Masuk私は、白川沙織(しらかわ さおり)。 篠原恭弥(しのはら きょうや)と婚約して、もう五年になる。 軍の総司令である彼は、そのあいだに結婚式を五十六回も延期した。 一回目は、彼の部下の水瀬凛沙(みなせ りさ)が任務中にけがをして、彼は式の途中で呼び戻された。 二回目は、凛沙の昇進の日だった。彼は私を式場の入口まで送り届けると、祝いの品を手にしたまま慌ただしく去っていった。 …… 五十六回目は、式の最中に凛沙から電話がかかってきた。 失恋したと泣きつかれた彼は、またしても迷いなく私を置いて行こうとした。 行かないでとすがる私の手を、彼は冷たく振り払った。 「式ならまた延期すればいい。でも凛沙は失恋したって泣いて、今にも飛び降りるって騒いでるんだ。もし本当に何かあったら、お前が責任を取れるのか? お前の結婚式なんかより、人の命のほうが重いに決まってるだろ!」 軍人の妻になるつもりなら、人一倍我慢することを覚えろ――彼はそう言った。 自分がいつだって他人を優先する男だということも、受け入れろというのだ。 けれど私は、まだ一度だってまともに式を挙げてもいない。 そんな私のどこが、軍人の妻だというのだろう。 私は一通の申請書を提出し、機密要員として再び任務に呼び戻された。 すると彼は、私が去ったあとになって婚約指輪を握りしめ、果たせなかった結婚式をやり直したいと泣きながら縋ってきた。 ――けれど、もう遅かった。
Lihat lebih banyak恭弥が関係部署に連れて行かれてから、しばらくは何もなかったみたいに静かな日が続いた。私が去ったあとの恭弥のことは、断片的に耳に入ってきていた。恭弥は仕事に行かなくなり、昔からの戦友を何人か引っ張っては、毎日のように酒を飲んでいたらしい。一方の凛沙は、流産したあと恭弥に結婚を迫ったという。けれど、その頃の恭弥はまだ少しはまともだったのだろう。多額の金を渡して、療養施設に入れたと聞いた。そのあと恭弥はさらに酒を飲むようになり、体も少しずつ壊れていった。仕事でも大きな失敗をして、一気に三階級も落とされたらしい。それでも本人はまるで気にした様子もなく、ずっと続けてきた仕事をあっさり辞めてしまった。「もっと大事なことがある」そう言い残して、姿を消したのだという。周囲の人たちは、あれはもう本当にどうかしてしまったのだと噂していた。私がそばにいた頃は何ひとつ大切にしなかったくせに、いなくなった途端、今さら未練がましい態度を取っているのだと。私も周囲と同じように、恭弥のことをどこか馬鹿らしく思っていた。私は彼に青春のほとんどを捧げてきたのに、結婚式は五十六回も先延ばしにされたままだった。凛沙だって彼のために八度も子どもを失い、もう妊娠できない体になったのに、それでも最後には療養施設に入れられた。今になってようやく、自分は本当に男を見る目がなかったのだと思い知らされた。どうしてあんな人を選んでしまったのか、と。このままもう二度と、恭弥と顔を合わせることもないのだと思っていた。それなのに――まさか、もう一度会うことになるなんて思いもしなかった。再会した恭弥は、前よりさらにひどい有様になっていた。服はぼろぼろで、髪も伸びきっていて、靴さえ履いていなかった。それでも、白い桔梗の花束だけは大事そうに抱えたまま、私と周平がよく食事をする店の前に立っていた。私に気づくと、恭弥はおそるおそる顔を上げ、無理に笑おうとするような笑みを浮かべた。「……もう、本当に戻れないのか?」私は黙ってうなずいた。「じゃあ……せめて、この花だけでも受け取ってくれないか。持ってる金、全部使って買ったんだ。これが最後の気持ちなんだ……」私は差し出された花束を受け取ると、そのまま何の迷いもなく近くのゴミ箱へ捨てた。恭弥の
任務に就いてから、私はまるで別の人生を生き始めたようだった。名前を変え、身元を伏せ、任務の都合で最低限の整形まで受けた。見た目はそこまで変わっていない。それでも私にとっては、それだけで十分すぎるほど新しい始まりだった。任務のあいだ、言葉を交わす相手は直属の上司である周平くらいだった。ほかの人と話す機会は、ほとんどなかった。周平はとても無口な人で、仕事柄なのか、身近に親しい相手もほとんどいないらしかった。それでも不思議と私たちは気が合って、たまたま二人とも時間が空いたときには、近くの居酒屋で軽く食事をすることもあった。日々は少しずつ、落ち着いていったように思う。両親もまた、私が任務で遠くへ行ったことを、時間をかけて受け入れてくれるようになった。友人たちはときどきSNSで、私と過ごしていた頃のことを懐かしそうに書いているのを見かけた。私はそれを黙って眺めるだけで、返信することはなかった。そんなある日――また周平と軽く飲んでいたときのことだった。見慣れすぎた姿が、いきなり視界に飛び込んできた。窓越しに私を見つけた瞬間、目の色を変えてこちらへ駆け寄ってくる。その必死さは、少し怖いくらいだった。私はとっさに身をかわした。勢いのまま突っ込んできた恭弥は、そのまま床に倒れ込んだ。ひどく痩せていた。見る影もないほどやつれていて、かつての引き締まった姿はほとんど残っていない。今にも風に吹き飛ばされそうなくらい、弱々しく見えた。私に避けられた恭弥は、ひどく傷ついたような目で、それでもなおすがるようにこちらを見上げてきた。「そんなに俺のこと嫌いになったのかよ?本当に俺のこと忘れられるのか?俺から離れたのも……こいつのせいなんだろ?やっぱりそうだよな……大蔵がお前をその気にさせたんだろ。あんな男がわざわざお前助けるなんて普通おかしいだろ。お前たち……前からできてたんじゃないのか?でもいい……そんなのもういい。今からでも戻ってきてくれればいいんだよ。前よりちゃんと大事にするから……絶対」恭弥はろれつが回っていなかった。かなり酒が入っているらしい。国家機密に関わる任務のはずなのに、どうやって私の居場所を突き止めたのか、まるで見当もつかなかった。けれど恭弥は、そんな私の疑問を見透かしたみたいに、あっさりと口を開いた。
