「まあいい」晴は苛立ちながら言った。「俺には関係ない!紀美子、これを持っていけ」そう言って、晴は晋太郎の壊れた携帯を紀美子に渡した。紀美子は、それほど粉々になっていないスマホを見つめ、呆然と晴を見上げた。晴は説明した。「完全に砕けなかったのは、下が砂地だったからだ。念江や佑樹なら、中のデータを取り出せるかもしれない。俺は試してないが、警察の話では、チップは無事らしい」紀美子の視線は再び携帯に落ち、指先を震わせながらも、慎重にそれを受け取った。電源が入らない携帯には、まだ泥が付着していた。紀美子は胸が締めつけられ、唇を震わせながら言った。「ありがとう、晴、彼の携帯を持ってきてくれて」「別に。君は晋太郎の未亡人だ。持ってるべきだろ」晴は「未亡人」という言葉を強調して言った。龍介は困ったように微笑んだ。紀美子が唇をかみ悲しみに沈んでいるのを見て、晴は話題を変えた。「そういえば、今、どこまで進んでいるんだ?」龍介が説明した。「悟と貞則のDNA鑑定をする準備を進めてる」晴は驚いた。「DNA鑑定?悟と貞則は何か関係があるのか?」龍介は得た情報を晴に伝えた。晴は目を見開き、驚きのあまり目が飛び出しそうになった。「つまり……」晴は唾を飲み込みながら言った。「悟は野碩の隠し子ってことか?!?」龍介は頷いた。「だからこそ、彼はあんなにスムーズにMKの社長に就任できたんだ」「もし本当にそうなら、どうするつもりだ?」紀美子は晋太郎の携帯を握りしめ、赤くなった目を上げて言った。「まずは、エリーを排除する」晴は混乱した顔をしていた。紀美子は仕方なくエリーと藍子がしたことを説明し始めた。「くそ!」晴は怒りながら叫んだ。「あの藍子、本当に厚かましいな!よくも君に手を出そうなんて!まさに狂気の沙汰だ!」「彼女は佳世子にあんなことをしたんだから、私にも同じようにやるはずよ」紀美子は冷静に説明した。晴は大きくため息をつきながら言った。「紀美子、すまない、俺には何もできない」「大丈夫」紀美子は言った。「こういうことは結局、自分で解決しなきゃ意味がないわ」そう言って、紀美子は腕時計をちらっと見てから立ち上がった。「もう昼だね。一緒に食事
「田中家か……」悟は唇をわずかに歪めた。「大したことはない」悟が軽い口調で答えると、晴は怒りで体が震えた。一方、悟の淡々とした口調を聞いていた紀美子の心は、不安でざわついた。「晴、もうやめて!」紀美子は晴を見て言った。しかし、晴は怒りを抑えきれず、紀美子に向かって言い返した。「お前は我慢できるかもしれねぇが、俺には無理だ!!」「もういい!!」紀美子は声を張り上げた。「いくら感情的になっても、晋太郎は戻ってこない!!」晴は驚いたように紀美子を見つめた。龍介は深くため息をついた。晋太郎はあれだけ頭が切れたのに、どうして彼の友人はこんなにも衝動的なんだ?何も知らないふりをしながら、龍介は紀美子に向かって言った。「入江社長、お忙しいようですし、今日の昼食はキャンセルしましょう」紀美子は龍介の意図を理解していた。今、悟に気づかれないようにすることが一番だ。紀美子は申し訳なさそうな表情で頷いた。「すみません、吉田社長、後の契約の件は弁護士に整理させてからお送りします。次回、ご馳走させていただきます」龍介は「うん」とだけ言って、背を向けて去って行った。龍介が去った後、紀美子は晴の側に歩み寄り、悟を冷たい目で見つめた。彼女は冷徹な口調で言った。「何をしに来たの?」悟は手に持った袋を少し上げた。「薬を届けに来た」晴は冷たく笑った。「紀美子がそんな薬を飲むわけないだろ!お前が毒を入れてないかどうかどうやって証明するんだ!」紀美子は素早く晴を一瞥した。