三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧

三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧

By:  花咲 錦Updated just now
Language: Japanese
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結婚生活3年、3度の流産。 3度目の悲劇に見舞われ、冴島星歌(さえじま せいか)が手術台で苦しんでいたその時、夫の冴島飛鳥(さえじま あすか) はあろうことか、義理の姉の双子の出産に付き添っていた。 病院を出たその足で、彼女はついに決断を下す。 もはや「元」夫となる男に、一通の離婚届を突きつけたのだ。 「別れましょう。それがあなたのためよ」 「離婚だと?本気で言っているのか?俺の気を惹きたいなら、そんな白々しい嘘をつく必要はない」 相変わらずの傲慢な態度に、星歌は何も言い返さず、ただ静かに微笑んでその場を去った。 「あなたのため」というのは、紛れもない本心だった。 今の彼女には、もう新しい「後ろ盾」がいるのだから。 たとえ冴島家が帝都の社交界を牛耳る名家であろうとも、手出しのできない相手が。 過去を断ち切り、仮面を脱ぎ捨てた星歌。次々と明かされる彼女の真の姿に、冴島家の人々は言葉を失う。 これがあの、実家の後ろ盾もなく、ただ虐げられていた大人しい嫁の正体なのか――? 世界的企業のCEO:「星歌、早く自由になってくれ。もう待ちきれない」 財閥のドン:「すぐに離婚だ!さもなくば冴島家を潰す!」 国際弁護士:「離婚訴訟なら任せてくれ。星歌、君が一度振り向いてくれるだけで僕は幸せだ」 飛鳥は高を括っていた。彼女は永遠に自分のそばにいると。 だが、彼女が手の届かない「高嶺の花」となって再び目の前に現れた時、その独りよがりなプライドは音を立てて崩れ去った……

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Chapter 1

第1話

病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。

それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。

スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」

受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。

やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」

「……来るの?来ないの?」

彼が口にした『芝居』という言葉が、星歌の奥底で燻っていた残り火に油を注いだ。

だが飛鳥は、妻の怒りに気付くどころか、あからさまに苛立ちを滲ませて吐き捨てる。

「今日はそれどころじゃないんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない!」

全身の血液が、すうっと冷えていくのがわかった。もういい。何も言うことはない。星歌がスマホを耳から離そうとした、その刹那――向こう側の喧騒が漏れ聞こえた。

「ご家族の方!帝王切開は無事成功しましたよ。元気な男女の双子ちゃんです!」

星歌の視界から、すべての色が消え失せた。

彼もまた、この病院にいたのだ。

自分の妻の子が今まさに消えようとしている、この時に。彼は義姉の出産に甲斐甲斐しく立ち会い、他人の子の誕生を待ちわびていたなんて。

星歌は迷うことなく、通話終了のボタンを強く押し込んだ。

その時、コンコン、とドアが鳴り、黒縁眼鏡をかけた女医が病室に入ってきた。バインダーにペンを走らせる乾いた音が、静まり返った部屋にカツカツと響く。医師は事務的な口調で尋ねた。

「ご主人はまだですか?オペ室の準備はもう整っています」

星歌は湧き上がる怒りを腹の底へ押し込め、震える声で問うた。「……そのサイン、どうしても夫じゃないといけませんか?」

「はい?」

医師の手がぴたりと止まる。

星歌は顔を上げ、凍てつくような眼差しを医師に向けた。「主人は今、義理の姉の出産に付き添うので忙しいんです。ここには来ません。……私が書いてもいいですか?」

先ほどの電話から聞こえた『双子』という響きが、棘となって心臓に突き刺さったまま抜けない。

事情を察したのか、医師の瞳に一瞬、憐れみの色が浮かんだ。

「……わかりました。こちらへ」

差し出された同意書を受け取り、星歌はわき目も振らずに自身の名を書き殴った。

「これを飲んでください。三十分後に処置を始めます」

医師から渡された白い錠剤。星歌はそれを受け取ると、水も含まずに口の中へ放り込んだ。

普段なら顔をしかめるはずの苦味。けれど今の彼女は、口の中に広がるその苦渋を、ただ静かに噛み締めていた。

......

