Masukこの日、もう一人のボディーガードは私用で休んでいた。だからボディーガード一人しか今日はおらず、唯月は彼一人だけでは隼翔を車に乗せるのは難しいのではと心配していた。ボディーガードは唯月の手伝いを断わらなかった。彼は唯月と一緒に隼翔を支えて車に乗せ、隼翔が座ると、唯月が彼にシートベルトを締めてあげた。ボディーガードのほうは車椅子をたたんで後ろのトランクに入れた。隼翔は唯月を見つめた。彼女がシートベルトを締めてくれている時、二人の距離はとても近く、危うく自分を抑えきれず両手を広げて彼女を抱きしめたい衝動に突き動かされそうになってしまった。しかし、彼はその衝動をどうにか抑えることに成功した。今、唯月は彼とは家族のようにかなり親しくなってくれている。もし、強い欲求に突き動かされてしまえば、一瞬で今までの努力が水の泡になってしまいかねない。「社長、私たちを送ってもらわなくても大丈夫なんですよ。遠くないんですから」隼翔は愛のこもった眼差しで彼女をじっと見つめた。「この目で君たちが家に入るのを見届けないと、安心できないんだ」彼にとって、ここから車で十数分の距離だというのはどうだっていい。唯月は何か言いたげな様子で、暫く彼と見つめ合っていた。隼翔は彼女が口を開くのを待っていたが、唯月は結局何も言わず、黙って後ろにさがり、隼翔が乗っている側のドアを閉めた。隼翔もそんな彼女に失望することはなかった。唯月が彼を受け入れるには時間が必要だと自分自身よくわかっているのだ。結城おばあさんからも、彼が諦めずにいれば、唯月はいつかは彼を受け入れてくれると言われた。唯月は今彼に対する態度は以前とはまったく違っている。彼が唯月に自分の気持ちを打ち明けたばかりの頃は、唯月はできるだけ彼と二人っきりになるのを避けていた。しかし、今、彼女はもう隼翔を避けることはなくなり、みんながいる前でも堂々と彼と一緒にいるようになった。誰かに裏で何かを言われても気にしない。それが唯月にあった変化だ。唯月は一度結婚に失敗した経験があり、再婚に関しては慎重になっているとおばあさんは言った。いくら隼翔が良い人で、自分でも一途な男だと認めていても、焦ってはいけない。唯月がその閉ざした心をゆっくりと開くのを待っていれば、二人には未来がある。唯月が自分の事業を少しずつ拡大
「君は料理が好きで、手頃な価格で美味しいものをみんなに提供したいと思っているはずだ。それなら、レストランのチェーン展開のほうを考えたほうが将来性があると思うよ。それから管理はもっと厳しくしたほうがいい。自分なりの管理方法を考え出すんだ。全体をしっかりとまとめて社員がバラバラにならないようにするんだよ。中心がぶれると、周りから一気に崩れていくぞ。唯月さん、君は絶対成功できる。だけど、焦らずゆっくりやるんだ。一気に頂点にのぼりつめることなんてできない。一歩、また一歩しっかりと踏みしめて前に進むんだ。そして自分自身に多くの経験を積んでいける」唯月は頷いた。「東社長、あなたの言う通りです。焦らずゆっくりやっていくことにします。うっかり大きな穴に落ちてしまったら、元手すら失ってしまいますよね」どのみち唯月はまだまだ若い。十年くらい奮闘して、状況を判断しつつ五つ星ホテルを目指していけばいい。車椅子を押して隼翔とレストランを出ると、唯月は立ち止まってガラスドアに施錠し、それからシャッターを下ろそうとした。「内海さん、私が」東家のボディーガードがその様子を見て、さっと近寄りシャッターを下ろすと、唯月はそれにまた鍵をかけた。「ありがとうございます」「いいえ、とんでもありません」ボディーガードは唯月を手伝った後、隼翔のほうへ目を向けた。自分の主人の懐には陽がぐっすり寝ていて、ボディーガードはその時、隼翔はそのまま唯月と一緒にいるのか、家に帰るのかわからなかった。「東社長、もうこんな時間です。今日はあなたもとても疲れたでしょう。帰って休んでください。私は陽を連れて家に帰ります」唯月は隼翔に近寄り、かがんで熟睡している息子を抱き上げた。陽は本当にぐっすり寝ているようで、母親に抱き上げられても目を覚まさなかった。頭を唯月の肩に置き、引きつづき夢の世界の中にいた。「唯月さん、こんな時間だから、君たちだけで帰すのは心配だ。先に二人を家まで送っていくよ」隼翔はやはり心配だった。今、唯月の後ろには多くの実力ある名家が控えている。だから、誰も唯月親子に手を出す人間はいないだろうが、それでも命知らずの馬鹿が何かしてくる可能性はゼロではないのだ。唯月はとっさに言った。「家はここからそんなに遠くないですから。車で十数分で着きます。それに大通
