LOGIN澪はしばらく、指一本動かせなかった。
死は記憶よりも先に、体に残っていた。喉には導管が食い込む痛みが、胸には心臓が止まった瞬間の圧迫感が、はっきりとある。それなのに、手で探った肌は滑らかだった。傷痕も、血もない。
ベッドを降り、洗面所へ向かった。
鏡に映っていたのは、二十七歳の月城澪だった。黒く焼けただれた顔でも、霊力を失って真っ白になった髪でもない。一条陽介の結婚相手として雑誌の表紙を飾っていた、見慣れた姿だ。
鍵をかけ、鏡に手のひらを当てた。
「出てきて」
声が震えた。
背後に、銀色の影が立ち上る。狐火が洗面所の明かりを押しのけ、白く長い尾が一本、ゆっくりと姿を現した。
一本。
澪は何度も数え直した。
間違いなく、一本だった。
最初の死のあとには八本残った。二度目には七本。死ぬたびに一本ずつ消えていったが、以前の人生を生きていた澪は、それを覚えていなかった。理由のわからない衰弱と悪夢だけを、次の人生へ持ち越した。
今回は違う。
失った八本の尾に宿っていた記憶が、最後の一本に流れ込んできた。
ホテル・ラヴィアンの割れた鏡。
白夜医療センターの地下病棟。
月光大橋を押し流そうとする黒い水。
自分との関係を否定する陽介の声。
花嫁の名前を確認する、地下の婚姻室。
逃げる車の窓から見えた清月山。
自分が誰なのかわからない、陽介の目。
そして、中央核。
澪は洗面台をつかんだ。狐火が揺れると、尾の先が半透明になった。
今度、この一本まで失ったらどうなるのか。説明してくれた人はいない。
それでもわかった。
次はない。
九本目の尾は、時間を巻き戻すための最後の命。それが消えた瞬間、月城澪という魂も終わる。
澪は狐火を収め、冷たい水で顔を洗った。
泣いている時間はなかった。
スマートフォンとノートパソコンを起動する。
日付は2028年三月二日。
死んでから戻る時点は、人生ごとに違っていた。何年も前に戻ることもあれば、死に近い時点までしか巻き戻らないこともあった。今回の始まりが、陽介のプロポーズの前日だということだけは確かだった。
陽介のプロポーズは、三月三日。
両家の共同事業発表は、三月五日。
正式な婚約式は、三月二十日。
結婚式は、九月九日。
カレンダーには、ウェディングドレスの試着、インタビュー、財団の行事、健康診断が隙間なく並んでいた。澪が自分で入れた予定も、一条グループの秘書室から共有された予定もある。
自分の人生なのに、空いている日が一日もなかった。
澪はすべての予定を別の記憶媒体にコピーした。メールボックスも、クラウドも、メッセージの履歴もダウンロードする。前の人生で自分が何を見落としたのか、まだわからなかった。
陽介が毎回、自分を殺そうとしていたとは思わない。八度とも、彼は澪を愛していた。
だからこそ、もっと恐ろしかった。
愛していても、選ぶべき瞬間が来れば、彼はいつも澪に耐えてくれと言った。今回だけ。この人たちだけ。この街だけ救ったら、戻ってくると。
そして澪は、いつもうなずいた。
愛されている人間は、そうすべきなのだと信じていたから。
パソコンの画面に、月城財団と一条財団の共同協定書のフォルダが見えた。アクセス権限は、まだ有効だった。
一番新しいファイルからダウンロードした。
【日月霊脈共同管理協定――婚姻連動に関する付帯合意】
文書の題名を目にした瞬間、体内の狐珠が小さく震えた。
ファイルには暗号化が施されていた。パスワードの入力欄の下に、一文が表示されている。
【契約当事者・月城澪の生体認証が必要です】
澪は触れなかった。
代わりに、個人口座と身分証、パスポート、不動産登記、財団の持分に関する資料を確認した。今すぐ家を出ても暮らしていける資産を別にまとめ、重要なファイルを三か所に分けて保存した。
ようやくそのとき、寝室の外でノックが聞こえた。
「お嬢様、お目覚めですか。一条専務の秘書室から、明日のご予定を再確認したいとご連絡がありました」
幼いころから世話をしてくれた家政婦の声だった。
澪は一瞬、目を閉じた。
誰が知っていて、誰が知らないのか。まだ判断できない。
