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二度と温まらない私たちの関係

二度と温まらない私たちの関係

By:  硝子の砂糖Completed
Language: Japanese
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Synopsis

逆転

執着

高嶺の花

ひいき/自己中

身代わり

不倫

月島雪代(つきしま ゆきよ)は、財閥御曹司・桐原慎一郎(きりはら しんいちろう)にとって、忘れえぬ「亡くなった」永遠の初恋だった。 一ヶ月前に、彼女は突然姿を現した。しかし、そこで知らされたのは、慎一郎が彼女の面影を残す異母妹・月島夏実(つきしま なつみ)と、結婚しているという現実だった。 …… 「お願いです。もう一度だけ、確認していただけませんでしょうか?」 雪代は窓口に離婚届受理証明書を押し出し、声を詰まらせた。 職員は戸惑いながら首を振った。「お客様、これで三度目です。桐原慎一郎様と月島夏実様の離婚届の受理記録は、どこにもございません。お二人は現在も正式な夫婦です」 雪代の胸を、言い知れぬ絶望が襲った。 一ヶ月前、慎一郎は離婚届を手に、真摯な眼差しで、彼と夏実の間は単なる取引だったと、彼の心は決して変わっていないと、誓うように彼女に言ったのだ。 「雪代、あの時は君が死んだと思い込んでいた。それに、月島家も危機に瀕していた。桐原家が資本を注入する条件は、俺と夏実の結婚だった。全ては仕方なかったんだ」 その言葉を、雪代は信じた。 昨日、慎一郎のオフィスで、彼が夏実と夫婦名義で基金を設立すると計画を話しているのを偶然耳にするまでは。 聞き間違いだと願った。だが今、残酷な現実がもう目の前に。 雪代は偽りの離婚届受理証明書を握りしめた。七月の太陽が容赦なく照りつける中、彼女の心だけが、氷のように冷え切っていた。

