All Chapters of 三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧: Chapter 1 - Chapter 10

30 Chapters

第1話

病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来るの?来ないの?」彼が口にした『芝居』という言葉が、星歌の奥底で燻っていた残り火に油を注いだ。だが飛鳥は、妻の怒りに気付くどころか、あからさまに苛立ちを滲ませて吐き捨てる。「今日はそれどころじゃないんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない!」全身の血液が、すうっと冷えていくのがわかった。もういい。何も言うことはない。星歌がスマホを耳から離そうとした、その刹那――向こう側の喧騒が漏れ聞こえた。「ご家族の方!帝王切開は無事成功しましたよ。元気な男女の双子ちゃんです!」星歌の視界から、すべての色が消え失せた。彼もまた、この病院にいたのだ。自分の妻の子が今まさに消えようとしている、この時に。彼は義姉の出産に甲斐甲斐しく立ち会い、他人の子の誕生を待ちわびていたなんて。星歌は迷うことなく、通話終了のボタンを強く押し込んだ。その時、コンコン、とドアが鳴り、黒縁眼鏡をかけた女医が病室に入ってきた。バインダーにペンを走らせる乾いた音が、静まり返った部屋にカツカツと響く。医師は事務的な口調で尋ねた。「ご主人はまだですか?オペ室の準備はもう整っています」星歌は湧き上がる怒りを腹の底へ押し込め、震える声で問うた。「……そのサイン、どうしても夫じゃないといけませんか?」「はい?」医師の手がぴたりと止まる。星歌は顔を上げ、凍てつくような眼差しを医師に向けた。「主人は今、義理の姉の出産に付き添うので忙しいんです。ここには来ません。……私が書いてもいいですか?」先ほどの電話から聞こえた『双子』という響きが、棘となって心臓に突き刺さったまま抜けない
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第2話

二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。一触即発の緊張が部屋を満たしていく。星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたのかしら」我が子を失ったばかりの星歌は、いわば傷を負った獣だ。逆立つ神経を逆撫でする者がいれば、誰であろうと容赦なく噛み殺す。「あんた、なんて口を……!」都子が顔を真っ赤にして地団駄を踏む一方で、飛鳥は表情を硬くし、事務的な声を出す。「できないならそう言えばいいだろう。作り方くらい、家の者に教われば済む話だ。そこまで騒ぎ立てることか?」まただ。いつだってそう。この男はすべてを「些細なこと」として片付け、星歌の心を削り取っていく。星歌は言葉を失った。心という器が、今、完全に冷え切って砕け散った。「本当に、冴島家は貧乏くじを引いたわね。自分は何一つ産めないくせに、おめでたい日にこうやって水を差して……」「いい加減にしろ!」都子の毒づく声を、飛鳥の低い怒声が遮った。納得のいかない都子は、さらに声を荒らげる。「飛鳥、あなたがあまりに甘やかすからよ!」吐き捨てるようにして背を向けた義母に向かって、星歌は凛とした、けれど氷点下の声を投げつけた。「冴島夫人、勘違いしないで。私が産めないんじゃないわ。二年前、夏蓮さんの車に撥ねられたせいで、あの子は死んだのよ」何年もの間、理不尽に押し付けられてきた「石女」という汚名を、星歌は真っ向から否定し、その傲慢さを撥ね退けた。『夫人』という他人行儀な呼び方は、彼女がこの家との決別を宣言した証だった。「ひ、酷い……なんて言い草なの。飛鳥、見なさい!これがあなたの選んだ女よ!」都子は卒倒せんばかりに逆上し、捨て台詞を残して嵐のように去っていった。飛鳥の瞳にも、不快感が露骨に浮かんで
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第3話

