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7話. すでに廃后であった

Autor: 6jay
last update Fecha de publicación: 2026-11-05 18:06:35

宣旨が一日早く下ったか否かを確かめる道は、ひとつしかなかった。

蔵人所の出納帳(しゅつのうちょう)。

宣旨は、初本(しょほん)が蔵人所に入った日より御璽(ぎょじ)が捺されて下るその日まで、一行の洩れもなく、その帳に記される。

中宮であった時分、彼女はその出納帳を自ら繙(ひもと)いて見たことがあった。

疫病の折に下る救恤(きゅうじゅつ)の宣旨が、何ゆえ3日も遅れたのかを質すためであった。

その折、蔵人所の下役が慌てつつ指し示した書架の場所を、彼女は未だ覚えていた。

障りは、末席の女医に、蔵人所の文書庫へ入る道が無い、ということであった。

昼は下役が守り、夜は近衛の廻(めぐり)が巡る。

「蓮」

女医所の裏庭で、夕餉の片付けをしていた蓮が顔を上げた。

純に言伝(ことづて)を終えて戻った直後で、鼻の頭が冷たい風に赤くなっていた。

「今宵、わたしと共に、塀をひとつ、越えてはくれぬか」

蓮の手から柄杓(ひしゃく)がぽとりと落ちた。

「……師匠、それは、盗みを働けと仰せですか」

「盗みなどではない。福の遺した言葉が、真(まこと)か、確かめるのじゃ」

蓮はしばし医乃を見上げ、唇をすぼめた。

「危ないのでしょう?」

「そうじゃ」

「見つかれば、咎めを受けるのですね?」

「おそらくは」

「……宜しゅうございます」

思いもよらぬ答えに瞬くばかりの医乃の前で、蓮が柄杓を拾い、水気をぱっぱと払い、にっと笑った。

「師匠は、亡骸の言葉をお信じになるのでしょう。それなら、わたしは師匠のお言葉を信じます」

医乃は答える代わりに、水に浸ってふやけた蓮の手の甲を、己の袖でひと拭いしてやった。

水に濡れた手を拭きながら、蓮は小さき声で聞いた。

「師匠、なにゆえ、わたしに、お打ち明けなさいます」

「盤(ばん)を打つに、ひとりでは駒が足りぬ」

「駒……わたしは、駒でございまするか」

「駒ではない。手じゃ」

「手」

「いざという時に、わたしの代わりに紙を取り、井戸に落とす手じゃ。盗まれしものは、井戸の底の泥に沈ませればよい」

「……師匠」

「怖うはないか」

「怖うございます。されど、怖うてやらぬよりは、怖うてやる方が、わたしの性に合うておりまする」

***

処を出る前、医乃は懐から出した銀の簪を、しばし手の平に載せてから、結った髷に押し込んだ。

廃されたあの夜より、はじめて、髷に挿す簪であった。

誰が送ったにせよ、今宵だけは、この簪が、彼女を中宮であった者として立たせてくれる気がした。

子の刻の迫る宵、蔵人所の文書庫の塀の下にうずくまった蓮が、医乃の袖先を掴んで離さぬ。

蓮の指が、袖の縫い目を幾重にも折り畳んでいた。

「師匠……お手が、冷えておられまする」

「宵の風じゃ」

「されど、震えておられまする」

「二年のあいだ、震えたのは、別の折のみじゃ。今宵は、震えてはならぬ夜じゃ」

「……わたしも、震えますけれど」

蓮が己の手の平を広げて見せ、ひと差し指の先が小刻みに揺れていた。

医乃はその指を、袖の内へそっと包み、戻した。

「震えたまま、やればよい。震えぬ振りは、見咎(みとが)められる」

「はい、師匠」

「誰ぞ参ったなら、梟の声を立てよ」

「わたし、梟は出せませぬ。ほ、ほうっ……。これ、梟のようでしょうか」

「……雛(ひよこ)のようじゃ」

「雛も鳥でございます!」

「静かに」

蓮の口を手で塞ぎながら塀の向こうを窺うていた医乃が、人の気配の途切れた隙に瓦に指をかけ、塀を越えた。

文書庫の内は、墨の匂いと、古い紙の匂いに満たされていた。