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Chapter 1

第1話

月島雪代(つきしま ゆきよ)は、財閥の御曹司・桐原慎一郎(きりはら しんいちろう)にとって、忘れえぬ「亡くなった」永遠の初恋だった。

一ヶ月前に、彼女は突然姿を現した。しかし、そこで知らされたのは、慎一郎が彼女の面影を残す異母妹・月島夏実(つきしま なつみ)と、結婚しているという現実だった。

……

「お願いです。もう一度だけ、確認していただけませんでしょうか?」

雪代は窓口に離婚届受理証明書を押し出し、声を詰まらせた。

職員は戸惑いながら首を振った。「お客様、これで三度目です。桐原慎一郎様と月島夏実様の離婚届の受理記録は、どこにもございません。お二人は現在も正式な夫婦です」

雪代の胸を、言い知れぬ絶望が襲った。

一ヶ月前、慎一郎は離婚届を手に、真摯な眼差しで、彼と夏実の間は単なる取引だったと、彼の心は決して変わっていないと、誓うように彼女に言ったのだ。

「雪代、あの時は君が死んだと思い込んでいた。それに、月島家も危機に瀕していた。桐原家が資本を注入する条件は、俺と夏実の結婚だった。全ては仕方なかったんだ」

その言葉を、雪代は信じた。

昨日、慎一郎のオフィスで、彼が夏実と夫婦名義で基金を設立すると計画を話しているのを偶然耳にするまでは。

聞き間違いだと願った。だが今、残酷な現実がもう目の前に。

雪代は偽りの離婚届受理証明書を握りしめた。七月の太陽が容赦なく照りつける中、彼女の心だけが、氷のように冷え切っていた。

……

雪代と慎一郎は幼なじみだった。小さい頃から、彼は彼女の騎士になると誓い、彼女を守り抜くと言っていた。

十歳の時、隣家の狼犬に追いかけられて噛まれそうになった彼女の前に、彼が身を挺し、腕の肉を食いちぎられる覚悟で守ってくれた。

十五歳の時、彼女が遊びに夢中になって山道で迷子になると、彼が人を連れて三日三晩探し回り、体力の限界で倒れそうになった頃に彼女を見つけた。

十八歳の時、海で波に飲まれた彼女を、死の淵から必死の思いで引きずり戻したのも彼だった。

同じ年、二人は交際を始め、五年間を共に過ごした。慎一郎が彼女をこの上なく寵愛していることは周知の事実だった。

彼はかつて、生涯彼女以外とは結婚しないとまで言った。

五年前、結婚式直前のあの事故が起こるまでは……誰もが彼女が火災で亡くなったと思い込んだ。

そして再び戻ってきた今、全てが変わっていた。

ウェディングドレスショップで、雪代は鏡の前に立ち、映る自分を見つめていた。

五年前に彼女が着るはずだった、慎一郎自らがデザインしたこのウェディングドレス。五年の時を経て全てが変わってしまい、昔のままなのは、このドレスだけだった。

「雪代、気に入ったか?」いつの間にか背後に立った慎一郎が、彼女の腰を抱きしめた。

「この日を俺は五年も待ち続けた。それでも、神様は俺を見捨てなかった。やっぱり君を俺の元に返してくれた」

その声は優しさに満ち、目には取り戻したものへの惜しみない愛おしさが溢れている。

雪代には、もうどちらが本当の彼なのか見分けがつかなかった。

「慎一郎……」彼女は振り向いて彼の目を見た。「あなたは、まだ私を愛しているの?」

慎一郎は一瞬たじろいだが、すぐに笑顔を浮かべた。「そんなこと、聞くまでもないだろう?十八歳の時から今まで、俺の心は微塵も変わっていない」

彼は彼女の鼻先を軽くつまみ、その眼差しには誠実さが滲んでいて、雪代は錯覚が起きたかと自分を疑った。

もしかしたら、あの離婚届には何か彼女の知らない事情があるのかもしれない。

そう口にしようとした瞬間、慎一郎の携帯が振動した。

ちらりと見えた画面には、夏実からのメッセージが表示されていた。

【慎一郎、今日、お腹の子が動いたの。パパに会いたいって。いつ来てくれる?】

雪代は全身の震えを覚えた。

お腹の子? パパ?

つまり、離婚届が偽物なだけでなく、二人の間には子供までいるということ?

