Masukウェディングドレスを脱いだばかりの結婚式の夜、藤堂拓海(とうどう たくみ)は酔った勢いで私、水瀬結月(みなせ ゆづき)を背後から抱きしめてきた。 「結月、やっとお前を俺のものにできたな。本当に幸せだよ」 振り返って何か言おうとするより早く、熱を帯びた彼の指先が私の背筋をそっとなぞった。 背骨のくぼみに沿ってゆっくりと指を滑らせ、最終的にブラジャーのホックがあるべき位置でその動きを止める。 指先で何度か探るような仕草を見せた後、拓海は酔いの回った舌足らずな声でぼやいた。 「あれ、ホックがない」 その言葉を聞いた瞬間、全身がサッと凍りついた。 拓海と出会った時、私はすでにパーソナルトレーナーとして5年間働いていた。 動きやすいように、働き始めた頃からずっとスポーツブラを愛用している。だから、彼が探しているようなホックなどあるはずもないのだ。 その瞬間、私ははっきりと悟った。彼は不倫をしているのだ、と。 拓海は何度も寝言を呟くと、そのまま深い眠りに落ちた。私は身を乗り出し、彼の枕元のナイトテーブルからスマホを手に取った。 ロック画面を解除するまでもなく、メッセージ通知が目に飛び込んできた。 【どうだった?結婚初夜に奥さんに向かって私の名前を呼ぶの、スリル満点だったでしょ?】
Lihat lebih banyak私は億劫そうに視線を上げ、彼女を一瞥した。「……で、言いたいことはそれだけ?」彼女は一瞬ポカンとし、私がこれほど冷静でいるとは微塵も予想していなかったようだ。すぐに彼女の目つきが険しくなった。「当然まだあるわよ!」そう言い捨てるなり、彼女はバッグからプリントアウトされた分厚い紙の束を取り出し、待合室の椅子に向かって1枚ずつ派手にばら撒き始めた。「みなさん、よく見てください!ここの水瀬先生は、人の彼氏を奪い取る泥棒猫ですよ!他人の新婚旅行に横入りする最低な女です!」私は足元にヒラリと落ちた1枚に視線を落とした。そこにはびっしりと文字が羅列され、太字のゴシック体で【水瀬結月・略奪愛の全貌】という見出しが躍っていた。私は身をかがめてその1枚を拾い上げ、頭から終わりまでサラリと目を通した。認めざるを得ないが、非常に緻密な構成だった。私と拓海が出会った頃から時系列に沿って、私を計画的に人の恋人を奪った女に仕立て上げ、真由自身は恋人を奪われた気の毒な幼馴染として描かれていた。ただ、1つだけ致命的なミスがあった。日付が間違っているのだ。私と拓海が交際をスタートさせた時期と、彼女が海外へ渡った時期に矛盾が生じていた。「西園寺真由、デマをでっち上げるなら、せめて時系列くらいちゃんと整理してからにしたらどう?」彼女の顔からサッと血の気が引いた。「あんたっ……!」「そこまでだ!」声を張り上げたのは私ではない。いつの間にかオフィスから出てきたセンター長だった。彼の後ろには警備員が2人控えている。「そこのあなた。ロビーで事実無根のビラを撒き、うちの職員に嫌がらせをする様子は、監視カメラにすべて録画されていますよ。すでに警察にも通報済みです」真由は手の中に残った半分の紙束を握りしめたまま、その場に釘付けになっていた。駆けつけた警察官は監視カメラの映像を確認し、残りのビラを押収すると、極めて事務的な態度で真由をパトカーに乗せていった。私はセンター長に深々と頭を下げて礼を言い、治療室に戻って次の患者の対応にあたった。退勤時、拓海からメールが届いているのに気づいた。【真由が起こした騒ぎのことは聞いた。まさかあいつがこんな真似をするなんて思わなかった。本当に申し訳ない。昔のあいつは、こんな人間じゃなかっ
私は採用先の町へ移り、南向きの小さなマンションを借りた。日当たりのいい小さなバルコニーがついている。新居に引っ越した初日、私はスーパーへ行き、新しいシーツや食器を買った。これらの品々は、拓海とは何の関係もない。彼が選んだものでも、彼からの贈り物でも、彼が触れたものでもない。この空間にあるすべてのものは、私が自分の手で選んだ、私だけの居場所なのだ。働き始めて3週目のある日の午後、担当患者の初回評価を終えた直後、受付が微妙な表情を浮かべてスタッフルームのドアを開けた。「水瀬先生、お客様がお待ちです」ロビーに出ると、またしても拓海がいた。彼は受付カウンターの傍らで、抱えきれないほどの巨大なバラの花束を持っていた。ロビーには他の患者やその家族もおり、その場の全員が一斉に私たちの方を振り返った。私を見た瞬間、拓海の目にパッと光が宿った。彼は私の前に歩み寄り、周囲の視線が集中する中、片膝をついた。「結月、俺が悪かった。本当に、俺が間違ってた。ハネムーンのことも、真由のことも、全部俺がバカだった。この半年、毎日後悔してばかりで、夜も眠れないし、食事も喉を通らなくて、俺……」彼の喉仏がゴクリと上下に動き、花束をさらに私の方へと高く掲げた。「一緒に家に帰ってくれないか?」私は視線を落として彼を観察した。正直なところ、彼はひどく痩せ細り、頬骨はハネムーンの頃よりこけ、顎には青々と無精髭が生え、目は充血し、スーツの肩にはうっすらと埃が積もっていた。見る影もなく落ちぶれていた。しかし、それらのディテールを目にしても、私の心にはさざ波一つ立たなかった。次の瞬間、私はスッと右手を差し出した。彼の瞳が信じられないほどの輝きを放ち、唇までもが微かに震え始めた。私はその花束を受け取った。そして、そのままそばにあったゴミ箱の上へと無造作に置いた。「ありがとう。でも、もう結構よ」私は踵を返し、治療室のドアを開けた。拓海はまだロビーで片膝をついたままだった。だが、もう一度振り返って彼を見る気など、微塵も起きなかった。……翌日、拓海は姿を見せなかった。これできっぱり終わったのだと、私は思っていた。しかし4日目、仕事を終えてセンターの玄関を出ると、道路の向かい側の街灯の下に立っている