月光が格子の間から細く差し込み、彼女はその明かりを頼りに、書架を手繰ってゆく。

足の甲を鼠が一匹駆け過ぎると、書架の角を握った手に汗が滲んだ。

東の3つ目の書架、廃后のあった、あの年。

指先に当たる帳の背を一つずつ数え、ようやくその年の出納帳を抜き出した。

紙を繰る音がやけに大きく響き、一枚めくるたびに、塀の外の気配に耳が尖った。

睦月(むつき)から一月ずつ繰り、一の宮の倒れた晩秋の月。

医乃の指が、一行の上で止まった。

廃后の宣旨、初本、蔵人所入庫。

その下に記された日付を、彼女は3度読んだ。

事件の、前日であった。

一の宮の倒れたのは、その次の日の夜であった。

銀の簪が黒く変じ、煌仁が「そなたがやったのか」と問い、彼女が喉が裂けんばかりに叫んだ、あの夜。

そのすべてが起こる一日前に、彼女を廃する宣旨は、すでに書かれ、蔵人所に入っていた。

震える指でその行を末まで辿ると、初本を上げた者の名を記す欄が現れた。

その欄には、墨の代わりに、紙の目(め)が荒く逆立った痕のみが残っていた。

「……は」

笑いとも泣きともつかぬ息が洩れた。

2年のあいだ、彼女はひとつだけを握って生きてきた。

あの夜、何ゆえ誰も、わたくしの言(ことば)に耳を傾けなんだのか。

何を言い損ねたゆえ、何を証(あかし)しきれなんだゆえ。

幾度も巻き戻し、己の声を咎め、己の手を咎めた。

あの子に、教えた一文があったというに。

『死せる者は嘘をつかぬ。ただ言えぬのみ。母が代わって書く』

膝の上に座ってその言葉を真似ていた一の宮が、丸い目を瞬かせて、彼女を見上げた。

母上、ならば母上が死ねば、だれが代わりに書くの。

そのときは、おまえが書いてくれ。

いやです。

母上は、死なぬのでしょう。

そう笑うていた子が、裳の裾を握りしめたまま、目を閉じた。

母上、お腹が痛い……。

その小さな体を最後まで看取ってやれなんだのも、母の至らぬゆえと、2年のあいだ、胸を打ち続けた。

今、知れば、彼女が何を申したとて、変わるものは何ひとつなかったのじゃ。

沙汰は、すでに下されていたのだから。

ほうっ——

塀の向こうから、拙い鳥の声が聞こえた。

ほうっ、ぷう——

梟というには高すぎ、鶏というには短すぎる声であった。

医乃は帳を懐に抱え、書架の裏に身を隠しながら、髷に挿した簪が書架に触れぬように、首を深く垂れた。

ほどなく、外で灯籠の光が揺れて過ぎた。

「今のは、何の鳥じゃ」

「さて、病み鶏(どり)か」

「文書庫の近くで鶏を飼う者がおるか」

「知らぬ。寒いな、早う回ろう」

足音が遠ざかって、ようやく、医乃は書架に背を預けたまま、ずるずると滑り落ちて座り込んだ。

盤(ばん)の整った座で、ひとり知らぬまま、声の嗄れるほど縋っていた中宮を、彼らはどれほど笑って見下ろしたことか。

手の甲で口を塞いだ唇のあいだから、嗚咽が洩れてはならぬ。

代わりに、一文が、胸の底から、ゆっくり浮かび上がった。

わたくしは、あの夜、廃されたのではない。

わたくしは、あの日より前に、すでに廃后であった。

膝の上に広げた帳の上に、月光が斜めに差し入った。

名の消された欄を指先で撫でると、毛羽立ちが刺のように指に引っ掛かる。

爪で押しても立った目は寝ず、刃物の過ぎた所は、周りの紙より白い。

2年を経た瑕(きず)ならば、重なった帳の重みに押されて、とうに平らに沈んでおらねばならぬ。

薬種庫の帳の花押も、刃物で削られていたと申した。

同じ刃先が、この欄にも、来ていたのじゃ。

背後の闇が急に深くなった気がして、医乃は知らず、潜り戸の方を振り返った。

誰かが、彼女より先にこの帳を開いていた。

それも、ほんの数日のあいだに。

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