陽が体を動かすと、隼翔は反射的にまずは陽をしっかりと胸に抱きしめて。それからハッと目を覚ました。目の前にいるのが唯月だとわかると、彼は本能的にニカッと大きな笑みを見せて尋ねた。「唯月さん、仕事はもう片付いた?帰ろうとしているところかな。陽君が眠そうにしていて、抱っこして寝かしつけようとしていたら、いつの間にか自分も寝てしまったらしい」唯月は陽に触れていた手を引っ込めた。隼翔は彼女が手を引っ込めるのに気づいた時、少し残念そうにした。彼女があの手を引っ込める前にすぐに捕まえて、自分の顔に触れさせれば良かったのに、なんでこんなに反応が遅いのだ。それに、彼はどうしてこんなに浅い眠りなのか。ぐっすり寝ていれば、もしかすると唯月がその隙にこっそりキスをしてくれたかもしれないじゃないか。今から寝たふりをしても間に合うだろうか?「もう終わりましたよ。すみません、こんなに遅くまで陽の面倒を見てもらって」隼翔はそんな彼女にこう返した。「俺たちの仲なんだから、そんなに気を使わなくっていいよ。陽君が喜んで俺と一緒にいてくれるんだから、嬉しくてたまらないんだ」以前、隼翔が陽を抱き上げようとしても、いつも拒否されていた。隼翔の顔には切り傷があるから、陽はそれを怖がっていたのだ。今になっても、彼はその傷跡を消す手術は受けていない。唯月はその傷にまつわる話を知っているので、彼がそれを消さないでいるのを理解していた。初めて彼に会った時は、その傷を見てとても恐ろしかった。今は見慣れてしまったので、それを怖いと思うことはなく、逆に心が締め付けられる思いになる。彼がその傷を受けた時、どれほど痛かっただろうか。「社長のボディーガードはまだ外にいらっしゃいますか?」唯月は小さな声で尋ねた。隼翔は言った。「うん、まだ外にいるよ」夜遅くなっても、彼がまだレストランにいるので、ボディーガードは隼翔を送るためにずっと待っている。唯月も彼を送っていくことはできる。しかし、夜遅い時間には唯月に送ってもらうことはなかった。唯月が彼を送ってから帰ると夜は危ないから、彼は心配になる。唯月はレジの裏から鞄をとって、隼翔のところに戻り、車椅子を押して外に出ていった。「今日はとても疲れただろう」唯月は車椅子を押しながら、言った。「疲れはしましたが、それで
唯月は寝ている隼翔と陽のほうへ近寄り、まるで父と子のような二人を見つめた。彼女はすぐに二人を起こすことはせず、周りを見渡した。スタッフたちが帰宅する前にすでに店の全てをきっちりと片付けてくれていた。今日は開店一日目。彼女が招待した親族や友人たち以外にも、多くの客が来て食事していった。この日に店で食事をした客には割引をし、ちょっとしたプレゼントも渡した。そしてさっき彼女は今日の売上を確認すると、利益はまんぷく亭の比ではなかった。しかし、今日は開店したばかりで、多くの人はほぼ有名人的なあの賓客たち目当てで来ただけだろう。だから、これからが本当の勝負だ。唯月はビストロピエナが一店舗目のまんぷく亭を大きく超えると自信を持っている。一つの目標をクリアしたら、次はさらなる目標に進むまで。唯月はそっと椅子を引いてそこに座り、静かに最後まで自分に付き合ってくれた隼翔と陽を見ていた。妹も含めてこの時みんな帰ってしまっていた。唯花は今妊娠中のため、唯月も妹に夜遅くまで付き合わせたくなく、昼食が終わると、理仁に頼んで妹を連れて帰ってもらった。他の親戚や友人たちは、午後になってそれぞれ次々と帰っていった。そして夜遅くまで彼女に付き合ってくれたのは、運命を共にする息子と、彼女に好意を寄せて一年近くになる隼翔だ。