空気の中に食欲をそそる料理の匂いが漂っていた。未央は朝早く出かけたため、今は確かに少しお腹が空いていた。彼女は体を横にずらし、執事に料理を運んで来させて、ゆっくりと言った。「ありがとうございます。手間をかけました」「とんでもございません。私も坊ちゃんが早く良くなることを願っております」執事はすぐにそう返事した。未央は昼食のほかに、湯気の立つ牛乳もあることに気付き、不思議そうな表情を浮かべた。「これは?」「これは、旦那様から白鳥さんはお疲れだろうから、ミルクを用意するよう言われました。これを飲むとリラックスできますから」未央は頷き、深く考えず優しく礼を言った。「お心遣いに感謝します」すると、執事は部屋を出た。「バタン」という音とともに、ドアがゆっくりと閉められた。未央はゆっくりと食事をし始めた。今日のメインは塩コショウしたエビで、少し塩辛かった。無意識にそのホットミルクに手を伸ばし、一口飲むと、濃厚な味が口の中に広がった。ほどなくして昼食を食べ終わり、廊下を少し散歩してからまた部屋に戻った。彼女はそっとドアを開けると、ベッドに横たわった覚が眉をひそめ、額は冷や汗でびしょびしょになっているのに気付いた。口をパクパクさせながら、恐ろしい悪夢にうなされているようだ。未央は目を細め、身を乗り出し、彼の囁きに耳を傾けた。「お……おかあさん……」夢の中に囚われた彼が繰り返している言葉はそれだけだった。未央はため息をつき、またソファに座った。暖かい日差しが窓から差し込んできた。全身が温かくなり、知らず知らずのうちに強い眠気が襲ってきた。未央は眉をひそめた。普段昼寝する習慣などないのに、今日はどうしてこんなに眠いのだろう?間もなく。意識が次第に遠ざかって、瞼が段々重くなっていく。うとうとしているうちに、ソファに倒れ込むように眠りに落ちてしまった。未央が眠りに就いて間もなく「キシ」という音と共に、ドアが開けられた。洋はドアの前に現れ、ゆっくりと中に入ってきた。彼は眉間に皺を寄せて陰鬱な表情をしていた。今までの人前での様子とは全く異なっていた。彼はじっとソファに眠っている姿を見つめた。「冴子さん。私は君をあんなに愛していたのに、君のためなら何でもしてあげたのに、どうして白鳥のや
彼女の口調には深刻さが読み取れた。眉をひそめた洋は苦笑した。「まったく罰が当たりましたね。たった一人の息子が、こんな男でも女でもない半端な姿になってしまうとは」未央は唇を結び、目の前の人を慰めることもせず、暫く黙ってから口を開いた。「では、岩崎社長。他に用がなければ、先に失礼します」しかし。洋は突然手を出して、彼女を止めてしまった。未央が訝しげな視線を受けると、洋は目に切実な感情を浮べ、またお願いした。「白鳥先生。もうしばらく待っていただけませんか。覚が目を覚ました時、また先ほどの状態だったら、私にはどうすればいいか分からなくて」洋はそう言いながら、その目には誠実そのものが宿っていた。眉をひそめた未央は断ろうとしたが、覚のさっきの様子を思い出し、やはり心配でならなかった。医者たるもの、どうしても患者をほってはおけないものだ。たとえ、ただのカウンセラーであっても、使命感と責任感はしっかり持っているのだ。「分かりました」仕方なくため息をついた未央は洋と一緒に離れることはなく、部屋に残ることにした。「ここで息子さんが目覚めるのを待ちます。何かあればすぐに対応できますから、ちょうどいいです」洋は口を開き何か言おうとしたが、結局頷くことしかできなかった。「では、白鳥先生、お願いします」彼が踵を返そうとした時、未央は突然何かを思い出して、気まぐれのふりをして尋ねた。「そう言えば、岩崎社長は父とビジネスパートナーだったって言いましたよね。具体的にどんな仕事を一緒にしていたんですか」洋は表情が一瞬強張り、そっけない返事を返してきた。「大したものじゃなかったんですよ。ほとんと利益が生まれませんでした。どうして突然そんなことを?」未央は首を振り、落ち着いた声で続けて言った。「いいえ。ただ最近、以前父親の会社で管理職についていた人を探しているんですが、ご存知でしょうか」「ほう?誰のことですか」洋は興味深そうに尋ねた。未央はゆっくりと口を開き、黒い瞳をじっと洋の顔に据えて、はっきりとその名前を口にした。「越谷雄大という人です」錯覚かもしれないが、その名前を聞いた瞬間、洋の目に微かな動揺が走ったように見えた。しかし、すぐに平然とした顔をしたので、今のは未央の気のせいだったかのよ
