LOGIN
私は億劫そうに視線を上げ、彼女を一瞥した。「……で、言いたいことはそれだけ?」彼女は一瞬ポカンとし、私がこれほど冷静でいるとは微塵も予想していなかったようだ。すぐに彼女の目つきが険しくなった。「当然まだあるわよ!」そう言い捨てるなり、彼女はバッグからプリントアウトされた分厚い紙の束を取り出し、待合室の椅子に向かって1枚ずつ派手にばら撒き始めた。「みなさん、よく見てください!ここの水瀬先生は、人の彼氏を奪い取る泥棒猫ですよ!他人の新婚旅行に横入りする最低な女です!」私は足元にヒラリと落ちた1枚に視線を落とした。そこにはびっしりと文字が羅列され、太字のゴシック体で【水瀬結月・略奪愛の全貌】という見出しが躍っていた。私は身をかがめてその1枚を拾い上げ、頭から終わりまでサラリと目を通した。認めざるを得ないが、非常に緻密な構成だった。私と拓海が出会った頃から時系列に沿って、私を計画的に人の恋人を奪った女に仕立て上げ、真由自身は恋人を奪われた気の毒な幼馴染として描かれていた。ただ、1つだけ致命的なミスがあった。日付が間違っているのだ。私と拓海が交際をスタートさせた時期と、彼女が海外へ渡った時期に矛盾が生じていた。「西園寺真由、デマをでっち上げるなら、せめて時系列くらいちゃんと整理してからにしたらどう?」彼女の顔からサッと血の気が引いた。「あんたっ……!」「そこまでだ!」声を張り上げたのは私ではない。いつの間にかオフィスから出てきたセンター長だった。彼の後ろには警備員が2人控えている。「そこのあなた。ロビーで事実無根のビラを撒き、うちの職員に嫌がらせをする様子は、監視カメラにすべて録画されていますよ。すでに警察にも通報済みです」真由は手の中に残った半分の紙束を握りしめたまま、その場に釘付けになっていた。駆けつけた警察官は監視カメラの映像を確認し、残りのビラを押収すると、極めて事務的な態度で真由をパトカーに乗せていった。私はセンター長に深々と頭を下げて礼を言い、治療室に戻って次の患者の対応にあたった。退勤時、拓海からメールが届いているのに気づいた。【真由が起こした騒ぎのことは聞いた。まさかあいつがこんな真似をするなんて思わなかった。本当に申し訳ない。昔のあいつは、こんな人間じゃなかっ
私は採用先の町へ移り、南向きの小さなマンションを借りた。日当たりのいい小さなバルコニーがついている。新居に引っ越した初日、私はスーパーへ行き、新しいシーツや食器を買った。これらの品々は、拓海とは何の関係もない。彼が選んだものでも、彼からの贈り物でも、彼が触れたものでもない。この空間にあるすべてのものは、私が自分の手で選んだ、私だけの居場所なのだ。働き始めて3週目のある日の午後、担当患者の初回評価を終えた直後、受付が微妙な表情を浮かべてスタッフルームのドアを開けた。「水瀬先生、お客様がお待ちです」ロビーに出ると、またしても拓海がいた。彼は受付カウンターの傍らで、抱えきれないほどの巨大なバラの花束を持っていた。ロビーには他の患者やその家族もおり、その場の全員が一斉に私たちの方を振り返った。私を見た瞬間、拓海の目にパッと光が宿った。彼は私の前に歩み寄り、周囲の視線が集中する中、片膝をついた。「結月、俺が悪かった。本当に、俺が間違ってた。ハネムーンのことも、真由のことも、全部俺がバカだった。この半年、毎日後悔してばかりで、夜も眠れないし、食事も喉を通らなくて、俺……」彼の喉仏がゴクリと上下に動き、花束をさらに私の方へと高く掲げた。「一緒に家に帰ってくれないか?」私は視線を落として彼を観察した。正直なところ、彼はひどく痩せ細り、頬骨はハネムーンの頃よりこけ、顎には青々と無精髭が生え、目は充血し、スーツの肩にはうっすらと埃が積もっていた。見る影もなく落ちぶれていた。しかし、それらのディテールを目にしても、私の心にはさざ波一つ立たなかった。次の瞬間、私はスッと右手を差し出した。彼の瞳が信じられないほどの輝きを放ち、唇までもが微かに震え始めた。私はその花束を受け取った。そして、そのままそばにあったゴミ箱の上へと無造作に置いた。「ありがとう。でも、もう結構よ」私は踵を返し、治療室のドアを開けた。拓海はまだロビーで片膝をついたままだった。だが、もう一度振り返って彼を見る気など、微塵も起きなかった。……翌日、拓海は姿を見せなかった。これできっぱり終わったのだと、私は思っていた。しかし4日目、仕事を終えてセンターの玄関を出ると、道路の向かい側の街灯の下に立っている
