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第6話

作者: 花咲 錦
ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。

視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。

彼女は意識を失っている。

「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。

星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。

駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。

霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。

――ああ、やっぱり。その光景を最後に、星歌の意識は深い闇の底へと沈んでいった。

……

星歌が再び意識を取り戻したのは、翌日の午前中だった。

ベッドの脇には、江里子がつきっきりで座っていた。星歌が目を開けたのに気づくと、安堵のあまり大げさに溜息をつく。

「やっと目が覚めたのね。本当に……人騒がせなお姫様なんだから」

星歌は何か言おうとしたが、唇が渇いて張り付いて動かない。江里子がすぐに水を差し出してくれた。喉を潤すと、江里子は言いづらそうに切り出した。

「さっき、飛鳥が来たわよ。……十分だけ居て、帰ったけど」

「……」

十分、か。

その短すぎる時間を聞いて、星歌の心は冷え切った沼の底へと沈んでいく。「どうせ、夏蓮を訴えるなとか、そんな伝言でしょう?」

「え……聞こえてたの?」江里子は目を見開いた。

図星だった。あの男は、妻が意識を取り戻すのも待たずに、ただ義姉を守るためだけに釘を刺しに来たのだ。この期に及んで、夏蓮の保身が第一なのか。

星歌は点滴の針が刺さった自分の手元を見つめ、力なく笑った。

「ううん、予想がつくだけ。あの人が言いそうなことなんて、手に取るようにわかるから」

この半年間、彼が夏蓮をどう扱ってきたかを見れば明白だ。昨夜、訴訟を口にした時のあの血相を変えた反応。あれが全てだった。

「もうあいつの話はやめましょ。ほら、お粥食べて」

江里子は話題を変えようと努めたが、その声は湿り気を帯びていた。

「昨日の夜、あんなに出血したのに……」

部外者である江里子でさえ、思い出すだけで声を詰まらせる惨状だったのだ。

それなのに飛鳥は、星歌の病状をただの風邪か過労程度にしか思っていないようだった。

義姉の体調にはあれほど神経を尖らせるくせに、自分の妻がなぜ倒れたのか、カルテの一行すら確認しようとしない。

「私が目を覚ますのも待たずに帰ったのね。……ふふ、傑作だわ」

「いいわ、もう飛鳥のことは忘れなさい。離婚、大賛成よ!」

江里子は怒りを露わにした。

「冴島家が本港市きっての名門だろうが何だろうが、知ったことじゃない。今の星歌には一ミリも関係ないわ」

そして、憎々しげに付け加える。

「それにしても、あの女……わざと転んで帝王切開の傷口を開くなんて、正気の沙汰じゃないわ」

昨夜の光景を、江里子は鮮明に覚えていた。

飛鳥が倒れた星歌に駆け寄ろうとした、その絶妙なタイミングでの転倒。

あれが偶然であるはずがない。

男の関心を独占するためなら、自らの肉体を傷つけることさえ厭わない。

その執念深さに、江里子は空恐ろしさすら感じていた。

……

昨晩の大量出血の影響は深刻で、星歌は一週間の入院を余儀なくされていた。

江里子は甲斐甲斐しく粥を食べさせ終えると、子供をあやすように言った。

「着替えを取りに一度戻るわね。いい子にしてるのよ?」

「うん、ありがとう」

江里子が出て行くと、星歌は再び重たい瞼を閉じた。失った血の量があまりに多く、意識はまだ泥のように濁っている。

まどろみかけたその時、病室のドアが開く音と、車輪が床を転がる独特の音が響いた。

目を開けると、入り口に夏蓮がいた。

彼女はわずかに顔を後ろへ向け、合図を送る。

「夏蓮様、外で控えております」

「ええ、お願い」

車椅子を押していた使用人は一礼して退出し、静かにドアを閉めた。

病室には二人きり。

夏蓮は唇の端を歪めて、にんまりと笑った。「顔色が悪いわね。さっき主治医に聞いたわよ、昨日は大出血だったんですって?さぞかし辛いでしょうね」

その声音は相変わらず穏やかだったが、底には隠しきれない優越感と嘲笑が渦巻いていた。

星歌は何も答えず、ただ冷ややかな視線で彼女を射抜く。

その眼差しの鋭さに、夏蓮の笑みはさらに深まった。「ねえ、こんな目に遭っても、まだ飛鳥さんと一緒にいたいと思う?」

星歌はゆっくりと視線を上げ、核心を突いた。「私を突き飛ばしたのは、わざとでしょう?」

もはや確信に近い直感だった。昨日のことも、そして三年前のあの時も。この女は、すべて計算ずくでやったのだ。

夏蓮は組んだ両手を膝の上に置き、笑みをふっと消した。問いには答えず、傲慢な口調で言い放つ。

「飛鳥さんと離婚なさい。条件なら、好きなだけ出してあげるわ」

「……」

目の前にいるのは、冴島家の人々が「理想の嫁」「健気で貞淑な未亡人」と崇める女。

その仮面の下には、これほどまでに醜悪な本性が隠されていたのだ。なんと滑稽な話だろう。

星歌は鼻で笑い、挑発的に言い返した。

