LOGIN一方、オークション会場のエントランス。都子はまるで幽霊のように顔面を蒼白にさせ、ふらつく足取りで会場から出てきた。隣を歩く亜季もまた、苦虫を百匹ほど噛み潰したような、信じられないほど不細工な顔で唇を噛み締めていた。「あらあら、都子さん!」背後から、わざとらしい甲高い声がかけられた。振り返ると、大河内(おおこうち)夫人が満面の笑みを浮かべて近づいてくる。「今日は夏蓮さんへの出産祝いを落としにいらしたんでしょう?それなのに、あの次男のお嫁さん、どうしちゃったの?あんな大勢の前で、お義母様であるあなたにずっと牙を剥いていたじゃない!」大河内夫人の夫はこの街の不動産王であり、彼女自身も日頃から都子と何かにつけて張り合っている最大のライバルだった。都子が新しいジュエリーを見せびらかせば、必ずそれを上回るものを買ってマウントを取りに来るような女だ。今日、星歌が都子のメンツを容赦なく叩き潰した一連の騒動は、大河内夫人にとってこれ以上ないほどの極上のエンターテインメントだった。飛鳥と啓介が会場を去った後、都子が入札するものすべてに「二十円刻み」で嫌がらせのように張り合ってきたのも、実はこの大河内夫人だったのだ。もはや猫を被る気すらなく、大河内夫人はストレートに都子の傷口をえぐりにきている。「…………っ」ただでさえ青ざめていた都子の顔が、怒りで一気にドス黒い紫色に染まった。しかし、これだけ大勢のセレブたちが集まるエントランスで、みっともない口論をするわけにはいかない。そもそも今日この場所へ来たのは、冴島家の圧倒的な財力を見せつけ、最近地に落ちていた一族の威信を回復させるためだったはずなのだ。「家の中で嫁姑問題があろうと、冴島家の絶対的な権力は揺るがない」と知らしめれば、誰も陰口など叩けなくなる。それなのに、よりによって星歌のせいで、目玉のブルーダイヤを奪われて完全に出鼻をくじかれ、その後の入札も大河内夫人たちの妨害でズタボロにされてしまった。怒りで全身の血が沸騰しそうになるのを必死に堪え、都子は上品なマダムの仮面を顔に貼り付けて、冷ややかに言い返した。「……ご心配なく。それより大河内さんこそ、今日は大したお品を落とせなかったみたいじゃない?」大した品どころではない。大河内夫人は都子への嫌がらせに夢中に
カチャン、と扉が閉まる音と同時に、病室の隅に控えていた一真のスマートフォンが小さく震えた。届いたメッセージに目を通した一真の顔色が、サッと険しいものに変わる。「……飛鳥様。啓介様が、星歌様を海上レストランへお連れになったそうです」海上レストラン。それは本港市に新しくできたばかりの、超高級なランドマーク的施設だった。一般人がふらりと立ち寄れるような場所ではない。訪れるのは、政財界の大物夫婦か、愛を語り合う富裕層のカップルばかりだ。洗練された美しい内装、海に浮かぶような絶景のロケーション、そして何より、各個室が完全に独立しており、極めてプライバシー性が高いことで知られている。そんなロマンチックな密室に、啓介が星歌を連れ込んだ。二人きりで。その意味を理解した瞬間、飛鳥の全身から、病室を凍りつかせるほどのすさまじい殺気が立ち上った。「……アイツら、もうデートまでしているのか?」地を這うような、怨念に満ちた低い声。あの忌々しい星歌め。俺たちはまだ離婚していない。籍も抜いていないというのに、どうして他の男とそんな場所へ行ける!?嫉妬と怒りと屈辱で、飛鳥の理性は今にも焼き切れそうだった。今すぐあの海上レストランへ乗り込み、星歌の細い首を締め上げてやりたい衝動に駆られる。「デート」という言葉が出た瞬間、一真は完全に息を潜めた。今の飛鳥の逆鱗に触れれば、言葉尻を一つ間違えただけで、文字通り殺されかねない。病室の空気は、それほどまでに張り詰めていた。飛鳥は乱暴にスマートフォンをひったくると、すぐさま星歌の番号を呼び出した。その頃。海の上に浮かぶように設計された、完全個室の海上レストラン。全面ガラス張りの窓から美しいオーシャンビューが一望できる特別室で、啓介は星歌の前に温かいスープをそっと差し出した。「ここの料理は、オープン当初からかなり評判がいいんだ。一口だけでも食べてみるといい」「……ありがとう」星歌がスプーンを手に取ると、啓介は穏やかな声で尋ねた。「体調は、少しは良くなったか?」その落ち着いたトーンの奥、深淵のような瞳の底には、ほんのわずかだが、隠しきれない痛切な 「労り」と「愛おしさ」が揺らいでいた。啓介は、激しく後悔していたのだ。もし、彼女が飛鳥と結婚してしまう前に、自分
