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第7話

Author: 花咲 錦
忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。

咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。

「星歌……!」

江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。

飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。

「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。

「離しなさいよ!」

江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。

「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」

その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに一段と強まる。

「……貴様、どこまで理不尽なんだ」

吐き捨てるように言うと、彼は星歌の手を乱暴に振り払った。

そのまま夏蓮の車椅子のハンドルを掴み、病室を出ようとする。

背を向け、飛鳥に押されていく夏蓮が、すれ違いざまに星歌へ勝ち誇ったような、蔑みの視線を送った。

二人がドアに差し掛かったその時、ベッドに座る星歌の冷ややかな声が背中に突き刺さる。

「覚えておきなさい。今日の平手打ちなんて、ほんの序の口よ」

飛鳥の足が止まり、夏蓮の身体が強張った。

子供の命を奪われた恨みも、自分の手柄を横取りされた『龍稲峡』の件も、何一つ許すつもりはない――

星歌の無言の宣告が、重く響く。

飛鳥が何かを言い返そうと振り返った瞬間、車椅子の夏蓮が呻き声を上げた。

「飛鳥さん……お腹が、急に痛くなって……お医者様を、早く……っ」

星歌に浴びせるはずだった言葉を飲み込み、飛鳥は苦しげに唇を動かしただけで、そのまま夏蓮を連れて廊下の向こうへと去って行った。

二人の姿が見えなくなると、江里子が星歌の側に駆け寄った。

「……あの女、一体何をしに来たのよ?どの面下げてあんたの前に現れたっていうの」

江里子は憤りながらも、ふと星歌の手元に目をやった。

「それにしても……あいつの顔、すごかったわね。あんたがやったの?」

夏蓮の両頬は、はっきりと形がわかるほど赤く腫れ上がっていた。

「悲劇のヒロインを演じたがっていたから、そのお手伝いをしてあげただけよ」

星歌の言葉に、江里子は絶句した。

怒りと虚しさが入り混じったような親友の表情に、江里子の不安は募る。

「あの傲慢な彼女の母親が知ったら、ただじゃ済まないわよ……」

星歌はサイドテーブルの水を二口ほど含んだが、下腹部に走った鈍い痛みに、思わず眉をひそめた。

「どうしたの?」

江里子がその異変に気づき、身を乗り出す。

「……少し、お腹が痛むわ」

「お医者様を呼んでくる!あれほど安静にしてろって言われたのに、あんな女相手に熱くなってどうするのよ。結局、あんたの体に障るだけじゃない」

江里子は小言を言いながらも、慌ててナースコールを押した。

診察に訪れた医師は一通り状態を確認すると、「今はとにかく感情を昂ぶらせないことが第一です。心身ともに安定させてください」と念を押して去っていった。

病室に静寂が戻ると、星歌は江里子に静かな声で問いかけた。

「今、この街の人たちはみんな言っているんでしょう?飛鳥が夏蓮を『引き取る』つもりだって」

その噂は、翼が亡くなってからわずか二ヶ月後には囁かれ始めていた。

当時はまだ喪中であったにもかかわらず、夏蓮はことあるごとに飛鳥の隣を陣取って、公の場に姿を現していたのだから。

「引き取るなんて生易しいものじゃないわよ。

翼さんの死自体、飛鳥と夏蓮が仕組んだんじゃないかって噂まで出ているんだから」

江里子は呆れたように肩をすくめた。

「二人はとっくにデキていて、あの子たちだって本当は飛鳥の種なんじゃないかって……

冴島家の面目に関わるようなスキャンダルなのに、放置しているのが信じられないわ。

まあ、夏蓮の母親・陽子が大富豪だから、誰も逆らえないんでしょうけど」

江里子は星歌の手を握り、心配そうに顔を覗き込んだ。

「ねえ、星歌。悔しいのはわかるけど、無茶だけはしないで。

あの陽子は本物の狂犬よ。

今日あんなに夏蓮を打ち据えたんだから、絶対に黙っていないわ」

星歌の瞳の奥で、冷徹な光が揺らめいた。

「望むところよ。向こうが引かないなら好都合。私も、このまま終わらせるつもりなんてないから」

その凍てつくような眼差しに、江里子は思わず息を呑んだ。

「星歌……あんた、まさか」

「……パジャマを取りに行ってくれるんでしょう?お願い、行ってきて」

「でも……」

「大丈夫、無理はしないわ」

江里子は不安を拭いきれない様子だったが、促されるままバスルームから自分のスマートフォンを回収し、病室を後にした。

昨夜はあまりに急で、入院が長引く準備などしていなかったのだ。

パタン、とドアが閉まり、完全な静寂が訪れる。

星歌は枕元に置かれたスマートフォンを手に取り、ある番号をタップした。

数回の呼び出し音の後、聞き慣れた穏やかな声が響いた。

「――星ちゃん」

その響きに、凍りついていた彼女の心が、わずかに溶かされるような感覚を覚える。

「お兄ちゃん。……私、今、病院にいるの」

……

飛鳥が夏蓮を病室まで送り届けたすぐ後だった。

都子が、本家から持参した鯛の潮汁を手に部屋へ入ってきた。彼女は慈しむような微笑みを浮かべながら、夏蓮に歩み寄る。

「夏蓮、気分はどうかしら。今朝早くに牧野に市場まで行かせて、活きのいい天然物を仕入れさせたのよ。このお出汁なら、食欲がなくても……」

言いかけた都子の言葉が、不意に止まった。

夏蓮の頬に刻まれた、生々しい指の跡が目に入ったからだ。

「まあ!その顔、一体どうしたの?」

都子は慌てて保温容器を置くと、夏蓮の側に駆け寄り、その顔を恐る恐る覗き込んだ。

「ひどい……こんなに腫れて。何があったっていうの?」

左右の頬に焼き付いた指の跡は、隠しようもないほど赤黒く浮き上がっている。

夏蓮は腫れた顔をそっと手で覆い、鼻をすすりながら、救いを求めるように飛鳥へ視線を送った。彼女が何も語らず、ただ飛鳥を見つめたその仕草だけで、都子はすべてを察した。

都子は弾かれたように立ち上がり、飛鳥を激しい剣幕で睨みつける。

「星歌ね?星歌がやったんでしょう!」

飛鳥が沈黙を貫くのを見て、都子の怒りはさらに燃え上がった。「あの子、なんて恐ろしいことを……夏蓮は産後の肥立ちも終わっていない体なのよ?刃物を向けるのも同然じゃない。正気とは思えないわ!」

もともと星歌を疎ましく思っていた都子にとって、それは決定的な火種となった。

「お義母様、星歌さんを責めないでください。悪いのは私なんです、私が……」

夏蓮が殊勝に口を挟むが、都子は聞く耳を持たなかった。

怒りに震える手でスマートフォンを取り出すと、そのまま星歌の番号を叩きつける。

だが、呼び出し音が一度だけ短く鳴った直後、冷ややかな機械音声が耳に飛び込んできた。【おかけになった電話番号は、現在お繋ぎできません】

繋がらない?

さっきまで通じていたはずだ。着信拒否をされたのだと気づくのに、時間はかからなかった。

都子は怒りのあまり、胸のあたりを掻きむしった。「あの女、私までブロックしたっていうの!?冴島家の嫁としての立場を、自分から捨てたようね」

「お義母様、やめてください。私が悪いんです。星歌さんがこの二年間、跡取りに恵まれなくて悩んでいるのは分かっていたのに……こんな時に顔を出したりして」

「何ですって?あなたがわざわざお見舞いに行ったというの?出産したばかりで安静にしなきゃいけないのはあなたの方よ。どうして、あんな女のところへ!」

夏蓮はさらに深くうつむき、今にも消え入りそうな声で言葉を濁した。

「……私は、ただ……」

その健気な姿に、都子はめまいを覚えた。「あなたは親切心で行ったのに、あの女は暴力で返したというの?自分が産めないからって、八つ当たりもいい加減になさい。そもそもあの子の体が欠陥品なのは……」

「――いい加減にしろ」

飛鳥の低く、地を這うような声が響いた。

その場を支配する圧倒的な威圧感に、激昂していた都子も思わず言葉を飲み込む。冷徹な光を宿した飛鳥の瞳に見据えられ、都子は喉まで出かかった暴言を無理やり飲み込んだ。

自分の産んだ息子ではあるが、飛鳥が真に激昂した時の恐ろしさを、都子は身を持って知っている。

それでも、腫れ上がった夏蓮の顔を見ると、収まりがつかなかった。

「……でも、あんな風に夏蓮を打つなんて、絶対に間違っているわ。あなた、ちゃんと教育してちょうだい」

飛鳥は母を一瞥した。その眼差しに含まれた鋭い警告に、都子は今度こそ完全に口を閉ざした。

彼はそのまま、冷たい殺気を纏ったまま病室を後にした。

「お義母様……」

夏蓮が、縋るような声を出す。

都子は胸が張り裂けんばかりに夏蓮を抱き寄せた。「分かっているわ、可哀想に。大丈夫よ、私が必ず落とし前をつけさせてやるから」

所詮は孤児院育ちの、教養の欠片もない女。

後ろ盾も、頼れる親もいない分際で、これほどまで増長するとは。

このまま済ませるつもりなど、毛頭なかった。

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