拓海が私を血眼になって探していると知ったのは、以前の同僚からのLINEだった。同僚が、拓海のインスタグラムのストーリーをスクショして送ってくれたのだ。【誰か、最近の結月の連絡先を知りませんか?前の番号が繋がらなくなりました。急用があるので、ご存知の方はDMをください。どうかお願いします】コメントは少なかったが、その中にひときわ目を引くものがあった。私たち共通の友人からの書き込みだ。【自分の妻の連絡先すら知らないのか?】そのスクショを見てから数日後、母から呆れ果てたような声で電話がかかってきた。「あいつ、とうとう実家まで押しかけてきたわよ。車のトランクいっぱいに、高級な酒だのタバコだの銘茶だの健康食品だのを詰め込んで、3往復もして全部運び込んできたの!あなたが留守だと伝えても、玄関口に居座って全然帰ろうとしなくて。今どの街にいるのか、何をしているのか、汗だくになりながらしつこく聞いてきたわ。でも安心して。私、何一つ教えてないから」その後の半月の間に、かつての同僚、大学時代の友人、さらには長らく疎遠だった元同僚までもが、次々と拓海からLINEの友達追加リクエストを受け取った。昔借りた本を返したいだの、私が彼のところに置き忘れた書類を届けたいだのと、口実はさまざまだった。何人かからどう対応すればいいかと聞かれたが、私は「好きにしていいよ」とだけ答えた。ジムの受付をしていた川村美咲(かわむら みさき)は、問答無用で彼をブロックし、そのスクショと共にメッセージを送ってきた。【結月さん、この人頭おかしいんじゃないですか?】私はふっと笑ったが、返信はしなかった。この研修施設に来て、すでに2ヶ月半が過ぎていた。これだけ辺鄙で静かな場所なら、絶対に拓海に見つかるはずがないと思っていた。だが、私は彼の執着心を甘く見ていたようだ。その日の午後、実技の授業中だった。ペアを組んでいた相手が不意に膝で私をつつき、顎で窓の外をしゃくった。「外のあの人、ずっとあそこに立ってるよ」顔を上げた私は、訓練室の大きなガラス越しに拓海の姿を捉えた。「水瀬さん」ペアの子が小声で囁いた。「あなたのこと見てるよ」私は何も答えなかった。授業が終わり、ノートをカバンにしまい、雅也と来週のテスト内容について少
研修施設は郊外にあった。手前には灰白色の3階建ての建物があり、裏手には400メートルトラックが広がっている。毎朝6時、私はトラックを5キロ走り込み、その後は日が暮れるまで解剖室にこもり、骨格模型と筋肉の解剖図と睨めっこする日々を送っていた。ここに来て3週目を迎えた頃、授業後に講師の須藤雅也(すどう まさや)に呼び止められた。「水瀬、お前、以前はフィットネスクラブで働いてたんだってな?」私が小さく頷くと、彼は私の全身をジロリと見て、ふっと笑った。「自分に厳しいんだな。リハビリの世界じゃ、そういう泥臭い根性がモノを言う。はっきり言うが、前のインストラクターの仕事は、お前の才能の持ち腐れだったな」私はその場に立ち尽くした。才能の持ち腐れだなんて、これまで誰からも言われたことがなかったからだ。少なくとも、拓海からは一度も。あの男の目に映る私の仕事など、せいぜい「そこそこ見栄えのいい肩書き」程度のものでしかなかった。今でも彼の言葉をはっきりと覚えている。「女の子がパーソナルトレーナーをやるのはいいことだよ。スタイルも保てるし、連れて歩くのにも鼻が高いからな」私がこの業界でどれだけの汗を流し、どんな資格を取り、将来どんなキャリアを築きたいかなど、彼は一度も聞いてこなかった。私から進んで話すこともなかった。今思えば、話すのを忘れていたわけではない。彼がそんな話など聞きたがっていないことを、無意識のうちに分かっていたのだ。私は毎日のスケジュールを限界まで詰め込んだ。午前中は座学、午後は実技訓練、夜は自習室にこもって標本や映像資料と向き合い、ノートをまとめる。ある日の昼休み、食堂でランチの列に並んでいると、前にいた2人の女性がスマホを覗き込んでヒソヒソと話していた。「ねえ見てよ、これ。典型的な上から目線のイタいポエム」もう1人が画面を覗き込み、鼻で笑う。彼女たちの後ろを通り過ぎる際、何気なくその画面に視線を落とし、私はピタリと足を止めた。彼女たちに嘲笑されていたのは、拓海だった。彼がXにポストした内容を、前の職場の同僚がスクショしてグループチャットにさらし、それがさらに拡散されていたのだ。そこにはこう書かれていた。【大切な人は失って初めて、その大切さに気づくものだ。昔、毎朝コーヒー
