Masuk瀬奈は部屋にあった荷物をまとめた。とはいえ、彼女の部屋には持っていけるようなものは何一つなかった。
湊斗は瀬奈に必要最低限の生活を保障してはいたものの、彼女に余分なものは買い与えなかった。沙織やほかの愛人たちはハイブランドのバッグやアクセサリーをもらっていたようだが、当然瀬奈には贈り物など一度もしたことがなかった。
「……」
ドレッサーの引き出しを開けると、いくつかアクセサリーが入っていた。当然、これらはすべて瀬奈が自分のお金で購入したものだ。瀬奈は神宮司家の夫人とはいえ、お飾りの妻。当然神宮司家の財産を自由に使えるわけがない。
瀬奈はお金になるかもしれないから持っていこうと、アクセサリー類をカバンに詰めた。その中で、あるものに目を留めた。
「あら?これは……」
瀬奈の手に握られていたのは、子供用のリボンの髪飾りだった。三十代後半の彼女は到底着けられないし、中高生が身に着けるにしても幼すぎる。
では、一体何故そんなものがここにあるのか。瀬奈はすぐに気が付いた。
そのリボンは、かつて湊斗が瀬奈に贈ったものだった。
彼女が小学生の頃、まだ湊斗と仲が良かったときだ。彼は彼女の誕生日に、ピンク色のリボンをプレゼントしたのだ。
瀬奈は愛する湊斗からのプレゼントに大喜びし、毎日のようにリボンを髪につけた。忘れていた幼い頃の記憶だった。
「彼から貰ったもの……あったわ……」
それが最初で最後の贈り物となってしまったが、本当に本当に大切なものだった。当然、湊斗はそんなこと覚えてもいないだろうが。
「すごく大切なものだったけれど……今はもう必要ないわね」
瀬奈はリボンをカバンに入れずに、ドレッサーの引き出しに閉まった。どうせ湊斗とは離婚するのだから、彼の痕跡が残っているものは持っていかないほうがいい。
彼女は机の上にサイン済みの離婚届を置いた。見える位置に置いておけば湊斗も自分がいなくなった理由をすぐに理解するだろう。もっとも、突然失踪したところで何とも思わないかもしれないが。
瀬奈はカバンを手に持つと、殺風景な部屋を見渡した。
彼女が二十年過ごした場所。今は亡き義理の両親が彼女に与えてくれた、大きな部屋。辛い記憶ばかりだったが、それも今日で終わりだ。
彼女は最後に部屋を軽く掃除すると、カバンを持ったまま出て行った。邸宅の廊下を歩き、門の外に出ると、瀬奈は長年過ごした邸宅を振り返った。
「二十年間ありがとう」
辛い記憶ばかりだったけれど、たしかに楽しい思い出も存在した。邸宅から背を向けた彼女は、二度と振り返ることはなかった。
神宮司家を出た彼女が最初に向かったのは、墓地だった。近くの花屋で購入した花を、そっとある人物の墓に添えた。
「お義父さん、お義母さん……」
湊斗の両親――神宮司夫妻の墓だ。二人は十六年前の旅客機事故で同時に命を落としてしまった。
夫妻の訃報を聞いた瀬奈は、人目も憚らずに声を上げて泣いた。何故あんなに優しい人たちがこんなにも早く亡くならなければならなかったのか。
事故のあと、瀬奈は自分を責め続けた。
「すみません、私はもう……お義父さんとお義母さんの娘ではいられなくなったようです」
彼女がここに来た理由はただ一つ。大好きだった義理の両親に真っ先に彼との離婚を報告したかったからだ。
生前、湊斗に顧みられなかった瀬奈をいつも気にかけてくれた二人。何も言えない瀬奈に代わって、いつも湊斗に苦言を呈していた。
「湊斗のこと、優しく見守っていてあげてください」
それだけ言うと、彼女は義理の両親の墓から背を向けた。
そして彼女は近くにとまっていたバスに乗り込んで駅に向かった。電車で一時間ほど揺られ、到着した駅で瀬奈は下りた。
瀬奈が元々湊斗と住んでいた黒川区に比べるとかなり田舎な場所だった。瀬奈が駅で立ち尽くしていると、小さな子供が嬉しそうに彼女の元へ駆け寄ってきた。
「お母さん!」
五歳ほどに見える可愛らしいその少女は、瀬奈に抱き着いた。彼女はそんな少女を、優しく抱き上げた。
少女の顔は湊斗にそっくりだった。
「――良い子にして待ってた?里亜」