晴は不快そうに顔を背け、見えなかったふりをした。紀美子は頭を抱えた。この男は一度感情的になると、何でもかんでも言い出しそうだ。悟は晴に構わず、紀美子の手に薬を押し込んだ。「時間通りに食事と薬をとることを忘れるな」そう言うと、悟は晴を深く一瞥し、車に乗り込んで去っていった。車が動き出すと、晴は紀美子が持っていた薬を奪い取り、勢いよく地面に投げつけた。「飲むな!」晴は言った。「調子が悪ければ、俺が晋太郎の代わりに病院に連れて行く!あんな奴の薬、誰も飲まねえよ!」「晴!」紀美子はまだ遠くにある車を心配そうに見つめ、声を低くして警告した。「悟がどんな人か忘れないで!」「俺には関
ステーキが運ばれてくると、藍子は微笑みながら悟を見つめた。「今日、私を呼び出したのは何か話があるんでしょう?」悟はステーキを切りながら、伏し目がちに尋ねた。「田中家のこと、どれくらい知ってる?」田中を聞いた瞬間、藍子は体が無意識に固まった。そして目の奥を一瞬失望の色がかすめ、声の調子も冷たくなった。「うちとそれなりに付き合いはあるけど、深くは知らないわ。それがどうかしたの?」「別に。ただ、今日晴を見かけたから」藍子は一瞬目を輝かせた。「話をしたの?」「うん。紀美子と一緒だった」悟は視線を上げた。「たぶん、佳世子の話をしていたんじゃない?」その瞬間、藍子のナイフが皿の上で不快な音を立てた。悟は彼女の動きを横目で見ながら、静かに言った。「お前は本当に好きになる価値もない相手に惚れたんだな。何年も尽くしたのに、結局看守所に送られるとは」藍子はナイフとフォークを握る手の力を強めながら、沈黙を守った。「そんな田中家すらお前のために一言も言わなかったのに、自分が可哀想だとは思わないのか?」藍子はあごをぎゅっと締め、深呼吸をしてから言った。「過去のことを持ち出しても意味がないわ」悟はナイフとフォークを置き、コーヒーを一口すすった。「悔しいなら我慢する必要はない」藍子は彼を見つめた。「どういう意味?」悟は淡々と窓の外を見ながら言った。「君が知っている通り、今の俺は力がある。十分だろ」その言葉を聞いた藍子は一瞬目を輝かせた。これは、復讐してもいいという暗示?たとえ何が起こっても、彼が支えてくれるということ?藍子は無言でテーブルのレモン水を手に取り、一口飲んだ。二十年以上の感情を蔑まれ、刑務所に入る結果で終わった。それが平気なわけがない。田中家だって、自分を嫁にとってくれるって散々言ってたくせに——晴に刑務所送りにされかけた時、あいつらは一度も見舞いに来なかった。藍子の心には、もはや失望ではなく、燃え上がるような憎しみしかなかった。今の私には後ろ盾がある。私を傷つけた人間たちを自分の手で裁いて何が悪い?しばらく沈黙した後、藍子の瞳に揺るぎない決意が宿った。「悟、私を助けて」藍子は彼に向かって言った。悟は依然として淡々としていて、
その言葉を聞いて、晴の母親は隣に座っている晴の父親を見た。晴の父親の表情も次第に固くなった。MKが貸してくれていた土地は、彼らの最大の機械生産工場の土地だった。今、それを返すとなると、代わりの土地はどうしたらいいんだ?!晴の父親は慌てて笑いながら言った。「藍子、契約には50年と書いてある。まだ少なくとも10年は残っているだろう」「違約金はきちんとお支払いします。三日以内にあなたたちの口座に振り込みます。ただし、田中家は直ちにすべての設備を撤去していただきます」藍子は言った。晴の父親の顔の色がどんどんと曇っていった。「それは塚原社長の決定か?」藍子は微笑んだ。「私の決定は、悟の決定でもあります」晴の父親はもはや笑顔を見せなかった。「君は一体何をしようとしているんだ?