結城理仁は淡々と言った。「伊集院善は確かに腕っぷしは大したことないだろうが、彼ら伊集院家はA市において結城家と同様トップの名家なんだ。安全のために彼が何人かのボディーガードを連れているのも別にお前だって今になって知ったわけじゃないだろう。なんでそんなに驚く必要があるんだ。お前もああいう光景に憧れるってんなら、毎日ボディーガードを十人くらい侍らせたらどうだ」九条悟はボディーガードを連れなくても、自身の護身術で十分だ。しかも、ほとんどの人は彼の正体を知らないので、もしボディーガードを侍らせていたら余計に人目を引いてしまうだろう。二人は仕事の話をしていて、そこへアシスタントがドアをノックして入ってきた。「社長、コーヒーをお持ちしました」アシスタントはできたてのコーヒーを持って来て、さっと結城理仁の前に置いた。アシスタントが退室した後、九条悟は親友兼上司をからかって言った。「昼は会社から飛び出して奥さんとイチャイチャしといて、午後は元気がなくなったのか。二杯くらい飲んどけよ、な」結城理仁は暗い表情になった。何がいちゃつくだ。彼は内海唯花との間にまたギャップが生じたと感じているというのに。彼女が彼を会社まで迎えに来たのを嬉しく思っておらず、彼女もまた何も言わないし怒りもしない。結城理仁は彼女が今後、二度と結城グループまで彼を迎えに来ることはないとはっきり断言できる。「なんだ?顔色が良くないぞ。まさか夫婦喧嘩でもしちゃったのか?見たとこ奥さんの性格は良さそうだけど」理屈が通じない相手というわけではない。結城理仁は暫くの間黙っていて、いくら待ってもその原因を口にはしなかった。九条悟の口は堅いと言えば堅いほうだが、噂が好きな男だ。彼は九条悟がいろんなことを知りすぎて、ある日酔った勢いで全て暴露してしまわないか心配なのだ。しかし、彼はまた九条悟から内海唯花との、このなかなか先に進まない硬直した状況を打破する方法を聞きたいとも思っていた。それで、彼はこう答えた。「もしかしたら、少し、彼女を傷つけてしまったかもしれない」九条悟の瞳がキラリと光り、立て続けに質問した。「どんなふうに?聞かせてくれよ」結城理仁は机の下で悟の足をひと蹴りした。九条悟は彼に蹴られて、ケラケラと笑って言った。「中途半端にしか教えてくれないって、理仁、そ
「隼翔が明日いつもの店で食事しようって言ってきたぞ。あいつ、毎回俺たちを誘う時はいつもビストロ・アルヴァに行くよな。確かにあの店の料理は最高だけど、隣が結城おばあさんがオーナーのルナカルドじゃなきゃなぁ。あのカフェでお茶でも飲んでリラックスできるってのに、さすがにあそこには行きたくないだろ」「あそこは俺たちが以前よくたむろしていた店だから、隼翔は昔からの情に厚いやつだな」以前、彼らがお互い今の立場にある前のこと。結城理仁がまだ社会経験を積んでいる途中、社長にも就任していない頃、自分の結城家の子息という身分を人に知られるのが好きではなかった。三人の親友たちはそれでよくこの中レベルのレストランで食事をしていた。カフェ・ルナカルドはここでは一番大きく高級なカフェだ。その周辺はアパレルにしろレストランにしろ比較的高級な店が多い。もしそれらの店のレベルが低ければ、ルナカルドに来る客の集客につながらないからだ。この高級カフェに来る客は普通、エリート揃いだ。このエリートたちは常に自分に対してお金は惜しまず使っている。カフェでお茶をした後はよく周辺にあるグルメを満喫したり、服を買ったりする。だから、この繁華街はカフェ・ルナカルドを中心にして中高級の消費エリアとなっているのだ。「行くか?」「ご馳走してくれるっていうなら、もちろん喜んで行くさ」結城理仁は珍しく笑顔を見せた。彼と九条悟、そして東隼翔の友情は厚く固い。東隼翔が食事に誘ってくれて彼がその誘いに乗るのはまた別の話で、主に家にいて内海唯花と顔を合わせるのが気まずいから、彼女と一緒にいる時間をなるべく減らすためだった。「じゃあ、俺も行こうっと。せっかくの週末なんだし、やっぱり羽を伸ばさなくっちゃな。食後は君のばあちゃんが経営しているカフェでだらだらしてさ、夜は海辺にバーベキューでもしに行くか?」結城理仁は断った。バーベキューに行くくらいなら、ゴルフに行ったほうがましだ。九条悟はぶつくさと暫く呟いてから去っていった。彼がいなくなってから、結城理仁は祖母に電話をかけた。「理仁、唯花ちゃんから何か連絡あった?」「うん」結城理仁は声を低くして言った。「ばあちゃん、もう年も取ったし記憶力が悪くなってるんだろうから、もう一度言っておくよ。俺はもうばあちゃんの希望を叶えて内海さ
