Share

第3話

Author: 花咲 錦
江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。

向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。

この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。

「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」

江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。

星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。

「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」

「そんなに早くから?じゃあ、その時にはもう離婚を決めてたってこと?」

「ええ……」

星歌は力なく短く答え、疲労を隠しきれない様子でソファに横たわった。

翼が亡くなったあの月から、飛鳥はほとんど実家に泊まり込み、自宅に戻ることは稀だった。

たまに帰宅しても、夏蓮が情緒不安定になったと本家から電話が入れば、彼は深夜だろうと構わず飛び出していく。

そんな歪んだ婚姻関係に耐えられる人間など、この世にいるはずがない。

不意に、星歌のスマートフォンが震えた。

表示されたのは屋敷の固定電話の番号だ。星歌は躊躇することなく着信を拒否し、そのまま着信拒否リストに放り込んだ。

すると今度は、江里子のスマートフォンが鳴り響いた。画面には「飛鳥」の二文字。

江里子は電話を拾い上げ、嫌悪感を隠そうともせず皮肉たっぷりに応じた。

「あら、お義姉様の付き添いはもういいの?」

「……星歌に代われ」

受話器越しに、飛鳥の低く冷ややかな声が響く。

彼は病院へ着いて早々、牧野から「星歌様がいなくなった」という報告を受けた。

急いで屋敷へ引き返すと、玄関脇の装飾タイルには無残な焦げ跡がこびりついていた。

牧野の説明によれば、星歌がすべて焼き払ったのだという。

クローゼットからは彼女の私物が消え、彼女が彼のために選んだ品々も、跡形もなく消え去っていた。

彼女は一体、何を考えているのか。

今日のこの苛立ちは、一体いつになったら収まるというのか。

江里子は鼻で笑った。その声には、隠そうともしない強烈な皮肉が込められていた。

「お義姉様は出産直後で弱り切ってるんでしょう?もっと優しくしてあげなきゃ。今さら星歌を探すなんて、彼女の何だと思ってるの?」

「江里子!」

飛鳥の苛立ちが限界に達しているのが、電話越しでも手に取るように分かった。

江里子はとっさに後ろを振り返った。星歌はスマートフォンで何かを凝視しており、その横顔は暗く沈んでいる。

彼女がこちらの会話に注意を払っていないことを確認すると、江里子は電話を持ったままキッチンへ入り、ピシャリとドアを閉めた。

「飛鳥、あんた本当に頭どうかしてるわよ」

江里子の声のトーンが、軽蔑を含んだ低いものに変わる。「夏蓮はあんたを亡くなった翼さんだと思ってるの?それとも、同じ顔をしたあんたをただの『身代わり』として使ってるだけ?その辺、自分でも分かってるんでしょう?」

