病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来るの?来ないの?」彼が口にした『芝居』という言葉が、星歌の奥底で燻っていた残り火に油を注いだ。だが飛鳥は、妻の怒りに気付くどころか、あからさまに苛立ちを滲ませて吐き捨てる。「今日はそれどころじゃないんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない!」全身の血液が、すうっと冷えていくのがわかった。もういい。何も言うことはない。星歌がスマホを耳から離そうとした、その刹那――向こう側の喧騒が漏れ聞こえた。「ご家族の方!帝王切開は無事成功しましたよ。元気な男女の双子ちゃんです!」星歌の視界から、すべての色が消え失せた。彼もまた、この病院にいたのだ。自分の妻の子が今まさに消えようとしている、この時に。彼は義姉の出産に甲斐甲斐しく立ち会い、他人の子の誕生を待ちわびていたなんて。星歌は迷うことなく、通話終了のボタンを強く押し込んだ。その時、コンコン、とドアが鳴り、黒縁眼鏡をかけた女医が病室に入ってきた。バインダーにペンを走らせる乾いた音が、静まり返った部屋にカツカツと響く。医師は事務的な口調で尋ねた。「ご主人はまだですか?オペ室の準備はもう整っています」星歌は湧き上がる怒りを腹の底へ押し込め、震える声で問うた。「……そのサイン、どうしても夫じゃないといけませんか?」「はい?」医師の手がぴたりと止まる。星歌は顔を上げ、凍てつくような眼差しを医師に向けた。「主人は今、義理の姉の出産に付き添うので忙しいんです。ここには来ません。……私が書いてもいいですか?」先ほどの電話から聞こえた『双子』という響きが、棘となって心臓に突き刺さったまま抜けない
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