。「先輩」 隣で同じようにデータを分析していた美桜に、彼は声をかけた。「原因が分かりました。このゴーストが生まれたのは、ちょうど15年前の今日です」 彼はPCの画面を美桜に見せる。そこには正常なデータと異常なデータが、くっきりと分かれたグラフが表示されていた。「この日を境に、何かが起きたんです。システムが入れ替わったか、あるいは何か物理的なトラブルがあって、データの入力方法が変わったか……。デジタルで追えるのは、ここまでです。でも答えは、必ずこの『空白の一日』の前後にあるはずです」「……それは」 美桜は、陽斗の鋭い分析に息を呑んだ。何万という数字の羅列の中から、たった一つの「境界線」を見つけ出した、彼の驚異的な集中力と観察力。 陽斗はまっすぐな瞳で、美桜を見つめた。「俺が、その答えを見つけてきます。15年前の、紙の資料の
陽斗の祖父――先代の社長にして今の会長――は、幼い孫に向かってこう語った。『陽斗。これからデジタル化の波が押し寄せるのは間違いない。PCは日々進化して、誰もが使いこなすようになりつつある。近い将来、デジタル上でさらなる革新が起きる可能性は高いと見ている。我が三ツ星商事も、その波に乗ってさらに拡大していくだろう。だがな、陽斗。私は思うのだよ。技術が進歩すればするほど、便利になればなるほど、一つの方法に全てを賭けてしまうのは危険だとね。リスク分散の意味も含めて、古い技術の一部を残しておくのも、悪くないと考えている』(あの慎重なお祖父様が、デジタルだけを過信するはずもない。どこかにあるはずだ) 彼は自分の直感を信じて、ノートPCで会社の巨大な内規データベースにアクセスした。検索窓に普通の社員ならまず入力しないような、古風な単語を打ち込んでいく。「海外拠点」「資料保管規定」「第三分類」「永久保管」 数秒後、一件のファイルがヒットした。それは20年以上前に制定され、今では誰にも参照されることのなくなった、旧式の資料保管規定だった。 その条文の一つを、陽斗の目が捉える。『海外拠点における会計関連の一次資料(日報、輸送伝票等)の原本は、デジタル化の有無を問わず、全て本社地下の第四資料保管室にて、永久保管するものとする』(……あった! これだ!) 陽斗は顔を上げた。その瞳には、絶望の淵から一本の光を見つけ出した者の強い意志が宿っていた。 彼は疲れ果てた表情でうつむいている美桜の元へ、静かに歩み寄る。「先輩。まだ、手はあります」「一条君?」 陽斗は、自分のPC画面を彼女に見せた。そこに表示された古びた社内規定を。「デジタルの記録がダメでも、この会社のどこかに必ず、紙の記録が眠っているはずです。俺が、それを見つけ出します。どんなに時間がかかっても」 その声は静かだったが、確かな決意に満ちていた。 美桜は彼の言葉とまっすぐな眼差しに、失いかけていた希望の光を再び見出すのだった。◇
翔の言葉は実に嫌味だ。美桜のリーダーシップと蒼也の技術力、両方を同時に貶める悪意に満ちたセリフだった。玲奈も隣で「こんなことじゃ、本当に先が思いやられますね」と、くすくすと意地悪そうに笑っている。(あの人たち、またあんな言い方をして!) 美桜はぐっと唇を引き結んだ。ここでリーダーである彼女が動揺しては、チームの士気が崩壊してしまう。毅然とした態度で言い返そうとした時、隣に座っていた陽斗が口を開いた。「――原因は、必ずあります。解決策も必ず見つかります。そうですよね、リーダー」 彼は美桜の目をまっすぐに見て、そう言った。その強い信頼に、美桜は「ええ、もちろんよ」と、頷き返す。 けれど原因不明の「ゴーストデータ」という巨大な壁を前に、チームは再び暗礁に乗り上げてしまった。◇ プロジェクトチームの中で、「ゴーストデータ」の原因を追う作業が始まった。だが蒼也のチームからの最終報告は、絶望的なものだった。「デジタルの記録は、15年前のサーバー移行時に、破損した旧サーバーから無理やりデータを吸い上げた記録が最後です。それ以前は、もはや追跡できません」 最新の技術をもってしても、失われた過去のデータは復元できない。会議室は重い沈黙に包まれた。 蒼也の言葉に、誰もが反論できなかった。デジタルの追跡がダメならもう打つ手はない。それが現代のビジネスにおける常識だった。(どうしたらいいの……) 美桜もリーダーとして次の手を考えようとするが、思考が完全に停止してしまっている。手詰まりだった。 しかし陽斗だけは違った。彼は皆が下を向く中、一人だけ何かを考え込んでいた。(デジタルがダメなら……アナログだ。三ツ星商事は、古い会社。どんなにデジタル化が進んでも、ペーパーレス化が叫ばれても、あの世代の役員たちが、重要書類の『紙の原本』を簡単に手放すはずがない。特に海外拠点の会計に関わる書類なら、なおさらだ) 陽斗は三ツ星商事の体質を良くも悪くも知っている。デジタル世代の彼からすれば
(賑やかな週末だったわ。一時はどうなることかと思ったけれど、案外楽しかったかも) 美桜は気持ちを切り替えて、今週もしっかりと仕事をこなした。 今日はプロジェクトの中間報告会が行われている。美桜がリーダーに復帰してから、チームの士気は高く、会議室は前向きな熱気に満ちていた。 オンラインで参加している蒼也のチームの担当者が、AIによる第一次分析の結果をスクリーンに映し出した。「こちらが、北米と欧州の物流ルートの最適化シミュレーション結果です。ご覧の通り、AIの予測に基づけば、年間でおよそ15%のコスト削減が見込めます」「おお……!」 と、会議室から感嘆の声が上がった。プロジェクトは順調な滑り出しを見せている。美桜も安堵の息をついた。 しかし蒼也の部下の表情は、なぜか晴れない。彼は続けた。「ですが一つ、深刻な問題が発見されました。東南アジアの、とある古い物流拠点のデータです。こちらをご覧ください」 スクリーンに、新しいグラフが映し出される。その片隅にありえないほどの異常値を示す、一本だけ突き抜けた棒グラフがあった。「なんだ、あれは」「明らかにおかしいぞ」「どうしてあそこだけ、あんなことに?」 会議室がざわめきに包まれる。蒼也がそのざわめきを制するように、口を開いた。「簡単に言うと、AIが『存在しないはずの大量の在庫』が、この拠点にだけ、毎年必ず出現すると予測している。物理的にありえない。我々はこれを『ゴーストデータ』と呼んでいる。このゴーストの正体を突き止めない限り、AIは学習を誤り、使い物にならなくなる」「何だって……」「AIが使えないんじゃ、このプロジェクトが根底からくつがえるじゃないか」 蒼也の言に、会議室の熱気は急速に冷えていった。プロジェクトが深刻な壁にぶつかった瞬間だった。 重苦しい沈黙を破ったのは、翔である。彼は腕を組み、これ見よがしに大きなため息をついてみせる。「なるほどな。やはり最新技術というのは、こういう『想