覚は突然狂ったように人形を床に投げつけ、真っ赤になった目で洋を睨みつけた。「どうして壊した!お前だって気に入ってたじゃないか」表情が一気に暗くなった洋は冷たく言い放った。「誰がこんな気味の悪いもんを気に入るものか!」一瞬にして、部屋の空気が凍り付いたようだった。覚が自傷行為に走りそうなのを見て、未央は目を凝らし、すぐに外の方へ向かって叫んだ。「誰か来てください!覚さんを押さえ込んでください!」それを聞いた洋も同じように叫んだ。すぐに、二人の屈強な中年男性が駆けてきて、暴れ出した覚を左右から押さえつけた。すると。未央はポケットから古い懐中時計を取り出すと、覚の目の前でゆっくりと揺らし始めた。彼女の低くした声には魔力があるかのように、彼は眠りに誘われた。「あなたは今とても眠くなってきた。ゆっくり目を閉じて、リラックスしましょう……」未央が繰り返し囁くうちに、覚の暴れる力が次第に弱まっていった。やがて、彼は完全に目を閉じ、呼吸も落ち着いて、深い眠りについた。部屋に平穏が再び戻った。未央はほっとしながら、額の冷や汗を拭き、ひとまず胸を撫でおろした。とにかく、覚は一時的に落ち着かせることができた。だが……理由もなく人が狂うことはない。特にもともと正常だった覚なら尚更だ。絶対何か強い外的な刺激があったに違いない。最初は母親が交通事故で亡くなって受けた刺激が原因だと思っていた。しかし。しかし、彼の先ほどの状態と、言った言葉を振り返ると、おかしく思い始めた。一体何があったのか。元々正常だった青年をこんな状態に変えてしまったものとは?その時、洋の声が聞こえてきた。「白鳥先生、お疲れさまでした」「大丈夫ですよ」未央は何かを考えているかのように洋を一瞥した。現時点で最も怪しいのはやはり彼だった。それに……昨晩冴子の警告は正しかったのかもしれない。そう考えると、未央は目に警戒した色が浮かび、無意識に一歩後ずさり、洋と距離を取った。不気味な空気が流れていた。洋も未央の変化に気づいたようで、その目に暗い光を浮かべながら、ゆっくりとため息をついた。「実は、覚がこうなったのは私にも責任があります」「え?」未央は怪訝そうに彼に尋ねた。「どういうことですか
高橋はすぐに返事した。博人が電話を切ろうとした時、突然何かを思い出し、一言付け加えた。「昨日はよくやった。未央からも聞いたぞ。年末のボーナスは倍だな」電話の向こうの高橋は一瞬ポカンとし、すぐに興奮した声で言った。「西嶋社長、ありがとうございます!奥様にも感謝します!どうか、お二人が永遠に幸せでいられますように!」以前の冷徹無情な西嶋社長より、今の恋に夢中になっている人間味のある西嶋社長について行く方が断然いいのだ。今後、彼のボーナスは安泰だろう!高橋は舞い上がり、ついに出世の道を見つけたと確信した。博人は笑いながら首を振り、電話を切った。その夜はぐっすりと眠れた。……翌朝、東の空が白み始めた頃。「ジリリリリ」未央は枕の傍に置いた携帯を探り、目覚ましアラームを消した。だんだんと朦朧とした意識が次第にクリアになった。起き上がり、シンプルな服に着替え、顔を洗ってから下へ降りた。洋との約束が早いから、今回は理玖を起こさなかった。間もなく、黒いロールスロイスが屋敷の前にやってきた。「白鳥さん、岩崎社長の指示でお迎えに参りました」未央は頷き、そのまま車に乗り込んだ。同時に、彼女は一昨日岩崎家で覚を診察した状況を頭の中で整理していた。あの様子から見ると、母親の死によるショックで性格が激変し、女装趣味が生じたということだろう。暫くして。目的地に到着した。今日、洋は比較的時間の余裕があるようで、朝早くから玄関で待っていた。「白鳥先生、今日はよろしくお願いします」未央は洋を見つめ、うっかり返事することを忘れてしまった。昨日、母親と電話してあんな話をしたせいで、今この男を見ると複雑な感情が込み上げてきたのだ。「白鳥先生?私の顔に何かついていますか」「い、いえ……何もありません」未央はすぐに視線をそらし、雑念を振り払いながら落ち着いて言った。「大丈夫ですよ。これは私の仕事ですから。そう言えば、覚さんは今どこにいらっしゃいますか。まず診察させてください」洋は頷き、前に進んで先導した。あっという間に一昨日来たことのある部屋の前に到着した。「ガチャ」洋はノックも声かけもせず、直接ノブドアを回し、ドアを開けた。この行動に未央は静かに目を細めたが、何も言わなかった。
