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仰ぎ見ても、届かぬ月

仰ぎ見ても、届かぬ月

Oleh:  ワガママTamat
Bahasa: Japanese
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ウェディングドレスを脱いだばかりの結婚式の夜、藤堂拓海(とうどう たくみ)は酔った勢いで私、水瀬結月(みなせ ゆづき)を背後から抱きしめてきた。 「結月、やっとお前を俺のものにできたな。本当に幸せだよ」 振り返って何か言おうとするより早く、熱を帯びた彼の指先が私の背筋をそっとなぞった。 背骨のくぼみに沿ってゆっくりと指を滑らせ、最終的にブラジャーのホックがあるべき位置でその動きを止める。 指先で何度か探るような仕草を見せた後、拓海は酔いの回った舌足らずな声でぼやいた。 「あれ、ホックがない」 その言葉を聞いた瞬間、全身がサッと凍りついた。 拓海と出会った時、私はすでにパーソナルトレーナーとして5年間働いていた。 動きやすいように、働き始めた頃からずっとスポーツブラを愛用している。だから、彼が探しているようなホックなどあるはずもないのだ。 その瞬間、私ははっきりと悟った。彼は不倫をしているのだ、と。 拓海は何度も寝言を呟くと、そのまま深い眠りに落ちた。私は身を乗り出し、彼の枕元のナイトテーブルからスマホを手に取った。 ロック画面を解除するまでもなく、メッセージ通知が目に飛び込んできた。 【どうだった?結婚初夜に奥さんに向かって私の名前を呼ぶの、スリル満点だったでしょ?】

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Bab 1

第1話

あっけにとられているうちに、背後から拓海にスマホを奪い取られた。その声にはまだ深い酔いが混じっていた。

「結月、俺は本当にお前を愛してるんだ。賭けに負けたとしても、お前を悲しませたくなかった。お前に向かって元カノの名前を呼ぶなんて、そんなことできるわけないだろ?」

背後からは彼の熱い体温が伝わってくるのに、私の体は芯から冷え切っていた。

拓海は甘えるように私の耳たぶを軽く甘噛みした。

「結月、なんで黙ってるんだよ」

長い沈黙の後、ようやく自分の声が喉から絞り出された。ただ、口にした言葉はひどく震え、早鐘のような心音がそのまま声帯を震わせているかのようだった。

「……西園寺真由(さいおんじ まゆ)とは、もうずっと連絡を取ってないって言ってたよね?」

拓海は体を起こすと、私の顎を掴み、無理やりこちらを振り向かせた。

「でもさ、お前の顔を見てると、どうしても真由を思い出しちゃうんだよ」

「特にお前が眉をひそめた顔なんて、あいつと瓜二つなんだもん」

この上なく優しい口調で、私の心をズタズタに引き裂くような言葉を次々と口にする。

「当ててみようか……どこで気づいた?ブラのホックか?