少し迷って彼は結局食卓に座り、再びその袋の結びを解いて、食べる気のなかったおにぎりを黙々と食べ始めた。内海唯花と生活するようになって、彼も少し普通の人の暮らしをするようになったと言わざるを得ない。今までの彼だったら普段食べることのない、多くの食べ物を口にするようになった。朝食を食べ終わると、結城理仁はベランダに行き、ハンモックチェアに腰掛け彼女が育てている草花を観賞した。十一時頃までそこに居続け、九条悟からの催促の電話を受け取り、彼はようやく部屋に戻って服を着替え出かけて行った。内海唯花が姉の家に行っているので、結城理仁は夫婦二人がばったり出くわすこともないと思い、ホンダ車には乗らずいつもと同じようにあの高級車ロールスロイスを運転していった。ボディーガードが乗った数台の車に送られて威勢よくビストロ・アルヴァへと向かって行った。付近まで来ると、車を祖母のカフェの前に駐車し、歩いてレストランへと向かった。そうすることであまり目立つことはない。結城理仁がレストランに到着した時、東隼翔と九条悟はすでに来ていて、彼に手招きしていた。彼はボディーガードを引き連れて中に入っていった。ボディーガードたちは三人のすぐ隣の席に座った。こうすれば近くで主人を守ることができるし、友人たちとの食事の邪魔をすることもない。東隼翔と九条悟の誘いだからこそ、結城家の坊ちゃんをここまで来させることができるのだ。結城理仁たちの選んだ席は静かな端の方の席だった。「理仁、注文どうぞ」東隼翔はメニューを結城理仁の前に置いた。結城理仁はそのメニューは置いたまま淡々と言った。「よく来ていた店だぞ、店長にいつものと言えばいい」「他のを試してみないのか?」九条悟がその言葉を受け取りこう言った。「彼はこだわりがあるから、他の料理にしたら食べられないかもしれないぞ。俺もいつものにしようっと」東隼翔は友人二人がいつもの料理を注文すると言ったので、店員を呼んで三人の料理を書いて渡した。「ちょっとお手洗いに」結城理仁は立ち上がって行った。ボディーガードが一人立ち上がり彼について行った。彼らはここで主人が何か都合の悪い状況になるかもしれないと心配しているわけではなく、彼に女性が付き纏うのを心配しているのだ。結城家の御曹司はまるで大きな移動式の磁
結城理仁は自分の席に戻ると、平常心を保っていた。注文した料理が運ばれてきて彼は食べ始めた。友人二人がどんな話をしても、彼は一向に黙ったまま何も話さなかった。頭の中には内海唯花が笑顔で金城琉生に料理を分けていた様子が浮かんでいた。「理仁、なんかお前今日変だぞ」東隼翔は料理を一口食べた後、向かいに座っている結城理仁を見ながら言った。「なんでずっと食べるばっかで、一言もしゃべらないんだ?」九条悟もそれを聞いて頷いた。結城理仁は淡々と「腹が減ってるんだ」と言った。朝食食べたくもないおにぎりを食べたが量は多くなかったので、彼は本当にお腹がすいていた。もちろん、機嫌が良くないのは言うまでもない。気分がすぐれないので、彼はひたすら食べ続けた。彼女が金城琉生に自分の料理をあげるのを彼は別に羨ましいわけではない。彼もそうしてほしいとでも?彼がヤキモチを焼くとでも思ってるのか?彼は以前言ったが、ヤキモチなど焼かない人間だ。ネチネチしたものなんて好きじゃない!彼ら夫婦はもともとルームメイトとして日々暮らしているだけだ。それに契約書にもサインして、プライベートなことはどちらもお互いに干渉したりしない。彼女が契約期間中に次の相手を見つけたいと思ったとして、金城琉生と同居して不倫などしない限り、彼は見て見ぬふりをするつもりだ。結城理仁は心の内で自分に言い聞かせていた。しかし、彼の頭の中には、やはりさっきの内海唯花と金城琉生が楽しそうに笑っておしゃべりしている光景が浮かんできた。親友二人はどちらも結城理仁がおばあさんからグチグチ言われて、それに耐えきれず結局おばあさんの命の恩人と結婚したことを知っていた。彼からお腹が空いていると聞いて、九条悟はからかって尋ねた。「君は奥さんがいるだろ?どうして腹が減るんだよ。今朝は何も美味しい物を作ってくれなかったのか?」これまで会社で彼に会った時には、毎回妻が彼と一緒に朝食を食べようと誘ってくると言っていた。結城理仁はいつも妻がいる人間なんだと自慢しキラキラした顔をしていたじゃないか。九条悟は手を伸ばし、結城理仁がこの日着ていた服を引っ張って言った。「妻がいる人間が、どうして自分で買った服を着ているんだよ」結城理仁は冷たい表情になり、九条悟の手を叩いて払うと、冷ややかな声で言った。「俺と彼女は