湊斗は瀬奈にとって、優しい完璧な夫だった。昔、すれ違っていた時期はともかく、今は誰から見ても理想的な夫である。だからこそ、瀬奈はついつい彼に頼りたくなってしまう。彼の優しさに甘えて、自分で動くことをしなくなった。でも、それではいけない。瀬奈は一人の娘を持つ母親で、守るべきものが存在した。自分よりもずっと頼りがいのある夫に任せてばかりではいけないのだ。―――深夜、とある一軒の家の前で二人は密かに会っていた。お互い目立たない暗い色の服に身を包み、小さな声で言葉を交わしていたのは小夏と優里亜だった。優里亜は嬉しそうにスマートフォンの画面を小夏に見せた。「湊斗の愛人の女が捕まったんですって、ニュース見た?」「ええ、ライバルが一人減ったわ。これで私の子を次の後継者に……」小夏の目的は自身の子を神宮司財閥の後継者にすることだったが、優里亜は違う。「私が湊斗の本妻の座を手に入れるのよ!」優里亜は湊斗を愛している。一応従兄弟同士の結婚は認められているので、彼女が妻となることは不可能ではなかった。「だけど、里亜っていうあの本妻の女の娘が邪魔ね……」「女だし、害はないんじゃない?」「いや……」優里亜はさほど危険視していなかった里亜の存在だが、小夏は違う。彼女は優里亜と違って馬鹿ではなかった。むしろ、悪知恵の働く女と言えるだろう。「……念のため、あの二人も排除しておくべきね。優里亜、アンタも本妻がいなくなることを望んでいるんでしょう?」「当然だわ」優里亜は瀬奈を、小夏は里亜をそれぞれ目の敵にしている。計画を成し遂げるためには、あの二人に消えてもらわなければならなかった。しかし、そんな彼女たちの計画は未然に防がれることとなった。「―――初めまして、小夏さん、優里亜さん」突然、二人の前に瀬奈が現れた。彼女とほとんど会ったことがない二人だったが、さすがに顔くらいは知っている。湊斗の妻として、長年敵対視してきた女だったからだ。「ア、アンタ……もしかして、湊斗の奥さん!?」「ええ、そうよ」瀬奈は腕を組みながら、ゆっくりと二人に近づいた。彼女の後ろには、大きな黒塗りの車が停まっている。おそらく一人ではないだろう。「ところで……話を聞いていたけど、ずいぶんと物騒なことを考えているようね?」「そ、それは……」全てを聞かれていたとは、考えてもいなかった。
里亜の誕生日パーティーが終わり、いつも通りの日常が戻ってきた。「へぇ……それで、旦那さんとの仲が戻ったわけか」「はい、色々と心配おかけしてしまってすみません。もう平気です」「それはよかった……」瀬奈は同僚の松永とカフェで話をしていた。松永は瀬奈が湊斗の関係に悩んでいるとき、何かと相談に乗ってくれた先輩だった。彼自身もまた、愛する人とのすれ違いを経験している。その点で言えば、同志のようなものだった。「まぁ……ちょっとショックではあるけど、旦那さんと上手くいっているみたいでよかったよ」「ショック?」「いや、何でもない」松永は笑いながら首を横に振った。ほんの一瞬だけ、彼は切なそうに笑った。「ありがとうございました、松永さん」「ああ、全然。また何かあったら、いつでも連絡しておいで。話は聞くからさ」「はい、ありがとうございます」瀬奈はニッコリと笑いながら、彼と固く握手を交わした。***仕事終わり、瀬奈は迎えの車の中で物思いに耽っていた。この頃になると、瀬奈は里亜の将来について考えるようになった。順当にいけば、湊斗の唯一の子である彼女が会社を継ぐことになる。しかし、瀬奈は里亜の将来を親の都合で決めたくはなかった。「それに、小夏っていう親戚の女のことも気になるわね……」瀬奈は小夏という湊斗の従兄弟に会ったことがなかった。彼は親戚と特別親しくしているわけでもなかったし、もともと瀬奈はそのような会にほとんど呼ばれなかった。「もしも、小夏が自身の子を後継者にしたがっているのであれば……」―――里亜を狙ってくるかもしれない。膝の上に置かれた拳を、瀬奈はギュッと握りしめた。愛する我が子を狙っているとわかっていて、大人しくしているわけにはいかない。(里亜を守り抜くと決めたんだから……絶対に沙織のときのようにはならないわ)愛する娘を守るため、瀬奈は自分から動くことを決めた。そして、あることを行動に移した。家に帰った瀬奈は、湊斗の部下にある依頼をした。「小夏という女性について……できるだけ多くのことを調べてほしいの」「承知いたしました、奥様」