知らせを受けて駆けつけた一真は、エレベーターホールの惨状を目にして息を呑んだ。壁に背中を預けるようにしてうずくまっている飛鳥の顔色は、まるで死人のように青ざめていた。「あ、飛鳥様!?一体どうされたんですか!?」一真が慌てて駆け寄ると、飛鳥は苦痛に顔を歪めながら弱々しく手を振った。「……オークション会場に監視を残せ。それから、俺を病院へ連れて行け……」喋るだけでも腹の底から激痛が走り、めまいと吐き気がこみ上げてくる。おそらく啓介の蹴りが鳩尾にクリーンヒットし、内臓のどこかがやられたに違いない。飛鳥は脂汗を流しながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。……くそっ、星歌め!昨夜の電話では、あんなにも甘く優しい声で「離婚はやめましょう」と囁いていたではないか。それなのに、一夜明けた途端にこの仕打ちだ。しかも、ただ蹴り飛ばすだけでは飽き足らず、他の男と一緒に自分をボコボコにするなど、正気の沙汰ではない。さっきは痛みのあまり視界がチカチカしてよく見えなかったが、今思い返してみると……扉が閉まる瞬間、啓介だけでなく、星歌のピンヒールも同時に自分の腹にめり込んでいたような気がする。「承知いたしました。ですが、一体誰にこんな……」一真が心配そうに尋ねようとしたが、飛鳥は殺気立った冷たい目で彼をギロリと睨みつけた。その凄まじい眼力に、一真はヒッと喉を鳴らして口をつぐむ。「……申し訳ありません。すぐに車に案内します!」これ以上余計なことを聞けば殺されると悟った一真は、慌てて飛鳥の腕を支え、足早にその場を離れた。……一方、オークション会場。飛鳥が飛び出していった後、都子は文字通り『針の筵』に座らされているような屈辱を味わっていた。星歌と啓介、そして飛鳥が去ったことで会場の異様な緊張感は解け、オークション自体は再び白熱し始めていた。やがて、亜季がお目当てにしていた極上のピンクダイヤが出品された。ここからが冴島家の財力を見せつける本番――のはずだった。ところが、入札が始まった途端、見知らぬ数名の参加者が、まるで申し合わせたように都子たちを徹底的にマークし始めたのだ。都子がいくら高額な値を提示しても、相手は必ず「たった二十円」だけ上乗せしてコールしてくる。そう、二十円だ。何億、何十億という金が動く
まさかの身内――それも夫である飛鳥からの入札。しかし、星歌は飛鳥に視線一つくれることなく、羽虫でも追い払うかのように、ただ淡々と、そして軽やかに言い放った。「六十億」その金額に、会場のあちこちから「ヒッ」と息を呑む音が漏れた。この街の誰もが恐れる冴島グループの次男・飛鳥と、高峰グループの御曹司・啓介。そして、その間に座る謎めいた美しい女。見えない火花が飛び散る異様な光景に、周囲の人間は生きた心地がせず、完全に息を潜めて成り行きを見守るしかない。「六十……っ、六十億だと!?」飛鳥はギリッと歯軋りし、パドルを握り直した。「七十億!」「八十億」飛鳥の怒声に対し、星歌の表情は一ミリたりとも動かなかった。あまりにも落ち着き払った星歌の態度が、逆に飛鳥の神経を逆撫でし、彼の怒りを限界まで引き上げていく。八十億……!あいつ、金を紙切れか何かだと思っているのか!?それとも、あの女の背後には、湯水のように金を出せるパトロンでもいるというのか?パトロン。その言葉が脳裏をよぎった瞬間、飛鳥の視線は自然と、すでに席に座り直している啓介へと向かった。先ほど啓介が「これ以上競り合う奴はいるか」と凄んで以来、会場の他の人間は誰一人として入札していない。残っているのは、飛鳥ただ一人だ。だが、彼がここで意地を張ったところで、実は何の意味もなかった。なぜなら、都子が見栄を張るために用意した予算には「上限」があるからだ。身も蓋もない言い方をすれば、夏蓮という女への「評価額」の限界だ。都子がこのブルーダイヤに出せる金額は、せいぜい四十億までだったのだ。飛鳥が再び口を開き、さらに値を吊り上げようとしたその時――都子が慌てて彼の袖を強く引いた。「もうやめなさい!!」都子は青ざめた顔で小さく叫んだ。星歌は今日、何が何でもあのダイヤを落とす気なのだ。これ以上張り合っても金が追いつかない。いいわ、ブルーダイヤは諦めましょう。後で別のものを落札すればいい。今日のオークションは大規模で、他にも極上の品がいくつも揃っているのだから。オークショニアは、この殺伐とした空気を察して、早口で畳み掛けた。「は、八十億、一回!八十億、二回!八十億、三回!落札です!!」これ以上長引かせれば、二人の大物同士の衝突で、オークショ