たとえ名義上の夫婦でも、結婚を秘密にしているのは東隼翔も面白くないと思った。結城理仁は友人二人がからかってくるのを聞きながら、それ以上は話さず、引き続き食べていた。そしてすぐにお腹いっぱいになった。「俺はばあちゃんのカフェで座ってるから、二人はゆっくり食べてくれ」箸を置いて、ティッシュで口元を拭くと、結城理仁は立ち上がり、そこから離れようとした。「俺らも腹いっぱいになったし、一緒に行くよ」東隼翔と九条悟も箸を置き、結城理仁と一緒に隣にあるカフェ・ルナカルドへと行くことにした。ボディーガードたちもすでに食事を終えていて、自分たちの主人が店から出ていこうとするのを見て、何も言わず立ち上がり主人を守るようにそっと外へと向かって行った。女主人に気づかれないように。女主人は金城家のお坊ちゃんと食事をしている。金城坊ちゃんは彼らの主人と顔を合わせたことがある。だから女主人には気づかれてはいけないのだ。もしそうなれば主人の正体がばれてしまうから。東隼翔はお会計に行った。九条悟は彼が会計を終わるのを待って一緒に外に出た。歩きながら小声で話した。「隼翔、今日理仁のやつ、なんかおかしいと思わないか?いや、店に着いた時にはいつも通りだったろ。表情だってあんなに冷たくなかったしさ」結城理仁が落ち着いていて、冷たく厳しい感じの人だというのは誰もが知っている。しかしプライベートで友人たちと付き合う時には、ある程度その冷たさは消え、友人に対しては和らいだ表情を見せる。「あいつがトイレから戻って来て、ちょっとおかしくなったよな」九条悟は突然足を止め、後ろを振り向いて中へと進み言った。「ちょっとトイレに行って、あいつに何があったのか確認してくる」東隼翔は彼を引き留め、外に向かって歩き出すと、笑って言った。「あいつが何か見てたとしても、もう時間が経ってるんだから、今行ってそれが見られると思うか?理仁はずっとあんな感じだ。お前の考えすぎだよ」東隼翔は誰かが、あるいは何かが結城理仁の顔色を一瞬にして変えることはできないと思っていた。結城理仁は落ち着き払っていて、たとえ山崩れが起きても顔色を変えやしないだろう。「考えすぎじゃないよ。あいつは絶対に何かに出くわして、突然冷たくなったんだ」九条悟は本当に興味津々で、結城理仁が一体トイレで
結城理仁と親友たちがここで食事をしていたことなど、内海唯花は全く知らなった。彼女と親友の明凛、そして金城琉生の三人は食べながらおしゃべりをし、かなり長い時間レストランにいた。金城琉生にある電話がかかってきて、先に帰らなければならなかった。内海唯花は言った。「私と明凛も十分食べたわ。じゃあ、お会計してくる。琉生君、急用があるなら早く行って。私たちは隣のカフェに行っておしゃべりするから」以前親友に付き合ってお見合いでここに来てから、内海唯花はルナカルドの落ち着いた雰囲気を気に入っていた。この付近は人通りも多く、とても賑やかなところだ。カフェ・ルナカルドの店長はお金を惜しむことなく、店の中は防音がしっかりしている。それでこのカフェに一歩踏み入れると、外の喧騒からは離れることができるのだ。金城琉生は従姉も車で来ていることを思い出し、後で内海唯花を家まで送ることができるので、こう言った。「明凛姉さん、唯花さん、じゃあ俺はこれで」「うん、運転気をつけてね」牧野明凛は従弟にそう注意した。「姉さん、後で唯花さんを送ってあげてね」内海唯花は車を持っているが、あまり使用することはない。ガソリン代も上がっているし、満タンにするだけでも何千円もかかってしまうのだ。使わなくていいなら、使わない。生活していくには、細かく計算して生きていかなければならないから。結城理仁は彼女に渡している生活費に関しては十分だと思っているのだが。彼女も贅沢に使うことはできない。牧野明凛は笑って言った。「わかったから、あなたに言われなくても唯花お姉さんは私が送っていくよ。早く自分の用事済ませなさい。週末なのに、ゆっくりご飯を食べることもできないなんてね」大企業の後継者になるのは、そう簡単なことではない。金城琉生は少し名残惜しそうにしていたが、仕方なくその場を離れた。内海唯花は会計を済ませた後、親友と腕を組んで一緒にレストランを出た。そして隣にあるカフェ・ルナカルドへと歩いて行った。彼女が店に入ると、結城家のボディーガードはすぐに彼女に気づいた。そしてすぐに結城理仁に連絡した。結城理仁はコーヒーは飲んでおらず、ただ祖母のカフェで少しゆっくりしたかった。静かに落ち着きたい。内海唯花から影響を受けた心を静めたいのだ。ボディーガード
九条悟も少し呆気に取られていた。この上司は彼の前で何度も妻がいることを自慢していたが、あれは全部演技だったというのか?だけど、結城おばあさんはすでに会社のことは全て孫に任せていて、会社に来ることは稀だ。だから、結城理仁は彼の前でそんな演技をしてみせる必要はないはずだ。ボケちゃったのか?まあいい、それは結城理仁のプライベートな事だ。彼は自分でどうにかできるだろう。彼ら親友たちは何か面白いことがあれば、椅子とポップコーンでも持って来て、かたわらでそれを食べながら座って見ていればいいのだ。何も面白いことがないなら、家に帰って寝るまでだ。二時間後のこと。内海唯花は時間を確認し、もう三時になったので親友に言った。「明凛、そろそろ帰ろっか。お姉ちゃんのとこにも行かないといけないから」「わかったわ」牧野明凛も時間を見て、親友が帰るというのに何も意見はなかった。