Mag-log inすると横からミキが身を乗り出してきた。「北里出身だなんて最高じゃないですか!一等地のボンボンってことですよね、超優良物件!」「……」詩織は天を仰いだ。誰かコイツの口を縫い合わせてくれないかしら。ミキは詩織の殺気などどこ吹く風で、首を傾げながら賢にあれこれと質問を浴びせかけた。まるで職務質問だ。しかし賢は礼儀正しい男だった。ミキの踏み込んだ質問にも嫌な顔ひとつせず、誠実に答え続ける。とうとう見かねた詩織がミキの口を手でふさいで黙らせ、ようやく車内には静寂が戻った。そうこうしているうちに、車は詩織が滞在するホテルの前に到着する。詩織が降りようとしたその時、賢が声をかけた。「明日のフライトは何時だい?」その意図を瞬時に察知したミキが、詩織が止める間もなく即答する。「午前〇時〇分発の〇〇便です!」賢は満足げに微笑み、二人に別れを告げて走り去った。テールランプが見えなくなるのを待って、詩織はミキのわき腹をつねり上げた。「ちょっとミキ!一体何考えてんのよ!」ミキは腰に手を当てて胸を張る。「何って、アンタが新しい人生歩むって決めたんでしょ? だったら新しい男が必要不可欠じゃない!」「あの篠宮さん、かなり優良物件よ。キープしときなさい」詩織は夜空を仰いで深い溜息をつき、座右の銘とも言える言葉を突き返した。「いいこと、ミキ。男なんてね、金儲けの邪魔になるだけなの。分かった?」翌朝。ホテルのエントランスには、時間通りに現れた賢の姿があった。空港まで送ると言う。詩織は今すぐ部屋に戻り、まだ夢の中にいるミキを叩き起こして説教したい衝動に駆られた。だが、わざわざ迎えに来てくれた相手を追い返すわけにはいかない。それはあまりに失礼だし、大人の対応ではない。詩織は観念して助手席に乗り込んだ。幸い、賢は距離感を心得ており、詩織が居心地悪くなるような話題には触れてこなかった。世間話の中で、彼が休暇を利用して実家に帰省中であり、来週には職場に戻るということを知った。賢は詩織を搭乗口まで送り届け、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。踵を返して戻ろうとしたところで、ばったりと悠人に出くわした。「賢さん?こんなところで何してるんすか?」「友人の見送りだよ」「友人?賢さんの実家から空港までって、北里を半周する
賢が電話を切った直後、入れ替わるように悠人からの着信が入った。彼はハンドルを握りながら通話ボタンを押した。「もしもし、賢さん?今どこですか?」「悪い。急用ができたから行けなくなった。みんなで楽しんでくれ」「えっ、マジですか? せっかく久しぶりに北里に戻ってきたのに……みんな待ってますよ」「また次の機会にな」賢はそれだけ告げると通話を切った。悠人がこの店に残っていたのは、ひとえに賢を待つためだった。主役が来ないのなら長居は無用だ。彼は興味を失い、友人たちに挨拶をして早々に引き上げることにした。運転手から「まもなく到着します」と連絡があり、店の外で待とうとエントランスを出た、その時だった。目の前を、見覚えのある一台の車が滑るように通り過ぎていく。悠人は足を止め、眉をひそめた。あれは……賢さんの車じゃないか?ここまで来ておいて、「急用で行けない」だと?さらに悠人を驚愕させたのは、助手席の影だ。女だ。あの篠宮賢が、友人との約束をドタキャンしてまで優先する女がいるなんて。彼にとっては相当重要な相手に違いない。車はすぐに走り去ってしまい、中の女の顔までははっきり確認できなかったが……どこか見覚えのあるシルエットだった。江崎詩織に似ていた気がする。いや、まさか。悠人は即座にその考えを打ち消した。あの篠宮賢が江崎詩織ごときを相手にするはずがない。篠宮家の敷居は高い。賢のパートナー選びには厳しい条件があるはずだ。家柄に見合った良家の子女か、あるいは彼と肩を並べられるような才色兼備のエリートか。そのどちらでもない、中身の空っぽな江崎詩織など論外だ。いくらなんでも、賢の趣味がそこまで悪いわけがない。とはいえ、気にならないと言えば嘘になる。悠人は探りを入れてやろうと、再び賢の番号をコールしてみた。だが、賢は出るどころか、無慈悲にも着信拒否ボタンを押して回線を切ったのだった。車内では、詩織が改めて賢に礼を述べていた。その間も、詩織のスマートフォンは震えっぱなしだ。ミキからの怒涛のメッセージ攻撃であることは見るまでもない。隣に座るミキが太ももを抓って「早く見ろ」と無言の圧力をかけてくるため、詩織は渋々画面を確認した。【この人いいじゃん!マジで当たりだって!】【イケメン