慎一郎は表情を一瞬で硬くし、素早く画面を消した。

「雪代、会社に急ぎの用件が入って。行ってみないと」

彼は彼女が見ていないと思っている。

そして、平常を装って嘘をつき続ける。

「どんなに急ぎの用件? ドレスのフィッティングが終わってからじゃだめ?」雪代は自分の声が震えているのを感じた。

「悪い、雪代」慎一郎は既に上着を手に取っていた。「すぐに戻るから」

彼が振り向いた瞬間、彼女は彼の袖を掴んだ。

「慎一郎、いてほしいの」

以前なら、数千億円規模のプロジェクトの契約が待っていようと、彼女が「傍にいて」と一言言えば、慎一郎は全てを放り出して残ってくれた。

しかし今、慎一郎の目は一瞬揺らぎ、最後にはそっと彼女の手を振り解いた。

「すぐ戻るから、待っててね」

慎一郎は彼女の額に慌ただしくキスをすると、その場を離れた。

その断固として去っていく背中を見つめ、雪代は胸が締め付けられるような痛みを感じた。

かつて彼女を命のごとく愛したあの慎一郎は、もうどこにもいない。

今の慎一郎は、偽の離婚届で彼女を騙し、ほかの女性のために彼女を置き去りにし、そしてついに他の女性との間に子どもまで作った。

雪代は棒立ちになったまま、時が経つのも忘れていた。しばらくして、突然の着信音で我に返った。

「月島様、結婚式の招待状とポスターのご案内書類について、ご確認をお願いしたくて……」

「私の名前を、月島夏実に変えてください」

先方が言い終えるのを待たず、雪代は静かに遮った。

電話の向こうは呆然とした。「え? 何とおっしゃいましたか?」

「招待状とポスターの新婦の名前を、全て月島夏実に差し替えて」彼女は一語一語、力を振り絞るように言った。

「この件は、慎一郎には内密にしてください」

彼らこそが正式な夫婦なら、結婚式も当然すり替えるべきだ。

これで、彼らへのせめてもの祝福としよう。

電話を切り、彼女は別の番号にダイヤルした。

相手はすぐに出た。少し不安げで、優しい男の声だった。

「雪代ちゃん?」

「賢人」

雪代は鏡に映る、ウェディングドレスを纏った自分を見つめ、ついに音もなく涙がこぼれ落ちた。

「あなたの気持ち、受け入れる。付き合おう。あと半月だけ待っててね、M国に戻るから」

五年前、火災に閉じ込められた彼女を救い出したのは高杉賢人(たかすぎ けんと)だった。

この数年、最も辛い時期を共に支え続けてくれたのも彼だった。

幾度もの皮膚移植の苦痛に、彼女が諦めかけていた時、彼女の手を握り「俺はここにいる」と言ってくれたのも彼。

そして賢人が彼女に想いを打ち明けた時、彼女は言った。

「ごめん、私にはもう愛する人がいる」

その人こそ、慎一郎だった。

しかし今、彼はもはや彼女の愛する人と呼ぶに値しない。

彼が新しい人生を歩み始めたのなら、彼女も過去に執着し続けることはない。
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松坂 美枝
クズ男の評価が上下して最後まで気が抜けなかった 主人公の災難が多発しすぎて気の毒だった 初恋がどうの似てる女を身代わりだの結局ただの浮気だわ ただ今回のクズ女はヤバかったから同情の余地はある クズ男女共々執着がすごかったな
2025-11-21 10:11:48
3
21 Chapters
第1話
月島雪代(つきしま ゆきよ)は、財閥の御曹司・桐原慎一郎(きりはら しんいちろう)にとって、忘れえぬ「亡くなった」永遠の初恋だった。 一ヶ月前に、彼女は突然姿を現した。しかし、そこで知らされたのは、慎一郎が彼女の面影を残す異母妹・月島夏実(つきしま なつみ)と、結婚しているという現実だった。……「お願いです。もう一度だけ、確認していただけませんでしょうか?」雪代は窓口に離婚届受理証明書を押し出し、声を詰まらせた。職員は戸惑いながら首を振った。「お客様、これで三度目です。桐原慎一郎様と月島夏実様の離婚届の受理記録は、どこにもございません。お二人は現在も正式な夫婦です」 雪代の胸を、言い知れぬ絶望が襲った。一ヶ月前、慎一郎は離婚届を手に、真摯な眼差しで、彼と夏実の間は単なる取引だったと、彼の心は決して変わっていないと、誓うように彼女に言ったのだ。「雪代、あの時は君が死んだと思い込んでいた。それに、月島家も危機に瀕していた。桐原家が資本を注入する条件は、俺と夏実の結婚だった。全ては仕方なかったんだ」その言葉を、雪代は信じた。