実を言うと、俺もお前のそういうところにずっと不満があったんだよな。

お前も真由みたいに、もっと女らしければよかったのに。

そう考えると、あいつは俺たちのキューピッドみたいなもんかもな。

だって、真由がいなかったら俺はお前を選んでなかったわけだし」

私は信じられないものを見る目で彼を睨みつけた。

「拓海、この嘘つきっ……!」

彼はわずかに眉をひそめたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。

「そう、それ。怒った顔はもっと真由に似てる」

言いたいことだけを言い放つと、拓海はほどなくして再び寝息を立て始めた。

私は何かに取り憑かれたように再び彼のスマホを手に取り、真由とのLINEのトーク画面を開いていた。

拓海と付き合い始めた当初から、彼には高校から大学にかけて長い間交際していた元カノがいることは知っていた。

破局の理由もよくあるありふれたもので、一方が家庭を望み、もう一方がキャリアを優先したというだけの話だ。

しかし交際中、拓海は「真由とはとっくに綺麗さっぱり縁を切った」と何度も私に誓っていた。

だが今、どれだけスクロールしても底が見えないトーク履歴を目の当たりにして、ずっと騙されていたのだと痛感した。

スマホを握りしめる指は血の気が引いて白くなり、関節が軋むほどの痛みが走る。

混濁する意識を引き戻したのは、突然の手元の振動だった。拓海からの返信がないことにしびれを切らしたのか、画面の向こうの真由からさらに数件のメッセージが届いたのだ。

【やっぱり呼べなかったんでしょ?】

【じゃあ今回の賭けはあなたの負け】

【ハネムーンは私と行く約束だからね】

……

画面に並ぶメッセージを呆然と見つめていると、ポツリと画面に雫が落ちた。その時初めて、自分が泣いていることに気がついた。

なすがままに声を殺して泣いた後、私は決意した。明日、絶対に婚姻届を提出しないと。

最初から嘘で塗り固められていたこんな恋、もう未練はなかった。

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第1話
あっけにとられているうちに、背後から拓海にスマホを奪い取られた。その声にはまだ深い酔いが混じっていた。「結月、俺は本当にお前を愛してるんだ。賭けに負けたとしても、お前を悲しませたくなかった。お前に向かって元カノの名前を呼ぶなんて、そんなことできるわけないだろ?」背後からは彼の熱い体温が伝わってくるのに、私の体は芯から冷え切っていた。拓海は甘えるように私の耳たぶを軽く甘噛みした。「結月、なんで黙ってるんだよ」長い沈黙の後、ようやく自分の声が喉から絞り出された。ただ、口にした言葉はひどく震え、早鐘のような心音がそのまま声帯を震わせているかのようだった。「……西園寺真由(さいおんじ まゆ)とは、もうずっと連絡を取ってないって言ってたよね?」拓海は体を起こすと、私の顎を掴み、無理やりこちらを振り向かせた。「でもさ、お前の顔を見てると、どうしても真由を思い出しちゃうんだよ」「特にお前が眉をひそめた顔なんて、あいつと瓜二つなんだもん」この上なく優しい口調で、私の心をズタズタに引き裂くような言葉を次々と口にする。「当ててみようか……どこで気づいた?ブラのホックか?実を言うと、俺もお前のそういうところにずっと不満があったんだよな。お前も真由みたいに、もっと女らしければよかったのに。そう考えると、あいつは俺たちのキューピッドみたいなもんかもな。だって、真由がいなかったら俺はお前を選んでなかったわけだし」私は信じられないものを見る目で彼を睨みつけた。「拓海、この嘘つきっ……!」彼はわずかに眉をひそめたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。「そう、それ。怒った顔はもっと真由に似てる」言いたいことだけを言い放つと、拓海はほどなくして再び寝息を立て始めた。私は何かに取り憑かれたように再び彼のスマホを手に取り、真由とのLINEのトーク画面を開いていた。拓海と付き合い始めた当初から、彼には高校から大学にかけて長い間交際していた元カノがいることは知っていた。破局の理由もよくあるありふれたもので、一方が家庭を望み、もう一方がキャリアを優先したというだけの話だ。しかし交際中、拓海は「真由とはとっくに綺麗さっぱり縁を切った」と何度も私に誓っていた。だが今、どれだけスクロールしても底が見えないトーク履歴を目の当
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第2話
翌朝、私は拓海のスマホのバイブ音で目を覚ました。昨夜はよほど心身が疲弊していたのだろう。意識が戻ると、私は2人のスマホを抱え込むようにして眠っていた。画面にメッセージ通知がポップアップしたが、内容を確認するより早く、背後から伸びてきた手にスマホをサッと抜き取られた。拓海は寝返りざまに私を腕の中へ引き込むと、猫の首根っこでも掴むようにうなじを押さえつけ、そのまま自分の胸元へと押し当ててきた。「結月、ずいぶん早起きだな」まだ眠気を引きずった気だるげな声は、昨夜の出来事など初めからなかったかのように平然としていた。私は身動き一つせず、返答もしない。私の体のこわばりに気づいた拓海は上体を起こし、品定めでもするように私の顔をじろじろと見つめた。やがて彼は小さく鼻で笑う。「まだ昨日のことで怒ってるのか?」首の後ろを掴む拓海の指にグッと力がこもる。痛みを感じるほどではないが、顔を背けて視線を逸らすことを封じるには十分な力だった。「わかってるだろ?昨日は俺たちの晴れ舞台だったんだぞ。嬉しくてつい飲みすぎただけで、全部ただの酔っ払いの戯言だよ。だから、いい子にして。もう騒ぐのはやめてくれ」ひどく軽薄なその言葉は、まるで聞き分けのないペットをあやしているかのようだ。交際を始めたばかりの頃の記憶が唐突に蘇る。あの時も彼はこうして笑いながら私の首の後ろを弄り、「僧帽筋のラインが綺麗だ」と褒めてくれた。当時の私は、それが恋人同士の親密なスキンシップなのだと信じて疑わなかった。だが、今は痛いほどわかる。彼はただ、私と真由の首の感触が同じかどうか、自分の手で確かめていただけなのだ。私は彼の手を振り払い、ベッドから身を起こした。「婚姻届を出さないわ」部屋に短い静寂が落ち、拓海の顔からスッと笑みが消え失せた。「俺のスマホ、見たのか?」私が口を開くより早く、彼はヌッと顔を近づけ、私がかつて心の底から愛していたその色気のある瞳で、ただじっと私を見据えた。やがて彼はふと伏し目がちになり、私の右目に軽いキスを落とした。「でも、怒らないよ。昨夜のお前が怒った顔、本当に真由にそっくりだったからさ。俺がなんで、入籍より先に結婚式を挙げたがったか知ってるか?ウェディングドレスを着たお前が、どこまで真由に似るのかこ
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第3話
到底ハネムーンとは呼べないこの旅行に、結局私は同行することになった。拓海に宥めすかされたからでも、インスタの「いいね」を盾に脅されたからでもない。彼が家を出る際、祖母の形見である腕輪を勝手に持ち出したからだ。車窓から流れるぼやけた街並みを眺めながら、私の脳裏に浮かぶのは、亡くなる直前の祖母の姿だった。当時、祖母が正気を保てる時間はごく僅かになっていた。けれど、私が婚約したと聞いたその日だけは、奇跡的にしばらくの間意識がはっきりしていたのだ。認知症に蝕まれ、すっかり痩せ細ってしまった体の中に、あの優しかった頃の祖母が、ほんの少しの間だけ戻ってきてくれたかのようだった。祖母は私の手を握り、ひどく痩せた手首から腕輪を外し、震える手で私へと差し出した。「結月、幸せになるんだよ」あの時の私は涙ながらに頷き、これから先の未来は間違いなく幸せに向かって進んでいくのだと信じて疑わなかった。だが今にして思えば、私のその考えはどこまでも滑稽なほど間違っていたのだ。国際線の出発ロビーで、私はスーツケースを引きずりながら拓海の後を歩いていた。彼は道中スマホの画面から目を離すことなく、大股でスタスタと歩き、終始一度たりとも私を振り返ることはなかった。「拓海!」声のする方へ視線をやると、一人の女性がチェックインカウンターに寄りかかりながらこちらに手を振っていた。私を視界に捉えた瞬間、彼女の目は私の全身を上から下まで値踏みするように舐め回し、最後に3年近く履き古した白いスニーカーでピタリと止まった。真由だ。なるほど、確かに顔立ちは私とよく似ている。やがて彼女はくすりと笑い、「奥さん、すごく従順なのね」と口にした。だがその視線は終始拓海に向けられており、まるで2人にしか通じないジョークでも共有しているかのようだった。「来いって言えば尻尾振ってついてくるんだもん。フリップとそっくりじゃない」フリップというのは、2人が交際中に飼っていた犬の名前だ。スーツケースのキャリーバーを握る手にギリッと力が入り、プラスチックの硬い感触が関節に食い込んで痛みを走らせる。私は錆びついた機械のようにギクシャクと首を巡らせて拓海を見据え、震える声で尋ねた。「……私たちのハネムーンなのに、どうしてこの人がいるの?」真由は極め
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第4話
翌朝、レストランの大きなガラス窓越しに、拓海と真由の姿を見つけた。2人は最も海側の景色の良い席に陣取っていた。真由の前のプレートにはゆで卵が1つ転がっており、拓海は脇目も振らずにその殻を剥いてやっている。その横顔には、真剣で、どこまでも甘やかな優しさが張り付いていた。あの優しさを、私も知っている。生理痛に苦しむ私のお腹を、優しくさすってくれた時の顔だ。誕生日に私の頬を包み込み、「本当に綺麗だよ」と囁いてくれた時の顔だ。だが真由の視線は、卵を剥く彼の手元ではなく、真っ直ぐにこちらへと向けられていた。そして、勝者の余裕をこれでもかと口元に浮かべながら、挑発するように私に向かってヒラヒラと手を振ってみせたのだ。その瞬間、私の脳裏を無数の記憶がフラッシュバックした。昨夜真由が送りつけてきたあの画像。カードキーをひけらかし、「土下座でもしてみる?」と嗤ったあの顔。私が怒った顔は真由にそっくりだと告げた拓海のあの眼差し。それらが鋭利なガラス片のように喉の奥にへばりつき、容赦なく私の心を切り裂くような痛みを走らせた。次の瞬間、私は弾かれたようにレストランのドアを押し開け、一直線に2人のテーブルへと突進していた。「西園寺真由、いい加減にして!」私が怒鳴りつけるや否や、真由の唇が小刻みに震え出し、瞬く間に目頭が赤く染まっていった。そして、ぽろりと涙が彼女の目尻を伝い落ちる。それを見た拓海がガタッと勢いよく立ち上がり、私の腕を掴んでレストランの外へと乱暴に引きずり出した。大股で歩く彼に引きずられ、体勢を崩した私の膝が隣のテーブルの脚に激突する。あまりの痛みに息が止まりそうになった。廊下へ出るなり、彼は私を壁に向かって力任せに突き飛ばした。肩甲骨が壁の出っ張りに強打され、ゴンという鈍い音が廊下に響く。「みっともない真似すんなよ!真由がせっかくお前も連れてきていいって許可してくれたのに、わざわざレストランまで来て喚き散らすなんて、頭おかしいのか!?周りの目が気にならねぇのかよ!」私は彼の顔をまじまじと見つめ返した。この丸2年、ずっと見つめてきた顔を。けれど今この瞬間、目の前にいるこの男が、得体の知れない赤の他人に思えた。「……私たちの新婚旅行なのに、真由が許可したってどういうこと?それに
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第5話
到着地の空港に降り立った頃には、空はすでにすっかり日が落ちていた。私は実家には帰らなかった。帰りたくなかったわけではない。ただ、恐ろしかったのだ。拓海は実家の住所を知っているし、新居の鍵だって持っている。もし帰れば、確実に踏み込まれてしまう。今の私には、あの男の呆れ返ったような「騒ぐな」という言葉に耐える精神力など、もう1ミリも残されていなかった。空港周辺の安いビジネスホテルにチェックインすることにした。シャワーを浴びる準備をしながら鏡を見ると、眉尻の傷はかさぶたになり、膝の打撲痕は青色からどす黒い紫色へと変色していた。いつもは手入れを欠かさなかった髪も今は鳥の巣のように乱れ、目の下にはくっきりと隈が刻まれている。惨めな自分の姿をしばらく見つめ続けた後、私はシャワーの蛇口をひねり、結婚式を挙げてから一番念入りに全身の汚れを洗い流した。まだ塞がりきっていない傷口に熱いシャワーが容赦なく打ち付け、チクチクと突き刺さるような痛みが走った。翌朝一番にジムへ向かい、私は退職届を叩きつけた。