俺たちは君に悪くはしなかったはずだ。どうしてこんなことをするんだ?」「悪くしていない?」藍子はまるで何か面白い話を聞いたかのように、冷笑を浮かべながら言った。「私があんなに長い間留置場にいたのに、晴は私を助けてくれなかった。それが悪くしていないということか?」「それは君と晴の問題だろ!」晴の父親は言った。「むしろ、それは君が自分で招いた結果だ」藍子は口元に冷たい笑みを浮かべ、晴の母親を見ながら言った。「では、伯母さんに聞きます。伯母さん、どうして私に佳世子に手を出さないでと忠告しなかったんですか?それどころか、必ず私を田中家の嫁に迎えるなんて言って。伯母さんのその言葉があったから、私は迷わずに動いたんですよ。なのに、どうして最後の最後で私を見捨てたんですか?」晴の母親の表情は固まった。晴の父親は晴の母親を睨みつけながら言った。「お前、何を言ったんだ!?」晴の母親は体を震わせながら言った。「わ、私は何も言っていない!」すると、藍子はわざと納得したように微笑んだ。「ああ、そういうことですか。私を利用して佳世子を排除し、用が済んだら切り捨てたんですね。伯母さん、本当に素晴らしい母親ですね」晴の母親は怒りをあらわにした。「私はそんなつもりじゃなかった!あなたが自分であの女を片付けるって言ったんじゃない!私は何も頼んでいないわ!」「そうですか。それならもう話すことはありませんね」藍子は立ち上
晴は呆然としたまま言った。「俺がどうしたっていうんだ??」晴の母親は突然立ち上がり、晴を指さしながら叫んだ。「もしあなたがあの女のために藍子を牢屋に送らなければ、彼女が今私たちを恨むことなんてなかった!」晴はぼんやりとした顔で答えた。「どういうことだ??」晴の母親は泣きながら、藍子が言ったことを繰り返した。その言葉を聞いた晴は背筋が冷たくなるのを感じた。頭の中には悟の顔が浮かんだ。これは……悟の仕掛けた罠なのか?昨日悟に手を出したばかりなのに、今日こんなことが起こるなんて!悟は一体……どれだけ復讐心が強いんだ?!「出て行け!!」晴の父親は怒鳴りながら晴に向かって叫んだ。「今すぐ出て行け!!この家から出て行け!!」……家を出た後、晴はそのまま車を飛ばしてMKのビルの前に到着した。車を停めると、後部座席からバットを掴み、飛び出そうとした。しかしその瞬間、携帯が鳴った。苛立ちながら画面を確認すると、画面には佳世子の名前が表示されていた。晴は深く息を吸い、通話ボタンを押した。「……もしもし?」晴は怒りを堪えながら話しかけた。電話の向こうで、佳世子がすぐに異変を察した。「どうしたの?声がおかしいけど、何かあったの?」佳世子の気遣いを感じた晴は、目頭が熱くなった。バットをしっかりと握りしめたまま、彼は言った。「佳世子、うちが……大変なことになった……」長々と説明を終えると、佳世子はようやく状況を整理した。「もう、男のくせにウジウジしないの!起こったことは仕方ないでしょ?だったら解決策を考えなきゃ!」「……でも、どうすればいいんだよ!」晴は叫んだ。「藍子に完全に弱みを握られてるんだぞ!」「じゃあ、こっちも彼女の弱みを握ればいいじゃない」晴は少し驚いた様子で言った。「どういう意味?」佳世子はため息をつきながら言った。「晴、私が藍子が出所したって知ったとき、何て言ったか覚えてる?」晴は少し考えた後、言った。「たとえ自爆してでも、あの女だけは絶対に道連れにするって言ってたような……」「そう」佳世子は言った。「私が戻ったら、この件を片付けてあげる」その言葉を聞いた瞬間、晴の胸に自責の念が押し寄せた。喉の奥が詰まるよ
「どういう意味だ?」晴は驚きながら聞いた。「うちにはまだ工場が空いてるから、お父さんに言って、うちの工場に移転させればいいよ。それほど広くはないけど、十分使えるはずだ」晴は感謝の気持ちを込めて答えた。「隆一、本当にありがとう!お礼にお酒をおごるよ!」「おいおい、そんなこと言わなくてもいいよ。兄弟が困っているのに放っておけるはずがないだろ?」夜。紀美子が仕事を終えて帰宅すると、佳世子からメッセージが届いた。「紀美子、私、帰ることにした」メッセージを見た瞬間、紀美子の表情には喜びが浮かんだ。しかしすぐにその笑顔は消えた。佳世子が突然帰ってくるということは、何か大きな問題があるに違いない。「急にどうしたの?」紀美子は尋ねた。佳世子は簡潔に晴の状況を説明した。紀美子はため息をついた。「昨日の晴の暴走を見て、いつかこうなるとは思ってたけど……まさか、こんなに早いとはね」「別に晴が軽率だったわけじゃないよ。私だって同じ立場なら、悟をぶっ飛ばしに行ってたと思う。あの二人、いつかは決着をつけなきゃならない。紀美子、もうすぐ飛行機に乗るから、明日の夜会おう」「……分かった」晴がトラブルに巻き込まれると、佳世子の行動は早い。まぁ、そうだよね。佳世子は本当に晴を愛しているから。田中家。晴は隆一の提案を父親に伝えた。晴の父親はまだ顔色が悪かったが、少し落ち着いたようだった。晴は泣き腫らした目をしている母親に目を向けた。「母さん、父さん、もう一つ言いたいことがあるんだ」夫婦は晴を見つめた。晴は続けた。「佳世子が帰ってくる。彼女の身を守るために、何人か護衛をつけたい」「まだあの女と関わる気なの!?あの女、エイズ持ちなのよ!!」晴の母親は震える手で指差しながら怒鳴った。「全部、あの女のせいよ!!うちがこんな目に遭ったのは、全部!!」晴は眉をひそめた。「……佳世子のせい?本当にそう思ってるのか?嘘のインボイスを発行したのは、佳世子が無理やりやらせたのか?違うだろ?それに、藍子はともかく、佳世子がうちに不利益をもたらしたことがあるか?ただあなたたちが、彼女の家柄を気に入らないからって排除しようとしただけじゃないか!言っとくが、佳世子は、俺たちを助けるために戻ってくる
佳世子を見つけた瞬間、紀美子の唇には微笑みが浮かんだ。彼女は手を高く上げて、佳世子に向かって大きく手を振った。「佳世子!」その声に反応し、佳世子は紀美子の方を振り向いた。しかし、紀美子の顔に派手なメイクが施されているのを見て、一瞬誰だか分からなかった。佳世子は驚きの表情を浮かべ、早足で近づいた。「ちょっと、紀美子!?しばらく見ない間にイメチェンしたの?!クラブにでも行くつもり?」紀美子は佳世子の腕を軽く引っ張った。「違うの。話せば長くなるから、車に乗ったら説明するよ」それを聞いた佳世子は、ふと納得したように言った。「ああ、分かった。晴から話は聞いたわ」紀美子の瞳が一瞬暗くなった。「うん……その話は今は置いておこう。まずは、あなたが海外でどうしていたか、ゆっくり話して」しかし、二人が車に乗り込んだ後にも佳世子は一度も海外のことを口にしなかった。代わりに紀美子に言った。「食事は後にしよう。まず藍子のところへ行きたい」紀美子は驚いて目を瞬かせた。「そんなに急ぐの?」佳世子は深く息を吸い込むと、力強く頷いた。「うん。じゃなきゃ、話を聞いたその日のうちに飛んで帰ってきたりしないわ。晴にもまだ何も言ってないのよ」紀美子はしばらく考え込んでから言った。「分かった。悟の別荘に行きましょう。藍子はそこにいるはず」「あの二人、一緒に住んでるの?」「そう。ずっとニュースを見てたから、藍子が悟の別荘にいるのは知ってる」佳世子は少し心配そうに紀美子を見つめた。「紀美子、晋太郎のことも聞いたよ。あなた……」「大丈夫よ、佳世子」紀美子は彼女の言葉を遮るように言った。「私は乗り越えられる。それに、彼が本当に死んだなんて、信じられないもの」「そうだ、肇のこと知ってる?それと小原のことも」紀美子は眉をひそめた。「肇が今悟の側についてるのは知ってるけど、小原のことは聞いてないわ」「小原、死んだよ」佳世子は言った。「喉に深い切り傷があった」紀美子の顔色は一瞬で青ざめた。「それって……エリーがやったのか?」「エリー?」佳世子は少し考え込んでから続けた。「晴がそんな名前を言ってた気がする。でもどんな人物かは知らない」紀美子はすぐに携帯を取り出し、エリー
藍子は無意識に周囲の住人を見回し、誰かが窓を開けてこちらを見ているのを確認すると、顔色を急に変えた。怒りと悔しさを飲み込み、藍子は低い声で言った。「話があるなら、中で話しましょう」佳世子は動かずに立っていた。「どうしたの?まさか、自分がやったことを他人に知られたくないの?」藍子は体が固まり、感情が制御できなくなった。「中で話せって言ってるでしょ!!」「そう言われたからって素直に入ると思う?」佳世子は鼻で笑った。「あんな巣窟に足を踏み入れたいわけないでしょ?」藍子は両手をぎゅっと握りしめて言った。「一体、何の用で来たの?」佳世子は一歩前へ出た。ボディガードがすぐに佳世子の前に立ちはだかった。佳世子は何も言わず、ボディガードを一瞥した後、藍子に向かって言った。「ちゃんと話す気があるなら、彼らを引き下げさせなさい」藍子は息を深く吸い込みながら、呼吸を整えた。「下がって」ボディガードたちは道を開けた。佳世子は藍子の前に歩み寄ると、藍子は無意識に二歩後ろに下がった。佳世子は冷笑した。「私をそんなに恐れているなら、どうして私にあんなことしたの?」藍子は反論できる立場ではないため、佳世子の言葉に何も言い返せなかった。「今日は、あんたに伝えに来たの。晴を脅すのは今すぐやめなさい。さもないと、明日記者会見を開いて、加藤家のお嬢様が私を陥れてHIVを感染させたことを公にする!」藍子の顔が一瞬で青ざめた。「そんなことをして、あんたに何の得があるの!?帝都中に自分がHIVだって知られてもいいの!?」「それがどうしたの?」佳世子は嘲笑しながら言った。「あんたが痛い目を見れば、私はどうなろうと構わないわ!」藍子は必死に冷静さを保とうとした。「証拠もないのに、そんなことを言ったって、誰も信じないわよ」「自分が留置場に入ったこと、もう忘れたの?」佳世子は冷たく言った。「それだけじゃない。晴の手元には証拠があるわ」藍子は歯を食いしばった。「佳世子、たかが田中家のために自分の名誉を捨てるつもり?晴の母の態度は覚えてるでしょ?彼らにはあなたを受け入れる気なんてないのに、そこまでして何になるの?」佳世子は、藍子が彼女の感情を刺激しようとしていることを分かっていた。
「なに?」ゆみは頭を傾けて言った。「誰かと約束したのに、まだ果たしていないことがあるんじゃないか?」小林は微笑んで尋ねた。「誰かと約束?そんなのないよ?ゆみはまだ一人前じゃないのに、軽々しく約束なんてできないもん」ゆみはじっくり考えてから言った。「もう一度よく考えてごらん。誰かと何か約束をしていないか。人とではなく、霊とだ」小林はヒントを与えた。「霊?」自分はいつ霊などと約束したんだろうか?ゆみはますます分からなくなった。「まあ、急がなくともよい。じっくりと考えて、思い出したら帝都に行くといい」小林はにっこり笑いながらゆみの頭を撫でた。小林のこの言葉のせいで、ゆみは一晩中寝返りを打ち、なかなか眠れなかった。彼女はