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三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧
三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧
Author: 花咲 錦

第1話

Author: 花咲 錦
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。

それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。

スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」

受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。

やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」

「……来るの?来ないの?」

彼が口にした『芝居』という言葉が、星歌の奥底で燻っていた残り火に油を注いだ。

だが飛鳥は、妻の怒りに気付くどころか、あからさまに苛立ちを滲ませて吐き捨てる。

「今日はそれどころじゃないんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない!」

全身の血液が、すうっと冷えていくのがわかった。もういい。何も言うことはない。星歌がスマホを耳から離そうとした、その刹那――向こう側の喧騒が漏れ聞こえた。

「ご家族の方!帝王切開は無事成功しましたよ。元気な男女の双子ちゃんです!」

星歌の視界から、すべての色が消え失せた。

彼もまた、この病院にいたのだ。

自分の妻の子が今まさに消えようとしている、この時に。彼は義姉の出産に甲斐甲斐しく立ち会い、他人の子の誕生を待ちわびていたなんて。

星歌は迷うことなく、通話終了のボタンを強く押し込んだ。

その時、コンコン、とドアが鳴り、黒縁眼鏡をかけた女医が病室に入ってきた。バインダーにペンを走らせる乾いた音が、静まり返った部屋にカツカツと響く。医師は事務的な口調で尋ねた。

「ご主人はまだですか?オペ室の準備はもう整っています」

星歌は湧き上がる怒りを腹の底へ押し込め、震える声で問うた。「……そのサイン、どうしても夫じゃないといけませんか?」

「はい?」

医師の手がぴたりと止まる。

星歌は顔を上げ、凍てつくような眼差しを医師に向けた。「主人は今、義理の姉の出産に付き添うので忙しいんです。ここには来ません。……私が書いてもいいですか?」

先ほどの電話から聞こえた『双子』という響きが、棘となって心臓に突き刺さったまま抜けない。

事情を察したのか、医師の瞳に一瞬、憐れみの色が浮かんだ。

「……わかりました。こちらへ」

差し出された同意書を受け取り、星歌はわき目も振らずに自身の名を書き殴った。

「これを飲んでください。三十分後に処置を始めます」

医師から渡された白い錠剤。星歌はそれを受け取ると、水も含まずに口の中へ放り込んだ。

普段なら顔をしかめるはずの苦味。けれど今の彼女は、口の中に広がるその苦渋を、ただ静かに噛み締めていた。

......

夕闇が迫る頃。

術後の経過観察を終えた星歌は、誰の迎えを待つこともなく、自らステアリングを握り、飛鳥と暮らす邸宅へと車を走らせた。

玄関の扉を開けると、家政婦の牧野が小走りで出迎えてくれた。だが、星歌の顔を見るなり、彼女は息を呑む。

「星歌様、お顔の色が真っ白ではありませんか……!いったいどうなされたんです?」

星歌は冷え切った瞳で牧野を見つめ、血の気のない唇を無理やり三日月形に歪めてみせた。「牧野さん、なにか作って。……お腹が、空いちゃったの」

お腹が空いた。それは、今日一日、身も心もすり減らした彼女の、唯一の訴えだった。

今朝、目を覚ますなり飛鳥に連れられ、冴島の本邸へ向かった。けれど昼食の席につき、箸をつけたのも束の間だった。義姉である冴島夏蓮(さえじま かれん)が突然産気づき、大量の出血をしたのだ。

厳かな本邸は、新たな命の危機に瀕し、瞬く間に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

夏蓮は、飛鳥の兄――冴島家の長男、冴島翼(さえじま つばさ)の妻だ。半年前に飛行機事故で翼が帰らぬ人となって以来、彼女と、そのお腹に残された忘れ形見は、冴島家にとって何よりも優先されるべき聖域となっていた。

夏蓮の身になにかあれば、たとえ火の中水の中、飛鳥はすべてを投げ打って駆けつける。それが今のあの人のルールだった。

星歌はふらつく足取りでリビングへ向かいながら、今日の惨状を反芻する。

陣痛が始まったあの時、錯乱した夏蓮に力任せに突き飛ばされたのは、他ならぬ星歌だった。彼女の細い体は床に叩きつけられ、あまりの激痛に、すぐには身動き一つ取れなかった。

けれど、誰一人として星歌に見向きもしなかった。誰も彼もが、悲劇のヒロインのように泣き叫ぶ夏蓮のもとへ群がっていたからだ。

飛鳥が、夏蓮を横抱きにして星歌の目の前を通り過ぎようとした、あの一瞬。

星歌は這いつくばったまま、悲痛な叫びと共に夫のズボンの裾を掴んだのだ。「お腹が……痛いの!」助けて、と言いたかった。

だが、見下ろした飛鳥の瞳に宿っていたのは、心配でも焦燥でもなく――冷ややかな軽蔑だった。「こんな時にまで、わざとか」声に出さずとも、彼がそう言ったのが分かった。

飛鳥は煩わしげに星歌の手を振りほどくと、夏蓮を抱きかかえたまま、一度も振り返ることなく去っていった。

――そう、あの時。見捨てられたのは私だけではない。あの子もまた、父親に見殺しにされたのだ。

牧野は、幽霊のようにふらつく星歌の様子を見かねて、慌ててその背を支えた。「星歌様、お顔の色が……さあ、こちらへ。すぐに温かいものをお持ちしますから」

ダイニングの椅子に腰を下ろすと、牧野は手早く準備を整えてくれた。湯気を立てるふっくらとしたお粥と、身体に優しい小鉢。

だが、星歌が匙を二、三回口に運び、その温かさがようやく凍えた胃の腑に落ちた頃――玄関の向こうから、談笑する声が近づいてきた。

夫の飛鳥と、義母の冴島都子(さえじま みやこ)だ。二人がリビングに入ってくる。

今日は冴島家にとって、待望の跡取りが生まれた慶事である。いつもなら星歌を見るなり柳眉を逆立てて小言を並べる都子も、今日ばかりは上機嫌だった。

もっとも、彼女の眼中に「役立たずの嫁」など映っていない。星歌を空気のように無視して、息子に声をかけた。

「ちょっと二階へ行ってくるわね」

「ああ、行ってらっしゃい」

都子の足音が遠ざかると、飛鳥は口元の笑みを収め、星歌の向かいに腰を下ろした。

長い脚を組み、ポケットから銀色のライターを取り出す。

キン、と硬質な音が静かなダイニングに響き、立ち上った紫煙が彼の端正な顔を曇らせた。

星歌は顔も上げず、黙々とお粥を口に運び続ける。

飛鳥は深く煙を吐き出すと、嘆息交じりに手を伸ばし、星歌の頭を子供のようにポンポンと撫でた。

「なあ星歌。お前も、いい加減機嫌を直せよ」

「…………」

「兄貴が死んでまだ半年だぞ。義姉さんは、兄さんの忘れ形見を必死で守り抜いたんだ。今日くらい、わがままはよせ」

飛鳥の声は、どこまでも理知的で、そして残酷なほど穏やかだった。「双子は本当に可愛いぞ。小さくて、儚くて……お前だって見ればきっと気に入る」

まるで駄々をこねる子供をあやすような口調。そして、生まれたばかりの「あちらの子」への無邪気な慈しみ。

星歌の中で、ギリギリと張り詰めていた最後の弦が、弾け飛んだ。

カチャン!星歌は手にした箸をテーブルに叩きつけた。「……そんなに可愛いの?人の子が」

充血した目を上げ、射殺すような視線を夫に向ける。その声には、冷え切った皮肉が満ちていた。

飛鳥は眉間に深い皺を刻み、不愉快そうに声を荒らげる。「人の子とはなんだ。兄貴の血を引く大切な子供だぞ!」

「あら、そう。あなたが父親だと言われても信じちゃうくらい、必死なんですものね」

「星歌!言葉を慎め!」

飛鳥が激昂し、テーブルを叩く。

だが、それより早く星歌は立ち上がっていた。振り上げた手のひらが、風を切る。――パァンッ!!乾いた破裂音が、室内の空気を切り裂いた。

叩かれた頬を押さえ、呆然とする飛鳥。

星歌の瞳に浮かんでいたのは、かつての愛情などかけらもない、底なしの憎悪だった。「離婚しましょう」

誰の子だろうが、知ったことではない。あちらが大切なら、一生その「忘れ形見」の世話でもしていればいい。

この半年間、泥水をすする思いで耐え忍んできた地獄に、今ここで、終止符を打つのだ。

飛鳥の瞳から、すうっと温度が消えた。「今日産まれたのは、翼兄さんの忘れ形見だぞ。兄さんはもういないんだ。それなのに俺に、何もせずただ見ていろと言うのか?」

「……お兄さんの子供だから。それが免罪符?」星歌は乾いた笑い声を漏らす。「だから一線を越えて、自分の子供の『死』さえ見捨ててもいいと言うの?」

――兄の子供。その言葉が、むなしく響く。

医師の言葉が再び脳裏をよぎる。『もう少し早く搬送されていれば、助かったかもしれません』。

もし、彼が振り返ってくれていれば。もし、あの時助けてくれていれば。

失われた命への未練と共に、冷たい医療器具で子宮の中身を根こそぎ掻き出されたあの感触が、今も鮮明な激痛となって下腹部に疼いていた。

星歌は氷のような眼差しで、目の前の男を見据えた。「あちらには、冴島家の一族郎党、二十人以上が詰めかけていたわ。それだけいてまだ足りないの?あなた一人が欠けただけで、世界が終わるとでも?」

痛いところを突かれたのか、飛鳥の呼吸が荒くなる。

彼は数秒の沈黙の後、苛立ちを飲み込むように大きく息を吐いた。そして、星歌の手首を掴み取る。ひどく冷たい手。対照的に、触れた額は微熱を帯びて熱い。

飛鳥は得心がいったように眉を下げた。生理の時、彼女はいつもこうやって体温調節がうまくできなくなるのだ。

「……わかった、もういい。お前が子供を欲しがっているのは知っている。だがな、そういうのは縁だ。無理に作った話で気を引こうとしても、虚しいだけだぞ」

諭すような、呆れたようなその口調。星歌の全身の血が、逆流して沸騰した。

「どういう意味?私が妊娠なんてしていないと、嘘をついているとでも?」

激昂する星歌を見て、飛鳥は「また始まった」とでも言いたげに、彼女を抱き寄せた。背中をポンポンと叩く、子供騙しの手つき。「よしよし、わかった。悪かったよ。お前は妊娠していたんだな。俺が悪かった、それでいいだろ?」

それは、彼がこの半年間繰り返してきた、お決まりの態度だった。

夏蓮のことで星歌が傷つき、怒るたびに、彼はこうして半信半疑のまま、ただその場を収めるためだけに謝罪もどきを口にする。心なんて、これっぽっちも籠もっていない。

けれど今回ばかりは、その「適当」が許される領域を超えていた。本当に失われた小さな命が、二人の間には横たわっているのだから。

その時、階段を降りてくる足音がした。二階から戻ってきた都子だ。彼女は、息子夫婦の間に流れる険悪な空気も、星歌の悲痛な表情も、まるで目に入っていないかのように振る舞う。いや、端から見る気などないのだろう。

「星歌」都子は階段の手すりに手を滑らせながら、さも当たり前のように言い放った。「夏蓮ね、術後で食欲がないそうなんだけど、あなたが作る鯛の潮汁なら飲めそうだって言うのよ。だから明日の朝、市場へ行って支度してちょうだい」

星歌の返事も待たず、都子はとどめを刺すように注文をつける。

「スーパーの切り身じゃ駄目よ。ちゃんと市場の競りまで足を運んで、活きのいい天然の真鯛を一匹仕入れてらっしゃい。養殖物は脂っこくて産後の身体に障るからね」

言い終えると、彼女は息子に向き直った。「さあ飛鳥、行きましょう」

双子の誕生という慶事。母親の精神状態は何よりも優先されるべき重要事項だ。特に、亡き長男と瓜二つの顔を持つ飛鳥がそばにいれば、夏蓮も心安らかでいられるだろう。

飛鳥は逆らうでもなく、抱き寄せていた星歌の体をあっさりと離した。

彼は星歌の頬を軽くつまみ、甘やかすような声色を作る。「今夜は遅くなるから、俺のことは待たずに寝てていいぞ。……いい子だ」

いい子だ、だと?

飛鳥は踵を返し、母親の後を追うように歩き出した。その背中を見送った瞬間、星歌の中で最後の理性が焼け落ちた。

激情が身体を突き動かす。彼女は両手でテーブルの縁を掴むと、渾身の力で一気に持ち上げた。

ガシャァァァンッ!!陶器の砕ける音、金属のぶつかる音が、嵐のように屋敷中を震わせた。料理も食器も、すべてが床に散乱し、無惨な残骸となる。

玄関へ向かっていた二人の足が、ピタリと止まった。恐る恐る振り返る都子と飛鳥。

「星歌、なにするの!」都子は一瞬たじろいだが、すぐに金切り声を上げた。

「なんてことを……!今日は冴島家にとって双子が生まれたおめでたい日なのよ!それなのにこんな暴挙に出て、いったい誰への当てつけ!?」

星歌は、能面のように冷え切った表情で義母を見据えた。瞳の奥には、氷点下の怒りが燃えている。「夏蓮さんが、私の潮汁を飲みたいですって?」

一歩踏み出し、低い声で問い詰める。「お義母様、教えてください。私がいつ、鯛を捌いて汁物にするなんて手の込んだ料理、覚えたんです?」

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