夕闇が迫る頃。

術後の経過観察を終えた星歌は、誰の迎えを待つこともなく、自らステアリングを握り、飛鳥と暮らす邸宅へと車を走らせた。

玄関の扉を開けると、家政婦の牧野が小走りで出迎えてくれた。だが、星歌の顔を見るなり、彼女は息を呑む。

「星歌様、お顔の色が真っ白ではありませんか……!いったいどうなされたんです?」

星歌は冷え切った瞳で牧野を見つめ、血の気のない唇を無理やり三日月形に歪めてみせた。「牧野さん、なにか作って。……お腹が、空いちゃったの」

お腹が空いた。それは、今日一日、身も心もすり減らした彼女の、唯一の訴えだった。

今朝、目を覚ますなり飛鳥に連れられ、冴島の本邸へ向かった。けれど昼食の席につき、箸をつけたのも束の間だった。義姉である冴島夏蓮(さえじま かれん)が突然産気づき、大量の出血をしたのだ。

厳かな本邸は、新たな命の危機に瀕し、瞬く間に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

夏蓮は、飛鳥の兄――冴島家の長男、冴島翼(さえじま つばさ)の妻だ。半年前に飛行機事故で翼が帰らぬ人となって以来、彼女と、そのお腹に残された忘れ形見は、冴島家にとって何よりも優先されるべき聖域となっていた。

夏蓮の身になにかあれば、たとえ火の中水の中、飛鳥はすべてを投げ打って駆けつける。それが今のあの人のルールだった。

星歌はふらつく足取りでリビングへ向かいながら、今日の惨状を反芻する。

陣痛が始まったあの時、錯乱した夏蓮に力任せに突き飛ばされたのは、他ならぬ星歌だった。彼女の細い体は床に叩きつけられ、あまりの激痛に、すぐには身動き一つ取れなかった。