支配人は突き出された退職届を見て、ポカンと口を開けた。彼は私の眉尻の傷をちらりと見上げ、それから傍らに置かれたスーツケースへと視線を移した。彼はそれ以上何も詮索することなく、ただ無言でサインを済ませると、「体を大事にな」とだけ言葉をかけた。私はこのジムに丸7年勤め上げた。入社当初はパーソナルの枠すら埋まらない底辺トレーナーだったが、最終的には指名待ちの顧客が列をなす看板トレーナーにまで上り詰めた。敷き詰められたラバーマットの1枚1枚まで馴染み深く、どのトレーニングマシンも数千回は使いこなしてきた。それでも、エントランスをくぐってから店を後にするまで、わずか15分しかかからなかった。送別会はおろか、事情説明すらなく、同僚の誰一人にも別れの挨拶をしなかった。説明のしようがなかったのだ。「新婚旅行先のホテルで、旦那に元カノの身代わりにされたから逃げてきた」などと、口が裂けても言えるわけがない。……その後の1週間で、拓海と同棲していたマンションの賃貸契約を解除し、6年間使い続けたスマホの番号を解約し、SNSのアカウントを抹消した。カメラロールに残った最後の1枚の画像を消去しようとした時、私の指は画面の上で一瞬
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第6話
研修施設は郊外にあった。手前には灰白色の3階建ての建物があり、裏手には400メートルトラックが広がっている。毎朝6時、私はトラックを5キロ走り込み、その後は日が暮れるまで解剖室にこもり、骨格模型と筋肉の解剖図と睨めっこする日々を送っていた。ここに来て3週目を迎えた頃、授業後に講師の須藤雅也(すどう まさや)に呼び止められた。「水瀬、お前、以前はフィットネスクラブで働いてたんだってな?」私が小さく頷くと、彼は私の全身をジロリと見て、ふっと笑った。「自分に厳しいんだな。リハビリの世界じゃ、そういう泥臭い根性がモノを言う。はっきり言うが、前のインストラクターの仕事は、お前の才能の持ち腐れだったな」私はその場に立ち尽くした。才能の持ち腐れだなんて、これまで誰からも言われたことがなかったからだ。少なくとも、拓海からは一度も。あの男の目に映る私の仕事など、せいぜい「そこそこ見栄えのいい肩書き」程度のものでしかなかった。今でも彼の言葉をはっきりと覚えている。「女の子がパーソナルトレーナーをやるのはいいことだよ。スタイルも保てるし、連れて歩くのにも鼻が高いからな」私がこの業界でどれだけの汗を流し、どんな資格を取り、将来どんなキャリアを築きたいかなど、彼は一度も聞いてこなかった。私から進んで話すこともなかった。今思えば、話すのを忘れていたわけではない。彼がそんな話など聞きたがっていないことを、無意識のうちに分かっていたのだ。私は毎日のスケジュールを限界まで詰め込んだ。午前中は座学、午後は実技訓練、夜は自習室にこもって標本や映像資料と向き合い、ノートをまとめる。ある日の昼休み、食堂でランチの列に並んでいると、前にいた2人の女性がスマホを覗き込んでヒソヒソと話していた。「ねえ見てよ、これ。典型的な上から目線のイタいポエム」もう1人が画面を覗き込み、鼻で笑う。彼女たちの後ろを通り過ぎる際、何気なくその画面に視線を落とし、私はピタリと足を止めた。彼女たちに嘲笑されていたのは、拓海だった。彼がXにポストした内容を、前の職場の同僚がスクショしてグループチャットにさらし、それがさらに拡散されていたのだ。そこにはこう書かれていた。【大切な人は失って初めて、その大切さに気づくものだ。昔、毎朝コーヒー
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第7話
拓海が私を血眼になって探していると知ったのは、以前の同僚からのLINEだった。同僚が、拓海のインスタグラムのストーリーをスクショして送ってくれたのだ。【誰か、最近の結月の連絡先を知りませんか?前の番号が繋がらなくなりました。急用があるので、ご存知の方はDMをください。どうかお願いします】コメントは少なかったが、その中にひときわ目を引くものがあった。私たち共通の友人からの書き込みだ。【自分の妻の連絡先すら知らないのか?】そのスクショを見てから数日後、母から呆れ果てたような声で電話がかかってきた。「あいつ、とうとう実家まで押しかけてきたわよ。車のトランクいっぱいに、高級な酒だのタバコだの銘茶だの健康食品だのを詰め込んで、3往復もして全部運び込んできたの!あなたが留守だと伝えても、玄関口に居座って全然帰ろうとしなくて。今どの街にいるのか、何をしているのか、汗だくになりながらしつこく聞いてきたわ。でも安心して。私、何一つ教えてないから」その後の半月の間に、かつての同僚、大学時代の友人、さらには長らく疎遠だった元同僚までもが、次々と拓海からLINEの友達追加リクエストを受け取った。昔借りた本を返したいだの、私が彼のところに置き忘れた書類を届けたいだのと、口実はさまざまだった。何人かからどう対応すればいいかと聞かれたが、私は「好きにしていいよ」とだけ答えた。ジムの受付をしていた川村美咲(かわむら みさき)は、問答無用で彼をブロックし、そのスクショと共にメッセージを送ってきた。【結月さん、この人頭おかしいんじゃないですか?】私はふっと笑ったが、返信はしなかった。この研修施設に来て、すでに2ヶ月半が過ぎていた。これだけ辺鄙で静かな場所なら、絶対に拓海に見つかるはずがないと思っていた。だが、私は彼の執着心を甘く見ていたようだ。その日の午後、実技の授業中だった。ペアを組んでいた相手が不意に膝で私をつつき、顎で窓の外をしゃくった。「外のあの人、ずっとあそこに立ってるよ」顔を上げた私は、訓練室の大きなガラス越しに拓海の姿を捉えた。「水瀬さん」ペアの子が小声で囁いた。「あなたのこと見てるよ」私は何も答えなかった。授業が終わり、ノートをカバンにしまい、雅也と来週のテスト内容について少
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第8話
私は採用先の町へ移り、南向きの小さなマンションを借りた。日当たりのいい小さなバルコニーがついている。新居に引っ越した初日、私はスーパーへ行き、新しいシーツや食器を買った。これらの品々は、拓海とは何の関係もない。彼が選んだものでも、彼からの贈り物でも、彼が触れたものでもない。この空間にあるすべてのものは、私が自分の手で選んだ、私だけの居場所なのだ。働き始めて3週目のある日の午後、担当患者の初回評価を終えた直後、受付が微妙な表情を浮かべてスタッフルームのドアを開けた。「水瀬先生、お客様がお待ちです」ロビーに出ると、またしても拓海がいた。彼は受付カウンターの傍らで、抱えきれないほどの巨大なバラの花束を持っていた。ロビーには他の患者やその家族もおり、その場の全員が一斉に私たちの方を振り返った。私を見た瞬間、拓海の目にパッと光が宿った。彼は私の前に歩み寄り、周囲の視線が集中する中、片膝をついた。「結月、俺が悪かった。本当に、俺が間違ってた。ハネムーンのことも、真由のことも、全部俺がバカだった。この半年、毎日後悔してばかりで、夜も眠れないし、食事も喉を通らなくて、俺……」彼の喉仏がゴクリと上下に動き、花束をさらに私の方へと高く掲げた。「一緒に家に帰ってくれないか?」私は視線を落として彼を観察した。正直なところ、彼はひどく痩せ細り、頬骨はハネムーンの頃よりこけ、顎には青々と無精髭が生え、目は充血し、スーツの肩にはうっすらと埃が積もっていた。見る影もなく落ちぶれていた。しかし、それらのディテールを目にしても、私の心にはさざ波一つ立たなかった。次の瞬間、私はスッと右手を差し出した。彼の瞳が信じられないほどの輝きを放ち、唇までもが微かに震え始めた。私はその花束を受け取った。そして、そのままそばにあったゴミ箱の上へと無造作に置いた。「ありがとう。でも、もう結構よ」私は踵を返し、治療室のドアを開けた。拓海はまだロビーで片膝をついたままだった。だが、もう一度振り返って彼を見る気など、微塵も起きなかった。……翌日、拓海は姿を見せなかった。これできっぱり終わったのだと、私は思っていた。しかし4日目、仕事を終えてセンターの玄関を出ると、道路の向かい側の街灯の下に立っている
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第9話
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