Masuk泰西や瀬奈が家族揃って夕食を食べていたちょうどその頃、父親は一人書斎にいた。彼は特に仕事をするわけでもなく、部屋にある椅子に座ってボーッとしていた。「……なぜか、落ち着かないな」一人の部屋で、彼はポツリと呟いた。当然、その呟きを聞いた者は誰もいないため、返事はない。何とも虚しい空間だと、彼は心の中で自身を嘲笑った。妻が亡くなってからというもの、彼は寂しい日々を過ごすこととなった。以前まですぐ横にいた存在が、急にいなくなってしまうことの寂しさ。彼女が亡くなる前は、そんなこと想像すらしていなかった。耐えられなくて新しい女を作ったが、結局全員長続きはしなかった。元々傲慢な性格であるせいか、女性たちは半年ももたずに彼に別れを切り出すのだ。『あなたとはやっていけないわ!もう終わりよ!』『私は暁社長に相応しい女ではないようです。どうか関係を終わらせてください』『ごめんなさい。あなたにはついて行けません。もう二度と私と関わらないでください』今まで彼が関係を持った女性たちに言われた言葉だった。ある程度好感を持っていたから交際をスタートさせたが、結局は全て振られてしまったのである。そのときになって彼はようやく自分は結婚に向いていないのだと理解し、新しく女性を作ることをやめた。結局、彼の横暴に何も言わずに耐えていたのは、前の妻だけだったということに気が付いた。「泰西たちは今頃、食事を摂っているのか……」今は亡き、唯一の妻との間に生まれた三人の子供。そのうちの二人がすぐ近くの別邸にいるのだと思うと、何だか複雑な気持ちだった。泰西はともかく、瀬奈は愛情を注いだ記憶がない。そんな娘に、今さらどう接しろと言うのか。ちょうど今行われている晩餐も、彼だけが招待されていなかった。その事実に悲しくはなるが、彼が何か言えるような立場ではなかった。「そういえば、里亜って言ったか……」彼はついさっき会ったばかりの孫娘を思い浮かべた。瀬奈が遅くに夫の神宮司湊斗と作った一人の娘。顔は子供の頃に湊斗に似ているけれど、瀬奈の面影を色濃く感じさせた。真っ先に浮かぶのは、足を噛まれたこと。彼は未だに歯形の残るふくらはぎをじっと見つめた。『じいじ、ママをいじめないで』幼いながらに力強い、覚悟の決まったような眼差し。まだ五歳だというのに、あんな目ができることに彼は驚いた。しかし、
「ちょ、ちょっと里亜……何をしているの……」本当なら愛する娘の行動を止めたくはないし、否定したくもない。しかし、今回ばかりはわけが違う。里亜が噛みついた相手は暁家の横暴な社長だった。目的のためならばどんな手段も厭わない男。それが瀬奈の父親だった。彼は相手が幼い子供だろうと、容赦はしないだろう。(……でも、里亜は私のためを思ってやってくれたのよね?)命知らずな行動ではあるが、瀬奈を守るためにやったのはたしかだ。「……今、私に何をした?」瀬奈から里亜に視線を移した父が、冷静に尋ねた。声を荒らげてはいないものの、顔をしかめている。かなり頭に来ているということが、一目瞭然だ。里亜はそんな父に対し、キッパリ言い放った。「じいじがママをいじめてたから、里亜がおしおきしたの」「いじめてただと?私は当然のことを言ったまでだ。大体、お前に何がわかるんだ」どちらも一歩も退かない言い争い。里亜も父も、自分が正しいことをしていると信じて疑わないのだろう。里亜はまだ幼さが残る、頑固な性格だった。ふと父の噛まれた膝を見ると、小さな歯型が残っていた。血は出ていないものの、痛みは多少なりともあったのではないだろうか。(父さん、誰かに膝噛まれるだなんて生まれて初めてだろうなぁ……)だからこそ、信じられなくて理解が追い付いていないのだろう。羞恥に身を震わせていた父は、しばらくすると瀬奈に向かって冷たく告げた。「――お前、さっさと娘を連れて出て行け」「父さん……待ってください……」瀬奈は何とか父を落ち着けようと手を伸ばすが、無惨にも振り払われてしまった。「今すぐにだ、出て行け」「……」瀬奈は渋ったが、最終的には里亜を連れて大人しく部屋を出て行った。泰西たちの元へ戻るまでの道中、彼女は里亜にお礼を言った。「里亜、私のためにありがとうね」「うん!里亜はママが一番大事なんだから!」「まぁ……パパよりも?」その問いにも、里亜は満面の笑みで頷いた。湊斗に懐いている里亜だが、生まれたときから一緒にいる瀬奈が最も大切なのは変わらない。二人の間には、普通の母娘以上の絆があった。「このあと、伯父さんたちと一緒にご飯を食べましょうか」「わぁ、お腹ペコペコ!」幸せそうに笑う里亜の頭を、瀬奈は優しく撫でた。今日は泰西が二人のために特別なディナーを用意してくれていたのだ。里
