INICIAR SESIÓN身を屈めて医乃の顔を覗き込む紀伊(きい)の、細く絞られた目が、額から眉へ、眉から瞳へと降りてきた。
扇の先に支えられた顎が僅かでも震えれば、終いであった。
「畏れながら中宮の君、小官(しょうかん)が見惚れておりましたのは、結び紐にございます」
「結び紐?」
「翡翠の蝶を編んだ結びがほどけておりまする。貴き品が落ちて砕けやせぬかと案じるあまり、無礼を働きましてございます」
花が扇を引き、慌しく持ち上げて検めた掛け香は、まことに結びの一つが緩く解けかけていた。
紀伊の視線も、医乃の顔を離れ、花の指先へ移った。
母が編んだ五色の結びは、編み方を知る者でなければ結び直せぬものであった。
「……紀伊、これを結び直せ」
「は、中宮の君」
紀伊が結びを手に取り、あちこち回してみたが、結びは結ばれるどころか益々解けていった。
医乃は頭を垂れたまま、結びの一つに足を鳴らす花を横目で見た。
父が側室(そくしつ)に得た娘。
5歳でこの屋敷の大門を越えた日、人見知りして柱の陰に泣いていた子の手を、先に取ってやったのは医乃であった。
これからは、わたくしがそなたの姉じゃ。
こわい事があれば、姉のところにおいで。
母はその子をわが子のごとく胸に抱いた。
その手を取ってやった対価が、これであった。
「もうよい、捨て置け!」
花が紀伊の手を払った。
「それから、この屍は足を滑らせたゆえ、その体(てい)で処理せよ。朝から縁起でもない」
「中宮の君、この女房は足を滑らせたのではございませぬ」
医乃は純の手首を持ち上げて示した。
「両の手首に結縛(けっぱく)の痕があり、口中が裂けておりまする。何者かが手を縛り、無理に毒を飲ませた後に水に——」
「黙りゃれ!」
花の投げつけた扇が医乃の額を打ち、土の上に転がった。
扇の骨先が掠った跡から血の筋が一本滲んだが、医乃は拭わなんだ。
「御前(ごぜん)付きと申して、目に入るものがないと申すか! 帝が井戸端の屍を一つ検めよと申されたのじゃ、宮中の屍を勝手に捏ね回せよとではない!」
「変死の屍は検屍(けんし)を経ずに葬れぬが、国の法(のり)にございます」
医乃の声が裏庭の隅まで透きとおった。
「中宮の君が足を滑らせたと仰せでも、検屍官が記さねば、この女房は墓に入れませぬ」
花の口が開き、音もなく閉じた。
扇を失った空(から)の手が、宙で拳を握り、開いた。
「ちゅ、中宮の君! 帝のご下命を伝え奉りまする!」
裏庭の口から、伏見(ふしみ)が腰を押さえつつ息を切らして入ってきた。
「今日より、宮中に生ずる変死はすべて御前(ごぜん)女医が検め、その検屍書は帝に直ちに上げよ、との仰せにございます」
「……いつじゃ」
「たった今、下されたばかりでございます。臣めは走って参りましたゆえ、息が少しばかり切れておりますが」
伏見が額に血を留めた医乃と、床に落ちた扇とを順に見てから、目をぱちくりさせた。
「……これは、無駄骨を折った体にござりますな」
ついで花に向かって恭しく腰を折ったが、恭しいがゆえに憎らしい礼であった。
「こ、この……!」
花の声は末を結ばなんだ。
「中宮の君が面目を……」
「口を慎めよ!」
花が床の扇も拾わぬまま裳を翻して裏庭を出て、紀伊が医乃を一度睨み、その後を追った。
遠ざかる花の腰で、解けた結びが歩ごとにぶら下がっていた。
母の掛け香は、今日を持ち堪えずにどこぞに落ちるかもしれなんだ。
それでも良かった。
妹の腰にしかと結わえられているより、路傍に落ちる方が、まだましであった。
伏見が腰を叩きつつ医乃の傍にやってきた。
「帝は朝餉(あさげ)を下げて、まずその御命(ぎょめい)を下されたのじゃ。御厨子所の女房が死んだとの知らせを聞かれるや」
「……は」