一方、隣のミキはといえば、まるで水を得た魚のように本領を発揮していた。その手練手管たるや、もはや芸術の域だ。「私、元カレに酷いことされて……もう恋なんて怖いんだよね」「もうずーっと彼氏いないの。こんなにドキドキしたの久しぶりかも」「ねえ、君と話してると緊張しちゃう。……これ筋肉?すごいね、硬い!」「わあ、手おっきいねぇ。喉仏もセクシー。……触ってみていい?」「私、あんまりお酒強くないんだあ」「ねえ、もうちょっと顔近づけて?ここ音楽うるさくて、よく聞こえないの」ミキの隣に座ったオラオラ系のホストは、すっかり骨抜きにされてデレデレだ。彼女は自分の獲物を籠絡しつつも、詩織の横にいる子犬系ホストへの指示も忘れない。「ちょっとレイトくん、何ボーっとしてるの?お姉さん退屈してるじゃない、もっと楽しませてあげなさいよ」「お姉さん、乾杯しましょう!」ミキからの愛あるダメ出しを受け、子犬系ホストが慌ててグラスを掲げる。詩織としても、彼らも仕事でやっているのだし、むげにするのも悪いと付き合うことにした。だが、その優しさが裏目に出たらしい。だが、その優しさが裏目に出たらしい。「じゃあ、これで」調子に乗った彼は、いきなり詩織の二の腕に自分の腕を絡ませ、強引に「ラブ飲み」の体勢に持ち込んできたのだ。その頃、二階のVIPフロア。悠人は友人の誕生パーティーに参加していた。個室には派手な男女が集まり、嬌声と笑い声が飛び交っている。その中の一人の女が悠人に色目を使ってきたが、彼は冷淡にあしらった。「無駄だよ。こいつ、心に決めた人がいて操を立ててる身だからさ」友人が茶化すように言うと、女は露骨に残念がった。神宮寺悠人という極上の物件を捕まえれば、一生遊んで暮らせるというのに。部屋の喧騒に耐えられず、悠人はテラスへ出て一人涼むことにした。手すりに体を預け、グラスの中の液体をゆっくりと揺らす。琥珀色のウイスキーが、店内の照明を反射してきらめいていた。ふと、グラス越しに階下を見下ろすと、見覚えのある人影が目に留まった。悠人はグラスをずらし、一階のVIPシートの一角に視線を凝らす。……間違いない。次の瞬間、彼の口元に軽蔑の笑みが浮かんだ。江崎詩織。あの女、相変わらず不潔でふしだらな遊びに興じているのか。悠人
その瞬間、詩織の脳裏には無数の言葉が駆け巡った。「末長くお幸せに」といった定型的な祝福。あるいは、「お似合いね、一生お互いを縛り合って世間に害を撒き散らさないでね」という皮肉たっぷりの毒舌。けれど結局、彼女は何も言わなかった。祝福の言葉だろうと呪いの言葉だろうと、かつて彼に真剣な想いを捧げた自分を裏切ることになるような気がしたからだ。だから彼女は沈黙を選び、そのまま静かに部屋を出て行った。詩織が去ったあとの部屋で、柊也は一人、黙々とケーキを食べ続けた。半分ほど平らげたところで手を止め、誰に聞かせるでもなく呟く。「……このケーキが、はなむけ代わりってことにしておくか」残りのケーキを捨てる気にはなれず、丁寧に小箱に戻して冷蔵庫にしまう。そして携帯を取り出し、ある番号へと発信した。「ああ、俺だ。近いうちに彼女から連絡が来るはずだ。よろしく頼む」……柊也との短いやり取りは、詩織の心にごくわずかな波紋を広げた。だが、それも一瞬のことだった。ホテルのエントランスを出て夜風に吹かれた瞬間、その感傷は霧散した。かつて彼女は、心の奥底で燻る意地だけを頼りに、長く苦しい低迷期を乗り越えた。そして今は、その苦難の中で培った実力を武器に、ひたすら前へと進んでいる。人生は長い。立ち止まって感傷に浸るよりも、やるべきこと、意味のあることが山ほどあるのだ。詩織はその夜のうちに真田源治へと連絡を入れた。そして翌朝一番の便で、彼の故郷へと飛んだ。真田も、まさか詩織がこれほど迅速に動くとは思っていなかったらしく、驚きを隠せない様子だった。詩織は持参した朝食を彼に差し出した。その際、真田の左手側へさりげなく置いたことに、彼は気づいた。「……?」彼の視線に気づき、詩織は微笑む。「以前お見かけしたとき、左利きだと拝見しましたので」「江崎さん……いやはや、本当によく見ていらっしゃいますね」真田は心底感心した。今の殺伐としたビジネス界において、これほど細やかな気配りができる人間は稀有だ。それに、彼女はただ気が利くだけではない。努力家であり、プロフェッショナルだ。かつて仕事で関わった際、真田はその能力の高さを肌で感じていた。当時は「単なる秘書にしておくには惜しい人材だ」と思ったものだ。その後、彼女が