彼女が眉をひそめる様子を見た博人はおかしそうな表情で彼女のほうへ視線を向けた。「どうした?」「大したことじゃないわ。仕事のことなの」未央は首を横に振り、メッセージを送ったあともう考えることをやめた。「パパ、ママ、見て見て。今覚えた変身だよ!」その時、理玖の明るい声が耳元に届いた。未央は注意力を引き寄せられ、彼のキラキラとした笑顔を見て、思わず笑みがこぼれた。夜が更け、月が夜空にかかった。理玖は何度も欠伸をし、眠気で涙も出てきた。未央はそれを見ると、すぐに部屋に戻るよう促した。「パパ、ママ、おやすみなさい」理玖はベッドに横たわり、大人しく二人にそう言った。「お休み」未央は口元を緩め、博人と一緒にそっと部屋を出てドアを閉めた。二人は何となく顔を見合わせた。何か思い出したように、未央は先に視線を外した。気まずそうな感情が目に浮かんだ。「まだ何か用なの?」彼女は思わず沈黙を破った。博人は目を細めゆっくりと口を開いた。「探偵の友達から連絡があった。手がかりが見つかったようで、もうすぐ越谷雄大という人と連絡が取れるそうだぞ」「本当に?」目に喜びが浮かび、未央は博人を見つめて、心からの感謝の言葉を伝えた。「ありがとう」もし目の前の人がいなければ、自分の力で雄大を見つけるのにどれだけかかることか分からない。博人は落ち着いて言った。「礼には及ばないよ、君の力になれてよかった」未央は男の意味深な視線を感じ取り、頬が赤く染まり、たまらず慌てて言葉を続けた。「他に用がなければ、先に休むわ」明日は早朝から岩崎家へ診察に行かなければならない。そう言い残すと、博人の返事も待たず、急いで自室へ向かった。その細い後ろ姿には少し慌てた様子が見えた。博人は口元に弧を描き、指にはめたダイヤの指輪に触れながら、突然自信が湧いてきた。彼は廊下に暫く立ってから自分の部屋に戻った。その視線をソファに向けると、博人は突然、昨夜感じた女性の柔らかい感触が蘇った。柔らかくて暖かかった。いつになったらまた同じベッドで眠れるのか。博人はため息をつき、胸に渦巻くピンク色の妄想を抑え込み、ノートパソコンをつけて仕事をし始めた。ちょうどその時、高橋からの報告電話がかかってきた。「西嶋社長
未央は胸の中がざわつき、冷ややかな声でこう言った。「もういいわ。私には自分の考えがあるの。お母さんは海外でのんびり過ごすことができたらいいでしょう」冴子も自分が言い過ぎたと気付き、親子関係を修復しようとしたが、どう切り出せばいいか分からなかった。最後にはため息をつき、ゆっくりと言った。「私が間違ったかもしれないよね。あなたがこれでいいと言うなら、それでいいよ。でもただ一つ覚えておきなさい。岩崎洋とは距離を置いたほうがいいってこと」電話を切った後、部屋には重い沈黙が広がった。未央は手にした写真を見つめ、無意識に指に力を込めて、関節が白くなるほどだった。その時、理玖の声が耳に届いた。「ママ、パパがご飯ができたって呼んでるよ」我に返った未央は写真を元の位置に戻し、理玖の小さな手を握って階段を降りた。空気に美味しそうな匂いが漂っている。キッチンに着くと。テーブルには三品の料理とスープが並んでいて、どこにでもある家庭料理だったが、見た目と香りも食欲がそそれる。「わあ!」理玖は目を輝かせ、博人への怒りも忘れて駆け寄っていった。「パパすごい!!僕の大好きな酢豚まで作ってくれた!」博人は口元が緩み、意味ありげな眼差しで未央を見つめてゆっくりと口を開いた。「急いで作ったから、これしかできないんだ。食べてみて」未央は博人をちらりと見た。彼は袖を捲り、引き締まった腰にエプロンをかけ、どう見ても専業主夫のようだった。この人があのビジネス界で多くの人に知られている西嶋社長だったなんて、誰が想像できるだろうか?未央はごくんと唾を飲み込んだ。一日中ずっと忙しかったので、すっかりお腹が空いてしまっていたのだ。彼女は理玖の隣に座り、箸を持ち、酢豚を一つ取って口に入れた。甘酸っぱくてすごく柔らかかった。頭の中に絶品という二文字が浮かんだ。その時、低い男の声が耳に響いた。「どう?」「美味しいよ!」未央はすぐに頷き、咀嚼のスピードを無意識にあげ、頬を膨らませながら食べる様子がとてもかわいかった。博人は目を細め、口元の笑みもさらに優しくなった。「気に入ったんなら、たくさん食べてくれ」晩ご飯を食べた後、未央は全部のことを博人に任せるのも申し訳ないと思って、自ら食器を片付けた。キッチンから