「後でちょっとスーパーに行こう。フルーツとおもちゃ二つ買って私もお姉さんの家に一緒に行く。家に帰りたくないのよ。母さんのあの意地悪な継母みたいな顔といったら、帰る気なくすわよ」内海唯花は笑って言った。「大塚家のパーティーで誰かさんが床に寝ちゃったせいでしょ?あなた自身も恥かいたのに、牧野のおばさんの面子も潰しちゃって。お母様が怒って当然よ」牧野明凛は自分がやらかした事を思い出し笑って言った。「恥くらいかけばいいのよ。母さんとおばさんに私は大和撫子で優秀な女性だからお妃様にでもなれるっていう妄想を消し去ってもらいましょう。今やあの人たちも大人しくなって、私も静かに過ごせるってもんよ。「あれ、ねえ唯花、あのテーブルに座ってる三人組、あの人あんたんとこの結城さんじゃないの?」牧野明凛が立ち上がって結城理仁を見て親友の手をポンポンと叩き内海唯花に確認させようとした。内海唯花は親友に促されて見てみると、本当に彼女の夫がそこにいた。「彼だわ」結城理仁が全身から漂わせるあの冷たく厳しい雰囲気を持っている人間は滅多にお目にかかれない。内海唯花は一目ですぐ彼だとわかった。「ちょっと挨拶しに行かなくていい?」内海唯花はためらって言った。「彼は友達と一緒みたいだし、彼らとは知り合いじゃないわ。声かけるのもあまり良くないんじゃないかな」実際、結城理仁の友人とは一人も会っ
牧野明凛は意外そうに尋ねた。「本当に?フラワーガーデンが高級マンションってのは間違ってないけど、まさかロールスロイスを運転してる人までいるとはね。なんでその人って一戸建ての大きい家に住まないんだろ?」「結城さんが、近くの学校に通ってる子供がいるから、通学に便利なようにフラワーガーデンの部屋を買って住んでるんじゃないかって言ってた。もしかしたら、その人いくつも家を持ってるかもよ?」牧野明凛は笑った。「それもそうだね。さあ、スーパーに行こう。あ、そうだ、結城おばあさんが来るって言ってたよね?」「来ないって」「なんで?」「家の持ち主が同意しなかったんでしょうね」牧野明凛「……」親友の家の持ち主と言えば結城理仁じゃないのか?彼は結城おばあさんの孫だろう。おばあさんが週末来たいというのに、孫がそれを拒否するなんて……祖母不孝者め!二人は牧野明凛の車に乗り込むと、カフェ・ルナカルドを後にした。少し車を走らせて、大きなショッピングモールに車をとめた。モール内をぶらぶらして、二人は両手にたくさんの買い物袋をぶら下げて出て来た。この時、内海唯花は以前、結城理仁と一緒にモールを回ったのを懐かしく思っていた。彼がいれば、彼女がどれだけ買っても、代わりに持ってくれた。牧野明凛は荷物を車に載せた後、ぜえぜえ息を切らして言った。「ショッピングする時は、男性がいればいいのにって思っちゃうわね。買い物してる時は、あれもこれもってなるけど、いざ荷物を持つとなると、まったく、重くて死んじゃう。なんであんなに買っちゃったんだろうって後悔しかないわ」内海唯花はそれを聞いて思わず笑った。さすが、彼女と牧野明凛が親友になるはずだ。二人の考え方はまったく同じだった。これって、彼女がさっき考えていた結城理仁と一緒にスーパーを回った時の良いところを、親友が口に出したんじゃないか。「だったら、早く彼氏を見つけることね。これから先ショッピングする時は楽ちんでしょ」牧野明凛は運転席に座り、シートベルトを締めながら言った。「見つけたいと思ってすぐ見つかると思うの?自分に合った人を見つけないといけないし、いいなって思うような人じゃないといけないじゃない。そんなに簡単に見つかるんなら、私だってずっと独り身でいないわよ。家族から結婚の催促ばかりされて家に帰りたく
神崎詩乃は冷ややかな声で言った。「あなた達、私の姪をこんな姿にさせておいて、ただひとこと謝れば済むとでも思っているの?私たちは謝罪など受け取りません。あなた達はやり過ぎたわ、人を馬鹿にするにも程があるわね」彼女はまた警察に言った。「すみませんが、私たちは彼女たちの謝罪は受け取りません。傷害罪として処理していただいて結構です。しかし、賠償はしっかりとしてもらいます」佐々木親子は留置処分になるだけでなく、唯月の怪我の治療費や精神的な傷を負わせた賠償も支払う必要がある。あんなに多くの人の目の前で唯月を殴って侮辱し、彼女の名誉を傷つけたのだ。だから精神的な傷を負わせたその賠償を払って当然だ。詩乃が唯月を姪と呼んだので、隼翔はとても驚いて神崎夫人を見つめた。佐々木母はそれで驚き、神崎詩乃に尋ねた。「あなたが唯月の伯母様ですか?一体いつ唯月にあなたのような伯母ができたって言うんですか?」唯月の母方の家族は血の繋がりがない。だから十五年前にはこの姉妹と完全に連絡を途絶えている。唯月が佐々木家に嫁ぐ時、彼女の家族はただ唯花という妹だけで、内海家も彼女たちの母方の親族も全く顔を出さなかった。