隼翔は入院期間にかなり痩せてしまっていたが、退院して気持ちを整理してからは、心理状態も良くなり、体にはどんどん元と同じくらい肉がついてきていた。彼はよく、毎日努力してリハビリを続けなかったら、どんどん太ってしまうだろうと言っていた。それに唯月には、自分が太っちょになっても好きになってくれるだろうかと尋ねた。唯月はただ笑って、それに返事した。「東社長が太ったとしても、多くの人があなたのことを好きですよ」彼女は「私は」とは言わなかった。すると隼翔は口を尖らせて言った。「その俺のことを好きだという奴らは別に俺自身を好きなんじゃない。俺の地位や身分目当てなんだ。ああいう女たちは俺からどれだけ利益が得られるかしか考えてないのさ」唯月は彼に尋ねた。「じゃ、私もその地位や身分目当てに近づくような、お金至上主義の女なんじゃないかって心配じゃないんですか?」隼翔はにこにこ笑って言った。「そんな心配なんてないさ。誰かが君のことを勝
唯月は言った。「……凪さんにはしっかりとお礼を伝えてくださいね」彼女は結局、そのご祝儀袋を受け取った。次回、柏浜に行った時に、直接凪にカードを返そう。「もちろんですとも、内海さん、これで私の用事は終わりましたので、失礼いたします。お店が人気になって、商売繁盛することを願っていますよ」「天野さんは、ここで食事して行かれませんか?」天野は笑って言った。「内海さんもご存じの通り、うちの凪お嬢様は黛一族の中でその立場がまだしっかりと安定していません。だから、私どもは何をするのも慎重にならなければいけないのです。ここに長く滞在するのは危険です。どうぞご理解ください」すると彼はまた唯花に会釈をして、姉妹二人に手を振り、背を向けて去っていった。彼が去っていくその後ろ姿を見ると、ピシッと背筋を伸ばし、落ち着いた足取りで堂々としている。あの凪に信頼され、ここまで彼女の代わりに来るということは、凪にかなり重宝されている人物だということがわかる。「凪さんの腹心かな」唯花が小声で言った。「彼のほうはただの腹心だとは思ってないかもね」唯月は天野が凪の話題を出すときに、表情が柔らかくなるのに気づいていた。彼は凪に気があるはずだ。唯花は笑った。「お姉ちゃん、それ、私達の口からはっきりと言うべきじゃないでしょ?」「凪さんはここにいないじゃないの」唯月も小さな笑い声を出した。「凪さんまでお祝いを届けてくれるなんて思ってなかったわ。きっと私たちの動きにはアンテナを張り巡らせているのね」「正確に言うと、彼女はずっとお姉ちゃんの一挙一動を監視しているのよ。黛家の次期跡取りとして、彼女はとっても賢い人だわ。もし、伯母様が私たちを連れて黛家を取り返そうとすれば、後継者になるのは絶対にお姉ちゃんだわ。だから、お姉ちゃんこそ凪さんの最強のライバルなのよ。戦いに勝つためには、まずは敵をよく知ることから、でしょ。彼女はお姉ちゃんのあらゆる行動を観察して、動向を全て把握しておくつもりなのよ。そうしておけばお姉ちゃんと争う時には有利でしょ」唯月はさっきもらったご祝儀袋を開けることもなく、そのまま鞄の中に入れた。妹の話を聞くと、こう言った。「彼女は厳密に言えば私たちとは親戚なのよ。あなたは凪さん本人に会ったことないでしょ。私と伯母様はあるけど。直接会っ
少し黙ってから、唯月は話し始めた。「今のところ、あの人たちもそんなことはしないだろうけど。将来はどうなるかわからないわね。私たちはちゃんと陽の教育をして、将来陽自身に決めてもらうわ。彼の父親もきちんと養育費は出したのだから、陽が佐々木家と関りを持つのは私も邪魔をしたりしない」「うん、お姉ちゃん、今日はこの話はやめておこう。今日は新店舗のオープンなんだから楽しまなくっちゃ。気持ちを上げたほうがお店も儲かるはずよ」唯月は笑った。「約束するわ、このレストランは絶対に人気店にしてみせるから」唯月は自分の経営理念や料理の腕にとても自信を持っている。「内海社長」スタッフの一人が店の中に入ってきて、知らない男を連れてきた。「社長、こちらの方がどうしても社長に会いたいとおっしゃっているんです。柏浜から来られたとか」柏浜市から?唯月と唯花の二人はその知らない男のほうを向いた。