昨日、慎一郎のオフィスで、彼が夏実と夫婦名義で基金を設立すると計画を話しているのを偶然耳にするまでは。聞き間違いだと願った。だが今、残酷な現実がもう目の前に。雪代は偽りの離婚届受理証明書を握りしめた。七月の太陽が容赦なく照りつける中、彼女の心だけが、氷のように冷え切っていた。……雪代と慎一郎は幼なじみだった。小さい頃から、彼は彼女の騎士になると誓い、彼女を守り抜くと言っていた。十歳の時、隣家の狼犬に追いかけられて噛まれそうになった彼女の前に、彼が身を挺し、腕の肉を食いちぎられる覚悟で守ってくれた。十五歳の時、彼女が遊びに夢中になって山道で迷子になると、彼が人を連れて三日三晩探し回り、体力の限界で倒れそうになった頃に彼女を見つけた。十八歳の時、海で波に飲まれた彼女を、死の淵から必死の思いで引きずり戻したのも彼だった。同じ年、二人は交際を始め、五年間を共に過ごした。慎一郎が彼女をこの上なく寵愛していることは周知の事実だった。彼はかつて、生涯彼女以外とは結婚しないとまで言った。五年前、結婚式直前のあの事故が起こるまでは……誰もが彼女が火災で亡くなったと思い込んだ。そして再び戻
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第2話
翌日、雪代は、五年前に慎一郎と共に暮らしていた家を訪ねた。彼女がかつて心を込めてデザインした家は、今や夏実のものになっている。雪代が戻ってきた後、慎一郎はようやく夏実にここから出て行くよう頼んだのだ。「慎重に運んでね。これらは全て、慎一郎が大事にしているものよ」雪代が玄関に入ると、書斎から夏実の声が聞こえてきた。使用人たちが幾つかの箱を注意深く運び出している。パタンと、一冊の写真アルバムが床に落ちた。雪代の視線が自然とそこへ向かう。物音に慌てて飛び出してきた夏実は、そのアルバムを拾い上げた。そしてわざとらしく雪代に見せ始めた――北ヨーロッパのオーロラの下で抱き合う二人、雪山の頂上でキスを交わす二人、デンマークの小さな町で手をつなぐ二人、クルーザーのデッキで朝日を眺める横顔……それらは全て、かつて雪代が慎一郎と「いつか行こう」と約束した場所だった。しかし今、写真に映っているのはすべて夏実の姿だ。「あの時はみんな、姉さんが死んだと思ってた。慎一郎が、悔いを残したくないって言うから、私をこれらの場所に連れて行ってくれたんだ。姉さん、気にしないでね」 夏実は雪代を見て、目元に明らかな挑発を浮かべた。雪代は冷たい瞳で彼女を一瞥した。「あなたが慎一郎に近づけたのは、単に私に幾分か似ていたからに過ぎない……」「姉さんは、慎一郎が私を姉さんの代わりとして見てる、って言いたいの?」 夏実の口元がほころんだ。「そうだね、一つ賭けをしよう。今の彼の心の中で、どっちがより大事か、確かめてみない?」雪代と夏実は同時に携帯電話を取り出し、慎一郎に電話をかけた。待っている間、雪代の心中は不安でいっぱいだった。彼女は元々、夏実とそんな幼稚なゲームを繰り広げるつもりはなかったが、それでもなお、答えを知りたくてたまらなかった。数回の呼び出し音の後、雪代の電話が先に繋がった。「雪代、どうした?」「私の車が高速道路で故障してしまって……」彼女が適当な理由を口にしたが、言葉が終わらないうちに慎一郎に遮られた。「慌てないで、今すぐ向かうから」彼の声には隠せない焦りと、優しい慰めが込められていた。雪代は横目で夏実を見た。夏実の表情には一瞬の動揺が見えた。夏実は再び発信ボタンを押した。今度は繋がった。「
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第3話
この数年、慎一郎と夏実が結婚していた事実はごく一部の者だけが知るところで、世間的には夏実は慎一郎が探した「代わり」の恋人だと囁かれる程度だった。何と言っても、当時の雪代と慎一郎は社交界で認められた、おとぎ話のようにめでたいカップルだったのだ。彼女の事故後、慎一郎が彼女を追って幾度も自棄騒ぎを起こしたことは、大きく話題になった。そんな中で秘め婚が発覚したのだから、世論が一瞬で沸き立つのも無理はない。夜には、桐原家と月島家の合同チャリティー晩餐会が開催する。雪代は行く気はなかったが、父からは「ここ数年は夏実がグループの業務を切り盛りしてきた。お前が携わりたいのなら、この社交界に再び溶け込まなければならない」と強硬に言い渡されていた。晩餐会は、杯が交わされ、華やかな衣装が行き交う中で進んでいく。慎一郎と夏実は両家の代表として、一つになるように並び立ち、美しい夫婦のように見えた。