けれど、誰一人として星歌に見向きもしなかった。誰も彼もが、悲劇のヒロインのように泣き叫ぶ夏蓮のもとへ群がっていたからだ。

飛鳥が、夏蓮を横抱きにして星歌の目の前を通り過ぎようとした、あの一瞬。

星歌は這いつくばったまま、悲痛な叫びと共に夫のズボンの裾を掴んだのだ。「お腹が……痛いの!」助けて、と言いたかった。

だが、見下ろした飛鳥の瞳に宿っていたのは、心配でも焦燥でもなく――冷ややかな軽蔑だった。「こんな時にまで、わざとか」声に出さずとも、彼がそう言ったのが分かった。

飛鳥は煩わしげに星歌の手を振りほどくと、夏蓮を抱きかかえたまま、一度も振り返ることなく去っていった。

――そう、あの時。見捨てられたのは私だけではない。あの子もまた、父親に見殺しにされたのだ。

牧野は、幽霊のようにふらつく星歌の様子を見かねて、慌ててその背を支えた。「星歌様、お顔の色が……さあ、こちらへ。すぐに温かいものをお持ちしますから」

ダイニングの椅子に腰を下ろすと、牧野は手早く準備を整えてくれた。湯気を立てるふっくらとしたお粥と、身体に優しい小鉢。

だが、星歌が匙を二、三回口に運び、その温かさがようやく凍えた胃の腑に落ちた頃――玄関の向こうから、談笑する声が近づいてきた。

夫の飛鳥と、義母の冴島都子(さえじま みやこ)だ。二人がリビングに入ってくる。

今日は冴島家にとって、待望の跡取りが生まれた慶事である。いつもなら星歌を見るなり柳眉を逆立てて小言を並べる都子も、今日ばかりは上機嫌だった。

もっとも、彼女の眼中に「役立たずの嫁」など映っていない。星歌を空気のように無視して、息子に声をかけた。

「ちょっと二階へ行ってくるわね」

「ああ、行ってらっしゃい」

都子の足音が遠ざかると、飛鳥は口元の笑みを収め、星歌の向かいに腰を下ろした。

長い脚を組み、ポケットから銀色のライターを取り出す。

キン、と硬質な音が静かなダイニングに響き、立ち上った紫煙が彼の端正な顔を曇らせた。

星歌は顔も上げず、黙々とお粥を口に運び続ける。

飛鳥は深く煙を吐き出すと、嘆息交じりに手を伸ばし、星歌の頭を子供のようにポンポンと撫でた。

「なあ星歌。お前も、いい加減機嫌を直せよ」

「…………」

「兄貴が死んでまだ半年だぞ。義姉さんは、兄さんの忘れ形見を必死で守り抜いたんだ。今日くらい、わがままはよせ」

飛鳥の声は、どこまでも理知的で、そして残酷なほど穏やかだった。「双子は本当に可愛いぞ。小さくて、儚くて……お前だって見ればきっと気に入る」

まるで駄々をこねる子供をあやすような口調。そして、生まれたばかりの「あちらの子」への無邪気な慈しみ。

星歌の中で、ギリギリと張り詰めていた最後の弦が、弾け飛んだ。

カチャン!星歌は手にした箸をテーブルに叩きつけた。「……そんなに可愛いの?人の子が」

充血した目を上げ、射殺すような視線を夫に向ける。その声には、冷え切った皮肉が満ちていた。

飛鳥は眉間に深い皺を刻み、不愉快そうに声を荒らげる。「人の子とはなんだ。兄貴の血を引く大切な子供だぞ!」

「あら、そう。あなたが父親だと言われても信じちゃうくらい、必死なんですものね」

「星歌!言葉を慎め!」

飛鳥が激昂し、テーブルを叩く。

だが、それより早く星歌は立ち上がっていた。振り上げた手のひらが、風を切る。――パァンッ!!乾いた破裂音が、室内の空気を切り裂いた。

叩かれた頬を押さえ、呆然とする飛鳥。

星歌の瞳に浮かんでいたのは、かつての愛情などかけらもない、底なしの憎悪だった。「離婚しましょう」

誰の子だろうが、知ったことではない。あちらが大切なら、一生その「忘れ形見」の世話でもしていればいい。

この半年間、泥水をすする思いで耐え忍んできた地獄に、今ここで、終止符を打つのだ。

飛鳥の瞳から、すうっと温度が消えた。「今日産まれたのは、翼兄さんの忘れ形見だぞ。兄さんはもういないんだ。それなのに俺に、何もせずただ見ていろと言うのか?」

「……お兄さんの子供だから。それが免罪符?」星歌は乾いた笑い声を漏らす。「だから一線を越えて、自分の子供の『死』さえ見捨ててもいいと言うの?」

――兄の子供。その言葉が、むなしく響く。

医師の言葉が再び脳裏をよぎる。『もう少し早く搬送されていれば、助かったかもしれません』。

もし、彼が振り返ってくれていれば。もし、あの時助けてくれていれば。

失われた命への未練と共に、冷たい医療器具で子宮の中身を根こそぎ掻き出されたあの感触が、今も鮮明な激痛となって下腹部に疼いていた。

星歌は氷のような眼差しで、目の前の男を見据えた。「あちらには、冴島家の一族郎党、二十人以上が詰めかけていたわ。それだけいてまだ足りないの?あなた一人が欠けただけで、世界が終わるとでも?」

痛いところを突かれたのか、飛鳥の呼吸が荒くなる。

彼は数秒の沈黙の後、苛立ちを飲み込むように大きく息を吐いた。そして、星歌の手首を掴み取る。ひどく冷たい手。対照的に、触れた額は微熱を帯びて熱い。

飛鳥は得心がいったように眉を下げた。生理の時、彼女はいつもこうやって体温調節がうまくできなくなるのだ。

「……わかった、もういい。お前が子供を欲しがっているのは知っている。だがな、そういうのは縁だ。無理に作った話で気を引こうとしても、虚しいだけだぞ」

諭すような、呆れたようなその口調。星歌の全身の血が、逆流して沸騰した。

「どういう意味?私が妊娠なんてしていないと、嘘をついているとでも?」

激昂する星歌を見て、飛鳥は「また始まった」とでも言いたげに、彼女を抱き寄せた。背中をポンポンと叩く、子供騙しの手つき。「よしよし、わかった。悪かったよ。お前は妊娠していたんだな。俺が悪かった、それでいいだろ?」