誕生日パーティーが終わり、誠也は静香たちと共に稲田町へ帰っていた。車の助手席に乗る彼の脳内には、先ほど見た湊斗と瀬奈の姿が永遠に浮かんでいた。一時は熱烈に愛した女性だった。しかし、誠也は彼女の幸せを心から願っている。未練がないと言えば嘘になってしまうが、以前に比べたら熱も収まり始めていた。(時間が経てば忘れるとは言うが……まさにその通りだな)いつまでも執着せずにいられてよかった。既に新しい人生を歩み始めている瀬奈からすれば、自分の好意は邪魔でしかないはずだから。誠也は窓の外を眺めながら、ポツリと呟いた。「家族っていいですね……」「あら、あなたも今になって家族の良さに気付いたのかしら?」運転席で車を運転していた静香が反応した。誠也は今日、静香の車で里亜の誕生日パーティーへと訪れていた。彼女には夫がいるが、家族ぐるみで付き合いのある誠也なら何の問題もないと許可されたのだった。「ええ……もし、自分に子供がいたらどんな感じだったんだろうって少し想像していたんです」「そういえば、誠也君は前の奥さんとの間に子はいなかったわね」誠也はバツイチで、数年前まで既婚者だった。前の妻と別れたあとは特に誰とも交際することなく、家業に専念していた。瀬奈に恋をしてからは彼女と共に歩むことを夢に見ていたが、結局その恋も叶うことはなかった。二度と結婚なんてしないと思っていたのに……。なぜか、今になって欲が湧いてきたようだった。そんな彼の気持ちに気付いたのだろう、信号待ちで静香が口を開いた。「誠也君、誰か良い娘を紹介してあげましょうか?」「……静香さんの紹介なら、きっととっても素敵な人なんでしょうね」実は以前、一度だけ似たような提案をしたことがあった。しかし、誠也は恋愛は向いていないとキッパリ断りを入れていた。今回もそう言われるかもしれないと僅かに思っていた静香は、驚いて目を見張った。ようやく前に進めたのかと、彼女は微笑んだ。「私も……瀬奈もきっとあなたの幸せを願っていると思うわ」「……そうですね、瀬奈さんを心配させたくはありませんから」そう口にした彼の瞳には、以前のような熱烈な愛情は感じられなかった。誠也は誠也なりに、瀬奈のことを割り切ったようだった。そうともなれば、話は早い。「年齢は同じくらいがいい?どんな子がタイプとかあるの?」「ええ、そうです
湊斗が瀬奈を連れてやってきたのは、屋敷の外―――かつて二人で何度も過ごしたことのある庭だった。既に日が沈みかけていた。楽しい時間だったせいか、ずいぶんあっという間に感じられる。瀬奈は彼のほうを振り返った。「湊斗、どうして私をここに……?」「お前にどうしても話したいことがあったんだ」そう言うと、湊斗は瀬奈の前でゆっくりと跪いた。赤い夕日を浴びているせいか、彼の頬が僅かに上気しているように見える。「湊斗……?」突然の彼の行動に、瀬奈は目を丸く見開いた。一体何をするつもりなのだろうか。瀬奈はきょとんとした顔で湊斗を見下ろしていた。跪いた彼と視線がぶつかる。「……お前に、きちんと伝えておかないといけないと思って」「伝えるって……一体何を?」その姿勢から、大体察することはできる。それでもわざわざ聞いたのは、聞きたい言葉があったからだろうか。湊斗は跪いたまま、瀬奈の手を握った。彼の両手に包み込まれ、温もりが広がった。「―――瀬奈、俺の過去の罪はいくら後悔したところで到底償えない。それはわかっている」「……」いくら瀬奈が彼を受け入れたとはいえ、湊斗の胸に残る罪の意識はいつまでも消えないままだった。「だが、俺はお前なしでは生きていけない」湊斗は縋り付くような眼差しで彼女を見上げた。そこから続いたのは、もう何度目かわからない愛の告白だった。「少しでも離れているとお前に会いたいと思うし……何なら傍にいても会いたいと思うときがある」「……何よ、それ」傍にいても会いたいだなんて―――瀬奈は思わず笑いそうになってしまった。「俺は冷酷で残忍な人間だから……お前とは似合わない。そのことは誰よりもよくわかっている。だが、この先二度とお前を傷付けないと誓う」「湊斗……」そこまで言うと、彼は胸ポケットから何かを取り出した。白い小さな箱の中から姿を現したのは、シルバーの指輪だった。「結婚指輪……お前がつけてないのが気になっちゃって、用意したんだ」「あら……素敵な指輪ね」瀬奈は左手を彼に差し出した。湊斗は彼女の意思を汲み取り、薬指に用意した指輪をはめた。指でキラキラ光る輪っかに、瀬奈は微笑んだ。「いいわよ、傍にいてあげるわ。だから絶対に幸せにしてね」「瀬奈……!」感極まった湊斗は、勢い余って瀬奈に抱き着いた。瀬奈は湊斗の背中に腕を置き、彼を抱きしめ
