私と蓮くんは、本当はまだ公表したくなかった。彼は一度、芸能界を引退したいと言い出したことがある。でも、会社に必死で引き止められて、結局あと三年の契約を結んだ。その後、彼の俳優としての転身は大成功し、今は映画だけを選んで出演している。人気もますます高まって、最近ではデートに出かけるのも一苦労。いつも夜、人目を避けてこっそり出かける始末。蓮くんはついに我慢できなくなった。彼が自分でデザインした指輪を持って、勢いよくプロポーズしてきた。私は、うれしくてすぐに頷いた。「あゆみ——」呼ばれて、反射的に振り返る。声の主を確認した瞬間、私の顔は一気に曇った。闇の中から、和也が一歩一歩近づいてくる。私を見つめる目はどんどん赤くなっていった。「和也?……どうやってここがわかった?」眉をひそめて問いかけると、彼は静かに答えた。「人に調べさせたんだ。あゆみ、怖がらないで。俺はただ……少し話がしたいだけなんだ」横にいた蓮くんが、私の手をぎゅっと握る。私は彼の手を軽く叩いて、「先に行ってて」と目で伝えると、彼は何度も振り返りながら、その場を離れていった。その姿が愛おしてくて思わず笑顔になった。和也は鼻をすすりながら、どこか泣きそうな声で言った。「あゆみ……元気にしてる?」私は表情を引き締め、淡々と答えた。「あなたがいなければ、今夜はきっと素敵な夜だったんでしょうね」その瞬間、和也の目がまたおかしな光を宿す。まるで私の奥に、何かを探しているような目。ぞわっとする。「……和也、いったい何の用?」「父さんと母さんがね、お前のことずっと気にしてて。大輝がお前を見かけたって言うから、調べさせたんだ。用はないよ。ただお前が元気か知りたくて」まったく油断できない。最近のニュースじゃ、元カレに刺された元カノの話ばかりだ。「ならもう満足でしょ?私は元気だよ。おじさんたちには、また改めてご挨拶に行くから。……それじゃあ」そう言って踵を返し、視線を向けた先には──木の下で、退屈そうに私を待つ蓮くんの姿。私は駆け寄って、彼の手をぎゅっと握る。「待たせたね。さ、行こっか」……番外編【和也】……目が覚めたら、俺は生き返り、26歳の時に戻っていた。喜びを噛みしめな
知り合いから一件のリンクが送られてきた。「これ、見たほうがいい」と。何気なく開いて、目を疑った。――菜々子が、なんと病院からライブ配信をしていたのだ。涙をぼろぼろ流しながら、「藤原あゆみが私を突き飛ばして流産させたの!」と、大声で叫んでいた。病院の背景、映る診断書、彼女の演技。一見すれば、誰もが信じてしまう精巧な演出。彼女は配信で私のフルネームを出し、SNSのアカウント名も晒した。そこから一気に私のもとに悪意が殺到した。スマホは知らない番号からの着信で溢れ、SNSのDMには暴言の嵐。過去の同級生まで、知っていようがいまいが便乗して私を叩きにきた。……まったく、笑っちゃう。怒りよりも、あまりの滑稽さに思わず吹き出した。私はまず警察に通報し、すぐに和也へ電話した。家の防犯カメラの映像を出すようにと交渉した。だが――私はやはり甘かった。あの男が、ここまで卑劣だとは思ってもみなかった。電話越しに、彼はこう言い放った。「映像が欲しいなら家に戻ってこい。俺のそばにいるって約束してくれるなら、映像を渡してやる。菜々子の本性はもうすべてわかった、あいつとは縁を切る……これからはお前と一緒にいたい」あまりにも下劣な発言に思わず吐き気がした。私は通話を録音し、途中で電話を切った。その夜、私もライブ配信を始め、菜々子の虚偽の訴えに対して、証拠を並べて反論した。そして、誹謗中傷を行った人に対しても名誉毀損で訴訟を起こすと宣言。さらに、録音した和也の卑劣な発言を公開した。彼の発言があれば、菜々子は被害者ではないことは明白だろう。すると、ネットの空気は徐々に反転し始めた。鋭い視聴者が情報をまとめ、分析を始める。野次馬たちも防犯カメラの映像を出すよう、和也に迫った。世論の圧力に耐えきれず、正治さんと恵子さんも和也に映像を出すよう命令した。そして――事件は一気に逆転した。聞いた話、菜々子は某芸能事務所と契約を交わし、芸能界デビュー寸前だったらしい。しかし、今回の一件で、すべてが水の泡となった。……私はというと、事件のせいで入社初日を少し延期したが、新しい勤務先はとても理解のある会社で、むしろ法務部の同僚を紹介してくれて、裁判のサポートまでしてくれた。新天地に引
