Share

五十六回捨てられた花嫁
五十六回捨てられた花嫁
Author: ちょうどいい

第1話

Author: ちょうどいい
今日は私――白川沙織(しらかわ さおり)の結婚式の日だ。

「ごめん。でも、凛沙の命のほうが大事なんだ。今日はどうしても行かなきゃならない!」

こんなやり取りは、もう何度も繰り返してきた。

それでも、篠原恭弥(しのはら きょうや)がうつむいたまま私に謝った、その瞬間だけは今でも胸が締めつけられる。

これが、私と恭弥にとって56回目の結婚式だった。

これまで式を挙げようとするたびに、決まって何かが起きた。

一回目は、彼の部下の水瀬凛沙(みなせ りさ)が任務中にけがをして、恭弥は式の途中で駆けつけていった。

二回目は、凛沙の昇進が決まった日だった。恭弥は嬉しさのあまり涙ぐみながら、式場の入口に私を残したまま飛び出していった。

三回目は、私が選んだ挙式日が偶然にも凛沙の母親の命日と重なってしまい、「配慮が足りない」と恭弥に責められ、そのまま式にも来てくれなかった。

……

そんなことを、私はもう55回も繰り返してきた。

それなのに今日の式だけは――なぜか、すべてが驚くほど順調に進んでいるように見えた。

けれど――

式の最中に、不意に恭弥のスマホが鳴った。

受話口の向こうから聞こえてきたのは、女の甘えるような泣き声だった。

穏やかだった恭弥の表情が、一瞬で強張る。

……ああ、まただ。

胸の奥が冷たく沈んでいくのを感じながら、私は思わず口を開いていた。

「恭弥、あと10分だけ待って。指輪を交換したら、すぐ行っていいから。

お願い……凛沙が命に関わるような状態じゃないって、あなたも分かってるでしょう?」

これまで私は、恭弥に何かを頼んだことなんて一度もなかった。

それでもこのときだけは――

情けないと思いながらも、私は彼の袖を必死に掴んでいた。

恭弥がゆっくり顔を上げる。

その目に浮かんでいたのは、隠そうともしない苛立ちだった。

「いい加減にしろ。軍人の妻になるなら、それくらいの覚悟は最初からしていたはずだろ。

俺は遊びで動いてるんじゃない。今この瞬間だって、人の命がかかってるんだ。

凛沙は今、屋上で俺を待ってる。一分でも遅れたらどうなるか分かってるのか?もし何かあったら――お前が責任取れるのか?」

そう言うと恭弥は、本来なら私に渡すはずだったブーケを無造作に放り出し、そのまま振り返りもせず式場を出ていった。

ざわめきが広がる。

参列者たちはこんな光景を何度も見てきたはずなのに、それでも小声で噂するのをやめなかった。

「またなの……?」

「さすがにしつこすぎない?あそこまで嫌がられてるのに」

「もう結婚する気なんてないの、見てれば分かるでしょ……」

「篠原さんも大変よね」

一つ一つの言葉が、胸の奥に突き刺さっていく。

遠ざかっていく恭弥の背中が、涙でぼやけていく。

ずっと押し込めてきた感情が、とうとう溢れた。

「恭弥……!」

声が震える。

それでも私は叫んだ。

「今日ここを出ていくなら――私たち、本当に終わりだから!」

泣きながら絞り出したその言葉に、恭弥はようやく足を止めた。

振り返った彼は眉をひそめ、その声には苛立ちしかなかった。

「今さら何だよ。もう何回目だと思ってるんだ?