瀬奈が起こした離婚騒動は、家出ということになっている。彼女はたしかに家を出て行った。しかしそれは単なる家出ではなく、瀬奈は本気で湊斗から離れるつもりで黒川区を出た。真実を知っているのは湊斗本人や秘書の一馬、そして泰西くらいである。(兄さん、父さんに家出だと伝えたのね……)もしかすると、泰西はその頃から瀬奈が湊斗の元へ帰ってくることを予想していたのではないだろうか。「……ええ、その通りです。神宮司家が息苦しくて……ちょっとだけ家出したんです」「……息苦しくなっただと?」父親はその言葉に、眉をひそめた。瀬奈が思っていた通りの反応だ。「お前、自分の立場をわかっているのか?」「……はい、間違ったことをしたという自覚はあります」瀬奈の返しが気に入らなかったのか、父の表情はさらに険しくなった。彼は娘の里亜がいる前にもかかわらず、瀬奈に向かって声を荒らげた。「お前はどこまで暁の名に泥を塗るんだ!」「……父さん」久しぶりの父親からの叱責だった。いつもなら少し落ち込むくらいで終わることだが、今日に限ってなぜか胸がギュッと締め付けられる。おそらく、里亜がすぐ傍で見ているからだろう。愛する我が子にこんな姿を見せてしまうとは、何とも情けない母親だった。「大体、お前のような者が神宮司家に妻としてもらえただけでも奇跡のようなものだ!それなのに息苦しくなっただと!?お前のその行動が神宮司家に、暁家にも迷惑をかけているんだぞ!わかっているのか!?」「……」いつまでも続く叱責に、瀬奈は泣きそうになってしまった。父に叱られて泣くのは子供の頃以来だった。早く終わらないかなと願っていたそのとき、突然小さな身体が瀬奈を守るように前に出た。「――ママをいじめないで」「…………里亜?」突如前に立ちはだかった里亜に、彼は呆気に取られていた。「な……そこをどかないか」「ママをいじめないで」里亜は父の剣幕を前に怖気づくこともなく、きっぱりと言い放った。小さいはずの身体が、なぜか今の瀬奈にとってはとても大きく見えた。前に比べると、少し背が伸びたようだ。しかし、それでも対峙している父親の半分もない。里亜は父があ然としている隙にササッと駆け寄ると、彼のズボンをギュッと手で握った。そしてそのまま、里亜は父の足にガブッと噛みついた。「じいじ――めっ!」「……」ふくらはぎ
「――父さん、失礼します」「しつれいします」瀬奈は里亜の手を引いて、父親のいる書斎へ足を踏み入れた。彼女自身、父の書斎に入るのは二十年ぶりのことだった。結婚前も関わりが希薄だった父親だが、結婚後は一切連絡を取っていなかった。出来損ないの娘を表に出したくはなかったのか、彼は親族間の集まりにも瀬奈を呼ばなかった。部屋に入ると、父が椅子に座って瀬奈を待っていた。きっと泰西から彼女たちが来ることを聞いていただろう。「……」父は瀬奈を見つめたあと、その横にいる里亜に視線を移した。里亜を良く思っていないのか、眉間にシワが寄った。(ここはいつ来ても緊張するわね……)瀬奈は二十年近くの時間をこの場所で過ごしたが、未だにここへ来ると足がすくむし、父親を前に緊張もしてしまう。「父さん、お久しぶりです。今日から兄さんの家に泊まらせてもらうことになりました。数日間、お世話になります」「おせわになります」里亜は瀬奈の言葉を真似て続けた。驚くことに、里亜は父を前に怖がる様子を一切見せていなかった。(一体誰に似たのかしら……?)身近に静香がいたからだろうか、芯の強さがそっくりだ。瀬奈が挨拶を終えると、父が里亜を指差した。「その子供は一体どこの誰だ?」「あ、里亜……挨拶を」父は礼儀に厳しい人で、身内だろうと幼い子供だろうと容赦しない。瀬奈は里亜の背中をそっと押した。里亜はその反動で一歩前に出ると、ペコリとお辞儀をした。「神宮司里亜です……ママのむすめです」「……」父は眉をひそめたまま、何も言わずに里亜を見下ろしていた。万人を魅了する愛らしい容姿の彼女だが、もはや父の前ではそんなもの意味を成さない。「父さん、私と湊斗の娘の里亜です」瀬奈は慌てて二人の間に割り込んだ。自分はともかく、里亜が傷付くようなことがあってはならない。瀬奈は里亜を守るように父の前に立ちはだかった。その態度が生意気だと思われたのか、父は一瞬だけ顔を歪ませた。「……娘を産んだことは聞いていた」「ええ、正真正銘湊斗との子ですよ」瀬奈はニッコリと微笑んだ。婚外子だと疑われれば、誰よりも他人の目を気にする父親は正気ではいられないだろう。「……そうか」そこで、父は里亜から瀬奈に視線を戻した。瀬奈は心の中でふぅと安堵の息を吐いた。「――それよりお前、家出したと聞いたがそれは本当か?」