到着地の空港に降り立った頃には、空はすでにすっかり日が落ちていた。私は実家には帰らなかった。帰りたくなかったわけではない。ただ、恐ろしかったのだ。拓海は実家の住所を知っているし、新居の鍵だって持っている。もし帰れば、確実に踏み込まれてしまう。今の私には、あの男の呆れ返ったような「騒ぐな」という言葉に耐える精神力など、もう1ミリも残されていなかった。空港周辺の安いビジネスホテルにチェックインすることにした。シャワーを浴びる準備をしながら鏡を見ると、眉尻の傷はかさぶたになり、膝の打撲痕は青色からどす黒い紫色へと変色していた。いつもは手入れを欠かさなかった髪も今は鳥の巣のように乱れ、目の下にはくっきりと隈が刻まれている。惨めな自分の姿をしばらく見つめ続けた後、私はシャワーの蛇口をひねり、結婚式を挙げてから一番念入りに全身の汚れを洗い流した。まだ塞がりきっていない傷口に熱いシャワーが容赦なく打ち付け、チクチクと突き刺さるような痛みが走った。翌朝一番にジムへ向かい、私は退職届を叩きつけた。支配人は突き出された退職届を見て、ポカンと口を開けた。彼は私の眉尻の傷をちらりと見上げ、それから傍らに置かれたスーツケースへと視線を移した。彼はそれ以上何も詮索することなく、ただ無言でサインを済ませると、「体を大事にな」とだけ言葉をかけた。私はこのジムに丸7年勤め上げた。入社当初はパーソナルの枠すら埋まらない底辺トレーナーだったが、最終的には指名待ちの顧客が列をなす看板トレーナーにまで上り詰めた。敷き詰められたラバーマットの1枚1枚まで馴染み深く、どのトレーニングマシンも数千回は使いこなしてきた。それでも、エントランスをくぐってから店を後にするまで、わずか15分しかかからなかった。送別会はおろか、事情説明すらなく、同僚の誰一人にも別れの挨拶をしなかった。説明のしようがなかったのだ。「新婚旅行先のホテルで、旦那に元カノの身代わりにされたから逃げてきた」などと、口が裂けても言えるわけがない。……その後の1週間で、拓海と同棲していたマンションの賃貸契約を解除し、6年間使い続けたスマホの番号を解約し、SNSのアカウントを抹消した。カメラロールに残った最後の1枚の画像を消去しようとした時、私の指は画面の上で一瞬
翌朝、レストランの大きなガラス窓越しに、拓海と真由の姿を見つけた。2人は最も海側の景色の良い席に陣取っていた。真由の前のプレートにはゆで卵が1つ転がっており、拓海は脇目も振らずにその殻を剥いてやっている。その横顔には、真剣で、どこまでも甘やかな優しさが張り付いていた。あの優しさを、私も知っている。生理痛に苦しむ私のお腹を、優しくさすってくれた時の顔だ。誕生日に私の頬を包み込み、「本当に綺麗だよ」と囁いてくれた時の顔だ。だが真由の視線は、卵を剥く彼の手元ではなく、真っ直ぐにこちらへと向けられていた。そして、勝者の余裕をこれでもかと口元に浮かべながら、挑発するように私に向かってヒラヒラと手を振ってみせたのだ。その瞬間、私の脳裏を無数の記憶がフラッシュバックした。昨夜真由が送りつけてきたあの画像。カードキーをひけらかし、「土下座でもしてみる?」と嗤ったあの顔。私が怒った顔は真由にそっくりだと告げた拓海のあの眼差し。それらが鋭利なガラス片のように喉の奥にへばりつき、容赦なく私の心を切り裂くような痛みを走らせた。次の瞬間、私は弾かれたようにレストランのドアを押し開け、一直線に2人のテーブルへと突進していた。「西園寺真由、いい加減にして!」私が怒鳴りつけるや否や、真由の唇が小刻みに震え出し、瞬く間に目頭が赤く染まっていった。そして、ぽろりと涙が彼女の目尻を伝い落ちる。それを見た拓海がガタッと勢いよく立ち上がり、私の腕を掴んでレストランの外へと乱暴に引きずり出した。大股で歩く彼に引きずられ、体勢を崩した私の膝が隣のテーブルの脚に激突する。あまりの痛みに息が止まりそうになった。廊下へ出るなり、彼は私を壁に向かって力任せに突き飛ばした。肩甲骨が壁の出っ張りに強打され、ゴンという鈍い音が廊下に響く。「みっともない真似すんなよ!真由がせっかくお前も連れてきていいって許可してくれたのに、わざわざレストランまで来て喚き散らすなんて、頭おかしいのか!?周りの目が気にならねぇのかよ!」私は彼の顔をまじまじと見つめ返した。この丸2年、ずっと見つめてきた顔を。けれど今この瞬間、目の前にいるこの男が、得体の知れない赤の他人に思えた。「……私たちの新婚旅行なのに、真由が許可したってどういうこと?それに