FAZER LOGIN「待ってちょうだい! あなたの婚約者は私ですわ!」
アイリーンの声が震える。目の前でアルフレッドが姉に似た女の肩を親しげに抱き寄せた。その行為に調子に乗ったのか、それまで黙っていた女が口を開く。 「失礼ですが両家の婚約の条件を調べた所、エバンズ家から出された条件にはヴェール家の子女とあり、どこにも個人を指す表記は無かったように思いますが」 いつも愛らしく笑っていたアイリーンは一体どこへ行ったのかと思うほど、今のアイリーンの顔は嫉妬に歪んでいる。 「よく知っているな、そんな事」 「はい、調べましたから」 「なるほど。相変わらず有能だな、君は」 毅然とした態度でアイリーンとやり合うサンドラを見直していると、アイリーンが唇を戦慄かせて叫ぶ。 「優秀? だったらこれは知らないの? 姉ならもうハインリヒさんとの結婚が決まっているって」 「そうなのですか? 何の為に?」 「当然ノワールをさらに大きなアトリエにする為に決まってるでしょ⁉ そんな事も分からないの?」 「つまり政略結リリアナは部屋に入るなり、尋ねてきた客人を見て息を飲んだ。 けれどそれはリリアナだけでなく、フィンもだ。 フィンはリリアナを見るなり目を見開くと、勢いよく立ち上がり大股で近寄ってきてリリアナの肩を掴んで口を開いた。「リリ——むぐ!」 大声で本当の名を呼ばれそうになって急いでフィンの口を覆ったリリアナは、視線だけで軽くフィンを窘めてカーテシーをして見せる。「お久しぶりです、フィン・サイモンさま」「え? あ、ああ、久しぶり。元気そうで安心したよ」 一体何が起こっているのか分からないとでも言いたげなフィンを横目にちらりとアルフレッドを見ると、その顔は明らかに不機嫌そうだ。「知り合いか?」「ええ。古い友人なんです。ね? フィン様」 不機嫌なアルフレッドの言葉にフィンを見て言うと、何かを察したかのようにフィンが頷く。「友人か。君の友人に調香委員会を務めるような者が居るとは驚きだ」 サンドラに秘密が多いのは承知しているし、それを無理に聞き出すこともしないと決めたが、サンドラの過去を知っている者がいざ目の前に現れると話は変わってくる。「私も驚きました。私たちが知り合ったのはまだ幼い頃で、その時はお互い自分たちのアトリエを持つ事を目標にしていたんです」 どこかトゲのあるアルフレッドの言葉にリリアナは包み隠さず答えた。「ほう? だが君は調香委員会の道を選んだのか」 サンドラの言葉が本当かどうか分からないままフィンに問いかけると、フィンは真っ直ぐアルフレッドを見据えて言う。「ええ。どうしても見つけ出したい人が居たんです。彼女はとても優秀な調香師で、ある日忽然と姿を消してしまった」「それと委員会に入る事に何の繋がりがる? 人探しなら探偵でも雇えばいい」 やけに挑戦的な目を向けてくるフィンに思わず強い口調で言うと、フィンは怯むことなく言い返してくる。「彼女はとても優秀な調香師です。どこへ隠れていても、必ず表舞台に出てくる」「そうか。それで、その相手がサンドラなのか?」 試すように言うと、フィンはちら
アルフレッドは今回の事を絶対に許さないと胸に誓っていた。 アルフレッドにとってメロウ・ブルーの立ち上げは後継者争いの一環でもあったが、初めて持つ自分のブランドでもあった。「ルーク、アイリーンの尻尾は掴めたか?」 ヴェール家が健康被害を出してから半月、アルフレッドはルークを呼び出し尋ねた。「そんなにすぐに結果が欲しいのなら正規の探偵を雇うんだね」「つまりまだ何も成果は無いという事だな?」「まぁね。でもあの一件以来、風向きは良いよ。何せ皆が簡単に口を割ってくれるようになったからね」 そう言ってルークは大量のメモを机の上にバサリと置いた。「ヴェール家の評判。あそこ最悪だよ」「そうなのか?」「まぁ読んでみれば。そりゃ姉も逃げ出す」 そんな事を言われてメモに目を通していたが、最後まで読まずにアルフレッドはメモを引き出しに仕舞いこんだ。「酷いな」 メモには逃げた長女リリアナ・ヴェールについても書かれていたが、とにかく母を亡くしてからの扱いが酷かったようで、日頃から離れに一人で住み、たった一人で朝から晩まで黙々と調香をしていたらしい。 あのアイリーンとは異母姉妹のようだが、華やかな妹と地味な姉だと皆からは思われていたようだ。「だが、姉には調香の才能があった、か」「そうなんだ?」「らしい。妹が言った事が本当であれば、なかなかの腕前だったようだぞ」「へぇ。