تسجيل الدخول詩織がオフィスに入るなり、密が温かいハーブティーを持ってきた。「コーヒーをもらえる? 昨夜はあまり寝付けなくて」詩織が眉間を揉みながら言うと、密は首を横に振った。「賀来さんから止められてるんです。疲労で体がストレスを感じている時にカフェインを摂ると、神経が刺激されて動悸や手の震え、不安感を引き起こすからって。だから、わざわざリラックス効果のあるお茶を用意するように言われて」密はカップを詩織の前に押しやり、意味ありげにウィンクした。「さあどうぞ、特製の愛情ティーですよ。賀来さんが朝一番に会社に来て淹れてくれたんですから。お店じゃ絶対買えませんよ」「……あんた、最近ちょっとおしゃべりすぎじゃない?」密は「おっと」という顔をして、口にチャックをするジェスチャーを見せた。詩織はパソコンを立ち上げ、黙々と仕事に取り掛かる。手元の愛情ティーは……意外にも、ホッとする美味しい味だった。昼。会議を終えてオフィスに戻ると、また密が昼食を運んできた。高級割烹『花月』の特製ランチ。以前、詩織がよく通っていた店だ。当然ながらデリバリーなどはやっておらず、前もって特別に手配しなければ手に入らない代物である。詩織がジロリと密を見ると、密は自分の口を指差し、「おしゃべり禁止期間なので」とアピールした。聞くまでもなく、答えは分かっている。誰あろう『花月』の裏のオーナーは、太一なのだから。詩織はスープを一口飲んだ。じんわりと温かく、奥深い味わいだ。ただ旨味を押し付けるのではなく、体に染み渡るように、食材の良さが静かに調和している。なぜか、このスープから柊也の姿が連想された。今の彼は、なんだかこのスープに似ている。今朝、マンションまで朝食を届けてくれてから、一度も彼の姿を見ていない。それなのに、彼が常に自分のそばにいるような気がする。いつの間にか、すっかり彼のペースに絡め取られていた。二口目を飲む前に、詩織は柊也にメッセージを送った。【お昼、食べた?】即座に返信がきた。【食べたよ】【何してるの?午前中ずっと姿を見なかったけど】そう打ちかけて、詩織は手を止めた。これでは、まるで自分が彼のことを気にしているみたいではないか。結局、打った文字をすべて消去し、スマホを置いて昼食に専念した。午後。
ある重要な会話が脳裏をよぎったのだ。『十二年前、江ノ本第一高校の校門前にある売店だったよな。お前と詩織、付き合ってるって周囲に公言してたじゃないか』当時のことを、なぜ柊也がそこまで詳しく知っているのか。その疑問は一時間以上経っても解けず、ついには目覚まし時計が鳴り響いた。結局、一睡もできないまま洗面所へ向かう。いつもより早く起きてしまったため、まだミキの朝食は用意されていない。ゆうべ遅くまで付き合わせてしまった負い目もあり、詩織は下の店で何か買ってこようと考えた。上着を手に取り、玄関へ向かおうとしたその時、柊也からメッセージが届く。【起きたか?】靴を履きながら、短く返した。【うん】【ドアを開けてくれ】詩織の手が止まった。片方の靴を履きかけのまま、慌ててドアを開ける。そこには、いつからいたのか、朝食の包みを下げた柊也が立っていた。「自分で作る時間はなかったから、店で買ってきた。とりあえずこれで済ませてくれ」柊也は声を潜めて言った。まだ寝ているであろうミキを気遣ったのだろう。彼女に気兼ねしているというよりは、詩織を板挟みにさせたくないという配慮だった。「あなたは?」詩織が包みを受け取りながら尋ねると、柊也は微かにほころんだ顔で答えた。「俺はもう済ませた」彼女が気遣ってくれたことが、たまらなく嬉しかったのだ。それでも、いつまでもここに居座るわけにはいかない。名残惜しそうに視線を彷徨わせた後、彼はそっと手を伸ばし、詩織の頭を軽く撫でた。「ほら、戻れよ。熱いうちに食え。冷めると美味くないからな」詩織は何か言いかけたが、奥の部屋からドアの開く音が聞こえてきた。これ以上の長居は危険だ。彼女は慌てて扉を閉める。ほぼ同時に、寝室からミキがあくびをしながら現れた。「あー、今朝ごはん作るから、五分だけ待って」「いいよ、朝ごはんならあるから」詩織はずっしりとした包みを手に、ダイニングテーブルへ向かった。五人分はあろうかという、かなりの重さだ。「えっ、あんた買いに行ったの?」テーブルに広げられた豪華な朝食の品々を見て、ミキが目を丸くする。「……うん。ミキにはもう少し寝ててほしかったし」詩織は視線を逸らしながら答えた。「それにしても買いすぎじゃない?」「どれも美味しそ