しかし、内海家は六百万の結納金をよこせと言ってきたのだった。それを唯月が制止し、佐々木家には内海家に結納金を渡さないようにさせたのだ。その後、唯月とおじいさん達は全く付き合いをしていなかった。佐々木親子は唯月には家族や親族からの支えがなく、ただ一人だけいる妹など眼中にもなかった。この時、突然見るからに富豪の貴婦人が表れ、唯月を自分の姪だと言ってきたのだった。佐々木母は我慢できずさらに尋ねようとした。一体この金持ちであろう夫人が本当に唯月の母方の親戚なのか確かめたかったのだ。どうして以前、一度も唯月から聞かされなかったのだろうか?唯月の母方の親族たちは、確か貧乏だったはずだ。詩乃は横目で佐々木母を睨みつけ、唯月の手を取り、つらそうに彼女の傷ついた顔を優しく触った。そして非常に苦しそうに言った。「唯月ちゃん、私と唯花ちゃんがしたDNA鑑定の結果が出たのよ。私たちは血縁関係があるのあなた達姉妹は、私の妹の娘たちなの。だから私はあなた達の伯母よ。私のこの姪をこのような姿にさせて、ひとことごめんで済まそうですって?」詩乃はまた佐々木親子を睨
一行が人だかりの中に入っていった時、唯花が「お姉ちゃん」と叫ぶ声が聞こえた。陽も「ママ!」と叫んでいた。唯花は英子たち親子が一緒にいるのと、姉がボロボロになっている様子を見て、どういうわけかすぐに理解した。彼女はそれで相当に怒りを爆発させた。陽を姉に渡し、すぐに後ろを振り向き、歩きながら袖を捲り上げて、殴る態勢に移った。「唯花ちゃん」詩乃の動作は早かった。素早く唯花のところまで行き、姉に代わってあの親子を懲らしめようとした彼女を止めた。「唯花ちゃん、警察の方にお任せしましょう」すでに警察に通報しているのだから、警察の前で手を出すのはよくない。「神崎さん、奥様、どうも」隼翔は神崎夫婦が来たのを見て、とても驚いた。失礼にならないように隼翔は彼らのところまでやって来て、挨拶をした。夫婦二人は隼翔に挨拶を返した。詩乃は彼に尋ねた。「東社長、これは一体どうしたんですか?」隼翔は答えた。「神崎夫人、彼女たちに警察署に行ってどういうことか詳しく話してもらいましょう」そして警察に向かって言った。「うちの社員が被害者です。彼女は離婚したのに、その元夫の家族がここまで来て騒ぎを起こしたんです。まだ離婚する前も家族からいじめられて、夫からは家庭内暴力を受けていました。だから警察の方にはうちの社員に代わって、こいつらを処分してやってください」警察は隼翔が和解をする気はないことを悟り、それで唯月とあの親子二人を警察署まで連れていくことにした。隼翔と神崎夫人一家ももちろんそれに同行した。唯花は姉を連れて警察署に向かう途中、どういうことなのか状況を理解して、腹を立てて怒鳴った。「あのクズ一家、本当に最低ね。もしもっと早く到着してたら、絶対に歯も折れるくらい殴ってやったのに。お姉ちゃん、あいつらの謝罪や賠償なんか受け取らないで、直接警察にあいつらを捕まえてもらいましょ」唯月はしっかりと息子を抱いて、きつい口調で言った。「もちろん、謝罪とか受け取る気はないわよ。あまりに人を馬鹿にしているわ!おじいさんが彼女たちを恐喝してお金を取ったから、それを私に返せって言ってきたのよ」唯花は説明した。「あの元義母が頭悪すぎるのよ。うちのおじいさんのところに行って、お姉ちゃんが離婚を止めるよう説得してほしいって言いに行ったせいでしょ。あ
佐々木親子二人は逃げようとした。しかし、そこへちょうど警察が駆けつけた。「あの二人を取り押さえろ!」隼翔は親子二人が逃げようとしたので、そう命令し、周りにいた社員たちが二人に向かって飛びかかり、佐々木母と英子は捕まってしまった。「東社長、あなた方が通報されたんですか?どうしたんです?みなさん集まって」警察は東隼翔と知り合いだった。それはこの東家の四番目の坊ちゃんが以前、暴走族や不良グループに混ざり、よく喧嘩沙汰を起こしていたからだ。それから足を洗った後、真面目に会社の経営をし、たった数年だけで東グループを星城でも有数の大企業へと成長させ、億万長者の仲間入りをしたのだった。ここら一帯で、東隼翔を知らない者はいない。いや、星城のビジネス界において、東隼翔を知らない者などいないと言ったほうがいいか。「こいつらがうちまで来て社員を殴ったんです。社員をこんなになるまで殴ったんですよ」隼翔は唯月を引っ張って来て、唯月のボロボロになった姿を警察に見てもらった。警察はそれを見て黙っていた。女の喧嘩か!彼らはボロボロになった唯月を見て、また佐々木家親子を見た。佐々木母はまだマシだった。彼女は年を取っているし、唯月はただ彼女を押しただけで、殴ったり手を出すことはしなかったのだ。彼女はただ英子を捕まえて手を出しただけで、英子はひどい有り様になっていた。一目でどっちが勝ってどっちが負けたのかわかった。