Compartilhar

3話. 御前付き

Autor: 6jay
last update Data de publicação: 2026-11-05 18:06:25

「し、主上(しゅじょう)!」

裳を持ち上げて真っ先に伏したのは花で、井戸端の頭々は波のごとく低く下りた。

その波に身を沈めると、土を押さえた手の下で、己の脈がどくどくと鳴る。

『面(おもて)を上げるな』

『声も変えよ』

『2年ぞ。この肌も損なわれた。見破られる道理はない』

風に乗って、沈香(じんこう)が流れてきた。

東宮の頃からこの君が用いていた香である。

夜もすがら書を読み、彼女の膝を枕に眠った夜も、茶碗の砕けたあの夜、彼女を見下ろしていたその日も、この御方からは同じ香がした。

黒き沓(くつ)が目の前で止まった。

「朕(ちん)が名を問うておる」

「……医乃にございます」

喉を削り取られて掠(かす)れた声の上に、短い沈黙が落ちた。

「医乃」

煌仁(こうじん)がその名を口のなかで転がす。

「面を上げよ」

上げねば不敬、上げれば終わりやもしれぬ。

医乃は火傷の爛れた左の頬からまず見せて、顔を上げた。

ふたたび見るこの君は、少し痩せていた。

濃くなった目の下の隈のもとで、頬骨がくぼんでいる。

その目が、彼女の顔の上で止まる。

一息。

二息。

煌仁の表情は微塵も動かぬ。

『……知らぬのじゃ』

強ばっていた肩がほどけるのに、どうしてか、みぞおちの奥が冷えた。

見破れぬほどに、この御方にとって、わたくしは何者でもなかったのだろうか。

ゆえに彼女は見なかった。

袍(ほう)の袖のなかで、帝のこぶしが白く握り込まれていたことを。

「何を見て毒殺と申した」

「口元の強ばり、舌の爛れ、爪の下の血の痕——いずれも附子中毒の兆しにございます。捨て水の口にて煎じ薬の滓を見つけ、そのなかに附子の根がございました」

「銀の簪は」

「銀の簪は、砒霜しか知りませぬ、主上」

煌仁の瞼がゆっくり落ち、また上がった。

医乃が己の指先に目を落としたあいだに、その目は彼女の結い上げた髷(まげ)へ上った。

木の簪ひとつだけ挿さったその場所でひと呼吸とどまり、ふたたび下りてくる。

「その根、こちらへ」

泥に汚れた手を開くと、煌仁がみずから身を屈め、附子の欠片を摘み上げた。

手の平をかすめた指の先は、氷を握って放したあとのように冷たかった。

収めてゆくその右の手の甲を、ぬらぬらと凝った火傷の痕が覆っていた。

『……あれは』

2年前にはなかった痕であった。

弓を引くたび彼女が手ずから紫雲膏(しうんこう)を塗ってやった手の甲に、焼け爛れが手首の内まで這っている。

帝の手が火に焼かれる謂(いわ)れが、何にあるというのか。

何事もない顔で袖を下ろし甲を覆った煌仁が、根の欠片を日の光に透かして見る。

「断面が白い」

「……はい。干して日の浅い附子は、中が半ば透(す)けてございます。市中では求めがたく、薬師寮の薬種庫の上物にございます」

「薬師寮の毒が、女房の煎じ薬に入っておったか」

低い声に肩をびくりとさせた藤堂が、伏せた額をさらに深く下げた。

「主上、臣は30年、薬師寮に身を置いてまいりましたが、下っ端の女医が亡骸の前で薬種を舌に当てるなど、見たこともござりませぬ。かような無作法な検屍を、何として信じられましょう」

「30年、銀の簪のみを恃(たの)んできた典薬の検屍は、信じられるとな?」

ぽかんと開いたまま固まった藤堂の口元を、額の汗が鼻筋を伝って、土の上に落ちた。

身を起こした花が、帝の袖の先を取った。

「主上、わらわが病死にて片づけるようすでに申し渡してございます。あの女医は山郷から上がった卑しき者ゆえ、宮の作法を解さず、わらわの御前(ごぜん)でも畏れを知らず……」