冬を迎えた明け方の空気は、肌を刺すほど冷たかった。部屋着の上にカシミヤのコートを羽織って降りてきたが、それでも凍てつくような夜の冷気を防ぎきれない。しかし近づいてみて初めて、詩織は息を呑んだ。柊也は上着すら着ていなかったのだ。おそらく、詩織が店を飛び出した後、個室にコートを取りに戻る時間すら惜しんで、あの薄着のままここまで追いかけてきたのだろう。ふつふつと怒りが湧いてきた。自分の体をちっとも労ろうとしない彼に対する怒りだ。もし私が途中で目を覚まさず、そのまま朝まで寝ていたらどうするつもりだったの?この寒空の下、夜明けまで立ち尽くしているつもりだったのだろうか。本当に、この人は馬鹿じゃないの!?つい最近大病をしたばかりで、やっと少し回復してきたというのに、またこんな無茶をして。自分を、血の気の多いハタチそこそこの若者だとでも思っているのだろうか。もう三十四歳なのに。その上、腎臓だって一つないというのに……その「失われた腎臓」のことを思い出すと、詩織はツンと鼻の奥が痛くなった。怒りは跡形もなく消え去り、どうしようもない切なさが胸を締め付ける。彼女は自分のカシミヤのコートの前を広げ、冷え切った彼をその中に包み込むようにして、自らギュッと抱きついた。冷たい。厚手のコートを着ているというのに、彼がまとっている夜の冷気が、肌を刺すように伝わってくる。柊也もそれに気づき、慌てて彼女の肩を軽く押しとどめようとした。「離れろ。……俺の体、冷え切ってる」本当は、狂おしいほど彼女を抱きしめたかったはずなのに。「いいから」詩織は彼の腕を振り切り、さらに強く抱きついた。自分の体温を、少しでも彼に与えようと必死だった。深夜の静まり返った通りで、二人は冷たい風に吹かれながら抱き合っている。その光景は、かつて出張先の北国で、吹雪の中に閉じ込められた夜の記憶を呼び覚ました。ただあの時、凍えるほど冷え切っていたのは詩織の方だった。あの時のライター。柊也が凍えた彼女を温めるために、自分の掌を何度も炎で炙り、その熱を移してくれた。熱さに耐える彼の、あの苦悶に満ちた表情。「……説明なら、明日だってよかったじゃない」詩織は小さく息をついた。「メッセージでも電話でもよかったのに。こんな夜中に下まで来て、ずっと
そして、三十分前に届いた最新のメッセージ。【今から部屋に行ったら、君の親友に警察を呼ばれるだろうか】部屋に?これを送ったとき、彼はマンションの下にいたのか。最後の一通からすでに一時間が経過している。もう帰ったはずだ。強烈な睡魔に襲われ、詩織は今度こそスマホを置いて目を閉じた。だが、一分も経たないうちに跳ねるようにしてベッドを抜け出した。スリッパを履くのももどかしく、裸足のまま窓辺に駆け寄る。カーテンを引き絞るようにして、真下を見下ろした。街灯のぼんやりとした光。揺れる街路樹。その傍らに、逆光を背負って立つ一人の男がいた。半ば影に沈んだ横顔で、彼はじっと詩織の部屋を見上げている。視線がぶつかった瞬間、詩織の心臓が不規則に脈打った。説明のつかない熱い衝動が、胸の奥で激しく暴れ回っていた。柊也と視線がぶつかった。彼は再びスマホを手に取り、詩織に電話をかけた。つながっても、詩織は何も言わない。ただ、少し乱れた吐息だけが受話器越しに流れていく。「起こしちゃったかな。眠れなくなった?」夜風に混じって届く声は、どこまでも穏やかだった。詩織は短く「……うん」とだけ返す。「焦りすぎたな、ごめん」「……あのお店からずっと、ついてきたの?」「ああ」彼女の車とほぼ同時に、ここへ着いていたのだ。それでも、強引に部屋まで行く勇気はなかった。ミキに警察を呼ばれるのが怖かったわけじゃない。ただ、詩織に疎まれ、二度と口をきいてもらえなくなるのが怖かった。