「何事であろうのう。この年寄りの腰が、この数日、保(も)ちませぬわ」
伏見が舌打ちして踵を返した。
朝餉を下げるほど急を要する事が、御厨子所の女房一人の死であったはずがないが、医乃はその思考を終いまで追わなんだ。
「純はこの御厨子所に、どれほどおったか」
医乃の問いに、蓮が涙を拭いながら傍の女房らを見回した。
年嵩の女房が一人、注意深く口を開いた。
「ここに来て2年にございますね。その前は……」
「その前は?」
「中宮御所の御厨子所におりました。廃后の君のご在位中に」
年嵩の女房が辺りを窺い、声を落とす。
「されどここ数月、10日に一度は薬種のお使いで出宮の牌(ふだ)を受けて出、翌日の夕暮れにしか戻りませなんだ。履や足袋に泥をしかと付けてでございます。誰がその牌を下したのか、誰も存じませぬ」
「何処へ参るとは申しておられたか」
「いえ。問えば笑うばかりで。良きことをしに参ると」
福は中宮御所の薬房。
純は中宮御所の御厨子所。
あの秋、中宮御所で薬を煎じ、飯を炊いていた手が、一つずつ冷えていた。
『あの日そこにおった者はみな、気を付けよと』
福の遺した言葉が、ようやく重みを帯びて胸に下りた。
医乃は純の左手の爪の下から、皮片を注意深く掻き出し、脂紙(あぶらがみ)に包んで袖の奥に納めた。
この宮で証(あかし)が一夜を越すのは稀であった。
ついで持ち上げた純の右手は、拳が固く握りしめられたまま硬直していた。
死の間際に握りしめた手は、容易には開かぬ。
「蓮、温かい水を一盃(ひとさかずき)」
蓮が汲んできた水に木綿を浸し、固い拳を包んで解いていった。
盃を差し出す蓮の手が震えるたび、落ちた涙が盃の水に小さな輪を描いた。
「純ねえさま、手を開いてくださいな。師匠がみな聞き届けてくださいます」
親指が解け、人差し指が解け、ついに掌が開いた。
その中から、水に濡れてふやけた紙片が一枚出てきた。
息を殺して掌の上に広げた紙には、墨が滲んで半ば消えた仮名が数文字、残っていた。
福の書付と同じく、文字を辛うじて覚えた者が押しつけた筆跡であった。
「あの日……薬を……」
震える声で読み下した蓮が止まった。
紙はそこで千切れていた。
千切れ目を指先でなぞると、滲んだ墨は裂け目の際まで染み込んでいた。
水に沈む前に、誰かが純の手から無理に引き剝がしたのである。
その後の文字は、純が終いまで握りきれなかった、もう半分にあった。
そしてその半分はいま、純を殺した者の手の中にあった。
医乃は額より手を離さぬまま、もう一方の手で傘の柄を握った。彼の手のちょうど上であった。「何時(いつ)より、熱(ねつ)がおありなさいました」「知らぬ」「お知りにならぬのではなく、お申しにならぬのでございます」柄を彼の方へ押して立て直そうとすれど、柄は微動だにしなかった。「そなたの懐の鉢が濡れるよりましじゃ」「鉢は、油紙に包んでございます」「ならば、そなたが濡れるよりましじゃ」医乃は柄を離さなかった。彼もまた、離さなかった。終いに唐傘はふたりのちょうど中ほどにまっすぐ立ち、宮の塀に至るまで、ふたりは並んで片の肩ずつ濡れた。脇門の敷居を越えつつ振り返った彼の横顔の上、雨か汗か知れぬものが、こめかみを伝うて流れた。唇の色が、闇の内にても白かった。***夜明け前より女医所の部屋の戸を叩いた伏見は、烏帽子の紐も結んでおらぬ顔をしていた。「主上が火の塊にあられまする。典薬(てんやく)を呼ばんとしたれば退けなさり、薬師寮の者は敷居も越えさせるなと仰せられ……。女医のみ参れとの仰せにございます」寝所の褥(しとね)の上で、煌仁は衾(ふすま)を首まで引き上げたまま、臥していた。昨夜塀の下にて取った額は、その間に、さらに燃え上がっていた。それなのに、彼は衾の内にて肩を縮めて震えていた。乾いた咳が破(は)ぜて脇を揺らすたび、彼の眉間が、刃にふたたび斬られる者のごとく狭まった。子の刻、雨中に