江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」「そんなに早くから?じゃあ、その時にはもう離婚を決めてたってこと?」「ええ……」星歌は力なく短く答え、疲労を隠しきれない様子でソファに横たわった。翼が亡くなったあの月から、飛鳥はほとんど実家に泊まり込み、自宅に戻ることは稀だった。たまに帰宅しても、夏蓮が情緒不安定になったと本家から電話が入れば、彼は深夜だろうと構わず飛び出していく。そんな歪んだ婚姻関係に耐えられる人間など、この世にいるはずがない。不意に、星歌のスマートフォンが震えた。表示されたのは屋敷の固定電話の番号だ。星歌は躊躇することなく着信を拒否し、そのまま着信拒否リストに放り込んだ。すると今度は、江里子のスマートフォンが鳴り響いた。画面には「飛鳥」の二文字。江里子は電話を拾い上げ、嫌悪感を隠そうともせず皮肉たっぷりに応じた。「あら、お義姉様の付き添いはもういいの?」「……星歌に代われ」受話器越しに、飛鳥の低く冷ややかな声が響く。彼は病院へ着いて早々、牧野から「星歌様がいなくなった」という報告を受けた。急いで屋敷へ引き返すと、玄関脇の装飾タイルには無残な焦げ跡がこびりついていた。牧野の説明によれば、星歌がすべて焼き払ったのだという。クローゼットからは彼女の私物が消え、彼女が彼のために選んだ品々も、跡形もなく消え去っていた。彼女は一体、何を考えているのか。今日のこの苛立ちは、一体いつになったら収まるというのか。江里子は鼻で笑った。その声には、隠そうともしない強烈な皮肉が込められていた。「お義姉様は出産直後で弱り切ってるんでしょう?もっと優しくしてあげなきゃ。今さら星歌を探すなんて、
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第4話

飛鳥の怒りは、もはや沸点に達していた。荒々しくスマートフォンを掴み取り、直通の番号を叩く。コール音が数回鳴ったところで、相手が恐縮したように出た。「はい、お電話ありがとうございます」「江里子と星歌がどこにいるか、今すぐ調べろ」秘書の葛城一真(かつらぎ かずま)が、一瞬虚を突かれたように沈黙した。「……承知いたしました」「早くしろ!」飛鳥の怒声が響く。この大雨の中、あいつは一体何を考えている。自分たちの思い出が詰まった品々をすべて焼き払うなど、これまでのわがままとは次元が違う。どれほど激しい口論になっても、今日のような真似をしたことは一度もなかった。苛立ちの奥底で、飛鳥の胸に正体の知れない不安が、わずかな澱のように広がっていった。一真からの折り返しは早かった。十分も経たないうちに報告が入る。「奥様は、星河地区にあるマンション……星河レジデンスにいらっしゃいます」「あんなところで何をしている」飛鳥は眉をひそめた。あの地区に、星歌の友人が住んでいるという話は聞いたことがない。「江里子様もご一緒のようです」その名前を聞いた瞬間、飛鳥の顔がさらに険しくなった。彼に言わせれば、女に親友など必要ない。友人とつるめば、余計な知恵がついて手に負えなくなるだけだ。実際、星歌が江里子と会っている時に、碌なことが起きた試しがないのだから。飛鳥が星河レジデンスに到着した頃、疲れ果てた星歌はすでに深い眠りについていた。江里子の姿はもうない。星歌が頑なに同行を拒んだため、彼女の身の回りの世話をさせるスタッフを手配しに、一度自宅へ戻ったのだ。ようやく眠りについたばかりの星歌を、執拗なインターホンの音が引きずり戻した。江里子が忘れ物でもしたのだろうか。星歌は重い体を引きずるようにして立ち上がり、意識が朦朧としたままドアを開けた。「また何か忘れたの……?」言いかけた言葉が凍りついた。目の前に立っていたのは、飛鳥だった。一瞬にして、星歌の顔から体温が消える。「……どうやってここを突き止めたの」飛鳥の表情は冷徹そのもので、漆黒のスーツには雨の滴がいくつも光っていた。「俺が調べられないとでも思ったか?」パジャマ姿の星歌を一瞥すると、飛鳥の苛立ちがさらに膨れ上がった。彼は強引に部屋の中を覗き込み、他に誰
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第5話

心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよね?」一歩、彼に詰め寄る。「あれは私のデザインが選ばれなかっただけ?それとも……あんたが私を切り捨てたの?」静寂が、すべてを支配した。窓を叩く雨音と唸る風の音さえ、この場に漂う重苦しい熱気を冷ますことはできない。星歌は、ドアの縁を掴んだままの飛鳥の手に冷ややかな視線を落とした。「……手を離してくれる?」飛鳥の表情が硬く強張る。「……そんな単純な話じゃないんだ。お前が思っているようなことでは……」「何も言わなくていいわ。法廷で裁判官を相手に、好きなだけ釈明すればいいじゃない」「星歌!」飛鳥が声を荒らげる。「離して」「家族なんだぞ。どうしてそこまで波風を立てようとするんだ」家族、という言葉を聞いた瞬間、星歌の心は氷点下まで冷え切った。「家族……ふふっ、よくもそんな言葉が」彼はまともな説明をするつもりがないのだ。あるいは、あまりに後ろめたすぎて説明などできないのか。そんな男がこの土壇場で「家族」という言葉を持ち出すなど、反吐が出るほど厚顔無恥だ。星歌はドアを閉めようとさらに力を込め、飛鳥もまた抗うように指先に力を込める。「彼女を訴えることは許さない。出産直後の体に、そんな追い打ちをかけるような真似……」「……」出産直後の体。その一言が星歌の胸を抉る。私は、夏蓮のせいで二度も子供を失った。それなのに、彼は私の妊娠を「狂言」だと決めつけ、わがままだと切り捨てた。それなのに、今度は加害者である夏蓮を守るために必死になっている。星歌は一度深く目を閉じると、再び足を振り上げ、飛鳥の鳩尾を目がけて鋭く蹴り出し
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第6話

ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。彼女は意識を失っている。「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。――ああ、やっぱり。その光景を最後に、星歌の意識は深い闇の底へと沈んでいった。......星歌が再び意識を取り戻したのは、翌日の午前中だった。ベッドの脇には、江里子がつきっきりで座っていた。星歌が目を開けたのに気づくと、安堵のあまり大げさに溜息をつく。「やっと目が覚めたのね。本当に……人騒がせなお姫様なんだから」星歌は何か言おうとしたが、唇が渇いて張り付いて動かない。江里子がすぐに水を差し出してくれた。喉を潤すと、江里子は言いづらそうに切り出した。「さっき、飛鳥が来たわよ。……十分だけ居て、帰ったけど」「…………」十分、か。その短すぎる時間を聞いて、星歌の心は冷え切った沼の底へと沈んでいく。「どうせ、夏蓮を訴えるなとか、そんな伝言でしょう?」「え……聞こえてたの?」江里子は目を見開いた。図星だった。あの男は、妻が意識を取り戻すのも待たずに、ただ義姉を守るためだけに釘を刺しに来たのだ。この期に及んで、夏蓮の保身が第一なのか。星歌は点滴の針が刺さった自分の手元を見つめ、力なく笑った。「ううん、予想がつくだけ。あの人が言いそうなことなんて、手に取るようにわかるから」この半年間、彼が夏蓮をどう扱ってきたかを見れば明白だ。昨夜、訴訟を口にした時のあの血相を変えた反応。あれが全てだった。「もうあいつの話はやめましょ。ほら、お粥食べて」江里子は話題を変えようと努めたが、その声は湿り気を帯びていた。「昨日の夜、あんなに出血したのに……」部外者である江里子でさえ、思い出すだけで声を詰まらせる惨状だったのだ。それなのに飛鳥は、星歌の病状をただの風邪か過
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第7話

忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに一段と強まる。「……貴様、どこまで理不尽なんだ」吐き捨てるように言うと、彼は星歌の手を乱暴に振り払った。そのまま夏蓮の車椅子のハンドルを掴み、病室を出ようとする。背を向け、飛鳥に押されていく夏蓮が、すれ違いざまに星歌へ勝ち誇ったような、蔑みの視線を送った。二人がドアに差し掛かったその時、ベッドに座る星歌の冷ややかな声が背中に突き刺さる。「覚えておきなさい。今日の平手打ちなんて、ほんの序の口よ」飛鳥の足が止まり、夏蓮の身体が強張った。子供の命を奪われた恨みも、自分の手柄を横取りされた『龍稲峡』の件も、何一つ許すつもりはない――星歌の無言の宣告が、重く響く。飛鳥が何かを言い返そうと振り返った瞬間、車椅子の夏蓮が呻き声を上げた。「飛鳥さん……お腹が、急に痛くなって……お医者様を、早く……っ」星歌に浴びせるはずだった言葉を飲み込み、飛鳥は苦しげに唇を動かしただけで、そのまま夏蓮を連れて廊下の向こうへと去って行った。二人の姿が見えなくなると、江里子が星歌の側に駆け寄った。「……あの女、一体何をしに来たのよ?どの面下げてあんたの前に現れたっていうの」江里子は憤りながらも、ふと星歌の手元に目をやった。「それにしても……あいつの顔、すごかったわね。あんたがやったの?」夏蓮の両頬は、はっきりと形がわかるほど赤く腫れ上がっていた。「悲劇のヒロインを演じたがっていたから、そのお手伝いをしてあげただけよ」星歌の言葉に、江里子は絶句した。怒りと虚しさが入り混じったような親友の表情に、江里子の不安は募る。「あの傲慢な彼女の
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第8話

都子が、星歌も同じ病院に入院していると聞きつけて、そのまま彼女の病室へと乗り込んできた。部屋に足を踏み入れたとき、星歌はちょうど電話の最中だった。「ええ、示談には応じません。法的手続きを進めてください」受話器越しに凛とした声が響く。都子の眉がぴくりと跳ねた。法的手続き?まさか、飛鳥と離婚でもするつもりなのだろうか。ふん、離婚なら願ってもないことだけど……都子の姿を認めると、星歌は冷ややかな表情のまま電話を切った。そのあからさまな態度に、都子は不満を隠そうともせずに口を開く。「今の電話、離婚弁護士かしら?飛鳥と別れるつもりなの?」『離婚』という言葉を口にした瞬間、都子の声には、ようやく長年の願いが叶うといった悦びが滲んでいた。この数年間、都子がどれほど星歌を冴島家から追い出したいと願っていたことか。孤児院育ちの女など、自分の義理の娘として相応しくない。連れ歩くことさえ恥ずかしいと、心の底から蔑んでいたのだ。星歌は冷ややかな視線を都子に投げたまま、唇を固く結んでいた。都子は鼻で笑うと、そばにあった椅子を引き寄せ、横柄に腰を下ろした。「離婚は大いに結構。けれど、冴島家の資産は一円たりとも持っていかせないわよ」強硬な口調には、隠そうともしない強欲さと醜悪さが滲み出ている。星歌の口角が、嘲弄を含んでわずかに上がった。「そんなに私と飛鳥を別れさせたいの?夏蓮に居場所を譲るために」「なっ……」図星を突かれた都子は、まるで尻尾を踏まれた猫のように色をなした。「そうよね。今や本港市の誰もが、飛鳥が彼女を引き取るものだと思っているもの。彼が私と結婚していたなんて誰も知らないし、離婚して彼女を迎え入れるのは、あなたたちにとって最高に好都合な展開でしょう?」皮肉たっぷりの響きに、都子は開き直ったように頷き、鼻を鳴らした。「ええ、その通りよ。夏蓮はあなたの千倍、万倍も優れているわ。今の自分を見てごらんなさい、まるで品の欠片もない悪あがきをする女そのものじゃない」都子の怒りは、言葉を重ねるごとに激しさを増していく。特に、夏蓮の頬に残された鮮明な指跡を思い出すたび、胸の奥の火が燃え上がった。出産直後の身でありながら、星歌に平手打ちを食らわされたのだ。もしこのことが夏蓮の母、陽子に知られたら、一体どう落
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第9話

それまで必死に抗っていた夏蓮だったが、視線の端に飛鳥と都子の姿を捉えた瞬間、その瞳に大粒の涙を溜めた。「そんなつもりじゃなかったの……本当よ。お願い星歌さん、離して……」弱々しく訴え、さらに苦悶の表情を浮かべる。「ああ……傷が、傷が痛むわ……っ」その一言が、入り口にいた都子の怒りに火をつけた。「星歌!夏蓮を離しなさい!」都子は半狂乱になって病室へ突き進む。夏蓮が演技を始めた瞬間、星歌は背後に二人が現れたことを確信した。夏蓮の瞳の奥に、一瞬だけ勝ち誇ったような色が浮かぶ。星歌は口角を吊り上げると、掴んでいた髪にさらに力を込め――鈍い音とともに、夏蓮の頭をベッドの柵に叩きつけた。「きゃあああっ!」夏蓮の悲鳴が室内に響き渡る。都子もまた悲鳴を上げ、駆け寄るなり夏蓮を抱きしめるようにして庇った。星歌を睨みつけるその目は、いまにも食らいつかんばかりに血走っている。「あなた、正気なの!?狂っているわ!騒ぎたいならよそでやりなさい、彼女は帝王切開の手術を終えたばかりなのよ。なんて残酷なことを……!」夏蓮は腹部を押さえ、顔面蒼白のまま呻いている。「痛い……お義母様、お腹が痛い……っ」「なんて毒婦なのかしら。どうしてここまで残酷になれるのよ!」都子は激昂した。いまや夏蓮は冴島家の功労者であり、一族を挙げて守るべき存在なのだ。それを星歌が傷つけるなど、断じて許されることではない。星歌は鼻で笑った。「飛鳥を繋ぎ止めるためなら、自分から車椅子から転げ落ちて傷口が開くのも厭わないような女よ。そんな相手に、産後だからって気遣いを見せる必要なんてあるかしら?」昨夜、あまりにタイミングよく車椅子から落ちてみせた夏蓮。あれが自作自演でないと、誰が信じるだろう。自分の体さえ道具にする女を、なぜ他人が敬わなければならないのか。滑稽でしかなかった。「何をデタラメを……!あなたという人は、どこまで……」「まだ私に謝らせたい?」星歌は鼻で笑った。都子から視線を外すと、その先にある飛鳥の顔を真っ向から見据える。飛鳥は薄い唇を固く結び、これまでに見たこともないほどの冷徹な光を瞳に宿していた。ああ、本当に怒っているのね。……夏蓮のために。星歌はすぐに視線を戻し、再び夏蓮の顔を覗き込んだ。「私、自分を相手に
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第10話

飛鳥はその眼差しに耐えられず、たじろぐ。何かを言いかけようとしたその時、スマートフォンの通知音が鋭く鳴った。届いたメッセージに目を落とした瞬間、飛鳥の顔色が劇的に変わる。間を置かず、再び都子からの着信が跳ねた。「飛鳥、早く来て!取り返しのつかないことになるわ!」受話器越しに、都子の狂乱した叫びが響く。その背後からは、夏蓮の正気を失ったような喚き声も聞こえてきた。「離して!翼さんのところへ行くの、翼さんに会わせて!彼は私を守ってくれる、翼さんなら……!」「聞いたでしょう?夏蓮がまた発作を起こしたのよ!」都子が悲痛な声を上げる。飛鳥は苦渋の滲む表情で星歌を見つめたが、やがて電話口に向かって低く応じた。「……すぐに行く」通話を切り、彼は改めて星歌に向き直る。だが、そこにいたのは彼が知る妻ではなく、ただ冷徹に彼を突き放す、見知らぬ女だった。星歌の瞳に宿る拒絶に、飛鳥の鼓動は激しく波打つ。彼はこみ上げる感情を抑え込み、一歩踏み出して星歌の肩を強く掴んだ。「星歌……」しかし、星歌はその両手を無言で振り払い、背を向けた。夏蓮の元へ行くというのなら、もう止める言葉も、分かち合う感情も残っていない。「……すぐに戻る」彼女の反応を待つ余裕すらなく、飛鳥は吐き捨てるように言い残すと、足早に病室を飛び出していった。遠ざかっていく足音。その響きと共に、星歌の心もまた、彼からどこまでも遠く離れていくのだった。飛鳥が去って間もなく、星歌のスマートフォンが震えた。画面に表示された番号を確認し、乱れた呼吸を何度も整えてから通話ボタンを押す。「……お兄ちゃん」「明日の早朝、グロが本港市に到着する。お前の世話は彼に任せろ。やりたいことがあるなら、すべて彼にやらせればいい」グロ。兄の右腕とも言える、直属のアシスタントだ。以前、兄がこちらへ来た際に一度だけ会ったことがある。星歌の脳裏に、両腕を埋め尽くす刺青が印象的な、あの危険な男の姿が浮かんだ。「わかったわ」星歌が短く応じると、受話器の向こうの男は言葉を継いだ。「グロには国際弁護士を二人同行させている。本港市には、お前が片付けたい『汚物』が山ほどあるだろうからな」電話越しの声は、傲岸で、あまりに危うい。姿は見えずとも、冷徹な瞳ですべてを見下ろ
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