まさか、ブロックしていなかったの?どういう風の吹き回し?狐につままれたような気分で画面を見つめていると、すぐに柊也から返信が来た。【何か用か】あまりの即答ぶりに、詩織は一瞬携帯を取り落としそうになる。だが、すぐに気を取り直してビジネスモードの文面を打ち込んだ。【賀来社長に、折り入ってお願いがありまして】柊也からの返信はドライなものだった。【俺の流儀は知ってるだろ。頼み事なら対価を用意しろ。ボランティアじゃないんでな】詩織は脳内で柊也を八つ裂きにしてミンチにしてやりたい衝動を抑え込み、短く打ち返した。【条件は?】もしふざけた要求をしてきたら、即座にスクリーンショットを撮って、志帆に送りつけてやるつもりだった。しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。【詩織。俺、ケーキが食いたい】……は?これが条件?不気味すぎる……まるで詩織が断らないと確信しているかのように、すぐに柊也から追撃のメッセージが届く。【今回は正真正銘、お前の手作りな。この前みたいに既製品で誤魔化そうなんて思うなよ】「……」詩織は画面を見て絶句した。あいつ、味が分かるわけ?どうやら、同じ手口は通用しないらしい。詩織が場所を尋ねると、すぐに位置情報が送られてきた。詳細を確認してみれば、以前呼び出されたのと同じホテル、同じ部屋番号だ。おそらく、婚約者の志帆に見つかって修羅場になるのを避けるためだろう。だからこそのホテル密会というわけだ。詩織は仕方なくキッチンに立った。手作りしろとは言われたが、丹精込めろとは言われていない。形になっていれば十分だ。適当に焼いてやる。仕事を終えてから向かった詩織に対し、柊也はすでに部屋で待機していたようだ。ノックをした途端、すぐにドアが開く。柊也はシャワーを浴びた直後らしく、バスローブを一枚羽織っただけの姿だった。着崩した襟元からは、湯上がりの肌と、鍛え上げられた胸筋がちらついて見える。詩織は努めて冷静に視線を逸らし、手に持っていたケーキの箱を突き出した。しかし柊也は受け取ろうとせず、揶揄うような口調で言う。「まずは検品だ。手抜きされてないか確かめないとな」いちいち注文の多い男だ。露骨に警戒心を滲ませる詩織を見て、彼はくつくつと喉を鳴らした。「そんなに身構えるなよ。取
「……っ」佳乃は苛立ち任せに、マニキュアの小瓶をテーブルに投げつけた。「坂崎家の人たち、どいつもこいつも頭がおかしいんじゃないの!?」苛立ちを抱えたまま、志帆は母との会話を早々に切り上げた。自室に戻り、シャワーを浴びて少し落ち着いたところで、柊也にメッセージでも送ろうとスマホを手にする。すると、画面には従妹の美穂からの通知が表示されていた。【例の友達の件、どうなった?もう会ってくれた?】志帆の指が止まる。しまった、すっかり忘れてた……!彼女はすぐに行動を開始した。その日のうちに独自のルートを使って美穂の友人たち――あの夜、詩織を陥れようとした実行犯の男たち――の居場所を探らせた。二人のうち一人の足取りが掴め、翌日、志帆は彼を呼び出した。男は初め、何かを恐れるように言葉を濁し、要領を得ない返答を繰り返した。だが、志帆がアメとムチを使い分け、少しばかり強硬な手段を匂わせると、観念したように重い口を開いた。「……実はあの晩、俺たち失敗したんです」「どういうこと?」志帆の目が鋭くなる。「いや、あの女に薬を盛って意識を飛ばすとこまではいったんすけど……部屋に連れ込む前に見つかっちまって。どうも相手はあの女と知り合いだったみたいで、俺たちの手からかっさらっていったんです」「その男が誰だか分かるの?」志帆は即座に問い詰めた。「前は知らなかったんすよ。でも、昨日たまたまニュースで見かけまして」男は慌ててスマホを取り出し、画面を操作して昨日のニュース記事を表示させた。「こいつです!俺たちからあの女を奪っていったのは、この男ですよ!」画面上の写真を見た瞬間、志帆の表情が凍りついた。そこに写っていたのは、譲だった。……なるほど、そういうこと!胸にわだかまっていた違和感が、パズルのピースがはまるように一つの推論として組み上がっていく。なぜ譲が詩織に肩入れするのか、なぜあそこまで……カフェを出た志帆の顔色は最悪だった。彼女は震える指で美穂にメッセージを送った。【あの夜、江崎を連れ去ったのは、坂崎譲よ】その事実は、美穂にとって受け入れがたいものだった。【嘘でしょ?なんで譲さんが?】自分があれほど必死に近づこうとしても、冷たくあしらわれ続けてきた相手だ。それなのに、江崎詩織はどうだ?あんな絶体絶命