それじゃあ、もしかしてヴェール・ノワールの代表調香師は姉の方だったのかもね。だって姉が逃げた途端にこのザマだ」「かもしれないな。挙句の果てに大陸の男との縁談を勝手に進められていたそうだから笑えない」 人の一生を一体なんだと思っているのだ。そうは思ったがエバンズ家も似たようなものだと思い咳払いすると、ルークもそう思ったのか苦笑いを浮かべ調査に戻って行く。 ルークが成果を手にやってきたのはそれからすぐの事だった。 その日アルフレッドはラボにサンドラを送り、執務室で書類仕事をしていたのだが、そこへルークが大量の書類を持ち込んだのだ。「アル! 掴んだよ! この数
あの発表会で『霧の果て』が調香委員会に認められた事で、リリアナの盗作疑惑は払拭された。それどころか、エバンズ家の新ブランドは盗作を覆した新ブランドだとして大いに注目され始めたのだ。 おまけに陰謀だらけの発表会を乗り越えた事で、ラボの仲間たちの士気は上がりっぱなしだ。「サンドラ様! 次のテーマなんですけど、凄いの思いついちゃいました! でもまだ香りのイメージが出来ないんです」 「それじゃあこの紙にまずは瓶のイメージを書いてみて。それから名前をつけてあげるの。そうしたらきっと、どんな香りにすれば良いか自然と分かると思うわ」「なるほど! やってみます!」 若い調香師はそう言ってリリアナの手からペンと紙を受け取って自席へと戻る。彼の周りにはあっという間に人だかりが出来て、気がつけば皆が彼の真似をしている。 その光景は幼い頃に母の側で調香をしていた自分の姿と重なった。「もうすっかり皆の先生だな」「アルフレッド様! どうでしたか? 何か分かりましたか?」 アルフレッドはあれから誰がサンプルを取り替えたのか、側近のルークと共にあのホテルで聞き込み調査をしていた。「ああ。どうやらすり替えた人物は誰かに偽物のサンプルを渡されて、こちらが本物だから至急取り替えて欲しいと言われたらしい」「その方は突然そんな事を言われて不思議には思わなかったのでしょうか?」「俺もそう思って問い詰めると、どうやらサンプルはお祖母様の署名が入った封筒に入っていたらしい」「シャルロッテ様の⁉」 なんという大胆な事をするのだ! 思わず声を上げたリリアナにアルフレッドも肩を竦める。「それを聞いて思ったんだ。叔父ではないな、と」 流石の叔父もシャルロッテの名前を偽造するなどという馬鹿な真似はしないだろう。「では誰が?」 リリアナには犯人の目星がついているが、それを不用意に告げるとサンドラがリリアナだとばれてしまう可能性があるので言えないでいると、アルフレッドが困惑したように眉根を寄せた。「アイリーン・ヴェールだ」 彼女の事はよく知らないが、何せサンドラの作品を自分の作品だと意気揚々と紹
アルフレッドの雰囲気がそれまでの穏やかな物から一気に怒りへと変わっていく。ふと見るとアルフレッドの拳は硬く握りしめられ、微かに震えていた。 ちらりと壇上から客席に視線を走らせると、アイリーンとフィオナの目が弓なりに弧を描いている。 その表情がまるでこの事態を楽しんでいるようにも見えて背筋に冷たいものが流れていく。あの二人はやはり、リリアナの正体に気づいているに違いない。 ケースを開けたのにいつまで経っても説明を始めないアルフレッドに皆がざわめき始め、アルフレッドの横顔には絶望の色が浮かんでいる。 その横顔に彼のこのブランドに対する思いが全て詰まっていた。「ご安心ください、アルフレッド様。こんな事もあろうかと実は私、こんな物を用意してきたんです」 リリアナは小声で囁いてアルフレッドの怒りに震える拳を優しく包み込み、バッグから二つのサンプルを取り出して会場内を見渡し毅然とした態度で言った。「皆様、お騒がせいたしました。どうやら手違いで試作段階のサンプルが用意されてしまっていたようです。ラボからいくつかの試作品が無くなっている事に気づいて完成品を持ってきましたが、どうやら正解でしたね。調香委員会の皆様、登録されているのはこちらです。どうぞ確認をお願いします」 リリアナが澄んだ声で言うと調香委員会の調香師が二人、前に進み出てくる。「では確認します。こちらが『霧の果て』、そしてこちらが『花の都』ですね」「はい」 一連の騒ぎのせいでリリアナを疑っている調香委員の目つきは鷹のように鋭かったが、いざ『霧の果て』を嗅いだ瞬間、彼らの表情が一変した。「……驚きました。提出されたサンプルと全く同じ、いえ、むしろさらに洗練された香りに仕上がっているようです。そちらは?」「……『花の都』も同じです。レシピを変えた訳ではなさそうですが、これはどういう事ですか?」「温度と湿度を限りなく人肌に近い環境で保管しました。香水は人が肌に付けるものなので、それを再現したんです」「そこまで計算されて作られていたという事ですか?」「はい。調香師として、それは