あの日を境に、正治さんと恵子さんから立て続けに電話がかかってきた。「家に戻ってこないか」と、優しい声で言われたけど、私はハッキリと断った。ようやくあの家から逃げ出せたんだ、二度と戻るつもりはない。そして迎えた、蓮くんとの食事の日。彼は相変わらず全身を黒で覆い隠していた。変装でもしないと目立ってしまうからだろう。そんな彼のために、私は個室のあるレストランを予約した。人目を避けて、静かに食事ができるようにと配慮したつもりだったが……最悪のタイミングで最悪の人間――和也と鉢合わせしてしまった。彼は私を見るなり、勢いよく走ってきて、私の手を掴んだ。「あゆみっ、お前、本当に浮気したのか!?あれは冗談じゃなかったのか!?誰なんだよ、こいつは!」その必死ぶりに、思わず白目を剥きそうになる。「……和也、今さら『俺様モード』でも入ったつもり?」うんざりしながら、私は彼の腕を思いっきりつねった。「いってぇ!」という叫びとともに手が離れた瞬間、私はすかさず蓮くんの前に立ち、一歩引いて彼をかばった。和也は感情が高ぶるとすぐ暴走するタイプだ。きっと、何かしら精神的な問題を抱えているのだろう。以前も理由もなく私の荷物を床に投げつけ、スーツケースをめちゃくちゃにされたことがある。そんな彼が今は、捨てられた子犬のような目で私を見つめていた。「あゆみ……お前、あいつを庇うのか?」「そうだけど?――もしかして、自分のこと庇ってほしかったの?」私は鼻で笑って、言葉を続けた。「……いい加減にしてよ。本当に、毎日のように騒ぎを起こして、どこまで迷惑かければ気が済むの?こっちはもうとっくに婚約を解消してる。だからね、あなたと私にはもう何の関係もないんだよ」和也は、怒りで歯を食いしばりながら、私を睨みつけた。「お前が俺の子どもを殺した、その代わりに新しい子どもを産め!」……あまりの暴言に、私は一瞬、耳を疑った。「和也、精神が不安定なら、ちゃんと病院に行って。それに、あなたの家にある防犯カメラって全部飾りだったの?菜々子が転んだのは全部彼女の演技、私には関係ない。罪をなすりつけないで」私は少しだけ笑って、彼に冷たい視線を向けた。「ドラマとかだと、妊娠をうまく利用して他人を陥れながら、自分の厄
「あゆみがいる限り、俺と菜々子は幸せになれない」――和也はそう言っていた。なら、私は身を引けばいい。その日のうちに、私は一枚の写真をSNSに投稿した。写真には、私の手を包み込むように握る大きな男性の手が映っている。指と指が絡まり、ハートの形を描いていた。キャプションはたった一言。【好きぴ】投稿した瞬間、コメント欄は瞬く間に炎上した。【え、何これ!?】【これ、和也兄貴の手じゃないよね?】【藤原、どうしたんだ?】【消した方がいいよ】和也の取り巻き連中が、ぞろぞろと集結してきた。それを見て、私は思わず笑った。とても、気分が良かった。スマホを置き、隣の彼に目をやる。「……あなた、もしかしてアイドルやってる人?あの人気グループのセンター……木下蓮(きのした れん)だよね?」金髪の彼は、少し照れたように笑い、首を振った。「うちのグループはもう解散したし、僕ももうセンターじゃないよ」たったの数時間だったけど、一緒に過ごしてわかったことがある。――全身真っ黒な格好をしている人は有名人か変質者。そう思っていたが、彼の場合、ただの人見知りだったのかもしれない。「二回も助けてくれて、ありがとう。お礼に、ご飯でもどう?」そう声をかけると、彼は一瞬、戸惑ったような顔をした。「もし今は無理なら、日を改めてもいいよ」と付け加えると、彼は小さくうなずいた。食事の約束は明後日。ちょうど私が江北市を離れる前日だ。この数日間、荷物はほとんど向こうの新居に送った。残るはスーツケース二つ、後で自分で運ぶつもりだ。あの投稿以来、和也が私に電話をかけまくっていた。一度ブロックすると、今度は別の番号から。次々とかかってくる着信に、私はついに番号変更を本気で考え始めた。あるとき、うっかり電話に出てしまった瞬間、耳元を劈くような怒鳴り声が響いた。「――あゆみ、ふざけるのも大概にしろ!浮気を公然とやらかすのって、どういう神経してんだ?お前はこんな女だったとは、本当がっかりしたぞ!」私は深く息を吐き、どうにか怒りを飲み込んだ。目が覚めてからというもの、和也が「優秀」どころか、ただの愚か者だったってことが、嫌というほどわかってきた。「……和也。私ね、めったにこんな口調で言わないんだ