「沙織さんが言ってたことって、どういう意味なんですか?もしかして……二人、本当に別れたんですか?私、悔しいです。恭弥さんはあんなに沙織さんのために尽くしてきたのに、あの人は少しも大事にしなかったなんて……もし隣にいるのが私だったら、絶対にあんなふうにはしません」凛沙の目には、隠しきれない期待が浮かんでいた。必死に思いを訴えるその言葉の端々からも、自分こそが妻になるべき相手だと言いたげな気持ちが透けて見えた。けれど恭弥は、まるで正気を失ったみたいに凛沙を突き飛ばし、私にすがるようにして引き止めた。「行くな。俺たち、ずっと一緒だったじゃないか。それでも本当に俺を捨てるのか? もうすぐ結婚するはずだったのに。来月……来月こそ絶対に式をやり直す。今までだって何度も許してくれただろ。だから、もう一度だけチャンスをくれよ」目を赤くしたその顔は、痛々しいほど必死だった。引き止められた足が止まり、ほんの一瞬だけ心が揺れた。昔、確かに私を愛してくれていた恭弥の面影が重なって見えたからだ。もし凛沙の足元に、あの鮮やかな血だまりが広がっていなかったら――私は本当に迷っていたかもしれない。けれど、その赤はあまりにも生々しくて、見ないふりなんてできなかったし、胸がぎゅっと締めつけられた。凛沙は苦しさのあまり床の上で身をよじり、涙に濡れた顔で泣きじゃくっていた。「恭弥さん……お腹が……本当に痛いの……お願い、見てよ……私、死んじゃうかもしれない……どうしてこんなに血が出てるの……?もしかして、この子……もうだめなの? 先生にも言われてたの。これが最後の望みかもしれないって……何か言ってよ、恭弥さん……私はあなたのために、もう八回も子どもを失ってるのよ。もしこの子までいなくなったら……もう二度と産めないかもしれないの……!」その場にいた全員が息をのんだ。けれど恭弥の仲間たちは、誰ひとりとして凛沙に手を差し伸べようとはしなかった。泣き崩れる凛沙の姿を見て、さすがに胸が痛んだ。けれど次の瞬間に浮かんだのは、結局は自分で招いたことだ、という冷めた思いだけだった。考えてみれば、凛沙も恭弥のそばにいたこの数年、ずいぶん苦しい思いをしてきたのだろう。無理やりとはいえ、八人もの子どもを失うなんて――そんなことに耐え続けられる人なんて、
「航空券?大蔵さん、渡す相手を間違えていませんか?新しい任務で誰かを現地に送るんですよね?でしたら、ここにいる水瀬凛沙を推薦します……」周平はわずかに眉を寄せ、恭弥の言葉を遮った。「人違いなんかしていない。自分の教え子の顔くらい、ちゃんとわかっている。君が口を挟む必要はない」周平が私の教官だと知った瞬間、恭弥の顔から笑みが消えた。目にはあからさまな怒りが浮かび、声には責める色がにじんでいた。「そんな大事なこと、どうして今まで黙ってたんだ!もっと早く大蔵さんとの関係を教えてくれていたら、俺だってこんな回り道せずに済んだのに!ここ数日姿を見せなかった理由も、やっとわかったよ。こんなタイミングで急に出てきたのは、凛沙の枠を奪うつもりだったんだろ!本当に性格が悪いな。凛沙がこの任務のためにどれだけ頑張ってきたか、わかってるのか?それを横からかっさらったら、凛沙はどうなるんだよ!」言葉を重ねるほどに、恭弥の怒りはどんどん膨れ上がっていく。奥歯を噛みしめたまま、鋭い視線で私をにらみつけていた。以前の私なら、恭弥が怒った時点で先に折れていただろう。何があっても、自分から謝っていたと思う。けれど今は違う。恭弥に振り回され続けてきたせいで、もう愛想よく取り繕う気力すら残っていなかった。私は航空券をポケットにしまい込み、そのまま突き放すように言い返した。「この任務は、もともと私に回ってきたものよ。彼女が選ばれなかったのは実力が足りなかった、それだけの話でしょう。これから努力すればいいだけじゃない。何でもかんでも私のせいにしないで」すると隣にいた凛沙が、また目を赤くした。今にも泣き出しそうな声で言い返してくる。「沙織さんは、何でも簡単に手に入れられるからいいですよね。でも私は違います。自分で必死に積み上げていくしかないんです。だから今の私の気持ちなんて、わかるはずありません……!私はこの機会のために、ずっと頑張ってきたんです。それなのに、そんなふうに平然と横取りするなんて……恥ずかしいと思わないんですか?そんなことをしたら、恭弥さんだってきっと……あなたに失望します!」恭弥の後ろにいた仲間たちの視線まで、次第に険しくなっていく。中には周平の前に立ちはだかり、凛沙のためにけじめをつけろと言わんばかりの者までいた。彼らが