「……」

「あんたもあんたよ。義理の姉との距離感も分からないなんて。今、本港市中で二人がどう噂されてるか知ってるの?それとも目も耳も塞がってるわけ?」

煮え繰り返るような怒りに、江里子は奥歯を噛み締めた。夏蓮の恥知らずな振る舞いを、冴島家全体が容認し、あろうことか飛鳥自身が進んでそれに加担している。

「いいから、星歌に代われ!」

飛鳥が怒鳴った。星歌が騒ぎを起こしたことへの苛立ちで、江里子と問答する気など微塵もないようだ。

「代わらないわよ。彼女は流産したばかりなの。あんたのその態度は毒でしかない」江里子は容赦なく言い放つ。

「夫の真似事もできないなら、もう彼女に関わらないで。そんなに義姉様に必要とされてるなら、一生あっちのお守りでもしてればいいわ」

飛鳥が星歌を大切にしないなら、自分が大切にする。

今日、星歌を突き飛ばしたのが夏蓮だと聞いた瞬間から、江里子の腹は決まっていた。

彼女は飛鳥に反論の隙も与えず、一方的に通話を切った。

リビングに戻ると、星歌がスマートフォンを握りしめていた。その指の関節は、力が入りすぎて白く浮き上がっている。

「何を見てるの?……不愉快なものなら見ない方がいいわ」

江里子は彼女の手から端末を取り上げようと手を伸ばした。

しかし、星歌はその手を避けるように身を引いた。「龍稲峡(りゅうとうきょう)……覚えてる?」

「龍稲峡?ええ、知ってるわよ。三年前にあんたが観光開発のデザインコンペに参加して、結局落とされた場所でしょ」

龍稲峡。

それは、星歌が心から愛した場所だった。

特に毎年十月、山々が燃えるような赤や黄金色の紅葉に染まる景色は、彼女にとって特別な意味を持っていた。

かつて、彼女は現地へ足を運んだことがある。

その後、観光開発プロジェクトが立ち上がった際、星歌は迷わずデザインコンペに参加した。

三ヶ月もの間、徹夜を重ねて図面を引き、五回以上も現地へ飛んでフィールドワークを行った。

けれど、彼女の熱意と才能が込められたそのデザインが、採用されることはなかった。

「急にどうしたの?」

江里子は怪訝そうに尋ねた。

星歌は何も言わず、スマートフォンを彼女の方へ差し出した。画面に映し出されていたのは、龍稲峡の観光開発が成功を収めたことを伝えるニュース記事と、その特集レポートだった。

すでに多くのインフルエンサーが詰めかけ、SNSには絶賛のコメントが溢れかえっている。

「これって……」

江里子の言葉が止まった。

画面に並ぶ見覚えのあるフォトスポットや展望台の配置を見て、彼女は眉をひそめた。

「……これ、あんたのデザインじゃない」

三年前、星歌がこのプロジェクトに心血を注いでいた時、彼女は一人の旅行者の視点として、すべてのディテールについて江里子に意見を求めていた。だからこそ、細部に至るまで江里子の記憶に焼き付いているのだ。

江里子の顔色がさっと変わり、猛烈な勢いでスマートフォンの検索窓に指を走らせた。龍稲峡に関するあらゆる記事を掘り起こし、プロジェクトの公式ページへ辿り着く。

そして、その詳細ページを開いた。

『設計責任者:冴島夏蓮』

その名前が目に飛び込んできた瞬間、江里子は怒りのあまりスマートフォンを叩きつけそうになった。

「見て。これ、どういうことよ」

震える手で差し出された画面を見つめ、星歌は鼻で笑った。「ふふっ。なるほどね……私の案が落選した理由は、こういうことだったんだわ」

江里子の唇は固く結ばれ、瞳には静かな怒りの炎が宿っていた。

星歌は冷ややかに言い放つ。

「最初はあの女の母親から潰してやろうと思ってたけど……予定変更ね。まずは夏蓮本人から地獄に落としてあげる」

その言葉に、江里子の鼓動が跳ね上がった。「星歌、何を言ってるの?」

手を下す?夏目陽子と夏蓮を相手に?

江里子は怒りに震えながらも、親友の瞳から理性が消え失せているのを見て、必死に冷静さを保とうとした。

「落ち着いて。飛鳥を含めた冴島家全員が夏蓮の味方なのよ。それにあの陽子相手に、あんた一人の力じゃどうにもならないわ。無茶なことはしないで、ね?」

星歌の口角が、自嘲気味に吊り上がった。「どうにもならない?本当にそうかしら」

陽子の横暴なまでの権力。それが容易に崩せるものではないことは百も承知だ。

けれど、その権力を支えている「資本」そのものが消えてしまったら、彼女に何が残るというのか。

これまでの数年間、夏蓮が義母の都子と結託し、自分に対して行ってきた数々の仕打ち。

星歌の瞳からわずかに残っていた光が消え、底知れぬ憎悪と怒りへと塗りつぶされていった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第122話

