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第5話

作者: 硝子の砂糖
慎一郎が雪代の前に立った。

雪代は指の動きを一瞬止め、さりげなく携帯電話をしまった。

「聞き間違いよ。ちょっと外の空気を吸いたいだけ」

「どこへ行くにしても、俺が付いていく」慎一郎は自然に彼女の手を握った。

雪代は何も答えなかった。

今の彼女に必要なのは、証拠を見つけることだけだ。

彼女は現場のホテルを訪れ、スタッフに聞き込みをした末、ついに夏実が放火するのを目撃し、証言に応じると言う人を見つけた。

二人で警察署へ向かったが、その人は警官の前で突然証言を翻した。雪代に指差して、「彼女です。あの日見たのはこの人。電気室へ行った直後に火事になりました」と言った。

雪代の瞳が一瞬で縮んだ。

警官は冷たい表情で雪代を拘束した。「月島さん、放火未遂の疑いで告発された以上、調査にご協力ください」

「私じゃありません。電気室なんて行っていない……」

慌てて抗議したが、当日の監視カメラは焼失しており、残っているのは証言だけ。

警察はひとまず証言を受け入れ、雪代を拘留した。

拘留所での二日間は、雪代の人生で最も長い時間だった。

最も汚い監房に閉じ込められ、同室者たちは雪代を執拗に辱めた。

冷水を浴びせられ、食事に砂を混ぜられ、寝ている間に髪を引っ張られる……

雪代は一言も発せず、ただ拳を握りしめていた。

二日後、保釈された。

警察署を出た瞬間、記者たちが殺到し、カメラのフラッシュが目を開けていられないくらいまぶしかった。

「雪代さん、ホテルの火事は妹さんを陥れようとした計画なんですか?」

「雪代さんがいないあいだに妹さんが桐原さんを奪ったのが妬ましくて、犯行に及んだのですか?」

雪代は状況が理解できず、口を開こうとしたその瞬間、頭の上から一桶の赤いペンキが浴びせられ、全身にまみれた。

「人殺し、死ねっ!」

赤いペンキが髪から滴り落ち、雪代の顔を覆った。

彼女は全身を震わせた。眼前の人だかりは彼女に軽蔑と好奇の混じった視線を投げかけ、カメラを構え続けた。

この時、男の影が猛然と駆け寄ってきた。

「どけ!」慎一郎の声は氷のように冷たく鋭く響いた。

報道陣たちは即座に沈黙し、道を空けた。

慎一郎は上着を脱いで彼女に覆い、抱き寄せた。「雪代、遅れてすまない」

声には彼女を愛おしむ気持ちがあふれている。

雪代が顔を上げると、彼の目に浮かぶ後悔の色が、ただ滑稽なものに思えた。

彼女はとっくに夏実からのメッセージを受け取っていた。慎一郎はこの二日間、H市にいないというのだ。

ちょうど彼女が汚名を着せられたまさにその時、彼は夏実と一緒にあちこち遊び回っていた。

さらに滑稽なのは、彼女が釈放されたのは、夏実が「親切」にも雪代のアリバイを証明したからだという事実だった。

そしてあの証人もすぐに「見間違えた」と証言を翻していた。

その瞬間、雪代は悟った。全てが夏実の仕組んだ罠だと。

あの証人も、初めから彼女の手の者だったのだ。

雪代はすぐに夏実の元へ向かい、直接問い詰めた。

「あの証人はあなたが唆したのね?五年前の火事もあなたの仕業?」

夏実は微塵も恐れる様子がない。「だから何?証拠があるの?」

「なぜ……」

ここまであっさり認めるとは思わなかった。ましてや実の妹が自分を殺そうとしたなんて。

「あなた自身のせいよ」夏実は一步近づき、瞳に毒をたたえて言い放った。「どうして五年前に死ななかったの?なぜ戻ってきて私と慎一郎を邪魔するの?