来月、改めて式を挙げればいいだろ。次は途中で抜けないって約束する。けど今回は本当に緊急なんだ」

言い終えるとすぐに顔を背ける。

私がどれだけ泣いていても、もう振り返ろうともしなかった。

会場のあちこちから、くすくすと笑う声が漏れてくる。

両親の顔も、見る間に暗くなっていった。

いつもなら――

こんなときの私は決まって取り乱して泣きじゃくり、子どもみたいにその場に座り込んで、誰かが慰めてくれるのを待っていた。

恭弥が戻ってくれば、その手をつかんで「本当に私のことが好きなの?」と何度も問いかけて、みんなの前で、結婚したい相手は私だって言わせようとしていた。

そして、みっともないほどすがりついて、次の挙式日を決めてほしいと頼み込むのだ。

――でも今回は違った。

追いかける気力さえ、もう残っていなかった。

付き合い始めた頃、私は「待たされるのが嫌いなの」と話したことがある。

すると恭弥は、それからどんなデートでも、必ず30分前には待ち合わせ場所に来るようになった。

雨の中で30分も私を待っていたことさえあるのに、私を1分でも待たせたことは一度もなかった。

それなのに――

人生でいちばん大切なはずの結婚式になると、彼は何度も先延ばしにして、気がつけば私は五年も待たされていた。

結局のところ、もう愛されていない。ただ、それだけだった。

私は一人でゆっくりと式場の中央へ戻った。

さっきまで胸の奥にあったはずの高揚感は、もうどこにも残っていなかった。

代わりに残っていたのは、どうしようもない疲れだけだった。

無数の視線を受けながら、私は静かに口を開いた。

「これで式は終わりです」

そして――

「これが、私たちの最後の結婚式になります」
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 五十六回捨てられた花嫁   第7話

    恭弥が関係部署に連れて行かれてから、しばらくは何もなかったみたいに静かな日が続いた。私が去ったあとの恭弥のことは、断片的に耳に入ってきていた。恭弥は仕事に行かなくなり、昔からの戦友を何人か引っ張っては、毎日のように酒を飲んでいたらしい。一方の凛沙は、流産したあと恭弥に結婚を迫ったという。けれど、その頃の恭弥はまだ少しはまともだったのだろう。多額の金を渡して、療養施設に入れたと聞いた。そのあと恭弥はさらに酒を飲むようになり、体も少しずつ壊れていった。仕事でも大きな失敗をして、一気に三階級も落とされたらしい。それでも本人はまるで気にした様子もなく、ずっと続けてきた仕事をあっさり辞めてしまった。「もっと大事なことがある」そう言い残して、姿を消したのだという。周囲の人たちは、あれはもう本当にどうかしてしまったのだと噂していた。私がそばにいた頃は何ひとつ大切にしなかったくせに、いなくなった途端、今さら未練がましい態度を取っているのだと。私も周囲と同じように、恭弥のことをどこか馬鹿らしく思っていた。私は彼に青春のほとんどを捧げてきたのに、結婚式は五十六回も先延ばしにされたままだった。凛沙だって彼のために八度も子どもを失い、もう妊娠できない体になったのに、それでも最後には療養施設に入れられた。今になってようやく、自分は本当に男を見る目がなかったのだと思い知らされた。どうしてあんな人を選んでしまったのか、と。このままもう二度と、恭弥と顔を合わせることもないのだと思っていた。それなのに――まさか、もう一度会うことになるなんて思いもしなかった。再会した恭弥は、前よりさらにひどい有様になっていた。服はぼろぼろで、髪も伸びきっていて、靴さえ履いていなかった。それでも、白い桔梗の花束だけは大事そうに抱えたまま、私と周平がよく食事をする店の前に立っていた。私に気づくと、恭弥はおそるおそる顔を上げ、無理に笑おうとするような笑みを浮かべた。「……もう、本当に戻れないのか?」私は黙ってうなずいた。「じゃあ……せめて、この花だけでも受け取ってくれないか。持ってる金、全部使って買ったんだ。これが最後の気持ちなんだ……」私は差し出された花束を受け取ると、そのまま何の迷いもなく近くのゴミ箱へ捨てた。恭弥の