それは、彼がこの半年間繰り返してきた、お決まりの態度だった。

夏蓮のことで星歌が傷つき、怒るたびに、彼はこうして半信半疑のまま、ただその場を収めるためだけに謝罪もどきを口にする。心なんて、これっぽっちも籠もっていない。

けれど今回ばかりは、その「適当」が許される領域を超えていた。本当に失われた小さな命が、二人の間には横たわっているのだから。

その時、階段を降りてくる足音がした。二階から戻ってきた都子だ。彼女は、息子夫婦の間に流れる険悪な空気も、星歌の悲痛な表情も、まるで目に入っていないかのように振る舞う。いや、端から見る気などないのだろう。

「星歌」都子は階段の手すりに手を滑らせながら、さも当たり前のように言い放った。「夏蓮ね、術後で食欲がないそうなんだけど、あなたが作る鯛の潮汁なら飲めそうだって言うのよ。だから明日の朝、市場へ行って支度してちょうだい」

星歌の返事も待たず、都子はとどめを刺すように注文をつける。

「スーパーの切り身じゃ駄目よ。ちゃんと市場の競りまで足を運んで、活きのいい天然の真鯛を一匹仕入れてらっしゃい。養殖物は脂っこくて産後の身体に障るからね」

言い終えると、彼女は息子に向き直った。「さあ飛鳥、行きましょう」

双子の誕生という慶事。母親の精神状態は何よりも優先されるべき重要事項だ。特に、亡き長男と瓜二つの顔を持つ飛鳥がそばにいれば、夏蓮も心安らかでいられるだろう。

飛鳥は逆らうでもなく、抱き寄せていた星歌の体をあっさりと離した。

彼は星歌の頬を軽くつまみ、甘やかすような声色を作る。「今夜は遅くなるから、俺のことは待たずに寝てていいぞ。……いい子だ」

いい子だ、だと?

飛鳥は踵を返し、母親の後を追うように歩き出した。その背中を見送った瞬間、星歌の中で最後の理性が焼け落ちた。

激情が身体を突き動かす。彼女は両手でテーブルの縁を掴むと、渾身の力で一気に持ち上げた。

ガシャァァァンッ!!陶器の砕ける音、金属のぶつかる音が、嵐のように屋敷中を震わせた。料理も食器も、すべてが床に散乱し、無惨な残骸となる。

玄関へ向かっていた二人の足が、ピタリと止まった。恐る恐る振り返る都子と飛鳥。

「星歌、なにするの!」都子は一瞬たじろいだが、すぐに金切り声を上げた。

「なんてことを……!今日は冴島家にとって双子が生まれたおめでたい日なのよ!それなのにこんな暴挙に出て、いったい誰への当てつけ!?」

星歌は、能面のように冷え切った表情で義母を見据えた。瞳の奥には、氷点下の怒りが燃えている。「夏蓮さんが、私の潮汁を飲みたいですって?」

一歩踏み出し、低い声で問い詰める。「お義母様、教えてください。私がいつ、鯛を捌いて汁物にするなんて手の込んだ料理、覚えたんです?」

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第1話
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来るの?来ないの?」彼が口にした『芝居』という言葉が、星歌の奥底で燻っていた残り火に油を注いだ。だが飛鳥は、妻の怒りに気付くどころか、あからさまに苛立ちを滲ませて吐き捨てる。「今日はそれどころじゃないんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない!」全身の血液が、すうっと冷えていくのがわかった。もういい。何も言うことはない。星歌がスマホを耳から離そうとした、その刹那――向こう側の喧騒が漏れ聞こえた。「ご家族の方!帝王切開は無事成功しましたよ。元気な男女の双子ちゃんです!」星歌の視界から、すべての色が消え失せた。彼もまた、この病院にいたのだ。自分の妻の子が今まさに消えようとしている、この時に。彼は義姉の出産に甲斐甲斐しく立ち会い、他人の子の誕生を待ちわびていたなんて。星歌は迷うことなく、通話終了のボタンを強く押し込んだ。その時、コンコン、とドアが鳴り、黒縁眼鏡をかけた女医が病室に入ってきた。バインダーにペンを走らせる乾いた音が、静まり返った部屋にカツカツと響く。医師は事務的な口調で尋ねた。「ご主人はまだですか?オペ室の準備はもう整っています」星歌は湧き上がる怒りを腹の底へ押し込め、震える声で問うた。「……そのサイン、どうしても夫じゃないといけませんか?」「はい?」医師の手がぴたりと止まる。星歌は顔を上げ、凍てつくような眼差しを医師に向けた。「主人は今、義理の姉の出産に付き添うので忙しいんです。ここには来ません。……私が書いてもいいですか?」先ほどの電話から聞こえた『双子』という響きが、棘となって心臓に突き刺さったまま抜けない
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第2話
二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。一触即発の緊張が部屋を満たしていく。星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたのかしら」我が子を失ったばかりの星歌は、いわば傷を負った獣だ。逆立つ神経を逆撫でする者がいれば、誰であろうと容赦なく噛み殺す。「あんた、なんて口を……!」都子が顔を真っ赤にして地団駄を踏む一方で、飛鳥は表情を硬くし、事務的な声を出す。「できないならそう言えばいいだろう。作り方くらい、家の者に教われば済む話だ。そこまで騒ぎ立てることか?」まただ。いつだってそう。この男はすべてを「些細なこと」として片付け、星歌の心を削り取っていく。星歌は言葉を失った。心という器が、今、完全に冷え切って砕け散った。「本当に、冴島家は貧乏くじを引いたわね。自分は何一つ産めないくせに、おめでたい日にこうやって水を差して……」「いい加減にしろ!」都子の毒づく声を、飛鳥の低い怒声が遮った。納得のいかない都子は、さらに声を荒らげる。「飛鳥、あなたがあまりに甘やかすからよ!」吐き捨てるようにして背を向けた義母に向かって、星歌は凛とした、けれど氷点下の声を投げつけた。「冴島夫人、勘違いしないで。私が産めないんじゃないわ。二年前、夏蓮さんの車に撥ねられたせいで、あの子は死んだのよ」何年もの間、理不尽に押し付けられてきた「石女」という汚名を、星歌は真っ向から否定し、その傲慢さを撥ね退けた。『夫人』という他人行儀な呼び方は、彼女がこの家との決別を宣言した証だった。「ひ、酷い……なんて言い草なの。飛鳥、見なさい!これがあなたの選んだ女よ!」都子は卒倒せんばかりに逆上し、捨て台詞を残して嵐のように去っていった。飛鳥の瞳にも、不快感が露骨に浮かんで
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第3話