「鬱病のふりまでして、ご苦労なことね。彼にその歪んだ恋心を悟られるのが怖いの?」

「そんなことは、あなたに関係ないわ」

夏蓮は冷たく切り捨てた。

孤児院出身の星歌など、彼女にとっては取るに足らない存在なのだろう。だからこそ、こうして二人きりの時には、本性を隠そうともしないのだ。

「昨日のことは百歩譲るとしても……三年前、どうして私を車で跳ねたりしたの?」

星歌の問いに、病室の空気が張り詰めた。

三年前、夏蓮の夫である翼はまだ存命だったはずだ。その頃からすでに、彼女は義弟である飛鳥に歪んだ執着を抱いていたというのか。

夏蓮は視線を落とし、淡々と答えた。

「それも、あなたが知る必要のないことよ」

その一言が、すべてを物語っていた。昨日も、三年前も、彼女は明確な殺意に近い意志を持って星歌を排除しようとしたのだ。

夫がいながら、その弟を我が物にしようと画策していた事実に、星歌は戦慄を覚える。

「星歌、勘違いしないで。あなたみたいな身分の人間が、最初から冴島家に入れるはずがなかったのよ」

「身分」という言葉に、隠しきれない蔑みがこもる。孤児院育ちの星歌など、彼女にとっては踏みつぶしても罪悪感すら湧かない羽虫に等しいのだろう。

その傲慢な態度に対し、星歌は鼻で笑って見せた。

「……飛鳥から聞いていないの?」

「何を?」夏蓮の眉が不審げに動く。

「龍稲峡のプロジェクト……その専有権は、私が取り戻すわ」

『龍稲峡』。その名が出た瞬間、夏蓮の完璧な仮面が凍りついた。だが、彼女はすぐに不敵な笑みを浮かべ、嘲るような声を上げた。

「あなたが取り戻す?どうやって?法律という名の、なまくらな武器でも振り回すつもりかしら」

どこまでも人を食った態度だった。星歌の瞳に、静かな怒りの炎が灯る。

「いい、星歌。あなた程度の女、その気になれば神隠しに遭わせることなんて造作もないのよ」

夏蓮は身を乗り出し、低く、冷酷な声で脅しをかけた。

「無駄な足掻きはやめなさい。私を怒らせても、あなたに良いことなんて一つもないわ。飛鳥と別れて、この街から消えなさい。二度と戻ってこないこと。……これは、私からの最初で最後の温情よ」

言い捨てると、夏蓮は車椅子の向きを変え、出口へと向かった。

その背中に、星歌の冷ややかな声が突き刺さる。

「……これほど厚顔無恥な泥棒猫を見るのは、初めてだわ」

世の「愛人」たちは、せめて日陰に身を潜めるものだ。

だが夏蓮は、有力な実家という後ろ盾を傘に着て、正妻である自分を正面から踏みにじろうとしている。

夏蓮は車椅子を止め、首だけを振り返らせた。その口角は、獲物を狙う獣のように吊り上がっている。

「泥棒猫?心外ね。この本港市で、あなたが冴島家の次男の妻だなんて知っている人間が、いったいどこにいるというの?」

その言葉は、星歌の胸に毒刃のように突き刺さった。

皮肉にも、それは否定しがたい残酷な事実だった。

夏蓮がさらに言葉を重ねようとしたその時、外にいた使用人が声を潜めて告げた。

「星歌様、飛鳥様がいらっしゃいました」

その瞬間、夏蓮の瞳から傲慢な光が消えた。

彼女は瞬時に「慈愛に満ちた義姉」の面を被ると、車椅子をベッドの脇へと寄せた。

病室のドアが開くのと同時に、彼女は星歌の手を優しく包み込む。

「星歌さん、子供が欲しいというお気持ちは痛いほどわかるわ。でも、想像妊娠というのは時に、本物と見紛うような錯覚を体に起こさせてしまうものなのよ」

つい数秒前までの毒々しさが嘘のように、夏蓮の声は澄んでいて温かかった。

「もしあなたが嫌でなければ、これからは私の産んだ子たちを、あなたの側で遊ばせてもいいと思っているの。どうかしら?」

星歌は冷めた目で、この女の豹変ぶりを眺めていた。

「あなたが本当に母親になりたいのなら、あの子たちにあなたのことを『お母さん』と呼ばせてもいいわ」

飛鳥を独占した上で、自分の産んだ子供にまで星歌を「母親」と呼ばせる。それがどれほど残酷な屈辱か、夏蓮は確信犯的にその急所を突いてきたのだ。

星歌は容赦しなかった。

掴まれていた手を乱暴に振り払うと、その勢いのまま右手を振り抜き、夏蓮の頬を激しく打ち据えた。

乾いた音が響き渡り、夏蓮の悲鳴が重なる。

ドアの入り口に姿を現した飛鳥は、その光景をまともに目撃し、一瞬で顔色を変えた。

夏蓮自身、星歌が人前でこれほど露骨に手を上げるとは予想していなかったのだろう。

怒りの炎がその瞳に宿るが、飛鳥の存在を感じて強引にそれを押し殺す。

「星歌さん、なんてことを……私はただ……っ」

「――パチン、パチン!」

言い終える前に、星歌の平手打ちがさらに二度、夏蓮の頬に炸裂した。

渾身の力を込めた一撃に、夏蓮の脳内を激しい耳鳴りが襲う。

「星歌、いい加減にしろ!何を考えているんだ!」

逆上した飛鳥が怒鳴り声を上げた。

夏蓮は腫れ始めた頬を押さえ、涙を溜めた瞳で飛鳥を見上げた。

「飛鳥さん……」

飛鳥は星歌に詰め寄り、再び振り上げられた彼女の手首を荒々しく掴み取った。「貴様、正気か!狂ったのか!」

「狂った?……いいえ。これは、今まであんたたちが私にくれた地獄への、ほんのささやかなご挨拶よ」

星歌は冷たく言い放つと、掴まれていない方の手で、飛鳥の頬を思い切り殴りつけた。

それだけでは飽き足らず、返す刀で怯んだ夏蓮の顔をもう一度ひっぱたく。

病室の空気は、一瞬にして逃げ場のないほどの怒りと殺気に包まれた。

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