煌仁は袖を収めた。

荒くはないが、ためらいもない手であった。

「中宮は医者であったか」

「……は?」

「朕が問うておるのは、あの女医じゃ、中宮」

花の口がそのまま閉じた。

「中宮の君にかようなご無体を……」

「口を慎め、首を落とされたいか」

耳たぶは赤く染まったのに、扇の柄を握った指先は白く引いていた。

中宮の座に就いてこの方、斯(か)くも多くの目の前で辱めを受けたことは、一度もない顔であった。

横目でその顔を見る医乃に、痛快よりも先に、腑に落ちぬ思いが立つ。

左大臣たる父が心を尽くして押し上げた中宮を、この君はなぜこうも冷たく遇するのか。

花には一瞥もくれず、煌仁が藤堂を見下ろした。

「藤堂」

「はっ、はっ、主上!」

「この根がいずれの薬種庫より出でたものか、日の暮れぬうちに薬帳と照らし合わせ、奏(そう)せよ」

「畏れ多きことにございます!」

「それと」

煌仁の視線が、ふたたび医乃に戻った。

「この亡骸の検屍書は、あの女医が書く」

「下っ端の女医が検屍書を……?」

「中宮の君の御前であのように……」

ざわめきが広がる間に、煌仁は身を翻した。

誰もがそのまま行幸(ぎょうこう)が去るものと思うたとき、歩みをとどめた君が、背を見せたまま口を開く。

「医乃」

「……はい、主上」

「今日より、そなたは御前付きの検屍女医である。朕が呼ばば、いつなりとも参れ」

井戸端がどよめいた。

真っ青になった花がよろめき、紀伊が慌ててその身を支える。

行幸が遠ざかると、花は医乃の傍らを過ぎしな、足を緩めた。

絹の裾が手の甲を掠め、腰をかがめた息が耳朶(じだ)にかかる。

「主上の御目に止まったくらいで、思い上がるなよ」

蜜を塗ったように甘い声であった。

「この宮で、わらわの目に外れたものは、みな絶えた」

梅香が遠ざかっても、医乃は平伏したまま動けなかった。

耳に残る花の囁きよりも、風にまぎれた沈香が、鼻先に長く引っかかっていた。

なぜ。

2年前のあの夜、彼はついに彼女の目を見なかった。

声が嗄(か)れるまで縋る彼女を放って殿を出、翌朝、廃后の宣旨(せんじ)に御璽(ぎょじ)が捺された。

そのような御方が、今日は見も知らぬ下っ端の女医のために、中宮の言葉を断ち切った。

御前付きと言えば聞こえがよいが、傍らに置いて監視なさるおつもりかもしれぬ。

あるいはまことに、亡骸を読む女医が入り用なのやも。

いずれにせよ、これよりこの御方の顔を日々仰がねばならぬ。

己を廃した御方の顔を。

面(おもて)を上げたとき、行幸はまだ掃司の塀の角を曲がりきっていなかった。

伏せた宮人たちの誰もが息の音すら立てぬなか、風はあちらからこちらへと吹く。

低く沈んだ声ひとつが、その風に乗って流れてきた。

「伏見、あの女医の処(ところ)がどこか、調べておけ」

Continue a ler este livro gratuitamente
Escaneie o código para baixar o App

Último capítulo

  • 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます   41話. 生きた骸

    医乃は敷居の向こうで、歩みを止めなかった。止めれば振り向くこととなり、振り向けば、眼を見られることとなる。背後から、花の笑い声が響いた。「母上もさように見えまするか。わらわも初めて見し折、誰かに似ておると申しました。骸の脇にて首をまっすぐ立てる眼にございます」「誰に似ておった」「……亡き姉上にございます」「中宮は、未だ姉の思いを捨てぬのう」皇太后の笑いが、低く続いた。閉まる戸が、その笑いを半ばで断った。女院御所の塀を出るまで、医乃は後を振り返らなかった。池風が入って却って涼しい広縁であったはずが、小袖の内は、しっとりと湿っていた。未の刻の茶の席にて、医乃は膏を替える手を止めた。魚市場の路地で開(あ)いた箇所のひと端が、糸の結び目の間からなお新しい血を出していた。「糸を抜く日が、3日は遅うなりました」「路地に参った値じゃ」「どなたが、ついて参れと申し上げました」煌仁が茶碗を取り上げては下ろした。「ひとりで参るなと申したのじゃ。朕を伴わず参るな、とは申さなんだ。此度より、さよう改めて伝えよう」返事もせず、巻き直す無名の最後の結び目を、わざと固く締めると、頭上で呻き声が洩れた。それでも顔は上げなかった。「女院御所にて、何を下されたか」「薬菓を下されましたが、口に入れてはおりませぬ。池には鯉がまたひとつ浮き、石の縁ごとに灰色の澱が乾きついてございました」&

  • 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます   40話. 女院御所の文安(もんあん)