「体調が悪いと伝えてください」
「病院をご予約しましょうか?」
「いいえ。誰にも知らせないでください」
扉の向こうの気配が止まった。
「一条専務にも、ですか?」
「あの人には、特に」
答えた途端、スマートフォンが鳴った。
陽介だった。
澪は出なかった。
電話はいったん切れ、またかかってきた。三度目も無視すると、メッセージが届いた。
【陽介:何かあったのか?】
続けて、もう一行。
【明日になれば、俺たちの間に隠し事なんてなくなるのに】
澪は笑えなかった。
八度も死んで、ようやくわかった。
二人の間には、隠されていたことしかなかったのだ。
記憶の残滓の中で、陽介は澪の手を握っていた。二度目の人生の澪は、青ざめていた。唇に血の気はなく、手の甲には点滴の痕が重なっている。「無理」彼女が言った。今の澪にも覚えのある、自分の声だった。低く、疲れ切った声。「これ以上やったら、私、死ぬよ」陽介の手が強張った。「そこまでは、させない」「前も、そう言った」「今回は、医師が安全だと言ってるんだ」ベッドの脇のモニターには、知らない患者の霊力波形が映っていた。下降中。赤い警告線の下に、小さな文章があった。【安定化供給待機】陽介は一度画面を見て、また澪を見た。「あの人を助ければ、今日は終わりだ」澪の目が閉じた。「今日は」陽介は、何も言えなかった。「昨日も、今日だけって言ったよね」記憶の残滓が揺れた。現在の澪は、指先を握り込んだ。忘れていた場面ではない。覚えていたのに、見ないようにしていた場面だった。陽介は怒鳴らなかった。無理にボタンを押すこともしなかった。ただ、愛する人の顔で、頼んだ。「澪。あと一人だけ」ベッドの上の澪は、長い間黙った。やがて、とても小さな声で聞いた。「私が嫌だって言ったら?」陽介の表情が崩れた。けれど、答えは遅かった。病室の外のスピーカーから、医療スタッフの声が流れた。【供給が遅れた場合、対象者の生存率は二十二パーセント】陽介は目を閉じ、それから開いた。「俺は、お前ならできると思う」今の澪は、その言葉を聞いた瞬間、画面の中の陽介の唇から目を離せなくなった。できる。だから、やるべきだ。八度の人生で、何度も自分を縛った理屈だった。二度目の人生の澪が、手を引こうとした。
廊下の反対側の壁は、一見、何の変哲もなかった。沙耶がもう一度金属探知機を当てると、一定の間隔で三度、反応が出た。「壁の内側に、フレームがあります」怜司が剣を上げたが、澪が先に言った。「待って」彼女は209号室の敷居から、一歩も動かなかった。「今度は、あなたから先に説明しないでください」怜司の視線が、澪へ向いた。「承知しました」「何の部屋なのか。なぜあるのか。あなたが何をしたのか。記録が出るまでは、何も言わないでください」「そうします」澪は沙耶へ合図した。「庁の装置だけでなく、病院の施設管理担当も呼んでください。壁の撤去記録があるか、まず確認を」「はい」三十分後に来た施設管理責任者は、古い図面を見て顔を硬くした。「この空間は、閉鎖した記録がありません」「存在そのものが、システムから抜けているんですか?」真帆が問うと、男はうなずいた。「元の図面では、配管の点検室になっています。でも、2022年の改修ファイルから、丸ごと消えています」澪は日付を覚えておいた。怜司も隣で、日付だけを確認した。壁の一部を切り取ると、内側から鉄の扉が現れた。取っ手は、外側にしかなかった。下のほうには小さな差し入れ口があり、内側には取っ手もカード端末もない。真帆が声を落とした。「中から、人が出られない構造ね」澪は怜司を見た。彼は、まだ説明しなかった。「開けましょう」証拠写真を撮り終えてから、鉄扉が開かれた。中は、六平方メートル余りしかなかった。ベッドも椅子もない。壁には手錠を固定する輪が埋め込まれ、床には、黒い剣の傷が何十本も残っていた。怜司の剣に近い幅だった。澪は中へ入らず、入口から尋ねた。「採取できますか?」「できます」沙耶が現場用のキットを出した。輪の周囲からは、古い