しかし、警察はどちらが勝ったか負けたかは関係なく、どちらに筋道が立っているかだけを見た。「警察の方、これは家庭内で起きたことです。彼女は弟の嫁で、ちょっと家庭内で衝突があってもめているだけなんです」英子はすぐに説明した。もし彼女が拘留されて、それを会社に知られたら、仕事を失うことになるに決まっているのだ。彼女の会社は今順調に行ってはいないが、彼女はやはり自分の仕事のことを気にしていて、職を失いたくなかったのだ。「私はこの子の義母です。これは本当にただの家庭内のもめごとですよ。それも大したことじゃなくて、ちょっとしたことなんです。少し手を出しただけなんですよ。警察の方、信じてください」佐々木母はこの時弱気だった。警察に連れて行かれるかもしれないと恐れていたのだ。市内で年越ししようとしていたのに、警察に捕ま
東隼翔は顔を曇らせて尋ねた。「これはどういうことだ?」英子は地面から起き上がり、まだ唯月に飛びかかって行こうとしていたが、隼翔に片手で押された。そして彼女は後ろに数歩よろけてから、倒れず立ち止まった。頭がはっきりとしてから見てみると、巨大な男が暗い顔をして唯月を守るように彼女の前に立っていた。その男の顔にはナイフで切られたような傷があり非常に恐ろしかった。ずっと見ていたら夜寝る時に悪夢になって出てきそうなくらいだ。英子は震え上がってしまい、これ以上唯月に突っかかっていく勇気はなかった。佐々木母はすぐに娘の傍へと戻り、親子二人は非常に狼狽した様子だった。それはそうだろう。そして唯月も同じく散々な有様だった。喧嘩を止めようとした警備員と数人の女性社員も乱れた様子だった。彼らもまさかこの三人の女性たちが殴り合いの喧嘩を始めてあんな狂気の沙汰になるとは思ってもいなかったのだ。やめさせようにもやめさせることができない。「あんたは誰よ」英子は荒い息を吐き出し、責めるように隼翔に尋ねた。「俺はこの会社の社長だ。お前らこそ何者だ?俺の会社まで来てうちの社員を傷つけるとは」隼翔はまた後ろを向いて唯月のみじめな様子を見た。唯月の髪は乱れ、全身汚れていた。それは英子が彼女を地面に倒し殴ったせいだ。手や首、顔には引っ掻き傷があり、傷からは少し血が滲み出ていた。「警察に通報しろ」隼翔は一緒に出てきた秘書にそう指示を出した。「東社長、もう通報いたしました」隼翔が会社の社長だと聞いて、佐々木家の親子二人の勢いはすっかり萎えた。しかし、英子はやはり強硬姿勢を保っていた。「あなたが唯月んとこの社長さん?なら、ちょうどよかった。聞いてくださいよ、どっちが悪いか判定してください。唯月のじいさんが私の母を恐喝して百二十万取っていったんです。それなのに返そうとしないものだから、唯月に言うのは当然のことでしょう?唯月とうちの弟が離婚して財産分与をしたのは、まあ良いとして、どうして弟が結婚前に買った家の内装を壊されなきゃならないんです?」隼翔は眉をひそめて言った。「内海さんのおじいさんがあんたらを脅して金を取ったから、それを取り返したいのなら警察に通報すればいいだけの話だろう。内海さんに何の関係がある?内海さんと親戚がどんな状況なの
その時、聞いていて我慢できなくなった人が英子に反論してきた。「そうだ、そうだ。自分だって女のくせに、あんなふうに内海さんに言うなんて。内海さんがやったことは正しいぞ。内海さん、私たちはあなたの味方です!」「こんな最低な義姉がいたなんてね。元旦那が浮気したから離婚したのは言うまでもないけど、もし浮気してなくたって、さっさと離婚したほうがいいわ、こんな最低な人たちとはね。遠く離れて関わらないほうがいいに決まってる」野次馬たちはそれぞれ英子を責め始めた。そのせいで英子は怒りを溜め顔を真っ赤にさせ、また血の気を引かせた。唯月が彼女に恥をかかせたと思っていた。そして彼女は突然、力いっぱい唯月が支えていたバイクを押した。バイクは今タイヤの空気が抜けているから、唯月がバイクを押すのも力を入れる必要があった。それなのに英子が突然押してきたので、唯月はバイクを支えることができず、一緒に地面に倒れ込んでしまった。「金を返せ。あんたのじいさんがお母さんから金を受け取ったのを認めないんだよ。じいさんの借金は孫であるあんたが返せ、さっさとお母さんに金を払うんだよ」英子はバイクと一緒に唯月を地面に倒したのに、それでも気が収まらず、彼女が持っていたかばんを振り回して力を込めて唯月を叩いた。さらには足も使い、立て続けに唯月を蹴ってきた。唯月はバイクを放っておいて、立ち上がり乱暴に英子からそのかばんを奪い、狂ったように英子を殴り返した。彼女は英子に対する恨みが積もるに積もっていた。本来離婚して、今ではもう佐々木家とは赤の他人に戻ったので、ムカつくこの佐々木家の人間のことを忘れて自分の人生を送りたいと思っていた。それなのに英子は人を馬鹿にするにも程があるだろう、わざわざ問題を引き起こすような真似をしてきた。こんなふうに過激な態度に出れば、善悪をひっくり返せるとでも思っているのか?この間、唯月と英子は殴り合いの喧嘩をし、その時は英子が唯月に完敗した。今日また二人が殴り合いになったが、佐々木母はもちろん自分の娘に加勢してきた。この親子は手を組んで、唯月を二対一でいじめてきたのだ。「警察、早く警察に通報して!」その時、誰かが叫んだ。「すみません警備員さん、こっちに来て喧嘩を止めてちょうだい。この女二人がうちの会社まできて社員をいじめてるんです」