ドス黒い殺気と苛立ちが、飛鳥の全身から抑えきれないほど噴き出している。そして、一つ席を挟んで座っている都子も、怒りで顔を真っ赤に引き攣らせていた。亜季に至っては言うまでもない。啓介の声は決して大きくなかったが、彼女たちの耳にははっきりと届いていた。――あの男が、星歌にダイヤをプレゼントするだと?ふざけるな。星歌はまだ兄様の妻だというのに!特に都子の焦りは深刻だった。今日、彼女がわざわざこのダイヤを競り落としに来たのは、この街のセレブたちの前で「冴島家の威信」を見せつけるためなのだ。ここ最近、星歌のせいで冴島家はすっかり笑い者にされてしまった。だからこそ、この最高級のダイヤを競り落として、双子を産んだ夏蓮への褒美として大々的に贈ることで、少しでも失墜した名誉を挽回したかったのだ。それなのに、よりによって高峰家の御曹司が横槍を入れてくるなんて。都子は必死に引き攣る口角を上げ、年長者としての余裕を装いながら、努めて優しげな声を作った。「啓介さん。いくらあなたでも、友人の母親と競り合うような意地悪はしないわよね?夏蓮がうちのために跡取りを産んでくれたのよ。これは、彼女への大切なお祝いの品なんだから」身内のような親しさを込めて語りかけた都子だったが――啓介は彼女の言葉にピクリとも反応しなかった。一瞥すらくれず、完全に無視を決め込んだのだ。冷たい無視がもたらした強烈な気まずさが、ねっとりと空気を重くした。都子は羞恥と怒りでワナワナと震え、亜季は星歌の背中を睨みつけて今にも呪い殺さんばかりの形相になっている。星歌は苦笑しながら啓介を制した。「やめておいて。これは私が自分で落とすわ」これは兄が恋人のご機嫌取りに使うためのものだ。啓介にプレゼントされてしまっては意味がない。「……そうか。なら、後でレッドダイヤも出るぞ」「レッドダイヤ?へえ、それも悪くないわね」「じゃあ、そっちは俺が落とす」「ええ、お願いしようかしら」星歌と啓介の親しげな会話が、冴島家の面々の神経を、一本、また一本と容赦なくブチブチと引きちぎっていった。レッドダイヤを「いいわね」と評した星歌の言葉を聞き、亜季は怒りのあまり危うく席から飛び上がりそうになった。どういう意味よ!?私が目をつけているレッドダイヤを、あの
数年前、飛鳥がどこの馬の骨とも知れない星歌と結婚すると聞いた時、彼女はショックのあまり何日も食事が喉を通らず、寝込んでしまったほどだった。自分が手に入れられなかった飛鳥という最高の男。その彼をこんなにも粗末に扱い、平気で裏切るような真似をする星歌が許せない。美和自身も、今すぐ飛び出して行って星歌の頬を張り飛ばしてやりたいほど憎かった。だが、隣にそびえ立つ啓介の恐ろしさに怯え、彼女もまたその場に立ち尽くすことしかできなかった。「飛鳥様も不憫だわ。なんであんな女に引っかかっちゃったのかしらね……」二人の令嬢は、自分たちの勝手な妄想と嫉妬で腸を煮えくり返らせながら、遠くを歩く星歌の後ろ姿をただ睨みつけることしかできなかった。少し遅れて会場に到着した飛鳥は、信じられない光景を目にして完全に足の動きを止めた。最前列のVIP席。そこで肩を並べて座っているのは、自分の妻である星歌と、親友の啓介ではないか。しかも、啓介が星歌の手をエスコートするように引いて席まで導く姿を、飛鳥はしかとこの目で見てしまった。その瞬間、ドッと全身の血が頭に上り、視界が真っ赤に染まった。隣にいた母の都子も、二人の姿に気づいてギリッと歯軋りをした。「あの女……!あなたとまだ離婚もしていないというのに、もう他の男を引っ掛けているの!?しかも、よりによって高峰の御曹司を……!」絶対にわざとだ。亜季と高峰家の縁談が進んでいると知っていて、あんな真似をしているのだ。冴島家は今まで、あの薄汚い孤児に優しくしすぎた。そのせいで、こんな屈辱を味わう羽目になっているのだ。飛鳥は怒りで両手を強く握りしめ、二人の元へ大股で歩み寄ろうとした。しかし、その腕を都子がガシッと掴んで引き留めた。「何をする気!?」「離してくれ……!」飛鳥は母を睨み下ろした。その瞳には、今にも爆発しそうな嫉妬と怒りが渦巻いている。都子も星歌を八つ裂きにしてやりたいのは山々だったが、それ以上に世間体を気にした。「今日はブルーダイヤのオークションよ!この街の名士や金持ちがこぞって集まっているの。これ以上、冴島家に泥を塗るような騒ぎを起こさないで頂戴!」ここ最近、星歌のせいで冴島家の面目はすでに丸潰れになっている。こんな大勢の面前で夫婦喧嘩など始められては、
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来
忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに
ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。彼女は意識を失っている。「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。――ああ、やっぱり。その光景を
心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよ