共有

第492話

作者: 北野 艾
「ああ。新素材のチェックに来てね」柊也の声はどこか掠れており、隠しきれない倦怠感が滲んでいた。

すると赤坂が、愛想よく笑いながら解説を始めた。「いやあ、賀来社長の柏木さんへの溺愛ぶりには頭が下がりますよ。ここまでは長旅になりますからね、彼女に負担をかけたくないと、こうして代わりにお見えになったんです。実にお熱いことで」

詩織は愛想笑いを浮かべ、軽く受け流した。二人の仲を見せつけるような茶番劇になど、興味のかけらもない。

「江崎社長、移動でお疲れでしょう。まずは私のオフィスで一服されますか?」

赤坂社長が気遣わしげに提案するが、詩織は首を横に振った。「お気遣いなく。時間は有限ですから、さっそく現場を拝見させてください」

「承知しました!ではこちらへ」

赤坂社長が先頭に立って歩き出す。そして振り返り、柊也とその秘書である春菜にも声をかけた。「賀来社長たちも、どうぞ」

赤坂の工場が製造しているのは、チップ製造において最も核心的であり、かつ高価な部材――シリコンウェハーである。

詩織も事前に知識を詰め込んではいたが、あくまで机上の空論に過ぎない。

本来なら源治が来るはずだったが、あいにく体調を崩して入院してしまったため、急遽彼女が代理で視察に来ることになったのだ。

「初期段階の視察なら、工場が規範通りに稼働しているかを確認するだけで十分だ」と源治は言っていた。

具体的な技術面の協議については、後日彼が専門の開発チームを率いて行う手はずになっている。

工場内は詩織の予想以上に清潔で、管理が行き届いていた。

彼女が率直に称賛の言葉を口にすると、赤坂は苦笑いを浮かべた。

「これも全て、賀来社長に鍛え上げられたおかげですよ。当時、なんとしてもエイジアとの契約を取り付けたくて、必死に改善を重ねましたから。ご存じの通り、賀来社長の要求水準はとてつもなく高い。あの頃はプレッシャーで胃に穴が開くかと思いましたよ……まあ、なんとか合格点をいただけて今があるわけですが」

その点については、詩織も同意せざるを得ない。

柊也の厳格さは、他者だけでなく自分自身にも向けられている。

――もっとも、志帆だけが例外だが。

自らが歩んできた道の険しさを知っているからこそ、彼女には同じ苦労をさせたくないと思っているのかもしれない。

プロダクトマネージャーが新素材のサンプル
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター
コメント (5)
goodnovel comment avatar
awayfromhome-takako
今だに、ゲス帆とは一線を超えてないとのことなので、全てクズ也の手の内ってこと?
goodnovel comment avatar
桜花舞
湊は柊也側の人間なのかな
goodnovel comment avatar
カナリア
湊が裏切り者? 話が進まないなぁ
すべてのコメントを表示

最新チャプター

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第492話

    「ああ。新素材のチェックに来てね」柊也の声はどこか掠れており、隠しきれない倦怠感が滲んでいた。すると赤坂が、愛想よく笑いながら解説を始めた。「いやあ、賀来社長の柏木さんへの溺愛ぶりには頭が下がりますよ。ここまでは長旅になりますからね、彼女に負担をかけたくないと、こうして代わりにお見えになったんです。実にお熱いことで」詩織は愛想笑いを浮かべ、軽く受け流した。二人の仲を見せつけるような茶番劇になど、興味のかけらもない。「江崎社長、移動でお疲れでしょう。まずは私のオフィスで一服されますか?」赤坂社長が気遣わしげに提案するが、詩織は首を横に振った。「お気遣いなく。時間は有限ですから、さっそく現場を拝見させてください」「承知しました!ではこちらへ」赤坂社長が先頭に立って歩き出す。そして振り返り、柊也とその秘書である春菜にも声をかけた。「賀来社長たちも、どうぞ」赤坂の工場が製造しているのは、チップ製造において最も核心的であり、かつ高価な部材――シリコンウェハーである。詩織も事前に知識を詰め込んではいたが、あくまで机上の空論に過ぎない。本来なら源治が来るはずだったが、あいにく体調を崩して入院してしまったため、急遽彼女が代理で視察に来ることになったのだ。「初期段階の視察なら、工場が規範通りに稼働しているかを確認するだけで十分だ」と源治は言っていた。具体的な技術面の協議については、後日彼が専門の開発チームを率いて行う手はずになっている。工場内は詩織の予想以上に清潔で、管理が行き届いていた。彼女が率直に称賛の言葉を口にすると、赤坂は苦笑いを浮かべた。「これも全て、賀来社長に鍛え上げられたおかげですよ。当時、なんとしてもエイジアとの契約を取り付けたくて、必死に改善を重ねましたから。ご存じの通り、賀来社長の要求水準はとてつもなく高い。あの頃はプレッシャーで胃に穴が開くかと思いましたよ……まあ、なんとか合格点をいただけて今があるわけですが」その点については、詩織も同意せざるを得ない。柊也の厳格さは、他者だけでなく自分自身にも向けられている。――もっとも、志帆だけが例外だが。自らが歩んできた道の険しさを知っているからこそ、彼女には同じ苦労をさせたくないと思っているのかもしれない。プロダクトマネージャーが新素材のサンプル

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第491話

    二人は睦まじく会話を交わしながら車へと乗り込んでいった。志帆は柊也との会話に夢中で、悠人に手を振ることさえ忘れてしまっていた。悠人はその場に立ち尽くし、二人を乗せた高級車が走り去るのを見つめていた。耳に残る甘い会話、目の前で見せつけられた親密な空気。二人の絆は、想像していたよりも遥かに強固だった。取り残された彼の瞳には、暗く澱んだ影が落ちていた。……夜、密から電話があった。「明日の朝食、何がいいですか?」そう聞かれたものの、詩織の頭の中は大学院入試の資料で埋め尽くされており、すぐには答えが浮かばなかった。「……やっぱり、私がメニューリストを作っておきますね。詩織さんは当日、その中から選ぶだけにしましょう」「いいわね。業務効率化、心得てるじゃない」他愛もない雑談を二、三交わしてから通話を切る。それからまたしばらく参考書に目を落とし、ふと時計に目をやると、針はすでに十一時を回っていた。明日も重要な会議がいくつも控えている。そろそろ休まなければ。詩織は机の上の資料を片付け、寝室へ向かおうとした時、バルコニーの窓が開いているのに気づいた。閉めようとして窓辺に立ったその時――階下から微かに着信音のような響きが耳に届いた。ほんの一瞬、それも曖昧な音だったが、詩織の聴覚はそれを確かに捉えていた。窓を閉める手が止まる。詩織はバルコニーから身を乗り出し、眼下を覗き込んだ。そこにあるのは、街灯の光と並木道の樹冠だけ。あたりは静寂に包まれている。まるで幻聴だったかのように。詩織は迷いながらも部屋に戻り、ベッドに身体を沈めた。しかし、寝返りを打っても胸のざわめきは収まらず、結局すぐに起き上がり、上着を羽織って階下へと向かった。夜の通りはひっそりと静まり返り、風ひとつない。暖色系の街灯が、誰もいない道路を空しく照らし出しているだけだ。車もなければ、人影もない。やはり、ただの気のせいだったようだ。きびすを返して戻ろうとしたその時、コンビニで煙草と水を買って戻ってきた湊と鉢合わせた。湊は詩織の姿を認め、驚いたような顔を見せる。「社長、まだ起きていらしたんですか?」「……もう寝るところよ」詩織は彼が手に提げている眠気覚ましの強壮ドリンクに視線を落とし、少し間を置いてから言葉を継いだ。「家の中にい

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第490話

    その疑問の答えは、彼と志帆が階段教室を出た瞬間に得られた。午後の日差しはまだ強く照りつけている。京介は自然と車道側に立ち、自分の体で日差しを遮るようにして詩織を庇っていた。歩いている間も、彼の視線はずっと詩織に注がれている。その眼差しはあまりに真っ直ぐで、隠そうともしない好意に満ちていた。この光景を前に、志帆の表情から温度が消え失せた。彼女はじっと二人を見つめ、深く息を吸って感情を整える。数秒後には、瞳の底にあった冷たい光は跡形もなく消え去っていた。悠人もまた、同じものを見ていた。彼も男だ。惚れた女を見る男の目がどんなものかくらいは分かる。……マジかよ。驚きと共に、眉間に皺が寄るのを止められなかった。まさかあの宇田川京介が、ここまで恋愛ボケしていたとは。だからあんな媚びを売るような女に騙され、コネを作ってやろうと躍起になっているのか。だが、いくらお膳立てしたところで、肝心の江崎詩織に実力がなければ何の意味もないというのに。詩織と京介が校門を出ると、そこには柊也の姿があった。おそらく志帆を迎えに来たのだろう。並んで歩いてくる二人を見て、柊也の瞳が一瞬だけ止まった。しかし詩織は彼に目もくれず、存在すら無視して隣の京介に話しかけた。「先輩、今日は車?それとも誰かの送迎?」京介は一瞬の間を置いて答えた。「送ってもらって来た」詩織は疑いもせず頷いた。「じゃあ、送るわ。乗っていって」「ああ、助かるよ」京介はこの言葉を待っていたのだ。本当は自分で運転して来ていたのだが、少しでも詩織と一緒にいたくて嘘をついた。もっとも、車に乗り込んでみると運転席には湊がいた。二人きりというわけにはいかなかったが、それでも京介にとっては十分な収穫だった。車に乗り込んだ京介は、ふと顔を上げてプライバシーガラス越しに外を見た。そこにいる柊也はすでに二人への興味を失った様子で、迎えに来た志帆の方へ歩み寄っていた。京介は視線を戻し、隣に座る詩織を見た。彼女はスマホを取り出し、溜まっていた仕事の通知を処理することに集中している。窓の外にいた元カレのことなど、まるで気にかけていない様子だ。その横顔を見て、京介の心の奥にあった重りがふっと軽くなった。誰も知らないだろう。彼がどれほど長く、この時を待ち

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第489話

    悠人の眼差しが冷徹に凍りつく。彼は露骨に体を反対側へ逸らし、詩織との間に明確な距離を作った。生理的な嫌悪感を隠そうともしない態度だが、講義に集中の詩織は気にも留めない。まもなく講義が始まった。詩織は真剣な眼差しで登壇者を見つめ、熱心にノートを取り始めた。悠人は鼻白んだ。……どうせ理解できていないくせに。 ここは大講堂だから罵倒こそしないが、内心では毒づかずにはいられなかった。こんな高度な講義の内容が、お前に分かるはずがない。ノートに何を書いているのやら。どうせ、自分は勉強熱心だとアピールしたいだけだ。「高村教授の講義を受けたことがある」と吹聴して、自分に箔をつけるための猿芝居に過ぎない。ビジネス女が使いそうな手口だ。詩織はそんな悠人の心中など知る由もなく、一心不乱にペンを走らせていた。講義が終わりに近づき、助手がまとめの解説を始める頃、京介が会場に現れた。すでに退席した学生もおり、ちょうど詩織の隣の席──悠人が座っていた場所──が空いていた。詩織は集中しきっていたため、隣人が入れ替わったことにも気づかない。最後の一行を書き終え、ペンを置いたところで、ようやく京介が声をかけた。「どうやら、収穫はあったようだな」「えっ……先輩?どうしてここに?」詩織は驚いて顔を上げた。「お前なら来ていると思ったんだ。仕事が終わったから顔を出してみた」京介は優しく微笑んだ。「どうだ?内容は難しくなかったか?先生のゼミに入るのは、並大抵の勉強じゃ受からないぞ」「分かってる。でも約束した以上、何としてでも合格してみせるわ」「ああ、お前ならできると信じてるよ」京介は力強く励ましてくれた。悠人と京介は、同じ高村門下の兄弟弟子という関係にあるが、そこにはだいぶ時期のズレがあった。悠人が入門した頃、京介はすでに海外留学に出ていたため、二人の接点は極めて少ない。加えて、京介が志帆の元恋人であるという事実が、悠人にとって彼を苦手に思う要因になっていた。普段なら軽く会釈くらいはするのだが、今日は京介が詩織と親しげに話しているのを見て、悠人は挨拶すら省くことにした。彼は踵を返し、最前列にいる志帆のもとへ向かった。志帆のノートもまた、数ページにわたりびっしりと文字で埋め尽くされている。「あれ、悠人くん?どうしてここに?

