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第3話

Author: 花咲 錦
江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。

向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。

この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。

「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」

江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。

星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。

「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」

「そんなに早くから?じゃあ、その時にはもう離婚を決めてたってこと?」

「ええ……」

星歌は力なく短く答え、疲労を隠しきれない様子でソファに横たわった。

翼が亡くなったあの月から、飛鳥はほとんど実家に泊まり込み、自宅に戻ることは稀だった。

たまに帰宅しても、夏蓮が情緒不安定になったと本家から電話が入れば、彼は深夜だろうと構わず飛び出していく。

そんな歪んだ婚姻関係に耐えられる人間など、この世にいるはずがない。

不意に、星歌のスマートフォンが震えた。

表示されたのは屋敷の固定電話の番号だ。星歌は躊躇することなく着信を拒否し、そのまま着信拒否リストに放り込んだ。

すると今度は、江里子のスマートフォンが鳴り響いた。画面には「飛鳥」の二文字。

江里子は電話を拾い上げ、嫌悪感を隠そうともせず皮肉たっぷりに応じた。

「あら、お義姉様の付き添いはもういいの?」

「……星歌に代われ」

受話器越しに、飛鳥の低く冷ややかな声が響く。

彼は病院へ着いて早々、牧野から「星歌様がいなくなった」という報告を受けた。

急いで屋敷へ引き返すと、玄関脇の装飾タイルには無残な焦げ跡がこびりついていた。

牧野の説明によれば、星歌がすべて焼き払ったのだという。

クローゼットからは彼女の私物が消え、彼女が彼のために選んだ品々も、跡形もなく消え去っていた。

彼女は一体、何を考えているのか。

今日のこの苛立ちは、一体いつになったら収まるというのか。

江里子は鼻で笑った。その声には、隠そうともしない強烈な皮肉が込められていた。

「お義姉様は出産直後で弱り切ってるんでしょう?もっと優しくしてあげなきゃ。今さら星歌を探すなんて、彼女の何だと思ってるの?」

「江里子!」

飛鳥の苛立ちが限界に達しているのが、電話越しでも手に取るように分かった。

江里子はとっさに後ろを振り返った。星歌はスマートフォンで何かを凝視しており、その横顔は暗く沈んでいる。

彼女がこちらの会話に注意を払っていないことを確認すると、江里子は電話を持ったままキッチンへ入り、ピシャリとドアを閉めた。

「飛鳥、あんた本当に頭どうかしてるわよ」

江里子の声のトーンが、軽蔑を含んだ低いものに変わる。「夏蓮はあんたを亡くなった翼さんだと思ってるの?それとも、同じ顔をしたあんたをただの『身代わり』として使ってるだけ?その辺、自分でも分かってるんでしょう?」

「……」

「あんたもあんたよ。義理の姉との距離感も分からないなんて。今、本港市中で二人がどう噂されてるか知ってるの?それとも目も耳も塞がってるわけ?」

煮え繰り返るような怒りに、江里子は奥歯を噛み締めた。夏蓮の恥知らずな振る舞いを、冴島家全体が容認し、あろうことか飛鳥自身が進んでそれに加担している。

「いいから、星歌に代われ!」

飛鳥が怒鳴った。星歌が騒ぎを起こしたことへの苛立ちで、江里子と問答する気など微塵もないようだ。

「代わらないわよ。彼女は流産したばかりなの。あんたのその態度は毒でしかない」江里子は容赦なく言い放つ。

「夫の真似事もできないなら、もう彼女に関わらないで。そんなに義姉様に必要とされてるなら、一生あっちのお守りでもしてればいいわ」

飛鳥が星歌を大切にしないなら、自分が大切にする。

今日、星歌を突き飛ばしたのが夏蓮だと聞いた瞬間から、江里子の腹は決まっていた。

彼女は飛鳥に反論の隙も与えず、一方的に通話を切った。

リビングに戻ると、星歌がスマートフォンを握りしめていた。その指の関節は、力が入りすぎて白く浮き上がっている。

「何を見てるの?……不愉快なものなら見ない方がいいわ」

江里子は彼女の手から端末を取り上げようと手を伸ばした。

しかし、星歌はその手を避けるように身を引いた。「龍稲峡(りゅうとうきょう)……覚えてる?」

「龍稲峡?ええ、知ってるわよ。三年前にあんたが観光開発のデザインコンペに参加して、結局落とされた場所でしょ」

龍稲峡。

それは、星歌が心から愛した場所だった。

特に毎年十月、山々が燃えるような赤や黄金色の紅葉に染まる景色は、彼女にとって特別な意味を持っていた。

かつて、彼女は現地へ足を運んだことがある。

その後、観光開発プロジェクトが立ち上がった際、星歌は迷わずデザインコンペに参加した。

三ヶ月もの間、徹夜を重ねて図面を引き、五回以上も現地へ飛んでフィールドワークを行った。

けれど、彼女の熱意と才能が込められたそのデザインが、採用されることはなかった。

「急にどうしたの?」

江里子は怪訝そうに尋ねた。

星歌は何も言わず、スマートフォンを彼女の方へ差し出した。画面に映し出されていたのは、龍稲峡の観光開発が成功を収めたことを伝えるニュース記事と、その特集レポートだった。

すでに多くのインフルエンサーが詰めかけ、SNSには絶賛のコメントが溢れかえっている。

「これって……」

江里子の言葉が止まった。

画面に並ぶ見覚えのあるフォトスポットや展望台の配置を見て、彼女は眉をひそめた。

「……これ、あんたのデザインじゃない」

三年前、星歌がこのプロジェクトに心血を注いでいた時、彼女は一人の旅行者の視点として、すべてのディテールについて江里子に意見を求めていた。だからこそ、細部に至るまで江里子の記憶に焼き付いているのだ。

江里子の顔色がさっと変わり、猛烈な勢いでスマートフォンの検索窓に指を走らせた。龍稲峡に関するあらゆる記事を掘り起こし、プロジェクトの公式ページへ辿り着く。

そして、その詳細ページを開いた。

『設計責任者:冴島夏蓮』

その名前が目に飛び込んできた瞬間、江里子は怒りのあまりスマートフォンを叩きつけそうになった。

「見て。これ、どういうことよ」

震える手で差し出された画面を見つめ、星歌は鼻で笑った。「ふふっ。なるほどね……私の案が落選した理由は、こういうことだったんだわ」

江里子の唇は固く結ばれ、瞳には静かな怒りの炎が宿っていた。

星歌は冷ややかに言い放つ。

「最初はあの女の母親から潰してやろうと思ってたけど……予定変更ね。まずは夏蓮本人から地獄に落としてあげる」

その言葉に、江里子の鼓動が跳ね上がった。「星歌、何を言ってるの?」

手を下す?夏目陽子と夏蓮を相手に?

江里子は怒りに震えながらも、親友の瞳から理性が消え失せているのを見て、必死に冷静さを保とうとした。

「落ち着いて。飛鳥を含めた冴島家全員が夏蓮の味方なのよ。それにあの陽子相手に、あんた一人の力じゃどうにもならないわ。無茶なことはしないで、ね?」

星歌の口角が、自嘲気味に吊り上がった。「どうにもならない?本当にそうかしら」

陽子の横暴なまでの権力。それが容易に崩せるものではないことは百も承知だ。

けれど、その権力を支えている「資本」そのものが消えてしまったら、彼女に何が残るというのか。

これまでの数年間、夏蓮が義母の都子と結託し、自分に対して行ってきた数々の仕打ち。

星歌の瞳からわずかに残っていた光が消え、底知れぬ憎悪と怒りへと塗りつぶされていった。

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