    医乃は盆の上に突いた手を、引くことができなかった。女院御所。この御方の嫡母(ちゃくぼ)の住まう御殿。中宮御所に住まった頃、朝ごとに文安(もんあん)に参上すると、いつも笑いながら手を取ってくださる御方であった。「……皇太后さまが、何故に」「妃候補(ひこうほ)の間別当(かんべっとう)は、女院御所の主宰じゃ」煌仁が焦げた草案を指先で押しやった。「中宮の候補の単子(たんし)が、事の3日前に蔵人所に入ったという。その単子を受け取った処も、女院御所であった。その後、女院御所は中宮の後ろ盾とならった」女院御所の池の鯉が腹を返すという蓮の饒舌が、唐突に耳をかすめた。「この件は、朕が引き受ける」草案を折って入れた文机の抽斗は、検屍書と白い簪の納まる、あの抽斗であった。「そなたは当分の間、女院御所のほうには足を向けるな」「……は、主上」答え終わるより前に、戸口の外が騒がしくなった。伏見が戸を開けると、紫の袿(うちぎ)を着た老いた女房がひとり、敷居の外に平伏していた。「女院御所の至密(しみつ)にございます。皇太后さまが、明朝の文安の席に、御前の女医も同席を、と仰せにございます。中宮さまが、尊き女医がおりますと奏上なされたとのこと」清涼殿のうちが凍てつくなか、煌仁の顎の筋がひとたび浮かび、沈んだ。皇太后の召しは、帝でも遮ることができぬ。遮れば、遮った由を、皇太后が先に問う。女房が退がると、煌仁が低く口を開いた。

  • 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます   39話. 墨の検屍

    医乃が紙から目を離さぬまま呼ぶと、無名の端を結んでいた蓮が顔を上げた。「灯明をもうひとつ運んでおくれ。今宵は、そなたの部屋にて眠ってくるがよい」「また、おひとりになさるおつもりですか」「骸の脇に居るのと同じじゃ。この紙にも、言い残したことがある」蓮は口を尖らせながらも、灯明をひとつ余分に点してから退がった。二つの灯明を紙の両脇に置くと、交わり合う光が紙の上の影をきれいに拭い去った。骸の前に座する折のように、彼女はひと息を整え、手を膝に置いた。まず、色味を見た。廃庶人 朝井の氏、その冒頭の画の先は、乾きながら青みを帯びていた。松を焚いて受けた煤で拵えた松煙(しょうえん)の墨が、そうなる。ところが罪目の行まで降りてくると、画の先が温かな光に褪せていた。油を焚いて受けた煤で拵えた墨が乾けば、必ずかく、茶に赤みの差す色となる。紙を斜めに傾ければ、冒頭の行は光を吸い込むようにしっとりと沈んだが、罪目の行だけ、漆を塗ったごとく照っていた。油煙に膠(にかわ)をたっぷり溶かさねば出ぬ艶であった。次に、折り目であった。蔵人所に入った草案は、半折にされ束に綴じられる。その縦の筋が通る冒頭の行の「廃」の字の真ん中は、墨が筋を追って細く裂けていた。先に乾いた墨の上を紙が折れ、墨の皮がはじけた跡であった。同じ筋が、罪目の行の「害」の字をも通っていた。ところが「害」の字の墨は、裂けるどころか、折れた谷を伝ってもったりと溜まり、ぷっくりと脹(ふく)らんでいた。すでに谷の付いた紙の上に筆を下ろしてこそ、墨はかく溜まるのである。冒頭の

  • 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます   38話. 燃え残りの草案

    堀川が彼女の視線を追って首をめぐらせると、垂木の釘を覆っていた手が、ようやくそこで下りた。「……あの御方が、何故ここに」堀川が隙の外に退(しりぞ)き、医乃も被衣の襟を合わせて続いた。路の口の男は、こちらへは近づかぬまま、烏帽子の影のもと、眼差しだけを堀川の手から彼女の腰のあたり、ふたたび堀川の顔へと移した。「検非違使庁の佐は、路地にても働くようじゃな」「はっ、お方様。折よく、働きし最中にござる」堀川が「主上」ではなく「お方様」を選び、腰を折った。笑みは其のままでありながら、折った腰は常より深かった。その時、路地の奥から怒号が破れた。「あすこじゃ!」「押さえよ!」路地の突き当り、魚を焼く炭火の前に、幕太が背をつけて立っていた。菅笠三人がその前を半円に取り囲むや、幕太は荷包みを胸に抱き込んだ。「これを懐に抱(かか)えたまま俺を殺せば、俺の骸は、これを誰の前に差し出すと思うておるか!」菅笠の一人が荷包みをひったくり、紐を解き放った。折り畳まれた紙が一枚出てくるや、迷いなく、その紙を真っ赤な炭火の上へと投じた。紙の角に火が付き、別の一人が刀を抜いた。刃を素手にて受けたあの路地とは違い、此度は、彼もまた一人では来なかった。男が手を挙げると、塀の上と軒の下から、無名の衣を着た男が四人、同時に飛び降りた。腰の刀の柄に、近衛の赤い房が揺れていた。菅笠どもは、刃を交えようともしなかった。三人がひとつの身のごとく踵を返し、魚箱を踏んで塀の向こうへと消え去った。

  • 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます   37話. 刃先の癖

    櫃の蓋を音を立てずに被(かぶ)せ、掛け金まで掛けた後、医乃は指先でもう一度押さえて確かめた。窓辺で堀川は、老いた外記と出納簿を挟んで、まだ揉めていた。「外記の御方」老いた外記が振り返った。「この文書庫の櫃を開けし者は、何処(いずこ)に記されまするか」「……文書庫の鍵を借り出だす者は、鍵の出入り帳に名を書き入れる。それは、何ゆえ問う」「検非違使庁に、照らし合わすべきものがひとつ、増えたそうにございます」堀川が目ざとく頷くと、外記はぶつくさと零しながら、壁棚から薄い冊子をひとつ取り出してきた。開いた最後の頁には、日と刻、借りた由、借りし者の名が一行ずつ記されていた。最後の行は、まさに昨日であった。戌の刻、薬師寮の医案の写しの納入。その下の名の桝だけ、白く毛羽立っていた。冊子を傾けて窓の光に当ててみれば、削られた所の左端は針で突いたごとく小さく窪み、右端へ向かうほどに紙が舌のごとく丸く巻き上がっていた。薬種の蔵の帳面で見た跡と、ひとつも違わぬ目であった。「また、あの目でござるか」肩越しに首を突き出す堀川を置いて、医乃は外記に冊子を返し向けた。「外記の御方は、字を誤って書かれし折、如何(いか)にして消されまするか」「刃を寝かせて紙の目に沿い、薄く削ぐのじゃ。さすれば、その上にまた書ける」「蔵人所の外記は皆、そうなさいまするか」「この文書庫にて30年を老いた。そうせぬ外記は、見たことがない」

  • 主上、今度はわたくしがあなたを捨てます   36話. 空の櫃(ひつ)

    彼の腕はふたたび締めつけてくることも、ほどけることも、なかった。その内に待つ医乃の耳元には、灯明の芯の燃える音ばかりが満ちた。答えは、来なかった。先に身を引く彼女を、凍てついていた腕は引き留めなかった。膝で退って座り直し、文机の上の黒く死んだ簪を取り、懐に納めた。「帯は、主上の下に残して参りまする。証(あかし)は先に差し上げると、お約束申し上げました」「……和(なごみ)よ」「医乃にございます、主上」彼女は額を板に当てた。「波嶺郷の女医、医乃にございます」文机の上から浮いた煌仁の手が、彼女の俯す方へ半ばまで伸びかけて、白い簪の脇に下りた。そしてそのまま、残された簪ひとつだけを、掌の下に覆い入れた。清涼殿の戸を開けると、戸口にうずくまっていた伏見が中腰で立ち上がり、彼女の顔を一度見遣っては、懐へ伸ばしかけた手をまた下ろした。日記は、ついに出なかった。翌日より、未の刻の茶の席は半時(はんとき)を超えなかった。茶の盆を捧げて入り、茶葉を量って湯を注ぎ、一杯を注げば、次は帝の前襟を開いて膏を替え、無名を巻き直す番となる。その間、先に口を開くは常に帝であり、医乃は問われた言葉にのみ短く答えた。「苦い」「明日は、薄く淹れまする」「傷が、痒(かゆ)い」「塞がりつつございます。お掻きになりませぬよう」縫い目は日ごとに塞がり、赤く腫れていた縁は沈み、糸の結び目の下から薄紅の新しい肉が湧いて来た。医乃はその傷のみを見た。その上を上下する息も、膏を塗る指先を追う視線も、見なかった。それきりであった。二杯目を注ぐ前に、彼女はすでに盆を携えて立ち上がっていた。脇に控えた伏見の筆の先が、日記の上を引っ掻いた。「主上、苦い、と仰せ。女医、薄く淹れまする、と申して退がる。主上、残りの茶をおひとりにてすべて干されき。苦い、と仰せたその茶を」清涼殿の戸口で待っていた蓮は、女医所の庭に入るまで口を噤んでいたが、ようやく手を差し出した折には、指が幾本も折れていた。「今日、主上は師匠を12度ご覧になりました。師匠は、主上を——」蓮が指をまた折り畳んだ。「ただの一度もお見になりませんでした。わたしがこの数(かず)を数え始めてから、初めてです、こういう日は」「茶碗を見ておったゆえじゃ」「茶碗は、主上の前にございましたのに」返事のない横顔を長く見

Mais capítulos
Explore e leia bons romances gratuitamente
Acesso gratuito a um vasto número de bons romances no app GoodNovel. Baixe os livros que você gosta e leia em qualquer lugar e a qualquer hora.
Leia livros gratuitamente no app
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status