「桐原社長ご夫妻は、本当にお似合いの仲でいらっしゃいます。慈善事業へのお心遣いもお二人揃って同じで」噂が広まる中、早くも取り入るようなお世辞を口にする者も現れた。慎一郎はわずかに眉をひそめたが、結局は否定せず、淡々と会釈をするだけだった。雪代は少し離れた場所に立ち、増えゆく人々が恭しく夏実を「奥様」と呼ぶのを聞き、一つ一つのお世辞が針のように彼女の耳に刺さっていった。彼女は背を向け、展望台へと向かった。夜風は涼しいのに、彼女の胸の苦しみは吹き飛ばせない。ほどなくして、夏実の声が背後から聞こえた。「姉さん、どうしてここに隠れてるの?ネット上の雑言、あまり気にしないでね」彼女の紅唇がほころび、含み笑いのような挑発を浮かべた。雪代は冷ややかに笑った。「あなたがやったんでしょ? 芝居くさくすることないわ」夏実は眉を上げ、あっさり認めた。「そうよ、それが何か? 慎一郎も否定なんてしなかったし、私と一緒に出席してくれた。それでまだわからないの?」彼女は桐原家の家紋が刻まれた有田焼の白磁ブレスレットを軽く揺らしながら、得意げに笑った。「桐原家の証であるこのブレスレットでさえ、今は私のもの。まだ理解できないの?」それは桐原家に代々伝わるブレスレットで、桐原家の嫁にしか渡らないものだった。かつては、慎一郎の母が直々に雪代の腕にはめ
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第4話
会場内が一瞬でざわめきに包まれ、記者たちが一斉に質問を投げかけ始めた。その騒ぎを慎一郎が再び遮るように口を開いた。「しかし、私たちは一ヶ月前に離婚を済ませています。実際、この結婚は両家の政略的なものであり、私と月島夏実さんとの間に個人的な感情は一切ありません」壇上で慎一郎の言葉を聞いた夏実の表情が硬直した。慎一郎は人々を掻き分け、雪代へ歩み寄る。 雪代が状況を理解する前に、慎一郎は彼女の手を取って記者団の前に立たせた。「本日会見を開いた理由は、真相を明らかにするためと、私と月島雪代さんが半月後に結婚式を挙げることを発表するためです」瞬く間に世論の風向きが変わった。会見後、雪代が控え室で着替えていると、カーテンの外で夏実の陰険な声が聞こえた。「五年前の火事で死ななかったのは運が良かっただけ。今回はもう同じようにはいかないわ」「本当に実行なさるんですか?桐原様がもし……」「慎一郎は彼女が不注意だったと思うだけよ」夏実は含み笑いを漏らした。「五年前だって事故だと思い込んだじゃない?」雪代の全身の血液が凍った。五年前の大火は夏実の仕業だったのか?考える暇もなく、彼女は外に飛び出した。既に人影はなく、ドアを引いたが、びくともしない。次の瞬間、鼻を刺すような煙がドアの隙間から流入し、炎がカーペットを這うように広がっていった。雪代の息が詰まり、身体が硬直した。 重度のトラウマがこの瞬間爆発した。 肌の痛み、煙に詰まる苦しみ、火の海に一人取り残された絶望が、見えざる手で彼女を締め付け、身動きできなくさせた。かすんだ意識の中、ガラスのドア越しに、慎一郎が火の中に駆け込んでくるのが見えた。しかし、その目的は彼女ではなかった。慎一郎は少し離れた場所で倒れている夏実を抱き上げ、振り返らずに立ち去った。「慎一郎!」雪代は嗄れた声で叫んだが、何の返事もない。 絶望が潮のように彼女を飲み込んだ。まるで五年前に引き戻されたようだった。あの時、慎一郎は我を忘れて彼女を救おうとし、爆発の衝撃で吹き飛ばされた。だが今回は、彼は彼女を火の海に置き去りにした。煙が肺に入り、意識が遠のいていく。暗闇がゆっくりと雪代を包み込んだ。再び目を開けると、病院の真っ白な天井が見えた。雪代が意識を取り戻したのを
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第5話
慎一郎が雪代の前に立った。雪代は指の動きを一瞬止め、さりげなく携帯電話をしまった。「聞き間違いよ。ちょっと外の空気を吸いたいだけ」「どこへ行くにしても、俺が付いていく」慎一郎は自然に彼女の手を握った。雪代は何も答えなかった。今の彼女に必要なのは、証拠を見つけることだけだ。彼女は現場のホテルを訪れ、スタッフに聞き込みをした末、ついに夏実が放火するのを目撃し、証言に応じると言う人を見つけた。二人で警察署へ向かったが、その人は警官の前で突然証言を翻した。雪代に指差して、「彼女です。あの日見たのはこの人。電気室へ行った直後に火事になりました」と言った。雪代の瞳が一瞬で縮んだ。