「いい?私だってあなたにうんざりなんだよ」思わず漏れたその一言に、和也は目を見開き、信じられないといった様子で私を見つめていた。私はしびれる手を軽く揉み、何食わぬ顔で部屋のドア前に立つ正治さんたちに会釈する。「おじさん、おばさん。まだ用事があるので、お先に失礼します」二人がどんな反応を返したかは見なかった。私は振り返ることなく、まっすぐ芹澤家を後にした。玄関を出た瞬間、足元が崩れ――私はその場に倒れ込んだ。和也のビンタはおそらく本気だった。頬がジンジンと腫れ上がり、じわじわと熱を持っている。もっと叩いておけばよかったと悔しさが込み上げる。彼はいつもそうだ。問題が起きれば、私を責めることしかしない。一度たりとも、私の味方になってくれたことはなかった。逆に菜々子は、演技がうまいし、ずる賢かった。高校の頃から、私は何度もそんな彼女に裏切られてきた。トイレに閉じ込められて泣いていた菜々子を助けたら、次の瞬間には和也の腕の中で泣きながら、自分を閉じ込めたのは私だと仄めかした。もちろん、私はやっていない。けれど、和也は――何の疑いもなく、彼女の言葉だけを信じた。それ以来、私は何も弁解しないことにした。そのせいもあり、「加害者」のレッテルだけがどんどん積み上がっていく。そんなことを考えながら地面に座っていると、ふい声が頭上から響いた。「……あの、大丈夫ですか?病院までお連れしましょうか?」私はまぶたを微かに開け、声の主を見上げる。黒いキャップに黒マスク、黒いシャツとパンツ。全身真っ黒の男が、私の隣に立っていた。……この格好をしているのは芸能人か変質者のどちらかなんだろう。首を横に振って断ろうとしたその瞬間、視界がぐるりと回って、そのまま気を失った。次に目を覚ましたとき、視界には見慣れた白い天井。鼻にツンとくる消毒液の匂い――病院だ。ベッドの横には、金色のくせ毛がふわふわと揺れていた。真っ黒な服を着た男が、ベッドの縁で寝ている。その金髪があまりにもやわらかそうだったので、私はつい無意識に手を伸ばし、触ってしまった。ふわっふわで、ものすごく触り心地がいい!その瞬間、男がピクリと動き、ぱっと顔を上げて私と目が合った。一瞬、頬が赤くなったかと思うと、慌ててマスク
私はついに卒業証書を受け取った。送っていた履歴書にも次々と返事が届く。中でも一番気に入ったのは、隣の市にある有名企業で、すぐに面接の日程を組んでもらった。就職する――それは、前の人生でずっと夢見ていたことだ。嬉しさと不安が入り混じる中、電車に乗る直前に、会社から電話がかかってきた。――無事内定が出たのだ。その瞬間、全身に力がみなぎった。電車の中で、さっそく新しい住まいを探し始める。和也からやっと解放される。その事実が、何より私を浮き立たせた。けれど、その明るい気分は、ホームに降り立った瞬間にかかってきた一本の電話で、あっけなく打ち砕かれた。かけてきたのはもちろん、和也だ。電話を取ると、彼の無遠慮な声が響く。「今どこだ?」まるで氷水を浴びせられたように、さっきまでの喜びが消し飛んだ。「……何の用?」「俺の両親が帰ってきた。一緒に食事がしたいってさ」私は結局、芹澤家に戻ることにした。夕暮れどき、ダイニングには四人が座っていた。正治さんと恵子さん、そして和也と菜々子。私以外のみんなは、どこか険しい顔をしていた。どうやら、私がいない間に何かひと悶着あったらしい。私は何事もなかったように席についた。和也はちらりと私を見ただけで、箸を置き、立ち上がる。「もういい、食欲なくなった」そう言って階段を上がっていく。菜々子がすぐに彼の後を追った。私はそのまま、正治さんたちの隣に腰を下ろした。二人は気まずそうに、和也の態度を弁護する。私は静かに二人を見つめた。前の人生――和也に監禁された私を、必死に助けようとしてくれたけど……その時の芹澤家はもう完全に和也の手に落ちていて、二人にはどうすることもできなかった。私は彼らを恨んではいない。ただ、あの頃の自分の愚かさを悔いているだけだ。私は静かに口を開いた。「おじさん、おばさん……ずっと悩んでいましたが……私と和也は、やっぱり合わないと思います。彼は私が好きじゃないし、私ももう……彼が好きじゃありません。憎しみ合う結婚になるくらいなら、お互い自由になったほうがいいと思います。だから、婚約を……なかったことにしてください」恵子さんは一瞬言葉を失い、目に涙を浮かべていた。「……本当に、そこまで決めてるの