瀬奈への深い愛が込められたラブソングを歌ったことで、なぜか稲田町の面々に対する湊斗への好感度が急激にアップした。「神宮司さんの旦那さんはとっても素敵なお方ね」「ええ、私にとっても自慢の夫なんですよ。湊斗と結婚できて本当に幸せです」瀬奈は笑顔で返事をした。取り繕っているわけではない、彼女は今本当に心からの幸せを感じていた。すれ違っていた時期もあったけれど、今では乗り越えられている。瀬奈はパーティーに招待した女性陣と話していた。湊斗は誠也を始めとした男性陣と少し離れたところで会話をしている。お互いに、同性相手のほうが話しやすかったからだ。「長い結婚生活でここまで愛し合っている夫婦も珍しいわね、羨ましいわ」「そうね、夫婦の円満の秘訣とかあるのかしら?ぜひ聞きたいわ」ふと、その中の女性の一人に尋ねられた。(夫婦円満の秘訣……?)そんなもの考えたことがなかった瀬奈は、返答に悩んでしまった。しかし、湊斗との長い結婚生活の間に学んだことはいくつかある。「そうですね、夫婦二人の時間をきちんと取って話し合うことでしょうか……お互い誤解したままだと、いつかはすれ違って仲も険悪なものになってしまいますから」「たしかに、その通りだわ」「ウチも夫ときちんと話し合うべきよね。神宮司さん、良いことを聞けたわ」女性陣たちは納得したように次々と声を上げた。自分なりに良い回答が出せたようで、瀬奈は安心した。今のは彼女だからこそ、できた回答ではないだろうか。たくさんの涙を流し、苦しい時期を乗り越えて今の瀬奈がある。「―――瀬奈」「……湊斗?」すぐ傍から聞こえた声に振り返ると、いつの間にか湊斗が立っていた。(一体いつからそこにいたんだろう?ずっと聞いてたのかな?)彼は真剣な面持ちで瀬奈を見下ろしていた。「少し、二人で話せるか」「……」湊斗の突然の提案に、彼女は迷うことなくコクッと頷いた。瀬奈は話していた女性陣に断りを入れ、一度部屋から退出した。
その後、瀬奈は音痴ではないことを証明するべく招待客全員の前で一曲披露した。ちょうど里亜が泰西からもらったマイクを使って。彼女は湊斗への愛が込められたラブソングを一曲歌い上げた。二十年前の歌ということで、里亜はきょとんと首をかしげながら聞いていた。誠也や真由子は瀬奈に気を使い、パンパンと手拍子をしてあげていた。何とも優しい人たちだった。一曲歌い終わったあと、微妙な空気が室内に流れた。「わ、わぁ~……神宮司さん、とっても上手ね」「そうね……一生懸命さがすごく伝わってきたわ」明らかに上手いとは思っていなさそうだ。チラッと横にいる湊斗に目をやると、口元を手で押さえて笑いを堪えていた。身体はプルプルと震えている。そんなに面白い歌だったのだろうか。瀬奈は湊斗の肩を掴んで問い詰めた。「ちょっと、何なのよ?さっきから失礼じゃない?人が精一杯やってるってのに」「いや、すまない……お前があまりにも可愛らしくて……笑ってしまったんだ」「どういう意味!?」瀬奈は子供のように頬を膨らませた。「じゃあ、アンタが歌ってみなさいよ!」「え、俺が?」突然瀬奈にマイクを渡され、湊斗は呆然とした。なぜ俺が?とでも言いたそうな顔だ。瀬奈はそんな彼に強引にマイクを持たせた。渋る湊斗を後押しするように、真由子や誠也が声を上げた。「あら、それいいですね!社長も一曲歌ってみてください!」「そうですよ社長、人の歌にケチつけるくらいなら自分で歌ってみてください」ここにいる人たちは基本瀬奈と里亜の味方。湊斗アンチも同然だった。瀬奈が受け入れたから黙っているだけで、個人的には彼を許したわけではない。周囲からの刺すような視線をひしひしと感じ、湊斗は仕方なく立ち上がった。「……しょうがないな、一曲だけだぞ」「そうよ、一曲くらい歌いなさい」瀬奈ですら、湊斗の歌声は一度も聞いたことがなかった。彼がどのくらい歌えるのか、見ものである。湊斗は先ほどのお返しだとでもいうかのように、男性向けのラブソングをチョイスした。長いイントロのあと、湊斗はゆっくりと口を開いた。―――彼が歌い始めた途端、室内はシンと静まり返った。普段の湊斗からは想像もつかない、透き通った柔らかい声が部屋に響き渡った。「あら、まぁ……!なんて素敵な歌声……!」女性陣はうっとりした様子で聞いていた。それは瀬奈も同じ