拓海が私を血眼になって探していると知ったのは、以前の同僚からのLINEだった。同僚が、拓海のインスタグラムのストーリーをスクショして送ってくれたのだ。【誰か、最近の結月の連絡先を知りませんか?前の番号が繋がらなくなりました。急用があるので、ご存知の方はDMをください。どうかお願いします】コメントは少なかったが、その中にひときわ目を引くものがあった。私たち共通の友人からの書き込みだ。【自分の妻の連絡先すら知らないのか?】そのスクショを見てから数日後、母から呆れ果てたような声で電話がかかってきた。「あいつ、とうとう実家まで押しかけてきたわよ。車のトランクいっぱいに、高級な酒だのタバコだの銘茶だの健康食品だのを詰め込んで、3往復もして全部運び込んできたの!あなたが留守だと伝えても、玄関口に居座って全然帰ろうとしなくて。今どの街にいるのか、何をしているのか、汗だくになりながらしつこく聞いてきたわ。でも安心して。私、何一つ教えてないから」その後の半月の間に、かつての同僚、大学時代の友人、さらには長らく疎遠だった元同僚までもが、次々と拓海からLINEの友達追加リクエストを受け取った。昔借りた本を返したいだの、私が彼のところに置き忘れた書類を届けたいだのと、口実はさまざまだった。何人かからどう対応すればいいかと聞かれたが、私は「好きにしていいよ」とだけ答えた。ジムの受付をしていた川村美咲(かわむら みさき)は、問答無用で彼をブロックし、そのスクショと共にメッセージを送ってきた。【結月さん、この人頭おかしいんじゃないですか?】私はふっと笑ったが、返信はしなかった。この研修施設に来て、すでに2ヶ月半が過ぎていた。これだけ辺鄙で静かな場所なら、絶対に拓海に見つかるはずがないと思っていた。だが、私は彼の執着心を甘く見ていたようだ。その日の午後、実技の授業中だった。ペアを組んでいた相手が不意に膝で私をつつき、顎で窓の外をしゃくった。「外のあの人、ずっとあそこに立ってるよ」顔を上げた私は、訓練室の大きなガラス越しに拓海の姿を捉えた。「水瀬さん」ペアの子が小声で囁いた。「あなたのこと見てるよ」私は何も答えなかった。授業が終わり、ノートをカバンにしまい、雅也と来週のテスト内容について少
研修施設は郊外にあった。手前には灰白色の3階建ての建物があり、裏手には400メートルトラックが広がっている。毎朝6時、私はトラックを5キロ走り込み、その後は日が暮れるまで解剖室にこもり、骨格模型と筋肉の解剖図と睨めっこする日々を送っていた。ここに来て3週目を迎えた頃、授業後に講師の須藤雅也(すどう まさや)に呼び止められた。「水瀬、お前、以前はフィットネスクラブで働いてたんだってな?」私が小さく頷くと、彼は私の全身をジロリと見て、ふっと笑った。「自分に厳しいんだな。リハビリの世界じゃ、そういう泥臭い根性がモノを言う。はっきり言うが、前のインストラクターの仕事は、お前の才能の持ち腐れだったな」私はその場に立ち尽くした。才能の持ち腐れだなんて、これまで誰からも言われたことがなかったからだ。少なくとも、拓海からは一度も。あの男の目に映る私の仕事など、せいぜい「そこそこ見栄えのいい肩書き」程度のものでしかなかった。今でも彼の言葉をはっきりと覚えている。「女の子がパーソナルトレーナーをやるのはいいことだよ。スタイルも保てるし、連れて歩くのにも鼻が高いからな」私がこの業界でどれだけの汗を流し、どんな資格を取り、将来どんなキャリアを築きたいかなど、彼は一度も聞いてこなかった。私から進んで話すこともなかった。今思えば、話すのを忘れていたわけではない。彼がそんな話など聞きたがっていないことを、無意識のうちに分かっていたのだ。私は毎日のスケジュールを限界まで詰め込んだ。午前中は座学、午後は実技訓練、夜は自習室にこもって標本や映像資料と向き合い、ノートをまとめる。ある日の昼休み、食堂でランチの列に並んでいると、前にいた2人の女性がスマホを覗き込んでヒソヒソと話していた。「ねえ見てよ、これ。典型的な上から目線のイタいポエム」もう1人が画面を覗き込み、鼻で笑う。彼女たちの後ろを通り過ぎる際、何気なくその画面に視線を落とし、私はピタリと足を止めた。彼女たちに嘲笑されていたのは、拓海だった。彼がXにポストした内容を、前の職場の同僚がスクショしてグループチャットにさらし、それがさらに拡散されていたのだ。そこにはこう書かれていた。【大切な人は失って初めて、その大切さに気づくものだ。昔、毎朝コーヒー