この五時間、彼は焦燥に焼き尽くされそうだった。返事のないメッセージを送り続け、もしかして着信拒否されたのではないかと怯え、たまらず電話をかけたのだ。幸い、彼女は寝ていただけだった。たとえ自分にとっては一刻を争う重大事でも、彼女の眠りを妨げるわけにはいかない。何よりも最優先すべきは、彼女の休息なのだから。「寒くないの?」詩織は無意識にレースのカーテンを指先でいじった。擦れる音が、ちりちりと静かな部屋に響く。「そうでもないよ」「返事もしないのに、何でそんなに待ってたのよ。さっさと帰って寝ればよかったじゃない」「ただ、君の近くにいたかった。君が話を聞いてくれる気になったとき、一番に駆けつけられるように」詩織は黙
「感情が波みたいに押し返してくるの。彼が背負った傷や、これまでの苦労、私にしてくれた数々のことを思うと、胸が引き裂かれそうになる」「でも、彼と志帆の間にあったあれこれを思い出すと、無意識のうちに逃げ腰になっている自分がいる」要するに、ぐちゃぐちゃなのだ。負い目なら、間違いなく詩織の方が柊也に対して強く感じているはずだ。だけど感情というやつは、損得や公平さでは計り切れない。どちらが多く尽くし、どちらが多く傷つけたかなんて、比べようがないのだ。ミキはため息混じりに首を横に振った。「それって完全にトラウマだよ。かつて深く傷つけられたせいで、少しでも心が揺さぶられると、本能的に自己防衛のスイッチが入っちゃうの。相手がどれだけ本気だろうと、自分の感情を乱す存在はすべて突き放そうとしてるんだ」「だけどね、傷つくのを怖がっていたら、いつまで経っても幸せにはなれないよ」ミキは振り返り、窓際にうずくまっているカイに視線を向けた。「あのカイだってそう。怖いからってあそこから一歩も出なかったら、もっと広い世界を知ることはできない。一生、危険のない温室に閉じ込められたままだよ」「安全だけど、自由はない」ミキは詩織のグラスに酒をつぎ足した。「幸せと傷つくリスクは、いつだって背中合わせなんだよ」夜がすっかり深まるまで、二人は飲み続けた。足元では、睡魔に勝てなかったカイが掃き出し窓の前で丸くなって眠っている。荒れていた詩織は、ミキよりもずっと多くの杯を重ね、最後は介抱されるようにして寝室へと運ばれた。アルコールに逃げるようにして、深い眠りに落ちる。どれほど時間が経っただろうか。詩織は、うなされるように何度も同じ夢を見ていた。暗い海に、繰り返し投げ出される夢だ。冷たい水が容赦なく口や鼻に流れ込み、塩辛さと窒息感が彼女を飲み込んでいく。手足は見えない索に縛られたように重く、いくらもがいても出口には届かない。叫ぼうともがいても、口からはただ空しくあぶくが漏れるばかりで、声にはならなかった。意識が薄れ、体が深淵へと沈んでいくその刹那。一閃の剣が水面を切り裂くようにして、一人の男が迷いなく彼女へと向かって飛び込んできた。柊也だった。歪む水面越しに見える彼の顔は、震えるほど焦燥に満ちていて、けれど不思議なほど鮮明だった。
「ううん、車呼んであるから大丈夫」さっさとこの場から離脱するために、あらかじめ専属の運転手を待機させていたのだ。「そっか。じゃあ、家で待ってるね」「分かった」短いやり取りを終え、詩織は通話を切った。柊也が慌てて追いすがり、彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。「詩織……」だが、詩織は冷たく身をかわした。エントランスで待機していた専属の運転手が、足早に出てきた彼女の姿を認めて駆け寄ってくる。「社長、すぐにお出になられますか?」「ええ」「車はすぐ表に回してあります。どうぞこちらへ」詩織は運転手と共に、そのまま外へ出ようとした。「待ってくれ、詩織!」柊也が再び立ちはだかる。詩織は心底うんざりしたように顔をしかめた。「まだ何か?また力ずくで私を足止めするつもり?」柊也はじっと彼女を見つめながら、ひび割れたような声で言った。「違う。ただ……俺と志帆のことも、誤解を解かせてほしい。ちゃんと説明させてくれ」「もういい!」詩織は前触れもなく声を荒らげた。「何も聞きたくないわ!」