唯月がその相手を見るまでもなく、誰なのかわかった。その声を彼女はよく知っている。それは佐々木英子、あのクズな元義姉だ。佐々木母は娘を連れて東グループまで来ていた。しかし、唯月は昼は外で食事しておらず、会社の食堂で済ませると、そのままオフィスに戻ってデスクにうつ伏せて少し昼寝をした。それから午後は引き続き仕事をし、この日は全く外に出ることはなかったのだ。だからこの親子二人は会社の入り口で唯月が出てくるのを、午後ずっとまだか、まだかと待っていたのだ。だから相当に頭に来ていた。やっとのことで唯月が会社から出てきたのを見つけ、英子の怒りは頂点に達した。それで会社に出入りする多くの人などお構いなしに、大声で怒鳴り多くの人にじろじろと見られていた。物好きな者は足を止めて野次馬になっていた。唯月はただの財務部の職員であるだけだが、東社長自ら採用をしたことで会社では有名だった。財務部長ですら、自分の地位が脅かされるのではないかと不安に思っていた。唯月は以前、財務部長をしていたそうだし。上司は唯月を警戒せずにいられなかった。さらに、唯月が東社長に採用されことで、上司は必要以上に彼女のことを警戒していたのだ。唯月は彼女にとって目の上のたんこぶと言ってもいい。周りからわかるように唯月を会社から追い出すことはできないから、こそこそと汚い手を使っていた。財務部職員によると、唯月は何度も上司から嫌がらせを受け、はめられようとしていたらしい。しかし、彼女は以前この財務という仕事をやっていて経験豊富だったので、上司の嫌がらせを上手に避けて、その策略に、はまってしまうことはなかった。「あなた達、何しに来たの?」唯月は立ち止まった。そうしたいわけじゃなく、足を止めるしかなかったのだ。元義母と元義姉が彼女の前に立ちはだかり、バイクを押して行こうとした彼女を妨害したのだ。「私らがどうしてここに来たのかは、あんた、自分の胸に聞いてみることだね。うちの弟の家をめちゃくちゃに壊しやがって、弁償しろ!もし内装費を弁償しないと言うなら、裁判を起こしてやるからね!」英子は金切り声で騒ぎ立て、多くの人が足を止めて野次馬になり、人だかりができてきた。彼女はわざと大きな声で唯月がやったことを周りに広めるつもりなのだ。「あなた方の会社の社員、ええ、内海唯
「伯母さんはあなた達が簡単にやられてばかりな子たちだとは思っていないわ。ただ妹のためにも、あの人たちをギャフンと言わせてやりたいのよ」唯花はそれを聞いて、何も言わなかった。それから伯母と姪は午後ずっと話をしていた。夕方五時、詩乃はどうしても唯花と一緒に東グループに唯月を迎えに行くと言ってきかなかった。唯花は彼女のやりたいようにさせてあげるしかなかった。そして、唯花は車に陽を乗せ自分で運転し、神崎詩乃たち一行と颯爽と東グループへと向かっていった。明凛と清水は彼らにはついて行かなかった。途中まで来て、唯花は突然おばあさんのことを思い出した。確か午後ずっとおばあさんの姿を見ていない。唯花はこの時、急いでおばあさんに電話をかけた。おばあさんが電話に出ると、唯花は尋ねた。「おばあちゃん、午後は一体どこにいたの?」「私はそこら辺を適当にぶらぶらしてたの。仕事が終わって帰るの?今からタクシーで帰るわ」実はおばあさんはずっと隣のお店の高橋のところにいたのだった。彼女は唯花たちの前に顔を出すことができなかったのだ。神崎夫人に見られたら終わりだ。「おばあちゃん、私と神崎夫人のDNA鑑定結果がでたの。私たち血縁関係があったわ。それで伯母さんが私とお姉ちゃんを連れて一緒に神崎さんの家でご飯を食べようって、だから今陽ちゃんを連れてお姉ちゃんを迎えに行くところなの。おばあちゃんと清水さんは先に家に帰っててね」「本当に?唯花ちゃん、伯母さんが見つかって良かったわね」おばあさんはまず唯花を祝福してまた言った。「私と清水さんのことは心配しないで。辰巳に仕事が終わったら迎えに来てもらうから。あなたは伯母さんのお家でゆっくりしていらっしゃい。彼女は数十年も家族を捜していたのでしょう。それはとても大変なことだわ。伯母さんのお家に一晩いても大丈夫よ。私に一声かけてくれるだけでいいからね」唯花は笑って言った。「わかったわ。もし伯母さんの家に泊まることになったら、おばあちゃんに教えるわね」通話を終えて、唯花は一人で呟いた。「午後ずっと見なかったと思ったら、また一人でぶらぶらどこかに出かけてたのね」年を取ってくると、どうやら子供に戻るらしい。そして唯月のほうは、妹からのメッセージを受け取り、彼女たちが神崎夫人と伯母と姪の関係で