警官は冷たい表情で雪代を拘束した。「月島さん、放火未遂の疑いで告発された以上、調査にご協力ください」「私じゃありません。電気室なんて行っていない……」 慌てて抗議したが、当日の監視カメラは焼失しており、残っているのは証言だけ。警察はひとまず証言を受け入れ、雪代を拘留した。拘留所での二日間は、雪代の人生で最も長い時間だった。最も汚い監房に閉じ込められ、同室者たちは雪代を執拗に辱めた。 冷水を浴びせられ、食事に砂を混ぜられ、寝ている間に髪を引っ張られる……雪代は一言も発せず、ただ拳を握りしめていた。二日後、保釈された。警察署を出た瞬間、記者たちが殺到し、カメラのフラッシュが目を開けていられないくらいまぶしかった。「雪代さん、ホテルの火事は妹さんを陥れようとした計画なんですか?」「雪代さんがいないあいだに妹さんが桐原さんを奪ったのが妬ましくて、犯行に及んだのですか?」雪代は状況が理解できず、口を開こうとしたその瞬間、頭の上から一桶の赤いペンキが浴びせられ、全身にまみれた。「人殺し、死ねっ!」赤いペンキが髪から滴り落ち、雪代の顔を覆った。彼女は全身を震わせた。眼前の人だかりは彼女に軽蔑と好奇の混じった視線を投げかけ、カメラを構え続けた。この時、男の影が猛然と駆け寄ってきた。「どけ!」慎一郎の声は氷のように冷たく鋭く響いた。報道陣たちは即座に沈黙し、道を空けた。慎一郎は上着を脱いで彼女に覆い、抱き寄せた。「雪代、遅れてすまない」声には彼女を愛おしむ気持ちがあふれている。雪代が顔を上げると、彼の目
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第6話
相手の言葉が終わるやいなや、慎一郎と月島の両親三人の視線が一斉に雪代に集中した。「雪代、これはいったいどういうことだ?」「知らないよ。私には関係ない」彼女が首を傾げていると、相手から位置情報が送られてきた。慎一郎に送られたものと全く同じだ。「この番号は犯人のものだ」慎一郎の声は急に険しくなった。母は悲鳴を上げて雪代を指さした。「あなたが夏実の拉致を指示したの?」もはや雪代に弁解の余地はなかった。説明する間も与えられず、慎一郎に引きずられるように連れ出された。「一緒に来い。彼らに人質を解放させろ」その口調は、もう拉致が彼女の仕業だと信じ切っているようだ。「慎一郎、本当に私じゃない」しかし、どんなに訴えても、慎一郎は無言だ。彼は唇を堅く結び、冷たい表情で、限界とも言える速度で雪代をその場所へ連れて行った。廃工場はじめじめと湿り気を帯びている。犯人は雪代を見るなり、親しげな笑顔を見せた。「おや、雪代さん、ご自分でいらっしゃったとは」「あなたたちなんて知らない。なぜ私を陥れるの!」雪代は声を荒げて反論した。犯人の表情が一変した。「雪代さん、今さら知らん顔するか?妹が邪魔だって言ったのはあなただろうが。『始末してくれたら身代金に加えて報酬もやる』ってな。なのに、旦那さんを一緒に連れてくるって、どういうつもりだ? 金を払う気がないんじゃねえだろうな?」慎一郎の目つきが完全に冷え切った。「人を返せ!」彼はそう言い放つと、隅に縛り付けられた夏実へ一直線に歩み寄り、抱き上げてその場から連れ去った。雪代があとを追おうとすると、犯人たちに包囲された。「どいて!あなたたちなんて知らないって、何度言えばわかるの!」「知ろうが知るまいが、もう手遅れだよ!」慎一郎が去ると、数人はすぐに態度を一変させ、首謀者は不気味な笑みを浮かべて彼女に近づいた。雪代は「まずい!」と悟り、声を張り上げて叫んだ。「慎一郎!」彼は一瞥もくれず、素早く車に乗り込んだ。マイバッハが砂塵を巻き上げて走り去り、雪代の心は深淵に沈んでいった。逃げ出そうとしたその時、彼女は後頭部を強く殴打され、その場で気を失った。「夏実さんのご命令だ。俺たちが楽しんだ後は、海に沈めて魚の餌にしろ」かすかな意識の中、雪代はこの言
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第7話