209号室には、ベッドが一つしかなかった。窓もない。壁にも床にも、古い霊力抑制の紋様が何重にも刻まれていた。澪は敷居を越えなかった。怜司の手も、まだ握っていた。「私は、ここにいたんですか?」「はい」答えは、すぐに返った。「二度目の人生で?」「はい」澪の手に力が入った。「あなたも」怜司の声が低くなった。「はい」壁に刻まれた名前。黒瀬怜司。黒瀬怜司。黒瀬怜司。怒りを込めたように深い文字もあれば、手に力の残っていない人が、ようやく書いたような薄い文字もあった。澪は自分の爪を見た。「私が書いたんですか?」「一部は、そうです」「一部?」「私が書いたものもあります」澪は彼を見た。怜司はもう、目をそらさなかった。「どうして、自分の名前を?」「記録を残すためでした」「誰に?」「次に、ここへ入ってくる人に」「何の記録を?」怜司が病室の奥を示した。ベッドのフレームの下に、小さな金属箱が取り付けられていた。沙耶が封印の状態を撮影してから、開けた。中には、一枚の記録用紙が入っていた。インクはほとんど滲んでいたが、一行目は読めた。【月城澪を対象とする霊力安定化・第九次】澪の指先が、画面の上で止まった。「第九次?」真帆が用紙を受け取った。「日付がない」下の文章は、もっとひどく消えていた。澪は紙を奪い取ったりしなかった。「原本を保全して」真帆がうなずいた。怜司は病室の壁の、黒い痕を確かめていた。あまりにも落ち着いた顔だった。澪が尋ねた。「この部屋のことは、初めから知っていたんですね?」「閉鎖されたことまでは、知っていました
「209号室が、どうしたんですか?」澪が尋ねた。怜司は、すぐには答えなかった。分担の儀式が、まだ終わっていない。「先に、こちらを終えます」三人の間で、黒い煙が最後に揺れた。紗奈が、膝をつきかけた。澪が肘を支えた。「大丈夫ですか?」「はい。少し、目が回るだけです」「無理に立たないでください」怜司は、まず患者の状態を確かめた。意識あり。呼吸、安定。それからようやく、床の封魂の線を消した。澪の背後に、青い尾が一本、短く現れて消えた。損傷はなかった。怜司の腕にも、新しい出血はない。紗奈の青い炎はほとんど消えたが、指先に小さな光が一つ残っていた。三人とも生きている。それを確かめてから、澪はもう一度尋ねた。「209号室」怜司の視線が、病棟の奥へ向いた。「現在の白夜病院の図面には、存在しない病室です」「でも、知っているんですね?」「はい」「どこで?」「以前の記録で見ました」また、保留するつもりなのか。澪は、問い返す前に言った。「今の事件に直接関係があるなら、隠さないでください」怜司が短く息を吐いた。「同意します」沙耶へ、古い図面を求めた。数分後、昔の設計図が端末に表示された。今のB区域の場所には、かつて三つの病室があった。207。208。209。209号室は、六年前の改修時に閉鎖されたと記されていた。澪は日付を見た。2022年。二度目の人生と重なる時期だった。記憶の中の白夜病院は、知らない場所ではない。けれど、鮮明な場面はなかった。二度目の人生の最後の数週間は、薬と隔離のせいで、途切れた記憶が多かった。澪の指先が、冷たくなった。「あの病室へ、行ったことがある気がします」怜司がすぐに聞いた。「ご自身の記憶ですか、月痕への反応ですか?」「私の記憶です」「確かですか?」「……確かではありません」怜司は、肯定するように誘導しなかった。「では、確認できるまでは、仮説としておきます」澪は古い図面をたどり、歩いた。209号室があった場所は、今は塞がれた壁だった。近づくほど、頭が痛くなる。白い照明。手首の抑制具。誰かの声。あと一人だけ。澪は足を止めた。「月城さん?」怜司の声が、遠く聞こえた。壁が突然、病室の扉に見えた。その前に、白衣の人々が立っている。そして、扉の反対側には、黒い制服
