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第2話

Author: 花咲 錦
二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。

一触即発の緊張が部屋を満たしていく。

星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。

全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」

言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。

「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたのかしら」

我が子を失ったばかりの星歌は、いわば傷を負った獣だ。逆立つ神経を逆撫でする者がいれば、誰であろうと容赦なく噛み殺す。

「あんた、なんて口を……!」

都子が顔を真っ赤にして地団駄を踏む一方で、飛鳥は表情を硬くし、事務的な声を出す。

「できないならそう言えばいいだろう。作り方くらい、家の者に教われば済む話だ。そこまで騒ぎ立てることか?」

まただ。いつだってそう。

この男はすべてを「些細なこと」として片付け、星歌の心を削り取っていく。

星歌は言葉を失った。

心という器が、今、完全に冷え切って砕け散った。

「本当に、冴島家は貧乏くじを引いたわね。自分は何一つ産めないくせに、おめでたい日にこうやって水を差して……」

「いい加減にしろ!」

都子の毒づく声を、飛鳥の低い怒声が遮った。

納得のいかない都子は、さらに声を荒らげる。

「飛鳥、あなたがあまりに甘やかすからよ!」

吐き捨てるようにして背を向けた義母に向かって、星歌は凛とした、けれど氷点下の声を投げつけた。

「冴島夫人、勘違いしないで。私が産めないんじゃないわ。二年前、夏蓮さんの車に撥ねられたせいで、あの子は死んだのよ」

何年もの間、理不尽に押し付けられてきた「石女」という汚名を、星歌は真っ向から否定し、その傲慢さを撥ね退けた。

『夫人』という他人行儀な呼び方は、彼女がこの家との決別を宣言した証だった。

「ひ、酷い……なんて言い草なの。飛鳥、見なさい!これがあなたの選んだ女よ!」

都子は卒倒せんばかりに逆上し、捨て台詞を残して嵐のように去っていった。

飛鳥の瞳にも、不快感が露骨に浮かんでいる。

あの『夫人』という呼び名が、彼自身のプライドをも深く傷つけたのだろう。

だが、彼は結局何も言い返さず、苛立ちを隠さない足取りで、母の後を追うように邸を後にした。

遠ざかっていく飛鳥の背中を見つめながら、星歌はただただ、滑稽さと虚しさを噛み締めていた。

ここまで激しくぶつかり、何もかもをさらけ出したというのに、彼は結局、あちらを選んだのだ。

亡き兄のために夏蓮を支えなければならないという義務感なのか。

それとも、彼自身の心のどこかに彼女を放っておけない思いがあるのか。二人が去った静寂の中で、家政婦の牧野がおずおずと近づいてきた。

「星歌様、本当にお顔の色がすぐれません。お医者様をお呼びしましょうか」

使用人の牧野ですら、私の異変に気づき、医師を呼ぶべきだと判断している。

それなのに、夫である飛鳥は……

星歌は力なく手を振った。

「いいわ。下がって」

激しい怒りの余韻が冷めやらず、今はどうしても棘のある言い方になってしまう。

牧野は一瞬ためらうような素振りを見せたが、最後は小さく頷いてその場を後にした。

一人きりになると、スマートフォンのバイブ音が重苦しく響き渡った。

親友の江藤江里子(えとう えりこ)からだ。

画面に表示された名前を見て、星歌はわずかに尖っていた神経を緩めた。

「……江里子」

「ちょっと星歌!午後からずっと電話してたのに、どうして出ないのよ。ねえ、夏蓮が双子を産んだって話、知ってる?」

「知ってるわ。飛鳥が付き添っていたもの」

「はあ!?知ってて黙ってたの?義理の姉の出産に、彼は一体何の立場で付き添ってるわけ?冴島家には、夏蓮に顎で使われる人間なんて他にいくらでもいるでしょ!」

飛鳥がこの期に及んで配慮に欠ける行動をとったことに、江里子も自分のことのように憤慨している。

翼が亡くなってからの半年間、夏蓮のあまりにも境界線のない振る舞いに、星歌がどれほど心を削り、煮え繰り返るような思いをしてきたか。

夫である飛鳥は、本当に妻の苦しみに気づいていないのか。

それとも、最初から星歌の気持ちなど、どうでもいいと思っているのだろうか。

「仕方ないわ。飛鳥の顔は亡くなった翼さんと瓜二つ。彼女の鬱を癒やせるのは、あの顔だけなんですって」

星歌の声は、その瞳と同じように冷え切っていた。

この半年間、本家の人間たちはそうやって何度も飛鳥を呼び出してきたのだ。

夏蓮が情緒不安定になるたび、真っ先に飛鳥の携帯が鳴る。事情を知っている江里子の声は、怒りでさらに尖った。

「冴島家の人たち、全員どうかしてるわ。夏蓮が夫の死を受け入れられないからって、代わりに飛鳥をあてがうなんて。彼には自分の妻がいるのよ?別の女の心を癒やすなんて、そんなの筋が通らないじゃない」

「私、今日の午後に流産したの。あなたが電話をくれた時、ちょうど手術台の上だった」

「……え」

絶句した江里子は、次の瞬間、爆発した。

「あんたが流産の手術をしてる時に、飛鳥は夏蓮の出産に付き添ってたっていうの!?嘘でしょ、正気じゃないわ!彼は知ってるの?自分の妻がどうなっていたか知ってるの!?」

「車で迎えに来てくれない?」星歌は幽かな光を宿した瞳を閉じ、絞り出すように言った。

心底、疲れ果てていた。

この家のあらゆる場所が、吸い込む空気さえもが、吐き気を催すほどに忌まわしい。

電話を切ると、星歌は二階へ上がり、猛烈な勢いで自分の身の回りの品をまとめた。

それから、この数年間に自分が飛鳥のために買い揃えた品々も、すべて一箇所に掻き集めた。

庭先でそれらを積み上げ、火を放った星歌の姿を見て、牧野が慌てて駆け寄ってきた。

「星歌様、何をなさっているのですか!おやめください!

こんなことをしていると知れたら、都子様がまた『縁起が悪い』と仰いますわ!」

先ほど食器を叩き割った時でさえ、都子はあれほど激昂したのだ。

この光景を見れば、今度はどれほど苛烈な言葉を投げつけてくるか分かったものではない。

「縁起が悪い?上等じゃない。もし私に呪術の心得があったら、冴島家の人間なんて一人残らず呪い殺してやるところよ」

星歌の声には、底知れぬ憎悪と嫌悪が滲んでいた。

言い捨てると、彼女は踵を返して階段を駆け上がった。

往復すること数回。

飛鳥との思い出が染みついた品々を、次々と庭先の炎の中へ投げ込んでいく。

江里子が到着した時、目の前に広がっていたのは異様な光景だった。

屋敷の前で天を焦がすほどの火柱が上がり、その前に星歌がただ一人、立ち尽くしている。

揺らめく炎に照らされた彼女の横顔は死人のように蒼白だったが、その瞳はどこまでも冷たく、不気味なほどに凪いでいた。

長身の江里子は車を降りるなり大股で歩み寄り、傘を差し掛けると同時に星歌をその腕の中に抱き込んだ。

「流産したばかりで雨に打たれるなんて、自殺行為よ!体がどうなってもいいの!?」

言いながら、有無を言わせず星歌を抱えるようにして車の方へと急ぐ。

江里子の体温と匂いに包まれ、一晩中張り詰めていた星歌の緊張の糸が、ふっと緩んだ。

......

車内に滑り込むと、江里子は乾いたタオルを取り出し、星歌の濡れた髪をワシワシと乱暴に拭き始めた。

「……何を燃やしてたの」

「私が彼に買ったもの。彼が私に買ったもの。全部よ」

江里子は手を止め、親友の顔を覗き込んだ。

「泣きたいなら泣きなさい。術後の体に良くないとは言うけど、胸に溜め込むよりはずっとマシよ」

あんなにお似合いの二人だったのに。たった半年で、見るも無惨に壊れてしまった。

星歌はタオル越しに自分の頭を拭きながら、鼻で笑った。

「泣く?まさか。どうして被害者の私が泣かなきゃいけないの?」

彼女は濡れた髪をかき上げ、タオルを下ろした。

「見ていて。これから涙を流すことになるのは、冴島家の人間の方だから」

氷のように冷ややかな星歌の瞳を見て、江里子は深く頷いた。「そうね。泣くべきなのは彼らよ、あんたじゃない」

夫婦の世界に三人の人間は存在できない。たとえどんな理由があろうとも。

ましてやこの半年間、夏蓮がやってきたことは、白昼堂々の略奪に他ならない。

これほど傍若無人に振る舞えるのは、星歌には何もできないと高を括っているからだろう。

江里子はエンジンをかけ、呪わしい屋敷を後にした。

激しい雨がフロントガラスを叩き、ワイパーが絶え間なくその雫を拭い去っていく。

「……三年前、最初の子を亡くして以来、ずっと授からなかったんでしょ?」江里子が前を見据えたまま問いかけた。

三年前、星歌の腹部には確かに飛鳥との新しい命が宿っていた。

しかし、妊娠に気づく間もなく、彼女は夏蓮が運転する車に撥ねられたのだ。その衝撃で、幼い命は一瞬にして失われた。

あの時、夏蓮は星歌以上に声を荒らげて泣きじゃくり、「わざとじゃない」「不注意だった」と何度も繰り返した。

結局、その言葉を信じる形で事態は収束した。

当時はまだ翼も存命で、夏蓮が飛鳥に対して特別な感情を抱いているようには見えなかったからだ。

けれど、今思えば。

あの時すでに夏蓮は、星歌の妊娠に気づいていたのではないか。すべては、あの女が仕組んだ悲劇だったのではないか。

その事故以来、星歌の体は容易に子を宿さなくなった。

不妊に悩む星歌に対し、都子の態度は日増しに冷酷さを増していった。

鼻で笑うような侮蔑の視線と共に、「体にいいから」と得体の知れない苦い煎じ薬の束を何度も送りつけてきた。

そして、今日。

陣痛にパニックを起こしたふりをして、夏蓮が星歌を力任せに突き飛ばしたあの瞬間。床に叩きつけられた衝撃の中で、星歌は確信した。あれは、間違いなく意図的なものだったと。

「当時はただの事故だと思ってたけど……翼さんが亡くなってからのこの半年、あの女の飛鳥への執着を見てるとね。三年前のあの事件も、わざとだったんじゃないかって思えてくるのよ」

江里子が吐き捨てるように言ったその『わざと』という言葉が、星歌の内に潜む冷気をさらに研ぎ澄ませていく。

二年前のあの日、そして、今日。

「……今日もそう。彼女が私を突き飛ばしたのよ」

星歌の脳裏に、夏蓮を抱きかかえながら自分に向けて放った飛鳥の視線が蘇る。

「騒ぐな」と、まるで星歌が我儘を言っているかのように冷たく窘めたあの瞳。

ふつふつと、はらわたが煮え繰り返るような怒りが胸の奥で暴れ出した。

「やっぱり……じゃあ二年前のことも確定ね。夫がいながら弟を欲しがるなんて。あの女、ただの異常者じゃない」江里子が吐き捨てるように言った。

異常者。

今の星歌には、その言葉がしっくりときた。

特にこの半年間、手段を選ばず飛鳥を独占しようとする夏蓮の姿は、正気の沙汰とは思えなかった。

「これからどうするつもり?このまま泣き寝入りなんて、あんたの性分じゃないでしょ」

江里子の問いに、星歌は視線を窓の外へと向けた。

雨は激しさを増し、路面はまたたく間に濁流のような水溜まりに覆われていく。

これほどまでになめられて、黙って引き下がるはずがない。

星歌の瞳は、降りしきる雨のように冷酷な光を宿していた。「まずは飛鳥と離婚する。それから……」

その先を口にする代わりに、星歌は冷たい雨を眺めながら別の問いを投げかけた。

「夏目陽子(なつめ ようこ)……彼女の輸出ビジネス、この数年は順調だったわよね?」

陽子は、夏蓮の母親だ。

ここ数年、夏蓮が星歌に対してこれほど尊大な態度を取り続けてこれたのは、義母である都子の後ろ盾に加え、実母である陽子が富豪であるという自負があったからに他ならない。

「ええ、そうね。急に陽子の話を出してどうしたの?彼女は一筋縄じゃいかない女よ。あんたも気をつけて」

江里子が釘を刺す。

陽子は一代で巨万の財を築き上げた傑物だ。その辣腕ぶりは業界でも知れ渡っている。

「そのビジネスが、もし完全に断たれたら?」

「……え?」

一瞬、江里子は言葉を失った。

「彼女が扱っている素材は海外需要がすべてよ。もし販路が絶たれれば、命を奪われるのも同然でしょうけど……星歌、まさか本気?私たちの力で夏目家を叩き潰すなんて、逆立ちしたって無理よ」

陽子の人脈は、本港市に深く根を張る巨木のように複雑で強固だ。

誰にも揺るがすことなどできない。

返答のない星歌を心配し、江里子はその氷のように冷え切った手をぎゅっと握りしめた。

「変な気を起こさないでよ。無茶だけはしないで」

無茶、か。

星歌は答えなかった。

ただ、一ヶ月前に自分の前に現れ、力強く抱きしめてきた、あのY国人の姿が脳裏をよぎっていた。

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