雪代が数日家に戻らなかった間、賢人から紹介された人脈を使って、ホテルの火事とあの犯人たちの調査を進めていた。ようやくいくつか証拠をつかむことができた。資料の整理が終わった時、賢人から電話がかかってきた。 「雪代ちゃん、五年前の火事の真相が全部わかった。黒幕は間違いなく夏実だ。資料は全部弁護士に送ったよ」 雪代は電話を握りしめ、感激をこらえた。「ありがとう、賢人、明日の用事が済んだら戻る」明日は実の母の命日だ。彼女がこの地に半月も留まった理由はそれだ。一人で墓園に足を運んだ。海外にいる間、母の墓参りする者など誰もいない。 両親は雪代が幼い頃に離婚し、母は彼女が二十歳の時にこの世を去った。最期の時、母は彼女を慎一郎に託した。あの時、慎一郎は母の病床の前でひざまずき、一生彼女を幸せにすると誓った。今では、すべてが変わってしまった。「お母さん、私たち二人とも人を見誤りました」 冷たい石碑に触れたが、その冷たさも心の底から湧き上がる寒さにはかなわなかった。墓園をあとにし、雪代は家に戻って荷造りを始めようとした。ドアを開けると、部屋中にいた全員の視線が一瞬で雪代に注がれた。アシスタントは彼女の姿を見ると、泣きそうな声で叫んだ。「やっとお帰りなさいました!社長は雪代さんが見つからず、もうほとんど正気を失うところでした!」彼女が数日姿を見せず、携帯の電源も入っていなかったため、慎一郎はH市をくまなく探し回った。 警察、ボディガード、私立探偵、果てはアンダーグラウンドの勢力まで動員して、ただ彼女を探すためだけに。雪代の姿を見るなり、慎一郎はソファから躍り上がると、すぐに彼女の前に駆け寄り、強く抱きしめた。「雪代、どこにいたんだ?事故に遭ったんじゃないかと……」その腕の力は尋常ではなく、二度と彼女を離したくないという思いが伝わってくるようだった。雪代は抱かれたまま、微動だにしなかった。慎一郎は雪代がまだ怒っているのだと思い、彼女の顔を両手で包んで心苦しそうに謝った。「すまない、雪代。あの時は言葉がきつすぎて、君を傷つけてしまった。あの件は必ず調べる」 当時は焦っていたが、冷静になってみると不審な点が多いと彼が感じていたと。 しかしその後、雪代が行方不明になったことで、慎一郎の頭の中は彼女を探すことで
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第8話
慎一郎の声は一瞬で低く沈み、瞳に冷たい光が宿った。ベールの下で、夏実の笑みが固まった。慎一郎がここまで激しく反応するとは思ってもみなかった。「慎一郎、私……」彼女が手を伸ばして彼の手を握ろうとしたが、冷たく振り払われた。宴席に着いていた賓客たちはどよめき、この突然の出来事にひそひそと噂し合い始めた。その時、慎一郎の携帯電話が振動した。画面を開くと、そこには一通のメッセージ。 【慎一郎、私たちはこれで終わりよ。私は身を引くから、あなたは夏実と幸せに】慎一郎の瞳が一瞬で縮んだ。信じられないという様子で、その一行一字が、まるで刃物のように彼の目を刺した。 「雪代は……どこだ?」彼は夏実の手首を強く掴み、彼女の骨を砕かんばかりだった。「雪代に何か言ったんだろう?いったい彼女をどこにやった!」夏実は痛さに顔色が青ざめた。「知らない。彼女が自分で離れたいと言ったの」 彼女は反射的に口を滑らせたが、慎一郎は微塵も信じようとしなかった。慎一郎は夏実を放り出すと、そのまま結婚式場から飛び出していった。賓客たちは状況が理解できず、呆然とその場に立ち尽くした。 ステージに取り残された夏実の顔から血の気が引いていた。ここ数年も側にいてあげたのに、慎一郎の心の中では、少なくとも雪代よりは彼女の方が大切だと思っていた。 大勢の前で、両家の両親の前で、彼女は顔を潰された。……慎一郎は会場を離れると、ひたすら雪代に電話をかけ続けたが、聞こえるのは冷たい無機質な音声だけだった。「おかけになった電話の電源が入っていないため……」彼は雪代を監視していたボディーガードを呼びつけた。ボディーガードたちは恐怖に震え上がり、中から一人が必死に言葉を絞り出すようにして説明した。「私共は雪代様を式場までお送りし、その後はずっと控え室で待機しておりました。式が始まると宴会場に移動なさいましたが……」式場の花嫁がなぜ雪代から夏実に替わったのか、彼らにもわからなかったという。「役立たずめ!一人の人間も見失うとは何事だ!」慎一郎は烈火のごとく怒鳴りつけ、アシスタントを呼び寄せた。「至急調査しろ!ホテル中の監視カメラを片端から調べ上げるんだ!自宅の監視カメラも、雪代の行方を必ず突き止めろ!」アシスタントは怠らず、すぐに調査に向かった。
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第9話