  • 五十六回捨てられた花嫁   第6話

    任務に就いてから、私はまるで別の人生を生き始めたようだった。名前を変え、身元を伏せ、任務の都合で最低限の整形まで受けた。見た目はそこまで変わっていない。それでも私にとっては、それだけで十分すぎるほど新しい始まりだった。任務のあいだ、言葉を交わす相手は直属の上司である周平くらいだった。ほかの人と話す機会は、ほとんどなかった。周平はとても無口な人で、仕事柄なのか、身近に親しい相手もほとんどいないらしかった。それでも不思議と私たちは気が合って、たまたま二人とも時間が空いたときには、近くの居酒屋で軽く食事をすることもあった。日々は少しずつ、落ち着いていったように思う。両親もまた、私が任務で遠くへ行ったことを、時間をかけて受け入れてくれるようになった。友人たちはときどきSNSで、私と過ごしていた頃のことを懐かしそうに書いているのを見かけた。私はそれを黙って眺めるだけで、返信することはなかった。そんなある日――また周平と軽く飲んでいたときのことだった。見慣れすぎた姿が、いきなり視界に飛び込んできた。窓越しに私を見つけた瞬間、目の色を変えてこちらへ駆け寄ってくる。その必死さは、少し怖いくらいだった。私はとっさに身をかわした。勢いのまま突っ込んできた恭弥は、そのまま床に倒れ込んだ。ひどく痩せていた。見る影もないほどやつれていて、かつての引き締まった姿はほとんど残っていない。今にも風に吹き飛ばされそうなくらい、弱々しく見えた。私に避けられた恭弥は、ひどく傷ついたような目で、それでもなおすがるようにこちらを見上げてきた。「そんなに俺のこと嫌いになったのかよ?本当に俺のこと忘れられるのか?俺から離れたのも……こいつのせいなんだろ?やっぱりそうだよな……大蔵がお前をその気にさせたんだろ。あんな男がわざわざお前助けるなんて普通おかしいだろ。お前たち……前からできてたんじゃないのか?でもいい……そんなのもういい。今からでも戻ってきてくれればいいんだよ。前よりちゃんと大事にするから……絶対」恭弥はろれつが回っていなかった。かなり酒が入っているらしい。国家機密に関わる任務のはずなのに、どうやって私の居場所を突き止めたのか、まるで見当もつかなかった。けれど恭弥は、そんな私の疑問を見透かしたみたいに、あっさりと口を開いた。

  • 五十六回捨てられた花嫁   第5話

    「沙織さんが言ってたことって、どういう意味なんですか?もしかして……二人、本当に別れたんですか?私、悔しいです。恭弥さんはあんなに沙織さんのために尽くしてきたのに、あの人は少しも大事にしなかったなんて……もし隣にいるのが私だったら、絶対にあんなふうにはしません」凛沙の目には、隠しきれない期待が浮かんでいた。必死に思いを訴えるその言葉の端々からも、自分こそが妻になるべき相手だと言いたげな気持ちが透けて見えた。けれど恭弥は、まるで正気を失ったみたいに凛沙を突き飛ばし、私にすがるようにして引き止めた。「行くな。俺たち、ずっと一緒だったじゃないか。それでも本当に俺を捨てるのか? もうすぐ結婚するはずだったのに。来月……来月こそ絶対に式をやり直す。今までだって何度も許してくれただろ。だから、もう一度だけチャンスをくれよ」目を赤くしたその顔は、痛々しいほど必死だった。引き止められた足が止まり、ほんの一瞬だけ心が揺れた。昔、確かに私を愛してくれていた恭弥の面影が重なって見えたからだ。もし凛沙の足元に、あの鮮やかな血だまりが広がっていなかったら――私は本当に迷っていたかもしれない。けれど、その赤はあまりにも生々しくて、見ないふりなんてできなかったし、胸がぎゅっと締めつけられた。凛沙は苦しさのあまり床の上で身をよじり、涙に濡れた顔で泣きじゃくっていた。「恭弥さん……お腹が……本当に痛いの……お願い、見てよ……私、死んじゃうかもしれない……どうしてこんなに血が出てるの……?もしかして、この子……もうだめなの? 先生にも言われてたの。これが最後の望みかもしれないって……何か言ってよ、恭弥さん……私はあなたのために、もう八回も子どもを失ってるのよ。もしこの子までいなくなったら……もう二度と産めないかもしれないの……!」その場にいた全員が息をのんだ。けれど恭弥の仲間たちは、誰ひとりとして凛沙に手を差し伸べようとはしなかった。泣き崩れる凛沙の姿を見て、さすがに胸が痛んだ。けれど次の瞬間に浮かんだのは、結局は自分で招いたことだ、という冷めた思いだけだった。考えてみれば、凛沙も恭弥のそばにいたこの数年、ずいぶん苦しい思いをしてきたのだろう。無理やりとはいえ、八人もの子どもを失うなんて――そんなことに耐え続けられる人なんて、