    星歌の行方を血眼になって探し回り、関係者全員がパニックに陥っていた。そんな中、翌朝。夏蓮が手がけた『龍稲峡』のプロジェクトが、星歌のアイデアを盗用したものであるという疑惑が、再びSNSのトレンドを席巻した。ここ数日ろくに眠れていなかった夏蓮は、ネット上に溢れ返る自分への激しい誹謗中傷を目の当たりにし、その場にへなへなと崩れ落ちた。気力を振り絞って陽子の病室へ向かったが、陽子もまた、Y国でのトラブル対応に追われ、一睡もしていなかった。憔悴しきった娘の姿を見て、事の顛末を聞かされた陽子は、苛立たしげに口を開いた。「で、結局のところ、あんたはあの女の案を盗んだの?どうなの?」「それは……」母親の刺々しい問い詰めに、夏蓮の言葉は喉の奥に引っかかってしまった。これまでの母なら、こんな風に追及してくることなど絶対にあり得なかった。私が星歌に何をしようと、経緯や理由など一切聞かず、無条件で私の味方をしてくれていたのに。それが、今はどうして……?「もしあんたが盗作したって言うなら、黙ってその報いを受け入れなさい!そうじゃないなら……」陽子はそこまで言うと、ふっと言葉を区切った。『報いを受け入れろ』。その言葉を聞いた瞬間、夏蓮の瞳孔が信じられないというように収縮した。我が耳を疑った。「お母さん、今なんて言ったの?私が……黙って受け入れろって?」受け入れるって、どういう意味?今までどんなことがあっても、お母さんは必ず私のために報復してくれていたじゃない。なのに、一体どういうこと?私に、星歌から受けたこの屈辱を大人しく我慢しろって言ってるの?「じゃあ他にどうしろって言うの!今の私が、あんたの尻拭いまでできる状態に見える!?」陽子はヒステリックに叫んだ。「…………」昨日からずっと病室のベッドに横たわり、身動き一つ取れない母親の惨めな姿を見て、夏蓮は息が詰まるような絶望を覚えた。星歌……!あのお母さんにすら、泣き寝入りを強いるなんて。本当に大した身分になったものだわ。……こうなったら、一刻も早く亜季と高峰啓介の縁談をまとめなければ。もしこのままあの女が啓介の懐に入り込んでしまえば、本港市で彼女に手出しできる人間など、本当に誰もいなくなってしまう。見かねた宗大が、そっと夏蓮に歩み寄っ

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第121話

    飛鳥の全身から、殺気と怒りが立ち上っていた。「高峰の会社と共同で進めているプロジェクトの資料、すべて俺のデスクに出しておけ!」「と、仰いますと……?」一真は嫌な予感がして聞き返した。「すべて手を引く!」ふざけるな。長年の親友が、自分の妻と裏で繋がっているなど、一体どういう冗談だ。まだ離婚すらしていないというのに、あの二人は俺をコケにしてこんな真似をしやがって。――離婚だと?寝言は寝て言え!俺は一生、星歌と離婚などしてやらない。啓介が俺の妻の隣に立つことなど、死んでも許すものか。一真は顔を引きつらせた。「ですが、多くのプロジェクトはまだ進行の真っ只中ですよ。このタイミングで急に打ち切れば、うちの損失も計り知れません」「損を出そうが知ったことか!」飛鳥は怒りのあまり、大声で怒鳴りつけた。星歌がまたしても啓介に囲われている――その事実を想像するだけで、腸が煮えくり返り、頭がどうにかなりそうだった。今や『啓介』という名前を聞いただけで、飛鳥の精神状態は完全に非常事態へと陥ってしまう。かつては無二の親友だったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。「いいから全部白紙に戻せ!」怒りの収まらない飛鳥は、さらに言葉を続けた。「それに、今あいつの会社が単独で進めている事業のリストも全部洗い出せ」「そ、それは……いくらなんでもマズいのでは?」一真は思わず冷や汗を拭った。事業リストを洗い出せなど、目的は火を見るより明らかだ。飛鳥は、啓介を相手に全面戦争を仕掛ける気なのだ!だが、それは冴島グループにとっても決して得策ではない。なにせ、高峰啓介という男は、本気で敵に回せばどれほど恐ろしいか知れない相手なのだから。しかし、完全に理性を失っている飛鳥の耳に、そんな忠告が届くはずもない。「何がマズいんだ!あいつは俺の妻を堂々と奪おうとしてるんだぞ!俺があいつの事業のいくつかを奪い返したところで、何が悪い!」「…………」事業の横取りだけで済む話ではないだろう。啓介は大人しくやられっぱなしになるような男ではない。飛鳥が喧嘩を売れば、当然向こうからも苛烈な反撃が来る。そうなれば、両陣営が血で血を洗う泥沼の争いになるのは目に見えている。高峰啓介という男の冷酷さと手段を選ばない手腕は、裏社会で