夏実の目に一瞬、慌てる色が走り、思わず一歩後ずさった。次の瞬間、手のひらには細やかな冷や汗がにじみ出ている。「放火って何のことだ?」慎一郎はすぐには理解できなかった。頭の中を、「五年前」「M国」「放火」という言葉だけがぐるぐると巡る。「まさか……雪代が遭ったあの事故のことか?」ふと我に返ると、彼は夏実の手を掴んだ。「お前がやったのか!?」その声の低さに、夏実は全身を震わせた。「違う!私じゃない!警官さん、何か間違いじゃないですか?」ちょうどその時、駆けつけた両親はこの状況と会話を聞き、慌てふためいた。「警官さん、これはきっと何かの誤解です。娘がそんなことをするはずがありません」二人の警官は無表情で逮捕令状を提示した。「我々がこうして訪れたからには、それなりの証拠を掴んでおります」「月島夏実さん、ご協力ください」そう言って彼女を連行しようとした。夏実はパニックになり、両親の手を握り、慎一郎にすがりついた。「父さん、母さん、慎一郎、私を信じて!私じゃないの!連れて行かれちゃダメ!もし私が逮捕されたってニュースが広まったら、月島グループの株価にも影響するし、桐原グループだって同じよ!」夏実は自分と両家の利害を結びつけ、窮地を脱しようともがいた。月島夫妻ももちろん、娘を見捨てるわけにはいかない。しかし、慎一郎は顔を曇らせ、鋭い眼差しで夏実を睨みつけた。「五年前の事件にお前が関わっていたなら……もし雪代に手を出したのなら、俺が絶対に許さない」慎一郎は夏実を警官の方に押しやった。銀の手錠がすぐにその手首に。夏実は一瞬ぼう然とし、気がついた時にはもうパトカーに押し込められた。月島夫妻はその場でじたばたするしかなかった。「慎一郎さん、どうか落ち着いて聞いてください。夏実は絶対に罠にはめられています。雪代の実の妹ですよ?姉を害するなんて、ありえません」二人は必死に慎一郎を説得しようとしたが、彼にはそんな話を聞く心境ではなかった。彼はただ、雪代を見つけ出したかった。夏実の家を出ると、慎一郎はすぐにアシスタントに電話をかけた。「すべての交通機関の情報を調べ上げて、雪代の居場所を突き止めろ。それと、五年前のM国の火事と夏実の関係を徹底的に洗い直せ」あの火事を不審に思わなかったわけではない。だが当時は雪代を失った
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第10話
続いて、警察は彼女に対し、さらにいくつかの容疑を提示した。「ホテルではあなたが同じ手口で再び放火を実行し、その実行犯もすでに確保しています。さらに、複数の犯人を買収して月島雪代さんを拉致し、傷害を負わせた件についても、実行犯は全員逮捕済みです。これら一連の事件があなたの指示によるものだという証拠を、我々はすでに掌握しています」それらの言葉は、次々と夏実に降りかかる雷のようだった。彼女の身体は激しい震えに襲われた。「私じゃない!私の弁護士に会わせて……!」最後に震える声で絞り出したのは、その一言だけだった。取調室の外で、慎一郎は中の会話を一言一句、はっきりと聞いていた。拳を握りしめ、彼は壁を一拳で叩きつけた。夏実が雪代に対してこれほどの危害を加えていたことを、今になって知った。かつて雪代が夏実を指摘した時でさえ、彼は信じようとしなかった。押し寄せる怒りが彼を飲み込みそうだった。夏実を憎むと同時に、自分自身にも激しい怒りを感じた。……三日後、月島家が多額の保釈金を支払ったことで、夏実は保釈された。身の危険をひどく恐れるあまり、彼女は自室に引きこもり、もう外へは一歩も踏み出そうとしなかった。突然、ドアが激しい音を立てて蹴破られた。その響きに夏実は全身を震わせた。彼女が状況を理解するより早く、鉄の腕のような手がその首を激しく締め上げた。「夏実、よくも……よくも雪代にそんな真似ができたな!」慎一郎の怒りに満ちた声が頭上から響き、首を締めつける手の力は、彼女の首を折らんばかりだった。夏実の顔は真っ赤に染まり、窒息しそうになる直前に、ようやく慎一郎は彼女を放り出した。「慎一郎、話を聞いて、私じゃない……私がしたことじゃないの。誰かが私を陥れたの……!」警察がどうやってそれらを突き止めたかはわからないが、直感で、すべてが雪代の仕業だと夏実は確信した。彼女が必死に言い訳しようとするのを、慎一郎は厳しい声で遮った。「取調室での話はすべて聞いた。まだ自分じゃないと言うのか!お前を甘く見ていた。あれらが全部お前の企みだと知っていたら、とっくに代償を払わせていたぞ!」彼の瞳には冷たい光が走り、それが刃となって夏実を貫けばいいとすら思えた。夏実の身体は激しい震えに襲われ、そこへ一通の書類が、
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