何年もかかったんだから……ずっと彼があなたに夢中なのを見ながら、優しいふりをして、やっとここまで来たのに!あなたが戻ってきて、彼は私を捨てようとしているの。どうして私ばかりがこんな目に遭わなきゃいけないの!」

その瞳には見たこともない狂気と憎悪が満ちており、雪代は思わず一歩後ずさった。

「そんな理由で、私をここまで追い詰めるの?」雪代は夏実の手首を掴んだ。「私はあなたの姉よ!」

夏実の目に一瞬の動揺が走り、すぐに大声で叫んだ。「姉さん、何するの!離して!」

雪代が反応するより早く、夏実は彼女の手を掴み、自分の顔にビンタを食らわせた。

パシッと音が響いた直後、ドアが勢いよく開いた。

「雪代!」父の厳しい叱責が飛んだ。「妹を殴るとは何事だ!」

両親が入ってくるのを見て、夏実はすぐに顔を押さえてすすり泣いた。

「姉さん、火事のことは知らないよ!私には関係ないんだから!姉さんを害そうなんてこれっぽっちも思ってない!ホテルで慎一郎が私を助けてくれたから、姉さんが怒る気持ちはわかるけど……火事まで私のせいにするなんて、ひどいよ……!」

「違う!あなたが私を害そうとしたんでしょ!」

「もういい!」父が遮った。「いつまで騒ぐつもりだ?夏実が証言してくれなければ、あなたはまだ刑務所にいるんだ。彼女はあなたの妹だ。お前を害するわけがないだろう!」

その言葉に、雪代は声も出なかった。証拠がなければ、何を言っても誰も信じてはくれない。

……

その夜、慎一郎は彼女を慰めるため、彼女の最も好きなピアニストを招いて独奏会を開いた。

「雪代、すまない、二日間も辛い思いをさせた」

慎一郎は彼女の手を握り、優しい口調で言った。「レオの演奏が好きなのは知っている。結婚式でも彼に伴奏してもらおうか?」

雪代は静かにピアノの演奏を聞き、虚ろな眼差しをしている。

硬くうなずいた。

彼は知らない。もうこの二人に結婚式はないのだ。

今の彼女に必要なのは、証拠を見つけ、五年前の大火の真犯人が夏実であることを証明することだけ。

そして、ここから完全に離れることだ。

ピアノの音がまだ響く中、慎一郎の携帯電話が鳴った。

彼は一瞥し、表情がわずかに変わった。「雪代、ちょっと電話に出る」

そう言い残して、彼は急いで去った。

雪代は視界の隅で夏実の名前を捉え、胸が沈んだが、それ以上は何も言わなかった。

慎一郎はその後、戻っては来なかった。

彼は彼女一人をコンサートホールに置き去りにした。

雪代が家に帰り、初めて知った――

夏実が拉致されたのだ。

慎一郎と月島の両親に一通の動画が届いた。

画面の中、夏実は椅子に縛られ、息も絶え絶えで、露出した肌には無数の傷跡が刻まれていた。

犯人は身代金の受け渡しを慎一郎に要求し、さもなければ人質を殺すと言ってきた。

月島の両親はすでに慌てふためき、顔面蒼白となっている。特に母は、崩れ落ちて声を上げて泣いる。

雪代はどこかおかしいと直感した。「こんな大事なこと、まずは警察に通報したほうが……」と言いかけたとたん、母の口調が鋭くなった。「警察なんてダメ!犯人が知ったら夏実を傷つけるかもしれない!」

慎一郎は沈んだ顔で言った。「俺が助けに行く」

そう言ってから、雪代がまだ傍にいることに気づき、説明を加えた。

「雪代、彼女は君の妹でもある。君の家族を危険にさらすわけにはいかない」

彼は顔色を変えなかったが、眼差しには慌てがにじんでいる。

雪代は彼の焦る様子を見て、胸が痛んだ。

彼は本当に夏実を妹と思っているのか? もう聞きたくはない。

その時、彼女の携帯電話が鳴った。

見知らぬ番号だ。

雪代が電話を切りたかったその時、横からさっと手が伸び、携帯を奪い取って通話ボタンを押した。

「ご指示の通りに縛っておきました。桐原慎一郎が本当に身代金を持って来たら……予定通り、月島夏実を始末してよろしいでしょうか?」
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