All Chapters of 三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧: Chapter 1 - Chapter 5

5 Chapters

第1話

病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来るの?来ないの?」彼が口にした『芝居』という言葉が、星歌の奥底で燻っていた残り火に油を注いだ。だが飛鳥は、妻の怒りに気付くどころか、あからさまに苛立ちを滲ませて吐き捨てる。「今日はそれどころじゃないんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない!」全身の血液が、すうっと冷えていくのがわかった。もういい。何も言うことはない。星歌がスマホを耳から離そうとした、その刹那――向こう側の喧騒が漏れ聞こえた。「ご家族の方!帝王切開は無事成功しましたよ。元気な男女の双子ちゃんです!」星歌の視界から、すべての色が消え失せた。彼もまた、この病院にいたのだ。自分の妻の子が今まさに消えようとしている、この時に。彼は義姉の出産に甲斐甲斐しく立ち会い、他人の子の誕生を待ちわびていたなんて。星歌は迷うことなく、通話終了のボタンを強く押し込んだ。その時、コンコン、とドアが鳴り、黒縁眼鏡をかけた女医が病室に入ってきた。バインダーにペンを走らせる乾いた音が、静まり返った部屋にカツカツと響く。医師は事務的な口調で尋ねた。「ご主人はまだですか?オペ室の準備はもう整っています」星歌は湧き上がる怒りを腹の底へ押し込め、震える声で問うた。「……そのサイン、どうしても夫じゃないといけませんか?」「はい?」医師の手がぴたりと止まる。星歌は顔を上げ、凍てつくような眼差しを医師に向けた。「主人は今、義理の姉の出産に付き添うので忙しいんです。ここには来ません。……私が書いてもいいですか?」先ほどの電話から聞こえた『双子』という響きが、棘となって心臓に突き刺さったまま抜けない
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第2話

二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。一触即発の緊張が部屋を満たしていく。星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたのかしら」我が子を失ったばかりの星歌は、いわば傷を負った獣だ。逆立つ神経を逆撫でする者がいれば、誰であろうと容赦なく噛み殺す。「あんた、なんて口を……!」都子が顔を真っ赤にして地団駄を踏む一方で、飛鳥は表情を硬くし、事務的な声を出す。「できないならそう言えばいいだろう。作り方くらい、家の者に教われば済む話だ。そこまで騒ぎ立てることか?」まただ。いつだってそう。この男はすべてを「些細なこと」として片付け、星歌の心を削り取っていく。星歌は言葉を失った。心という器が、今、完全に冷え切って砕け散った。「本当に、冴島家は貧乏くじを引いたわね。自分は何一つ産めないくせに、おめでたい日にこうやって水を差して……」「いい加減にしろ!」都子の毒づく声を、飛鳥の低い怒声が遮った。納得のいかない都子は、さらに声を荒らげる。「飛鳥、あなたがあまりに甘やかすからよ!」吐き捨てるようにして背を向けた義母に向かって、星歌は凛とした、けれど氷点下の声を投げつけた。「冴島夫人、勘違いしないで。私が産めないんじゃないわ。二年前、夏蓮さんの車に撥ねられたせいで、あの子は死んだのよ」何年もの間、理不尽に押し付けられてきた「石女」という汚名を、星歌は真っ向から否定し、その傲慢さを撥ね退けた。『夫人』という他人行儀な呼び方は、彼女がこの家との決別を宣言した証だった。「ひ、酷い……なんて言い草なの。飛鳥、見なさい!これがあなたの選んだ女よ!」都子は卒倒せんばかりに逆上し、捨て台詞を残して嵐のように去っていった。飛鳥の瞳にも、不快感が露骨に浮かんで
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第3話

江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」「そんなに早くから?じゃあ、その時にはもう離婚を決めてたってこと?」「ええ……」星歌は力なく短く答え、疲労を隠しきれない様子でソファに横たわった。翼が亡くなったあの月から、飛鳥はほとんど実家に泊まり込み、自宅に戻ることは稀だった。たまに帰宅しても、夏蓮が情緒不安定になったと本家から電話が入れば、彼は深夜だろうと構わず飛び出していく。そんな歪んだ婚姻関係に耐えられる人間など、この世にいるはずがない。不意に、星歌のスマートフォンが震えた。表示されたのは屋敷の固定電話の番号だ。星歌は躊躇することなく着信を拒否し、そのまま着信拒否リストに放り込んだ。すると今度は、江里子のスマートフォンが鳴り響いた。画面には「飛鳥」の二文字。江里子は電話を拾い上げ、嫌悪感を隠そうともせず皮肉たっぷりに応じた。「あら、お義姉様の付き添いはもういいの?」「……星歌に代われ」受話器越しに、飛鳥の低く冷ややかな声が響く。彼は病院へ着いて早々、牧野から「星歌様がいなくなった」という報告を受けた。急いで屋敷へ引き返すと、玄関脇の装飾タイルには無残な焦げ跡がこびりついていた。牧野の説明によれば、星歌がすべて焼き払ったのだという。クローゼットからは彼女の私物が消え、彼女が彼のために選んだ品々も、跡形もなく消え去っていた。彼女は一体、何を考えているのか。今日のこの苛立ちは、一体いつになったら収まるというのか。江里子は鼻で笑った。その声には、隠そうともしない強烈な皮肉が込められていた。「お義姉様は出産直後で弱り切ってるんでしょう?もっと優しくしてあげなきゃ。今さら星歌を探すなんて、
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第4話