いよいよ新ブランドの発表会が近づく中、リリアナは土壇場になってようやく『霧の果て』を調香するのに成功した。「どうでしょうか」 緊張した面持ちでサンプルを試すアルフレッドを見上げると、厳しい顔つきに徐々に驚きが広がっていく。「不思議な香りだな。最初はウッド系で郷愁を漂わせ、次にオリエンタルな香りで惹きつけてくる。酔うような香りを抜けるとそこに残るのはシトラスの爽やかさ……驚いた。確かにこれは『霧の果て』だ。名前だけ聞くとネガティブにも思えたが、実際に嗅ぐと霧を抜けた後の晴れやかな気持ちになる」 アルフレッドは感動していた。やはりサンドラは天才だ。自分の選択に間違いはなかったのだ。「あの、それは合格という事ですか?」 こうしてきちんと調香した物をアルフレッドに見せるのはこれが初めての事だ。 当初の予定では若い女性の為のブランドという事でフローラルな物を作っていたが、アイリーン達の挑発に乗るような形で真逆の商品になってしまった。それは全てサンプルとレシピをヴェール家に置きっぱなしにしていたリリアナの責任だ。 ドキドキしながら答えを待っていると、アルフレッドがじっとこちらを見下ろしてきた。背後ではチームの皆も彼の答えを固唾を飲んで見守っている。「これでいこう。もう一つの方も採用だ。花畑のような甘い香りが主体の香水と、この霧の果てはまるで一つの物語になっているかのようだ。これは今まで レ・パルファンでも無かった試みだが、試す価値がある」 今まで通りの事をしていても会社は決して大きくはならない。もちろん古いやり方を否定するつもりは無いが、サンドラの調香技術のように柔軟性を持つべきだ。 アルフレッドが告げると、ラボが壊れるのではないかと思うほどの歓声が湧き上がった。チームの全員がサンドラの周りに集まり、互いの健闘を称え合っている。 気がつけばサンドラは名実共に代表となっていたようだ。「やった……やったわ、皆!」 普段はどちらかと言うとあまり感情は表に出さないリリアナだが、今回ばかりは色んな意味で声を上げずにはいられなかった。 盗作という汚名
アルフレッドはリリアナに宣言した通り、あれから自分の時間や習慣までリリアナに合わせて調整してくれている。「……どうしてそこまでしてくれるんだろう……」 朝食にはいつも並んでいたコーヒーが並ばなくなった。その代わり、リリアナの前には温かいミルクが、アルフレッドの前には水が並ぶ。 就業時間はいつもラボの事務所の暖炉には火が入れられ、ソファは転がれるサイズの物にいつの間にか置き換わっていた。 仕事が終わると部屋まで必ず送ってくれるし、食事のメニューもリリアナが消化しやすいようにと野菜中心の煮込み料理が増えている。 それに気付く度に申し訳なくて泣きそうになるのに、心のどこかでは嬉しくて堪らなくて、甘ったるいような痺れが胸を締め付ける。「いつになったら告げる事が出来るんだろうね。……一生、言えないのかな」 リリアナは事務所のソファに寝転がって腹部にそっと手を当てて尋ねたが、まだ何の動きもない。 本当の父親がすぐ側に居るのにこの命を分かち合う事が出来ない苦しみは、きっと誰にも分からないだろう。「それに、もしかしたらアルフレッド様は自分の子どもじゃないからこそ、こんなにも良くしてくれるのかもしれないじゃない」 自分に言い聞かせるように言うと、思わず涙が溢れそうになって慌てて涙を袖で拭い、目を閉じる。 気がつけばリリアナは眠っていたようで、目覚めると手触りの良い毛布がかけられていた。 雑務をこなし遅れて新ブランドのラボに立ち寄ると、そこにサンドラの姿は無かった。「おい、彼女はどうした?」 手近に居た調香師に声をかけると、若い調香師が事務所を指さす。「休憩中か?」「はい。今日は少し酷いようです」「そうか。ありがとう」 サンドラの悪阻は最近ますます酷くなっていた。産婆は問題無いと言うらしいが、見ていると変わってやりたい気持ちで一杯になってくる。食べても戻してしまうせいで、元々華奢な手首が最近はさらに細くなったように思う。 アルフレッドは心配しつつ事務所の窓か