彼と志帆の関係――あの五年前の忌まわしい過去のことなど、もう一文字たりとも耳に入れたくなかった。強い拒絶の言葉を叩きつけると、詩織はきびすを返し、彼がそれ以上口を開く隙さえ与えずに足早に立ち去った。柊也はその場に立ち尽くすしかない。一度も振り返ることなく、足早に遠ざかっていく彼女の後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。―――なぜ急に、あんな態度になった?ここ最近、彼女の頑なだった態度は間違いなく軟化し始めていた。それなのに、なぜ今この瞬間、手のひらを返したように氷のように冷たく拒絶されたのか。柊也は必死に記憶の糸をたぐり、最近二人の間に起きた出来事を振り返った。自ら取り壊したあの新居のことで、やはり深く傷つけたままだからか。あるいは、志帆との過去のしがらみが、どうしても許せないのか。どれほど頭を悩ませても、明確な答えは出ない。どうすれば彼女の心を溶かせるのか、今の彼には全く見当がつかなかった。だが、この最悪な状況を招いたのは、他でもない自分自身だ。自分の不器用な嘘と身勝手な振る舞いが今の彼女を作ったのだから、誰を責めることもできなかった。......家に帰るなり、詩織はミキに尋ねた。「飲む?」ミ
「ええ。あまり待たせたくないもので」柊也は認めた。その瞬間、詩織の胸中を空虚な風が吹き抜けた。店を出て、三人で別れの挨拶を交わす。詩織は会話に加わろうともせず、俯いてスマートフォンを操作していた。密に「終わったから車を回して」とメッセージを送るためだ。外は、風が荒れ狂っていた。「春の寒の戻り」と言うべきか、この時期の雨は真冬よりも冷たく、骨の髄まで凍みる。志帆は車の外に立ち、柊也を待っていた。暖房の効いた車内で待てばいいものを、わざわざ一番目立つ場所に立っている。それは明らかに詩織への当てつけであり、勝利宣言だった。「見てなさいよ」と、その背中が語っている。
「分かりました。何かあれば呼んでください」帰国早々スタイリングに奔走し、海雲を迎えに行っていたため、夕食を摂る暇もなかった。空腹を感じていた詩織は、軽食を取り分け、人目の少ないスペースへ陣取った。さきほど海雲の傍らで挨拶を交わした際、一人の人物に目星をつけ、連絡先を交換しておいた。『徳建』の板木社長だ。もし港湾再開発の入札に成功すれば、いずれ『徳建』と組む可能性が高い。転ばぬ先の杖として、今のうちにパイプを作っておきたかったのだ。さすが一流のパーティーだけあって、フィンガーフードの味も格別だ。いくつか摘んで小腹を満たし、そろそろ海雲のもとへ戻ろうと腰を浮かせたと
昨日はバレンタインデー。その夜に「寝かせてもらえなかった」と言えば、誰だって情事を想像するだろう。真田は目のやり場に困り、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。「……江崎社長がお待ちですよ」志帆はそこで初めて詩織に目を向けた。だが、謝罪の言葉一つない。「じゃあ、始めましょうか」当然のようにノートPCを開く彼女に、真田が慌てて場を取りなそうとする。「あの、まずは私から進行の説明を……」「必要ないわ。彼女とは顔見知りだし」志帆は冷たく言葉を遮った。「それに江崎さんは元々ウチの社員だったんだもの。事情は飲み込めてるでしょ」取り付く島もない態度に、真田は口をつぐむしかない。する
「詩織」と、まるで本当の娘のように名を呼び、自身の人脈を紹介し、大きなプロジェクトに関わらせようとしている。嫉妬するなというほうが無理な話だ。志帆は柊也を見上げて尋ねた。「ご挨拶に行かなくていいの?」柊也は静かに首を横に振る。「よそう。最近、親父は俺のことを良く思ってない。行っても嫌な顔をされるだけだ」「……そう」志帆は気まずそうに頷くしかなかった。先輩たちを見送った詩織は、ようやく自分の帰宅手段を確保しようとスマートフォンを取り出し、アシスタントの密に連絡を入れようとした。だが、電話をかける前に、一台の黒塗りのセンチュリーがしめやかに目の前に停まった。後部座席のド







