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6話. 薬を煎じていた手

Author: 6jay
last update publish date: 2026-11-05 18:06:32

清涼殿より下がったその朝、女医の長は約束どおり、福の亡骸を医乃に引き渡した。

「洗うと申したのじゃ、洗え。棺入れは午後じゃ」

医乃は袖の奥の銀の簪を懐へ移し、袖をたくし上げた。

清涼殿で滲んだ冷や汗が背にまだ張りついているが、亡骸の前に立てば頭の中が澄むのは、今も昔も変わらぬ。

日の差さぬ、冷えた部屋の戸口で、蓮が鼻を押さえて足を踏みかえた。

「師匠、わたし、本当に入らねばなりませぬか」

「入らずともよい。代わりに、わたしが読み上げるものを書き留めよ」

「それならば、できます!」

ぬるい湯に木綿を浸し、亡骸の脇に膝をつくと、唇を辛うじて動かすほど小さな声が洩れた。

「福。言いさしたことを、続けよ。わたしが代わって書く」

検屍の折、いつもの癖であった。

昨日見た強ばった口元、爛れた舌先を再び確かめ、爪の下の血の痕を見下ろしてゆく手が、右の手の平で止まった。

親指の下に、厚い胼胝(たこ)が結ばれていた。

掃司の女房ならば、砧(きぬた)で打つ胼胝が手の平の真ん中に広く散っておらねばならぬ。

なれどこの胼胝は、一点に瘤のように硬く固まっていた。

長い杓を握り、ひとつの向きに幾千、幾万、何かを掻き混ぜつづけた手。

薬鍋の前にうずくまり、夜通し火を守り、薬を焦がさぬがため、ただ掻き混ぜてきた手であった。

「蓮」

「はい!」

「掃司へ行き、福がいつよりあの場に居ったか、聞いて参れ」

矢さながら駆け出る蓮を後ろに、その手の平を見下ろすあいだ、頭より先に、指先が思い出した。

毎朝、湯気の立つ薬の椀を捧げて中宮御所の敷居を越えた、小さな、赤くひび割れた手。

御方さま、今朝は少し、苦くなきよう煎じ申しました。

恥じらうように俯いて笑うていた幼き女房の顔が浮かぶ。

井戸端で筵(むしろ)を引き剝がしたとき、見分けられなんだのは、毒に腫れた顔が黒く青く死んでいたゆえであった。

検屍書に記した齢は21。

2年前であれば19。あの子の齢と、ちょうど合う。

福(ふく)。

どこで聞いた名か、今、ようやく知れた。

彼女が中宮御所の主であった時分、薬房で彼女の薬を煎じていた、あの童女であった。

「師匠! 聞いて参りました!」

蓮が息を切らせて戸口にすがった。

「福ねえさま、掃司に来て2年にしかならぬそうです! その前にどこに居ったのか、誰も知らぬのです。問えば、口をしかと閉ざしていたと申しておりました」

「2年」

「はい! それからこれ、掃司のおねえさまが、こっそりくださいました。福ねえさまの荷物だそうです」

古びた風呂敷包みを差し出す蓮の後ろに、怯え切った顔が、戸口にそろりと立った。

昨日、井戸端で裳の色を言えずにいた、まさにあの女房であった。

「昨夜、中宮御所の掌侍さまが参られ、福の荷を出せと仰せでした」

女房は頻りに外を振り返り、声を落とす。

「焼き捨てると。それゆえわたくしが……他(ほか)の包みを渡しました」

「なぜ、そういたしましたか」

「福が、この数日、様子がおかしゅうございました。寝ておっても、ふと跳ね起きて『次は私じゃ、次は私じゃ』と申しておりました」

女房の顎が、わずかに震える。

「御厨子所の純(すみ)にも、気をつけよと、あの日あそこに居った者は皆、気をつけよと——」

「あの日とは、いつにございますか」

裳の裾を握りしめたまま後ずさった女房は、振り返りもせずに逃げ去った。

女房の消えた戸口を見つめるあいだも、「あの日」という言葉が、耳の奥から離れぬ。

「蓮。御厨子所に、純という女房を知っておるか」

「純ねえさまですか? 存じております! 餅をまことに上手(じょうず)に蒸されます。わたしが腹を空かせておると、ひとつずつ握らせてくださいます」

「今宵、その者を訪ね、伝えなさい。しばしの間、人の寄越すものは、湯薬であれ餅であれ、口にせぬようにと」

「は? なぜです」

「ただ、伝えるのじゃ。きっと」

蓮は首を傾げながらも、唇をきゅっと結んだ。

***

同じ時刻、中宮御所。

梅香の濃く籠った部屋の内、鏡台の前に座した花(はな)は、紀伊(きい)が梳(す)き下ろす己の髪を鏡で覗き込んでいた。

「福の荷は」

「昨夜のうちに、小官が自ら焼き申しました、中宮の君」

「よう、やった」

鏡の中を見ていた花が、ふと眉を寄せた。

「あの女医のことじゃ。医乃とか申したか」

「はい、中宮の君」

「目つきがいや。亡き姉さまそっくりに、人を見下ろすのじゃ。膝をついておりながら」

櫛を運んでいた紀伊の手が、一瞬止まってから、また動いた。

「主上が御前付きに置かれましたゆえ、しばしは、迂闊(うかつ)には——」

「わかっておる。ゆえに、いっそ目障りでな」

花が鏡台の白粉を取るあいだ、紀伊は櫛を下ろし、腰を一段低くした。

「中宮の君、御厨子所の純も、近頃、口が軽いと申しております」

「あら、そう?」

鏡の中の花が、にこりと笑った。

「それは父上(ちちうえ)の方でよしなに。わらわは、手を汚すのが好かぬ」

白粉が頬の上をとん、とんと叩いた。

鏡の中の中宮の顔は、一点の瑕(きず)もなく美しかった。

***

医乃が解いた風呂敷包みのうちは、古ぼけた襦袢の数枚と、銭の二、三文(もん)、歯の欠けた櫛がすべてであった。

人ひとりが宮で生きた痕跡にしては、あまりにも軽い。

襦袢を畳もうとした折、指先に、何かが掛かった。

衿の裏の、やけに縫い目の細かい一所があった。

誰かがわざと縫い塞いだ跡であった。

「蓮、針を」

蓮の差し出した針の先で、縫い目を一つずつ解いてゆくと、指二節(にぶし)ほどの紙が、折り畳まれて現れた。

幾度も広げて畳んだのであろう、折れ目はすり切れ、湯薬の匂いがほのかに染みついていた。

拙い仮名であった。

文字をようやく覚えた者が、忘れぬよう、ぐいぐいと押して書いた筆跡。

蓮が肩越しに覗き込み、一字ずつ、たどたどしく読み上げた。

「あの日……宣旨は……一日(ひとひ)、早う来た」

氷水に浸した指先の下に、紙の末尾には、もうひと行あった。

「わたし、は、見た」

知らず小さくなった蓮の声を最後に、部屋の内は鼠(ねずみ)ひとつ動かぬほど静まり返った。

「師匠、何の宣旨にございますか」

医乃は、答えられなかった。

あの夜、一の宮が倒れ、銀の簪が黒く変じた。

そして翌朝、廃后の宣旨が下った。

誰もが、そう知っていた。

彼女自身さえも。

それならば、この「一日早う」は、一の宮が倒れるよりも前に、彼女を廃する宣旨が、すでに書かれていた、ということであった。

紀伊が焼き捨てようとしたものは、まさしくこの一行であった。

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