医乃が口元に耳をさらに近づけてみても、小珠からは息がゆき交うのみで、次の言葉は出なかった。袖口を掴んでいた指がほどけ、瞼がふたたび下りた。再び取った首筋には、先刻よりも確かに指先を押し上げる脈があった。眠りに落ちたのであった。顔を上げれば、広縁の上の煌仁が彼女を見ていた。何も問わぬ顔で、ただ彼女の口が開くのを待つ眼であった。医乃はその眼に短く頭を垂れ、薦ごと小珠を担架に移せと言いつけた。日の落つる頃、女医所の検屍の間の板の上でふたたび眼を開いた小珠に、蓮が温めた重湯を匙で含ませた。戸の外は、堀川が残していった下人がふたり、守っていた。「夜ごとに灰を運んでおりました」小珠は夜着の襟を顎の下まで引き上げ、震えていた。「別堂(べつどう)の裏の焚き口より出る灰を、桶に入れて池の水口(みなくち)に流しておりました。灰より、鉄の生臭が立っておりました。半年ほど経ちましたら、歯茎より血が出て、歯が揺らぎ……」「水銀、煉丹という言葉は、どこで聞いた」「別堂の戸の隙より……。灰を運び出せと申された御方が、今宵は煉丹がまだ足らぬ、水銀が未だ澄まぬと、独り言を仰せでした。わたくしは、それが何のことやら知りもせなんだ」「その御方は、誰じゃ」小珠の唇が、白く閉ざされた。瞳が戸の方へひとたび彷徨い、そのまま夜着の内へ逃げ込んだ。それ以上は問わず、医乃は小珠の爪の下より掻き出した灰色の澱を、銭ひとつに擦りつけた。黄なる銅の光が、擦られた箇所だけ、銀のごとく白く照った。蓮が口を大きく開いた。&
庭に満ちて平伏した女房たちの間から、悲鳴が破れた。「め、眼を……!」「骸が眼を開いた!」「物の怪じゃ、物の怪!」女房ひとりが後ずさって尻餅を突く間も、医乃は小珠の顔より眼を離さなかった。開いた二つの瞳は、何も見ぬまま、虚空に懸かっていた。女房が鏡を捧げて駆け出てくると、医乃は鏡を受け、小珠の鼻の下に近く寄せた。庭が、息をひそめた。磨き上げた銅の鏡の真ん中に、爪ほどの霧が結び、そして消えた。また、結んだ。「息をしておりまする」医乃は鏡を持ち上げ、広縁の上へ示した。「息は未だ、この身を去ってございませぬ」皇太后が膝の上の手を袖の内に納めた。南原 道玄の口の端に懸かった笑みが、初めて片側だけに残った。「御厨子所(みずしどころ)へ人を遣わしてくださりませ。甘草と緑豆をひと掴みずつ、水二杯を一杯に濃く煎じまするよう。それと、生温い塩水をひと鉢」煌仁が首を巡らすこともせずに伏見へ合図をすると、老蔵人は腰を押さえたまま回廊の方へ駆け出した。濡らした無名で小珠の顔を拭ってやると、白粉(おしろい)の落ちた跡の下から、熱の差したごとき紅(あか)い頬が現れた。唇を拭うと、無名の端に青き色が移った。蓼藍(たであい)の染料であった。誰かが生きた顔の上に、死者の顔の色を塗り置いていたのである。開いた口の内の舌は、ひからびて裂け、鼻を近づけると、口の内より甘ったるく生臭い草の匂いが昇った。「曼陀羅華(まん
医乃は敷居の向こうで、歩みを止めなかった。止めれば振り向くこととなり、振り向けば、眼を見られることとなる。背後から、花の笑い声が響いた。「母上もさように見えまするか。わらわも初めて見し折、誰かに似ておると申しました。骸の脇にて首をまっすぐ立てる眼にございます」「誰に似ておった」「……亡き姉上にございます」「中宮は、未だ姉の思いを捨てぬのう」皇太后の笑いが、低く続いた。閉まる戸が、その笑いを半ばで断った。女院御所の塀を出るまで、医乃は後を振り返らなかった。池風が入って却って涼しい広縁であったはずが、小袖の内は、しっとりと湿っていた。