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第488話

    あの時、密は彼を大絶賛していた。「ボクシング経験者で腕っぷしは強いし、元プロレーサーだから運転技術も超一流。おまけに酒量もテスト済みです!いざという時は宴会の代役も任せられますよ!」とにかく万能な人材だと太鼓判を押していた。その言葉は大げさではなかったようだ。密の先見の明と、湊の卓越したスキルが、今日、本当に詩織の命を救ったのだ。病院での検査結果は異状なしだった。付き添いの密もそれを聞いてほっと胸を撫で下ろした。しばらくすると、事情聴取を終えた湊がタクシーで駆けつけた。「どうだった?」詩織が尋ねると、湊は険しい表情で報告した。「警察署で事故当時の防犯カメラ映像を何度も確認しました。……間違いありません。あのトラックは、明らかに故意にこちらの車を狙っていました」「えっ……」詩織の心臓が早鐘を打つ。「誰かが、私を殺そうとしたってこと?」湊は無言で、だが力強く頷いた。詩織は息を飲み、背筋に冷たいものが走るのを感じた。しばらく言葉が出てこない。「警察の見解は?」「現在捜査中です。遠からず結果が出るはずです」「……分かったわ。これからはもっと警戒しましょう」詩織は自分に言い聞かせるように頷いた。正面からの攻撃なら対処しようもあるが、闇討ちは防ぎようがない。見えざる敵の存在に、言い知れぬ不安が募った。一方その頃、和代が慌ただしい様子で志帆の実家を訪れていた。リビングには長昭もいたため、和代はあくまで世間話をしに来たふりをして言葉を濁した。だが、その顔色は明らかに動揺している。何かあったと察した佳乃は、「ちょっと、来週のパーティーのドレス選びを手伝って」と口実を作って、和代を自室へと連れ出した。部屋に入るなり、佳乃は素早く鍵をかけ、声を潜めて問いただした。「どうだったの?やったの?」和代は青ざめた顔で首を横に振った。「ダメだったわ」「なんですって?」佳乃は目を見開いた。「あの女、悪運が強いのよ!あろうことか、私たちが雇った運転手のほうが死んでしまったわ」予期せぬ失敗に、和代はパニック状態でここへ駆け込んできたのだ。詩織が無事だったと聞き、佳乃は悔しさに唇を噛んだ。だが、失敗は失敗だ。今さら地団駄を踏んだところで結果は変わらない。「ねえ、警察の捜査で私たちまで辿り着かれた

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第487話

    詩織は反論しなかった。最近、煎じ薬を飲み続けているせいか、老教授は少々気が立っているらしく、言葉の端々に棘がある。……カルシウム不足かしら。隣で志帆が吹き出しそうになるのが見えた。恥をかかされたというのに、詩織は涼しい顔をしている。その神経の図太さには、志帆も軽蔑を通り越して感心するほどだ。詩織はバッグを持ち直すと、最後に言い添えた。「お手元の薬、もうなくなりそうでしょう?明日またお届けしますね」「さっさと行け!」高村教授の顔が一瞬で歪んだ。さっきまでの高尚な議論が台無しだ。せっかく機嫌良く話していたのに、なんであの泥臭い薬の話をするんだ!まったく、興を削ぐのが得意な娘だ。詩織に対する高村教授の邪険な態度を見て、志帆は口元を歪めた。瞳の奥には嘲笑の色が濃く浮かんでいる。やっぱり、またそうやって安っぽい機嫌取りをしているのね。だが残念ながら、高村教授のような高潔な人物に、そんな小細工は通用しない。見え透いた媚びなど逆効果だということに、いつ気づくのやら。詩織は志帆の侮蔑的な視線など意に介さず、二人を一瞥することもなしに部屋を出て行った。京介も彼女を見送りに出て行き、しばらく戻ってこなかった。すると、柊也がやおら立ち上がり、高村教授に別れを告げた。「先生、本日はこれで失礼いたします」志帆は目を丸くした。せっかく掴んだチャンスなのだから、もう少し教授と話をして自分を売り込みたかったのに。だが、柊也が帰ると言った以上、自分だけ残るわけにはいかない。彼女も渋々立ち上がり、頭を下げた。屋敷を出ると、庭先で京介が電話をしているのが見えた。二人が出てくるのに気づくと、京介は通話を続けたまま、軽く会釈をして見送った。高村邸の門を出たところで、志帆は柊也の横顔を覗き込んだ。「ねえ、京介と江崎さんって……付き合ってるのかな?」柊也の足が一瞬止まったが、すぐに何事もなかったかのように歩き出し、淡々と答えた。「さあな。知らん」そのそっけない態度は、詩織のことなど眼中にないという証拠に思えた。彼女が誰と付き合おうが興味もないし、知ろうともしない。志帆はその無関心さに、心の底から安堵した。ただ……一つだけ胸に引っかかるのは、京介の想い人がよりにもよって詩織だということだ。彼は名門の御曹司だ。選ぼうと思えばどん

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status