昔の古い人間はみんなこのような考え方を持っている。財産は息子や男の孫に与え、女ならいつかお嫁に行ってしまって他人の家の人間になるから、財産は譲らないという考え方だ。息子がいない家庭であれば、その親族たちがみんな彼らの財産を狙っているのだ。跡取り息子のいない家を食いつぶそうとしている。それで多くの人が自分が努力して作り上げた財産を苗字の違う余所者に継承したがらず、なんとかして息子を産もうとするのだった。「二番目の従兄って、内海智文とかいう?」詩乃は内海智文には覚えがあった。主に彼が神崎グループの子会社で管理職をしていて、年収は二千万円あったからだ。彼女たち神崎グループからそんなに多くの給料をもらっておいて、彼女の姪にひどい仕打ちをしたのだ。しかもぬけぬけと彼女の妹の家までも奪っているのだから、智文に対する印象は完全に地の底に落ちてしまった。後で息子に言って内海智文を地獄の底まで叩き落とし、街中で物乞いですらできなくさせてやろう。「彼です。うちの祖父母が一番可愛がっている孫なんですよ。彼が私たち孫の中では一番出来の良い人間だと思ってるんです。だからあの人たちは勝手に智文を内海家の跡取りにさせて、私の親が残してくれた家までもあいつに受け継がせたんです。正月が過ぎたら、姉と一緒に時間を作って、故郷に戻って両親が残してくれた家を取り戻します。家を売ったとしても、あいつらにはあげません!」そうなれば裁判に持っていく。今はもうすぐ年越しであるし、姉が離婚したばかりだから、唯花はまだ何も行動を起こしていないのだ。彼女の両親が残した家は、90年代初期に建てられたものだ。実際、家自体はそんなにお金の価値があるものではないが、土地はかなりの値段がつく。彼女の家は一般的な一軒家の坪数よりも多く敷地面積は100坪ほどあるのだ。彼女の両親がまだ生きていた頃、他所の家と土地を交換し合って、少しずつ敷地面積を増やしていき、ようやく100坪近くある大きな土地を手に入れたのだった。母親は、彼女たち姉妹に大人になって自立できるようになったら、この土地を二つに分けて姉妹それぞれで家を建て、隣同士で暮らしお互いに助け合って生きていくように言っていたのだ。「まったく人を欺くにも甚だしいこと。妹の財産をその娘たちが受け継げなくて、妹の甥っ子が資格を持っ
姫華は唯花たちが引っ越し作業を終えてから、ようやく自分がそんなに面白いことを逃したのだと知ったのだった。だから彼女は明凛と唯花に不満を持っていた。明凛は唯花に姫華にも教えるよう言ったが、唯花が彼女はお嬢様だから家をめちゃくちゃにするという乱暴なシーンは見せたくないと思い姫華には伝えなかったのだ。確かに姫華は名家の令嬢であるが、神崎姫華だぞ。神崎姫華は星城の上流社会ではあまり評判が良くない。他人が彼女のことを横暴でわがまま、理屈が通じないというくらいなのだから、そんな彼女が家を壊すくらいのシーンで音を上げるとでも?逆に、彼女自身も機嫌が悪い時にはハチャメチャなことをしでかすというのに。「姉がもらうべき分はしっかりと財産分与させました。ただ内装費に関しては佐々木家が拒否したので、私たちが人を雇ってその内装を全て剥がしたんです」詩乃はそれを聞いて「それはそうすべきよ。どうして佐々木家においしい思いをさせる必要なんてあるかしら」と唯花たちの行動を当たり前だと言った。そして最後にまた残念そうにこう言った。「もし伯母さんが知っていれば、あなた達の家族として、大勢で彼らのところまで押しかけて内装費を意地でも出させてあげたものを。これは正当な権利よ」この時、唯花はふいに姫華の性格は完全に母親譲りなのだと悟った。「唯花ちゃん、もうちょっとしたらお店を閉めて私たちと一緒に神崎家に帰りましょう。家族みんなで食事をするの。そうだ、あなたの旦那さんはお時間があるのかしら?彼も一緒にいらっしゃいよ」唯花は「夫は今日出張に行ったばかりなんです。たぶん暫くの間帰ってきません。彼が帰ってきたら、一緒に詩乃伯母さんのお宅にお邪魔します」と返事した。「出張に行ってらっしゃるのね。なら、彼が帰って来てからお会いしましょう」詩乃はすぐに姪の夫に会えなくても特に気にしていなかった。彼女にとって、二人の姪のほうが重要だったからだ。今、彼女は姪を見つけることができて、姪二人にはこの神崎詩乃という後ろ盾もできた。ちょうど唯花に代わってその夫が頼りになる人物なのか見極めることができよう。「あなたのお姉さんは五時半にお仕事が終わるのよね?」「ええ」神崎夫人は時間を見て言った。「お姉さんはどこで働いていらっしゃるの?」「東グループです」神崎夫人は「そ