システム室の照明が赤くなった。警報が鳴った。【霊力汚染度、急上昇】【B区域、隔離失敗】澪が身を翻した。「紗奈さんのところへ行かないと」怜司は、前に立って遮ったりはしなかった。「現在、B区域の汚染値は、測定上限を越えています」「ほかの方法は?」「制御室から遠隔で封鎖するか、直接入るかです」「遠隔封鎖したら?」怜司は短く答えた。「中にいる人たちを、そのまま閉じ込めることになります」澪の視線が、冷たく沈んだ。「それは除外します」「私も同意します」二人はB区域へ向かった。* * *廊下の奥で、紗奈を見つけた。倒れた患者を一人、胸に抱いていた。周囲には、青い炎が円を描いていた。問題は、その形だった。八筋。尾のように伸びた炎が、紗奈の背後で揺れていた。澪が近づくと、炎が一斉に顔を向けるように、方向を変えた。紗奈が、青ざめた顔で言った。「近づかないでください」「なぜですか?」「私が、操っているわけではないんです」浄化力と狐火が入り混じっていた。白い光は患者から黒い煙を取り除いているのに、青い炎は逆に、紗奈の体へ入り込んでいた。怜司が剣を上げた。「現在、呪いが白石さんに集中しています」紗奈の息が揺れた。「呪い?」「断定ではありません。ただ、外部の霊力が、ご本人の意思とは無関係についています」澪は青い炎を見据えた。知らないもののはずなのに、懐かしかった。かつて、自分のものだったかのように。けれど、記憶だけで断定する根拠はなかった。「引き離せますか?」怜司が答えた。「可能です。問題は、離した瞬間の行き先です」「私のところへ来るんですね」「その可能性は高いです」「どのくらい?」「数値でお伝えできる根拠はありません」澪は短く息を吐いた。「では、方法は?」「私が、封魂で受ける方法があります」澪は即座に振り返った。「全部?」「はい」「それは、嫌です」怜司の目が止まった。「理由を、伺っても?」「あなたの腕の状態を、見ました」「現時点で、機能に問題はありません」「それは、あとで問題が出るという意味でしょう」怜司は否定しなかった。澪は紗奈を見た。「三つに分けられますか?」「まず、呪いの構造を確認する必要があります」「確認してください」澪の声は、きっぱりしていた。「一人に押しつける
壁の向こうの病室には、五人いた。登録されている患者は、四人。一人、多かった。怜司は、まず人を外へ出した。壁を完全に切断せず、封魂糸で隙間を固定し、救助隊員が一人ずつ運び出した。最後に出てきたのは、六十代の男性だった。患者衣には、名前ではなく数字が印字されていた。【BY-09-17】「お名前を、言えますか?」看護師が尋ねた。男性は、唇だけを動かした。「……田村、誠一」沙耶がすぐに端末を検索した。「入院記録がありません」「ご家族の連絡先は?」「その名前で照会できる、最近の医療記録自体がありません」澪は男性の手首を見た。採血の痕が、いくつもある。ここ数日の間にできたものだった。「入院して、どのくらいですか?」男性が、ぼんやりした目で澪を見た。「二週間……」「誰が連れてきたんですか?」「病院から……検査を、受けるようにと……」呼吸が速くなった。医療スタッフが、質問を中断させた。怜司はすぐに言った。「安静が先です。話を聞くのは、あとにします」澪は、患者衣の番号を撮影した。BY-09。「返還待機者09」と同じ数字だった。* * *病院の情報システム室。白夜病院側は、初め、アクセスを拒んだ。「患者の個人情報ですので、外部の閲覧は難しいです」怜司は、令状を持ち出さなかった。「では、現在、失踪・監禁が疑われる患者が登録されているかだけを確認してください。原本は病院で変更せず保全し、こちらはハッシュ値だけを受け取ります」病院の法務担当は、渋々同意した。資料が出るまで、二十分もかからなかった。問題は、内容だった。誠一には、二週間前に入院した記録があった。ところが、入院の四時間後には、退院扱いになっていた。退院理由。【症状なし/帰宅】同時刻の防犯カメラには、病室へ運ばれる姿が残っていた。真帆が画面を拡大した。「システムと映像が、正反対ね」澪は、ほかの四人の記録も確認した。どれも、似ていた。入院。検査。即日退院。けれど、実際には病棟の中に残されていた。「誰が書き換えたんですか?」システム責任者がログを表示した。「管理者アカウントです」「使用者の名前は?」「共用なので、特定は難しいです」真帆が乾いた笑いを漏らした。「2028年にもなって、医療記録を共用の管理者アカウントで書き換えて