  • 五十六回捨てられた花嫁   第4話

    「航空券?大蔵さん、渡す相手を間違えていませんか?新しい任務で誰かを現地に送るんですよね?でしたら、ここにいる水瀬凛沙を推薦します……」周平はわずかに眉を寄せ、恭弥の言葉を遮った。「人違いなんかしていない。自分の教え子の顔くらい、ちゃんとわかっている。君が口を挟む必要はない」周平が私の教官だと知った瞬間、恭弥の顔から笑みが消えた。目にはあからさまな怒りが浮かび、声には責める色がにじんでいた。「そんな大事なこと、どうして今まで黙ってたんだ!もっと早く大蔵さんとの関係を教えてくれていたら、俺だってこんな回り道せずに済んだのに!ここ数日姿を見せなかった理由も、やっとわかったよ。こんなタイミングで急に出てきたのは、凛沙の枠を奪うつもりだったんだろ!本当に性格が悪いな。凛沙がこの任務のためにどれだけ頑張ってきたか、わかってるのか?それを横からかっさらったら、凛沙はどうなるんだよ!」言葉を重ねるほどに、恭弥の怒りはどんどん膨れ上がっていく。奥歯を噛みしめたまま、鋭い視線で私をにらみつけていた。以前の私なら、恭弥が怒った時点で先に折れていただろう。何があっても、自分から謝っていたと思う。けれど今は違う。恭弥に振り回され続けてきたせいで、もう愛想よく取り繕う気力すら残っていなかった。私は航空券をポケットにしまい込み、そのまま突き放すように言い返した。「この任務は、もともと私に回ってきたものよ。彼女が選ばれなかったのは実力が足りなかった、それだけの話でしょう。これから努力すればいいだけじゃない。何でもかんでも私のせいにしないで」すると隣にいた凛沙が、また目を赤くした。今にも泣き出しそうな声で言い返してくる。「沙織さんは、何でも簡単に手に入れられるからいいですよね。でも私は違います。自分で必死に積み上げていくしかないんです。だから今の私の気持ちなんて、わかるはずありません……!私はこの機会のために、ずっと頑張ってきたんです。それなのに、そんなふうに平然と横取りするなんて……恥ずかしいと思わないんですか?そんなことをしたら、恭弥さんだってきっと……あなたに失望します!」恭弥の後ろにいた仲間たちの視線まで、次第に険しくなっていく。中には周平の前に立ちはだかり、凛沙のためにけじめをつけろと言わんばかりの者までいた。彼らが