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第120話

    飛鳥は帰り際、啓介に向かって「お前とはもう縁切りだ」と吐き捨てた。さらに……「星歌の件は、絶対にこのままじゃ済まさないからな」と呪詛のような言葉を残し、怒りをあらわにして去っていった。嵐が去った後。執事の伊東(いとう)が、静かに啓介のそばへと控えめに歩み寄った。啓介は新しく火をつけたタバコを深く吸い込む。「帰ったか?」「ええ。飛鳥様はひどくご立腹の様子でしたが……啓介様、本当にこれで……」本当にこれでよかったのですか。伊東はその先の言葉を飲み込み、話題を変えた。「それより、明日の昼、本家へ顔を出すようにと大奥様から伝言がございました」「明日の昼に?」啓介は眉をひそめた。特別な親族の集まりもないはずなのに、なぜ急に明日なのか。不審に思う主人を見て、伊東が補足する。「今日の昼間、本家に佐々木夫人がお見えになったそうです。冴島家の四女の件で」「……亜季のことか」啓介の声が、一段と冷気を帯びた。亜季のことは小さい頃から知っているが、昔からどうにも好きになれなかった。傲慢でわがまま、そして常識知らず。そういった嫌な性質が、あの女にはすべて凝縮されている。啓介に言わせれば、あんな人間を作り上げた時点で、冴島家の家庭教育は完全に破綻しているのだ。伊東は恭しく頭を下げた。「はい。そのようでございます」今日、佐々木夫人が亜季の縁談の件で高峰の本家へ足を運んだばかりだというのに、本家はすぐ明日のお昼に啓介を呼びつけようとしている。啓介は鼻で笑った。「俺を利用しようって魂胆か。……本当に、飛鳥との縁もいよいよ潮時だな」執事の伊東は、黙って控えていた。ここ数日、冴島家は内輪揉めで大騒ぎになっているらしい。その中心には、どうやら亜季も絡んでいるようだ。兄夫婦の結婚新居の名義まで、小姑である亜季のものになっていたという噂がこちらにも耳に入ってきている。――あまりにもタチが悪い。あんな女を嫁に迎え入れたら、どの家であれ平穏な日々など送れるはずがない。表面を取り繕うことすらしない剥き出しの強欲さは、下品を通り越して吐き気すら催すほどだった。「本家に伝えておけ。亜季の縁談の件で俺を呼びつける気なら、本家も平穏な日々を捨てる覚悟があるんだろうな、と」伊東は深く頷いた。「かしこまりました」少し

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第119話

    「飛鳥氏はここ数日、高峰氏が裏で手を引いていると固く信じて疑わないようです。私のことも、高峰氏の部下だと思い込んでいる様子で」グロの報告に、星歌は静かに頷いた。「ええ、分かっているわ」私が啓介とは無関係だと言っても、あの男は全く信じようとしなかった。よくよく考えてみれば、この数ヶ月間、彼が私の言葉を信じたことなど一度でもあっただろうか?私の妊娠も信じず、夏蓮に嵌められたという真実も信じなかった。私の口から出た言葉は、何ひとつとして信じようとしなかったのだ。そのくせ、夏蓮の言葉はコロッと信じる。買収された医者の出鱈目な診断すら疑いもしなかった。「今回、病院で私の救命処置を担当したあの医者……職業倫理にかなり問題があるわね」「と、仰いますと?」「訴えるわ」飛鳥は、買収されたあの医者の嘘を鵜呑みにしていた。ならば、その医者を法廷の場に引き摺り出してやればいい。それは飛鳥の顔面に、強烈な平手打ちを食らわせるも同然だ。もう、我慢する気は一切なかった。ただ後悔させればいいなんて、そんな生ぬるい結末は望んでいない。彼自身の目がどれほど節穴で、どれだけ愚かだったか――その絶望的な現実を、骨の髄まで思い知らせてやるのだ。グロに指示を出し終えると、星歌は二階へ上がり、ベッドに横たわった。少し考えた末、自ら飛鳥の番号に発信した。その頃、飛鳥はまだ啓介の部屋に居座っていた。自分のスマホの画面に星歌の名前が表示されたのを見て、彼は氷のような視線で啓介を睨みつけた。通話ボタンを押す。「……やっとかけてくる気になったか?」彼の番号は星歌に着信拒否されているため、飛鳥の方から連絡を取る手段は完全に絶たれていたのだ。「まだ高峰啓介さんのところにいるの?」星歌の淡々とした声が響く。「報告でも受けたか?」啓介の名前を出した星歌に対し、飛鳥は皮肉たっぷりに吐き捨てた。「彼に迷惑をかけるのはやめて。私とあなたの問題に、彼は一切関係ないわ」「何が関係ないだ!星歌、お前、俺を馬鹿にしてるのか!」「あなたが馬鹿かどうかは知らないけれど、この件に関するあなたの知能には、かなり致命的な問題があるようね」「ああそうさ、俺の知能には問題がある!まともな知能なら、お前が啓介と裏でコソコソ繋がってたことにもっと早く

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第118話

    星歌の徹底した反撃により、あらゆる歯車が狂い始めていた。冴島家は完全にパニック状態に陥り、陽子の方も事業を潰されて半狂乱になっている。夜の九時。飛鳥は、啓介のマンションを訪れていた。飛鳥を出迎えた啓介の顔には、明らかな不快感が浮かんでいる。対する飛鳥の表情も、殺気立っていると言っていいほど険しかった。向かい合って座る二人の男。一人は指先に紫煙をくゆらせ、もう一人はグラスの赤ワインを静かに揺らしている。煌々とした照明の下で、二人の横顔は氷のように冷え切っていた。重苦しい沈黙を破ったのは、飛鳥だった。「あいつはどこにいる?」あいつ――すなわち、星歌のことだ。墨霞邸が全焼したと聞いて駆けつけたものの、すでに彼女の姿はなく、すぐに部下の一真に行方を追わせた。詳細な居場所までは特定できなかったが、分かっていることが一つある。彼女は、あの『Y国人』に連れ去られたのだ。Y国人――すなわち、啓介の手の者。星歌のそばに外国人の男がいると知って以来、飛鳥は「あいつは啓介が手配した人間に違いない」と頑なに思い込んでいるのだ。啓介は冷ややかな視線を飛鳥に向けた。二人の間に漂う空気には、かつての親友としての親愛の情など微塵も残っていない。「俺は、あいつと離婚するつもりはない」飛鳥は、自分に言い聞かせるように強い口調で言い放った。「さてね。お前が俺のところへ嗅ぎ回りに来たと知ったら、彼女はどう思うかな?」啓介が挑発するように鼻で笑う。「知ったことか!啓介、お前いい加減にしろよ!」飛鳥はついに激昂し、声を荒らげた。今の彼は完全に正気を失いつつあった。「俺たち、何年来の付き合いだと思ってる!?自分がどれだけ越権行為をしてるか分かってないのか!」「何年来の付き合いだろうと、お前の破綻した夫婦関係の修復まで手伝ってやる義理はないな」啓介は冷淡に言い捨てた。飛鳥の眼差しが、さらに温度を失って底冷えしたものに変わった。彼の中で、啓介という男は決して口数が多い方ではない。それなのに今、啓介は星歌のために、その容赦ない言葉の刃を自分に向けて深々と突き刺してきているのだ。「あいつは……一体どこにいる」飛鳥は荒い息を吐きながら、絞り出すように尋ねた。「夏蓮さんとあの赤ん坊たちは、お前の一生涯の責任になるぞ」

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第117話

    現在、亜季は高峰家との縁談を進めている最中だ。名家である高峰家から少しでも眉を顰められるような事態は、何としても避けなければならなかった。「なら、どうしろと言うの!」感情的になる娘を前に、都子は苛立たしげに声を荒らげた。「忘れないことね。そもそもあなたが墨霞邸の名義を返さなかったのは、あの女に嫌がらせをするためだったんでしょう?」自分の名義の家に、兄の妻である星歌を住まわせる――それは、亜季が星歌に対して決定的なマウントを取り、優越感に浸るための姑息な手段だった。これまでは、星歌も大人しく亜季の嫌がらせに耐え、理不尽に虐げられることを受け入れていたのだろう。だが、今回は違った。星歌は、亜季が長年押し付けてきた底意地の悪い嫌がらせを、家ごと燃やして灰にすることで、実力行使という強烈な平手打ちとして亜季の顔面にそっくりそのまま叩き返してきたのだ。「……いいこと?すべては、あなたと高峰さんの縁談がまとまってからの話よ」都子は低く凄みのある声で念を押した。病ベッドの上でずっと押し黙っていた夏蓮も、都子が高峰家の名を出した途端に横から口を挟んだ。「ええ、高峰家との縁談は、少しでも早くまとめるべきですわ」万が一、星歌と啓介の間に本当に何かがあっては厄介だ。あの女が飛鳥と離婚した後に高峰家の庇護にでも入れば、冴島家からはもう手出しができなくなってしまう。この数日間、星歌から受けた数々の屈辱を思い出すと、夏蓮の胸の奥で黒い怒りが煮えくり返った。あの女が飛鳥と離婚した暁には、絶対にこの恨みを何十倍にもして晴らしてやる――そう固く心に誓っていたのだ。都子は深く頷いた。「縁談をまとめるだけじゃないわ。一刻も早く結婚させるのよ」『結婚』という言葉を聞き、亜季は一瞬ハッとした後、その頬をぽっと赤く染めた。高峰さんのお嫁さんに……?――ええ、もちろん、なりたいわ!夏蓮の星歌に対する憎悪は底なしだった。自身の母親である陽子の事業や豪邸まで、あんなに無惨に破壊されたのだ。誰に何を言われようと、絶対にあの女を許すつもりはなかった。......――一方、星歌の陣営。夜のディナータイムに、親友の江里子が星墨山を訪ねてきた。広大な屋敷に仕える使用人たちが、至れり尽くせりで星歌の世話を焼いているのを見て、江里子は

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第79話

    一方、同じ病院内にある陽子の病室。見舞いに駆けつけた夏蓮は、車椅子の上で震えていた。母が尋常ではない怪我を負ったと聞き、半狂乱になって連れてこさせたのだ。ベッドの上で身動き一つできず、包帯ぐるみの無惨な姿を晒す母親を目の当たりにして、夏蓮の瞳には業火のような憎悪が渦巻いていた。「星歌のクソ女……よくもこんな真似を!それに、どうして高峰啓介が突然あんな女に肩入れしてるのよ!?」母親を半死半生にしたのが啓介の部下だと聞き、夏蓮の顔は夜叉のように歪んだ。ぼろぼろと大粒の涙をこぼす娘を見て、陽子は厳しい眼光を放ち、すかさず怒鳴りつけた。「その涙を引っ込めなさい!」怒号を上げ

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第7話

    忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第6話

    ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。彼女は意識を失っている。「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。――ああ、やっぱり。その光景を

  • 二度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧   第5話

    心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status