江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」「そんなに早くから?じゃあ、その時にはもう離婚を決めてたってこと?」「ええ……」星歌は力なく短く答え、疲労を隠しきれない様子でソファに横たわった。翼が亡くなったあの月から、飛鳥はほとんど実家に泊まり込み、自宅に戻ることは稀だった。たまに帰宅しても、夏蓮が情緒不安定になったと本家から電話が入れば、彼は深夜だろうと構わず飛び出していく。そんな歪んだ婚姻関係に耐えられる人間など、この世にいるはずがない。不意に、星歌のスマートフォンが震えた。表示されたのは屋敷の固定電話の番号だ。星歌は躊躇することなく着信を拒否し、そのまま着信拒否リストに放り込んだ。すると今度は、江里子のスマートフォンが鳴り響いた。画面には「飛鳥」の二文字。江里子は電話を拾い上げ、嫌悪感を隠そうともせず皮肉たっぷりに応じた。「あら、お義姉様の付き添いはもういいの?」「……星歌に代われ」受話器越しに、飛鳥の低く冷ややかな声が響く。彼は病院へ着いて早々、牧野から「星歌様がいなくなった」という報告を受けた。急いで屋敷へ引き返すと、玄関脇の装飾タイルには無残な焦げ跡がこびりついていた。牧野の説明によれば、星歌がすべて焼き払ったのだという。クローゼットからは彼女の私物が消え、彼女が彼のために選んだ品々も、跡形もなく消え去っていた。彼女は一体、何を考えているのか。今日のこの苛立ちは、一体いつになったら収まるというのか。江里子は鼻で笑った。その声には、隠そうともしない強烈な皮肉が込められていた。「お義姉様は出産直後で弱り切ってるんでしょう?もっと優しくしてあげなきゃ。今さら星歌を探すなんて、
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第4話
飛鳥の怒りは、もはや沸点に達していた。荒々しくスマートフォンを掴み取り、直通の番号を叩く。コール音が数回鳴ったところで、相手が恐縮したように出た。「はい、お電話ありがとうございます」「江里子と星歌がどこにいるか、今すぐ調べろ」秘書の葛城一真(かつらぎ かずま)が、一瞬虚を突かれたように沈黙した。「……承知いたしました」「早くしろ!」飛鳥の怒声が響く。この大雨の中、あいつは一体何を考えている。自分たちの思い出が詰まった品々をすべて焼き払うなど、これまでのわがままとは次元が違う。どれほど激しい口論になっても、今日のような真似をしたことは一度もなかった。苛立ちの奥底で、飛鳥の胸に正体の知れない不安が、わずかな澱のように広がっていった。一真からの折り返しは早かった。十分も経たないうちに報告が入る。「奥様は、星河地区にあるマンション……星河レジデンスにいらっしゃいます」「あんなところで何をしている」飛鳥は眉をひそめた。あの地区に、星歌の友人が住んでいるという話は聞いたことがない。「江里子様もご一緒のようです」その名前を聞いた瞬間、飛鳥の顔がさらに険しくなった。彼に言わせれば、女に親友など必要ない。友人とつるめば、余計な知恵がついて手に負えなくなるだけだ。実際、星歌が江里子と会っている時に、碌なことが起きた試しがないのだから。飛鳥が星河レジデンスに到着した頃、疲れ果てた星歌はすでに深い眠りについていた。江里子の姿はもうない。星歌が頑なに同行を拒んだため、彼女の身の回りの世話をさせるスタッフを手配しに、一度自宅へ戻ったのだ。ようやく眠りについたばかりの星歌を、執拗なインターホンの音が引きずり戻した。江里子が忘れ物でもしたのだろうか。星歌は重い体を引きずるようにして立ち上がり、意識が朦朧としたままドアを開けた。「また何か忘れたの……?」言いかけた言葉が凍りついた。目の前に立っていたのは、飛鳥だった。一瞬にして、星歌の顔から体温が消える。「……どうやってここを突き止めたの」飛鳥の表情は冷徹そのもので、漆黒のスーツには雨の滴がいくつも光っていた。「俺が調べられないとでも思ったか?」パジャマ姿の星歌を一瞥すると、飛鳥の苛立ちがさらに膨れ上がった。彼は強引に部屋の中を覗き込み、他に誰
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第5話
心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよね?」一歩、彼に詰め寄る。「あれは私のデザインが選ばれなかっただけ?それとも……あんたが私を切り捨てたの?」静寂が、すべてを支配した。窓を叩く雨音と唸る風の音さえ、この場に漂う重苦しい熱気を冷ますことはできない。星歌は、ドアの縁を掴んだままの飛鳥の手に冷ややかな視線を落とした。「……手を離してくれる?」飛鳥の表情が硬く強張る。「……そんな単純な話じゃないんだ。お前が思っているようなことでは……」「何も言わなくていいわ。法廷で裁判官を相手に、好きなだけ釈明すればいいじゃない」「星歌!」飛鳥が声を荒らげる。「離して」「家族なんだぞ。どうしてそこまで波風を立てようとするんだ」家族、という言葉を聞いた瞬間、星歌の心は氷点下まで冷え切った。「家族……ふふっ、よくもそんな言葉が」彼はまともな説明をするつもりがないのだ。あるいは、あまりに後ろめたすぎて説明などできないのか。そんな男がこの土壇場で「家族」という言葉を持ち出すなど、反吐が出るほど厚顔無恥だ。星歌はドアを閉めようとさらに力を込め、飛鳥もまた抗うように指先に力を込める。「彼女を訴えることは許さない。出産直後の体に、そんな追い打ちをかけるような真似……」「……」出産直後の体。その一言が星歌の胸を抉る。私は、夏蓮のせいで二度も子供を失った。それなのに、彼は私の妊娠を「狂言」だと決めつけ、わがままだと切り捨てた。それなのに、今度は加害者である夏蓮を守るために必死になっている。星歌は一度深く目を閉じると、再び足を振り上げ、飛鳥の鳩尾を目がけて鋭く蹴り出し
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