未の刻の茶の席にて、医乃は膏を替える手を止めた。魚市場の路地で開(あ)いた箇所のひと端が、糸の結び目の間からなお新しい血を出していた。「糸を抜く日が、3日は遅うなりました」「路地に参った値じゃ」「どなたが、ついて参れと申し上げました」煌仁が茶碗を取り上げては下ろした。「ひとりで参るなと申したのじゃ。朕を伴わず参るな、とは申さなんだ。此度より、さよう改めて伝えよう」返事もせず、巻き直す無名の最後の結び目を、わざと固く締めると、頭上で呻き声が洩れた。それでも顔は上げなかった。「女院御所にて、何を下されたか」「薬菓を下されましたが、口に入れてはおりませぬ。池には鯉がまたひとつ浮き、石の縁ごとに灰色の澱が乾きついてございました」&
医乃は盆の上に突いた手を、引くことができなかった。女院御所。この御方の嫡母(ちゃくぼ)の住まう御殿。中宮御所に住まった頃、朝ごとに文安(もんあん)に参上すると、いつも笑いながら手を取ってくださる御方であった。「……皇太后さまが、何故に」「妃候補(ひこうほ)の間別当(かんべっとう)は、女院御所の主宰じゃ」煌仁が焦げた草案を指先で押しやった。「中宮の候補の単子(たんし)が、事の3日前に蔵人所に入ったという。その単子を受け取った処も、女院御所であった。その後、女院御所は中宮の後ろ盾とならった」女院御所の池の鯉が腹を返すという蓮の饒舌が、唐突に耳をかすめた。「この件は、朕が引き受ける」草案を折って入れた文机の抽斗は、検屍書と白い簪の納まる、あの抽斗であった。「そなたは当分の間、女院御所のほうには足を向けるな」「……は、主上」答え終わるより前に、戸口の外が騒がしくなった。伏見が戸を開けると、紫の袿(うちぎ)を着た老いた女房がひとり、敷居の外に平伏していた。「女院御所の至密(しみつ)にございます。皇太后さまが、明朝の文安の席に、御前の女医も同席を、と仰せにございます。中宮さまが、尊き女医がおりますと奏上なされたとのこと」清涼殿のうちが凍てつくなか、煌仁の顎の筋がひとたび浮かび、沈んだ。皇太后の召しは、帝でも遮ることができぬ。遮れば、遮った由を、皇太后が先に問う。女房が退がると、煌仁が低く口を開いた。
医乃が紙から目を離さぬまま呼ぶと、無名の端を結んでいた蓮が顔を上げた。「灯明をもうひとつ運んでおくれ。今宵は、そなたの部屋にて眠ってくるがよい」「また、おひとりになさるおつもりですか」「骸の脇に居るのと同じじゃ。この紙にも、言い残したことがある」蓮は口を尖らせながらも、灯明をひとつ余分に点してから退がった。二つの灯明を紙の両脇に置くと、交わり合う光が紙の上の影をきれいに拭い去った。骸の前に座する折のように、彼女はひと息を整え、手を膝に置いた。まず、色味を見た。廃庶人 朝井の氏、その冒頭の画の先は、乾きながら青みを帯びていた。松を焚いて受けた煤で拵えた松煙(しょうえん)の墨が、そうなる。ところが罪目の行まで降りてくると、画の先が温かな光に褪せていた。油を焚いて受けた煤で拵えた墨が乾けば、必ずかく、茶に赤みの差す色となる。紙を斜めに傾ければ、冒頭の行は光を吸い込むようにしっとりと沈んだが、罪目の行だけ、漆を塗ったごとく照っていた。油煙に膠(にかわ)をたっぷり溶かさねば出ぬ艶であった。次に、折り目であった。蔵人所に入った草案は、半折にされ束に綴じられる。その縦の筋が通る冒頭の行の「廃」の字の真ん中は、墨が筋を追って細く裂けていた。先に乾いた墨の上を紙が折れ、墨の皮がはじけた跡であった。同じ筋が、罪目の行の「害」の字をも通っていた。ところが「害」の字の墨は、裂けるどころか、折れた谷を伝ってもったりと溜まり、ぷっくりと脹(ふく)らんでいた。すでに谷の付いた紙の上に筆を下ろしてこそ、墨はかく溜まるのである。冒頭の