泰西は瀬奈を驚きの目で見つめていた。たしかに、自分でも大胆な行動だという自覚がないわけではなかった。二人の父親が優しい人であればまだしも、そういうわけでもない。「……本気なのか?」「ええ、兄さん。私は里亜を父さんに紹介しようと思ってる」泰西は心配しているのだろう、あまり気が乗らない様子だった。彼は瀬奈が父親からキツく当たられているところを今までに何度も見ている。そんな父なら、里亜を傷付けるような言動をしても特に変ではない。そのことは彼女自身もよくわかっていた。「……兄さん、正直に言えば私も心配よ。でもね、いつまでも紹介しないっていうわけにもいかないでしょう」「……そうだな」里亜は正真正銘瀬奈の子供で、父にとっては孫娘に当たる。里亜も家族が増えるのは嬉しいだろうし、いつ亡くなるかわからない父にも一度くらいは会わせてあげたかった。「……父さんは、里亜の存在を知っているのかしら?」「ああ、存在自体はな。ただ……会いたいと言ったことは一度もない」「……そう、だったんだ」予想はしていたが、やはり父は里亜に興味などなかった。元々男児を望んでいた人だからか、千郷が女児を産んだときですらかなり責めたと聞く。そして瀬奈の母もまた、それが理由で父に常日頃から詰られていた。夫としても父としても、とても良い人だとは言えない。「――瀬奈、後悔しないか?」泰西の問いに、瀬奈は一瞬だけ悩んだあと答えた。「……ええ、どちらにせよ父さんに挨拶しないといけないでしょう?父さんは私を嫌ってるけど、礼儀には厳しい人だから」父は幼い子供にも厳しく接する人だ。里亜だけ挨拶に来ないなど絶対に許さないだろう。泰西は不安げな顔をしていたものの、反対することはなかった。彼なりに、瀬奈の意思を尊重してくれているのだろう。***それから数時間経ち、夕方になった頃、父が帰ってきた。瀬奈は里亜を連れ、彼の書斎を訪れた。「おじいちゃんに会えるの楽しみ!」「そうね、私も久しぶりなのよ」瀬奈は満面の笑みを浮かべる里亜の頭を優しく撫でた。瀬奈は自分が傷付くのはかまわないが、里亜が傷付いてしまうことだけは耐えられなかった。(母親なんだから、何が何でも守らないと)意を決して、二人は部屋に足を踏み入れた――
里亜が泰西と千郷の娘と遊んでいた頃、瀬奈は彼の書斎にいた。泰西の机に積み重なっている書類を、瀬奈は一枚手に取った。会社に関連するもののようだが、何て書いてあるのかは全くわからない。瀬奈は泰西と比べると、全てにおいてが凡人だった。特に、経営に関することは全く知らない。「……」「お前、どうせ意味なんて理解できないだろう?」泰西が馬鹿にするように言い放った。図星であるのが余計に辛い。「仕方ないでしょう、私も姉さんもこういう教育は受けてないのよ」「お前、一体大学で何を学んだんだ」泰西は有名国立大学を卒業した後、海外の大学院に進学するという超エリートコースを歩んでいる。一方瀬奈は私立大学を卒業後、就職せずに神宮司家の妻になった。(湊斗もああ見えて院まで出てるし……私の周りはハイスぺだらけね)大学で何を学んだのかと言われても、正直あまり覚えていない。「兄さんはとっても立派な大学を卒業しているから、私とは何もかも違うのよ」絵に描いたようなエリートである泰西への劣等感が全くないわけではなかった。瀬奈は拗ねたように口を尖らせた。兄弟の中で何も持たずに生まれてきたのは自分だけな気がしてならない。そんな彼女に、泰西は珍しく励ましの言葉をかけた。「まぁ、そんなに落ち込むな。俺はお前のそういうところが良いところだと思ってるからさ」「ちょっと、それどういう意味!?」明らかに馬鹿にされているような気がするが、気のせいだろうか。「静香より接しやすくて一緒にいると気が楽ってことだ」泰西はそう言いながら、書斎の椅子に座った。今の言葉は、きっと彼なりに瀬奈のことを褒めているのだろう。特に目立ったところのない暁家の次女。昔から自分の価値をなかなか見出せない瀬奈だったが、静香や泰西はきちんと彼女のことを見ていたのだ。「ところで兄さん、父さんはいつ帰ってくるの?」「ん、今日はそんなに遅くならないはずだ。多分夕方くらいだな」今の時刻は昼の三時。つまり、あと数時間もすれば父親が敷地内にある本邸に帰ってくる。昔から、父親に関しては全くと言っていいほど良い思い出がない。複雑な面持ちの瀬奈に、泰西が尋ねた。「父さんのことが気になるのか?」「……私、今日里亜を父さんに紹介しようと思っているの」「……何だと?」その言葉に、泰西は驚いて作業の手を止めた――