  • 五十六回捨てられた花嫁   第3話

    まとめ終えた大きなスーツケースは、そのまま置いていった。スマホだけを手に、私は五年間暮らした家を後にした。あれから私はホテルに身を寄せ、友人たちや両親を食事に招いた。これがきっと、みんなと顔を合わせる最後になる。そんな思いを胸の奥に押し込めながら。その間も、恭弥から連絡が来ることは一度もなかった。まるで、私が今どこで何をしていようと、そんなことどうでもいいみたいに。発つ前の夜、私は両親と親しい友人を数人招き、食卓を囲んでいた。それでもみんな、まだ私を思いとどまらせようとしていた。「今さら篠原くんと別れても、あなたにいいことなんて何もないでしょう。五年もやってこれたんだから、この先だって何とかなるわよ」私は何も答えなかった。母の白髪が前より増えているのに気づいて、ほんの一瞬だけ心が揺らいだ。もしこのタイミングで恭弥が歩み寄ってくれていたら。もし、たった一言でも引き止めてくれていたら。きっと私は、また簡単に折れてしまったと思う。この息苦しい空気から逃げたくて、私はトイレに行くふりをして席を立ち、恭弥に最後の電話をかけようとした。けれど電話をかけようとした、そのとき――目の前で、恭弥が凛沙を連れて隣のテーブルに座るのが見えた。その場にいた仲間たちは一斉にどよめき、面白がるような声を上げた。「恭弥さん、今日は婚約者いないんですか?前はどこ行くにも一緒だったのに。女の人が近くにいるだけで、すぐ騒いでたじゃないですか」恭弥は凛沙を気遣うように椅子へ座らせながら、私の話になると途端に面倒くさそうに笑った。「あいつはどうせ、俺が迎えに行くの待ってるだけだよ。部隊に戻るとか言い出してさ、また変に意地張りやがって。俺とあいつの婚約が周りに知られてなきゃ、とっくに終わってるよ。式を取りやめたら面倒だからそのままにしてるだけで、正直もう顔見るのもうんざりなんだよ」すると別の男が、にやにやしながらさらに囃し立てた。「じゃあ本当に終わったら、次は誰と結婚するんですか?そのときはちゃんと俺たちにも声かけてくださいよ。もしかして、次の相手って凛沙さんだったりして?」恭弥も凛沙も、頬を赤くしたまま何も否定しなかった。――否定しないなら、それが答えと同じだった。私はそのやり取りを黙って見

  • 五十六回捨てられた花嫁   第2話

    客を見送り終えて家に戻った頃には、もう夜もとっくに更けていた。それでも、恭弥はまだ帰ってきていなかった。私はひとり、ぼんやりとSNSを開く。タイムラインには、案の定、私を嘲るような投稿がいくつも並んでいた。【ほんと懲りないよね。またこれが最後って言ってたのに、どうせ来月には次があるんでしょ】【さっきのあの顔見た?もう終わりにするって言ってたけど、絶対そんなことできないでしょ】【あそこまで振り回されてもまだ離れないとか……ある意味すごいよね。あのメンタルだけは本当に尊敬する】私は無表情のまま、投稿をひとつずつ流していく。こんな悪意、この五年で嫌というほど見てきた。今さら何を言われても、もう心はほとんど動かなかった。けれど――その中に凛沙の投稿を見つけた瞬間だけ、指先がぴたりと止まる。【五年経っても、あなたはいつも私のところに来てくれる】添えられていた写真の中で、凛沙は男の腕の中にすっぽり収まりながら、悪戯っぽくウインクして笑っていた。あまりにも幸せそうで、見ているだけで胸の奥がじくりと痛んだ。前に一度だけ、私は恭弥に二人の関係を聞いたことがある。すると彼は、露骨に顔をしかめた。「お前、自分が何言ってるか分かってるのか?俺たちは戦友だ。命を預け合ってきた仲なんだよ。そんな関係を、変なふうに考えるな」そんな言葉なら、もう何度も聞かされてきた。だから私は、それ以上何も聞く気になれなかった。私は顔を洗って涙の跡を拭い、大きなスーツケースを引き寄せた。部屋の隅に置いてあった羊革のブーツを手に取る。これは、私が持っている中でいちばん高かった靴だ。恭弥が最初の給料で買ってくれたものだった。あれからも何度か靴を買ってくれたけれど、だんだん作りは安っぽくなっていって、ひどいものは一か月もしないうちに壊れてしまった。だから私がずっと大事にしてきたのは、この一足だけだった。テーブルの上に置かれたマグカップは、恭弥が初めて結婚式を延期したとき、自分で焼いて持ってきてくれた謝罪の品だった。あの頃の彼は、たしかに私だけを見てくれていた。そこにあったのは、ただまっすぐな想いと、隠しきれないほどの申し訳なさだった。「沙織。俺だって本当はお前のそばにいたい。でも俺は軍人なんだ。頼む、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status