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第5話

Author: 花咲 錦
心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。

沈黙が二人の間を支配する。

およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」

「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」

『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。

星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。

「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよね?」

一歩、彼に詰め寄る。「あれは私のデザインが選ばれなかっただけ?それとも……あんたが私を切り捨てたの?」

静寂が、すべてを支配した。

窓を叩く雨音と唸る風の音さえ、この場に漂う重苦しい熱気を冷ますことはできない。

星歌は、ドアの縁を掴んだままの飛鳥の手に冷ややかな視線を落とした。

「……手を離してくれる?」

飛鳥の表情が硬く強張る。

「……そんな単純な話じゃないんだ。お前が思っているようなことでは……」

「何も言わなくていいわ。法廷で裁判官を相手に、好きなだけ釈明すればいいじゃない」

「星歌!」飛鳥が声を荒らげる。

「離して」

「家族なんだぞ。どうしてそこまで波風を立てようとするんだ」

家族、という言葉を聞いた瞬間、星歌の心は氷点下まで冷え切った。

「家族……ふふっ、よくもそんな言葉が」

彼はまともな説明をするつもりがないのだ。あるいは、あまりに後ろめたすぎて説明などできないのか。

そんな男がこの土壇場で「家族」という言葉を持ち出すなど、反吐が出るほど厚顔無恥だ。

星歌はドアを閉めようとさらに力を込め、飛鳥もまた抗うように指先に力を込める。

「彼女を訴えることは許さない。出産直後の体に、そんな追い打ちをかけるような真似……」

「……」

出産直後の体。その一言が星歌の胸を抉る。

私は、夏蓮のせいで二度も子供を失った。それなのに、彼は私の妊娠を「狂言」だと決めつけ、わがままだと切り捨てた。

それなのに、今度は加害者である夏蓮を守るために必死になっている。

星歌は一度深く目を閉じると、再び足を振り上げ、飛鳥の鳩尾を目がけて鋭く蹴り出した。

飛鳥は咄嗟の防御本能でドアから手を離し、身を引く。

その隙を見逃さず、星歌は全力でドアを叩きつけた。凄まじい衝撃音が響き、飛鳥の目の前で扉が固く閉ざされる。

「星歌!開けろ!ちゃんと話し合おう!」

飛鳥が狂ったようにドアを叩く。

だが、星歌は凍てつくような表情のまま、閉ざされたドアに背を預けて言い放った。「私の弁護士と話しなさい」

弁護士――その言葉に、ドアの向こうで飛鳥が息を呑む気配がした。

星歌はそのまま寝室へと向かい、さらにその扉も閉ざした。

重い布団を頭から被り、外の世界から聞こえるすべての音を、意識の底へと追いやった。

執拗に鳴り響いていたインターホンとドアを叩く音は、どれほど続いただろうか。

それがようやく止んだ頃、星歌は深い泥のような眠りの中にいた。術後の体はひどく衰弱しており、意識の輪郭はぼやけ、絶え間なく悪夢が追いかけてくる。

夜更け。誰かに肩を揺すられ、星歌は目を覚ました。

「星歌!星歌、しっかりして!」

体中が凍りつくように冷えたかと思えば、次の瞬間には燃え盛る火の中に放り込まれたような熱さに襲われる。

朦朧とする視界の中で、必死に自分を呼ぶ江里子の顔が見えた。

「……江里子」

「あんた、ひどい熱よ!すぐ病院に行きましょう」

江里子の声は焦りに満びていた。

どうしても胸騒ぎが収まらず、夜通し付き添わせるために実家の家政婦を連れて戻ってきたのが幸いした。

もしこのまま朝まで放置していたら、取り返しのつかないことになっていたはずだ。

江里子のスマートフォンが、バッグの中で何度も震えている。飛鳥からの着信だ。

「しつこいわね、もう……!」

江里子は苛立ちを爆発させながら、星歌を車に乗せてようやく通話ボタンを押した。

「何の用よ!」

「星歌に伝えておけ。夏蓮さんに対してどれほど腹を立てていようが、せめて彼女の産後の肥立ちが終わるまでは、余計な真似はするなとな」

受話器越しに放たれた言葉に、江里子の血管が怒りで逆立った。「飛鳥、あんた何様なのよ!」

スピーカーから漏れ聞こえてくる飛鳥の傲慢な声に、星歌の心はさらに冷たく凍りついていく。

江里子は、隣でぐったりとしている親友の姿を盗み見た。

あまりの理不尽さに、怒りが爆発する。「夏蓮の体の心配ばかりして……自分の妻が流産したばかりだって……!」

言い終える前に、手元からふっと感覚が消えた。

振り返ると、星歌が江里子の手からスマートフォンを奪い取り、迷うことなく通話を切っていた。

「ちょっと、どうしたの?最後まで言わせてよ、あいつを罵倒してやらなきゃ気が済まないわ!」

江里子は本気で憤っていた。

傍で見守っているだけの自分でさえ、狂いそうなほどの怒りを感じているのだ。この数年間、星歌がどれほどの苦痛に耐えてきたかと思うと、胸が締め付けられる。

「無駄よ」

星歌が、枯れた声で静かに遮った。「彼は最初から信じていない。何を言っても、ただの口喧嘩で終わるわ」

「……」

江里子は言葉を失った。

確かにその通りだった。この半年間、星歌が夏蓮のことでどれほど傷つき、怒りをぶつけても、飛鳥は省みるどころか、ますます増長していった。ついには、妻を放置して義姉の出産に立ち会うまでになったのだ。

考えれば考えるほど、反吐が出る。

星歌は細めた瞳に冷ややかな光を宿し、静かに告げた。

「彼にはもう、私が流産したことは言わないで」

「どうしてよ?」

江里子が解せないというように聞き返した。

数年間にわたる結婚生活。その果てに、夫は妻の妊娠さえ「狂言」だと決めつけた。もはや、夫婦としての信頼など欠片も残っていない。今さら何を求めたところで無意味だった。

「どうせ別れるんだもの。最後くらいは綺麗に、未練なく終わらせたいの」

飛鳥からの謝罪も、後悔も、ましてや同情など欠片も欲しくない。

中途半端な罪悪感は、かえって執着という名の足枷になるだけだ。

その真意を悟った江里子の顔が、悲痛に歪む。「……あの最低男」

やりきれない思いを吐き捨て、江里子は弱りきった星歌の様子を見て口を閉じた。

「わかった。今はまず、病院へ行きましょう」

かつてはあんなに深く愛し合っていた二人が、愛はおろか、憎しみすら残したくないという地点まで辿り着いてしまった。その現実に、江里子の胸は締め付けられるようだった。

深夜の病院に、江里子に支えられた星歌が到着した。

だが、そこには残酷なまでの「最悪の再会」が待っていた。

広い廊下の向こうから、飛鳥が足早に歩いてくる。

その腕には生まれたばかりの双子のうち一人を大切そうに抱き、傍らの看護師がもう一人の赤ん坊を抱いて付き添っている。背後には、数人の取り巻きが慌ただしく続いていた。

その後ろを、車椅子に乗った夏蓮が追っていた。

「飛鳥さん、お願い……この子たちに、もしものことがあったら……」夏蓮は震える手で目元を拭い、涙をこぼしている。

「大丈夫だ。心配いらない、俺がついている」

飛鳥の、甘く、包み込むような声音。

これほどまでに真心のこもった優しい声を、星歌はこの半年間、一度も聞いたことがなかった。自分に向けられていたのは、いつもその場しのぎの、義務感だけが透けて見える空疎な言葉。

けれど今は違う。彼は、心の底から夏蓮を慈しみ、安らぎを与えようとしていた。

その残酷な対比が、星歌の耳に、あまりにも鮮明に突き刺さった。

二人がすれ違う、その瞬間だった。

飛鳥の視線が星歌を捉えた。彼はふと足を止め、何かを言いかけるように唇を微かに動かす。

だが、彼が言葉を発するよりも早く、夏蓮が激しく泣き崩れた。「飛鳥さん……この子たちに何かあったら、私、生きていけないわ!」

その悲鳴のような泣き声に引き戻されるように、飛鳥は星歌の青ざめた顔から視線を外した。そして一度も振り返ることなく、大股で廊下の先へと消えていく。

夏蓮を乗せた車椅子と取り巻きたちも、嵐のようにその後を追っていった。

星歌本人の冷淡さとは裏腹に、傍らにいた江里子は怒りで全身を震わせていた。

「待ちなさいよ、飛鳥!この人でなし……っ!……え?星歌?星歌!」

支えていたはずの身体が、ずるりと床へ崩れ落ちる。江里子は慌ててその細い身体を抱きしめた。

エレベーターホールに差し掛かっていた飛鳥は、背後から響いた江里子の絶叫に、反射的に振り返った。

「医者!誰か来て、早く!」

親友を抱きかかえ、なりふり構わず叫ぶ江里子の姿。

その光景を目にした瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。

彼は無意識のうちに腕の中の赤ん坊を側にいた者に押し付け、星歌のもとへ駆け寄ろうと足を踏み出す。

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