その男は礼儀正しそうな様子で唯月のほうへ右手を差し出してきたので、唯月は彼と握手をした。そして、彼は唯月の隣にいる唯花を見て、微笑んで尋ねた。「こちらが、星城で有名な結城家のご長男の奥様ですね?」そう言いながら、彼はまた唯花にも右手を差し出した。唯花は失礼にならないように、彼と握手をした。すると彼は笑って言った。「結城家の若奥様にお会いできて光栄です」唯花も微笑んだ。「あのう、お名前は?」「失礼いたしました。私は天野と申します」「天野さんは、凪さんから言われてここへ?」そう尋ねたのは唯月だ。柏浜から来たと言われると、唯月は黛凪の知り合いだと思った。黛家に関して、凪も数十年前の姉妹同士の権力争いの真実を知りたがっている。この間凪が星城に来た時、神崎家に詩乃を訪問していた。彼女は母親に見つかってしまうと大変だから急いで帰らないといけないと言って、あまり長く滞在しなかった。そして詩乃は凪の血を持って、DNA鑑定に行き、その結果はみんなの予想通りになった。詩乃と凪は血縁関係がある。二人は従姉妹の関係であると思われる。天野は微かに頷き、店内の様子と開店祝いに訪れていた客たちを見渡し、笑って唯月に言った。「うちのお嬢様が、私に開店祝いに行くようにと」「ありがとうございます」天野と名乗った男が凪が寄越した人物だと唯月はすぐに当てた。
「あなたが星城一の富豪の財閥家の坊ちゃんだってことなんか全く知らなかったのに、目的があったって?前に喧嘩した時も言ったでしょう?そうね、確かに目的があったのよ。あなたにはちゃんとした住処があって、家賃も要求してこないし、性格が比較的におとなしくて、仕事も安定しているから、お姉ちゃんも満足できて、安心させられるからよ」理仁は苦しそうに言った。「唯花さん、俺と結婚したのはお義姉さんを安心させるため、お金目当てや俺の身分を狙ったわけじゃないってちゃんとわかっている。俺が間違っていた、本当にすまないと思ってる。唯花さん、全部俺が悪かったんだ。殴っても罵ってもいい。俺が悪いことをしたから、罰を受
理仁が傷ついている様子が見て取れたが、昨日のような激しい反応は示さなかった。彼は優しい声で言った。「唯花さん、動物を飼いたい?本当にそう思ってるなら、渡辺さんにお願いして、牧野さんと一緒にその温室に連れていってもらったらいいよ。その環境があの小鳥たちに適してるなら、餌もそこに置いておくといい。自分で世話をしてもいいし、世話係をつけてもいいよ」唯花は眉間にしわを寄せた。「お正月にあなたの実家に行った時には、そんな果樹園とか温室とかなかったけど」「琴ヶ丘邸の近くの山にたくさんの果物を植えた果樹園があって、そこに温室も併設されているんだ。そこは結城家の本家にあたる家だよ。正月俺たちが過ご
その頃、隼翔は唯月を結城グループに送ってきていた。明凛も一緒に隼翔が送ってくれている。彼は道の途中で電動バイクが動かなくなって困っていた明凛に遭遇したのだ。それで急いで彼女も車に乗せ、バイクはひとまず路肩に止めてロックしておいた。唯花をなだめてから、戻ってまたバイクを押して帰るつもりだ。「唯花」「唯花」唯月と明凛は車を降りるとすぐ唯花の元へと駆け寄った。唯月は息子さえも車に置き去りにしていた。そして、この時隼翔には陽を抱き上げるという以前からの願いを叶えるチャンスが回ってきたのだった。陽もこの時ばかりはしかたなかった。母親は彼の存在を忘れ車を降りると走っていってしま
「俊介、あんた新しい奥さんができたとたんにお母さんのこと忘れてしまったのかい。昔のあんたはこうじゃなかった、あの女狐に惑わされて母親すらも捨てる気か。ああ、私はなんて不幸なんだろうね、こんな息子を産んじまってさ、どうしてあんな女狐が嫁になんか来たんだろう。唯月さんや、お義母さんは後悔してるよ。私が間違ってた、やっぱりあなたのほうが良かった。食事の用意も家事もちゃんとするし、私にだって良くしてくれていたよ。夫を支えてくれて、あなたがいた頃は俊介の仕事もうまくいってたし、金運だって良かった。私たち一家はとても幸せに過ごしていたというのに。そんなあなたがいなくなってから、俊介の仕事はうまくい