飛鳥の怒りは、もはや沸点に達していた。荒々しくスマートフォンを掴み取り、直通の番号を叩く。コール音が数回鳴ったところで、相手が恐縮したように出た。「はい、お電話ありがとうございます」「江里子と星歌がどこにいるか、今すぐ調べろ」秘書の葛城一真(かつらぎ かずま)が、一瞬虚を突かれたように沈黙した。「……承知いたしました」「早くしろ!」飛鳥の怒声が響く。この大雨の中、あいつは一体何を考えている。自分たちの思い出が詰まった品々をすべて焼き払うなど、これまでのわがままとは次元が違う。どれほど激しい口論になっても、今日のような真似をしたことは一度もなかった。苛立ちの奥底で、飛鳥の胸に正体の知れない不安が、わずかな澱のように広がっていった。一真からの折り返しは早かった。十分も経たないうちに報告が入る。「奥様は、星河地区にあるマンション……星河レジデンスにいらっしゃいます」「あんなところで何をしている」飛鳥は眉をひそめた。あの地区に、星歌の友人が住んでいるという話は聞いたことがない。「江里子様もご一緒のようです」その名前を聞いた瞬間、飛鳥の顔がさらに険しくなった。彼に言わせれば、女に親友など必要ない。友人とつるめば、余計な知恵がついて手に負えなくなるだけだ。実際、星歌が江里子と会っている時に、碌なことが起きた試しがないのだから。飛鳥が星河レジデンスに到着した頃、疲れ果てた星歌はすでに深い眠りについていた。江里子の姿はもうない。星歌が頑なに同行を拒んだため、彼女の身の回りの世話をさせるスタッフを手配しに、一度自宅へ戻ったのだ。ようやく眠りについたばかりの星歌を、執拗なインターホンの音が引きずり戻した。江里子が忘れ物でもしたのだろうか。星歌は重い体を引きずるようにして立ち上がり、意識が朦朧としたままドアを開けた。「また何か忘れたの……?」言いかけた言葉が凍りついた。目の前に立っていたのは、飛鳥だった。一瞬にして、星歌の顔から体温が消える。「……どうやってここを突き止めたの」飛鳥の表情は冷徹そのもので、漆黒のスーツには雨の滴がいくつも光っていた。「俺が調べられないとでも思ったか?」パジャマ姿の星歌を一瞥すると、飛鳥の苛立ちがさらに膨れ上がった。彼は強引に部屋の中を覗き込み、他に誰
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第5話

心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよね?」一歩、彼に詰め寄る。「あれは私のデザインが選ばれなかっただけ?それとも……あんたが私を切り捨てたの?」静寂が、すべてを支配した。窓を叩く雨音と唸る風の音さえ、この場に漂う重苦しい熱気を冷ますことはできない。星歌は、ドアの縁を掴んだままの飛鳥の手に冷ややかな視線を落とした。「……手を離してくれる?」飛鳥の表情が硬く強張る。「……そんな単純な話じゃないんだ。お前が思っているようなことでは……」「何も言わなくていいわ。法廷で裁判官を相手に、好きなだけ釈明すればいいじゃない」「星歌!」飛鳥が声を荒らげる。「離して」「家族なんだぞ。どうしてそこまで波風を立てようとするんだ」家族、という言葉を聞いた瞬間、星歌の心は氷点下まで冷え切った。「家族……ふふっ、よくもそんな言葉が」彼はまともな説明をするつもりがないのだ。あるいは、あまりに後ろめたすぎて説明などできないのか。そんな男がこの土壇場で「家族」という言葉を持ち出すなど、反吐が出るほど厚顔無恥だ。星歌はドアを閉めようとさらに力を込め、飛鳥もまた抗うように指先に力を込める。「彼女を訴えることは許さない。出産直後の体に、そんな追い打ちをかけるような真似……」「……」出産直後の体。その一言が星歌の胸を抉る。私は、夏蓮のせいで二度も子供を失った。それなのに、彼は私の妊娠を「狂言」だと決めつけ、わがままだと切り捨てた。それなのに、今度は加害者である夏蓮を守るために必死になっている。星歌は一度深く目を閉じると、再び足を振り上げ、飛鳥の鳩尾を目がけて鋭く蹴り出し
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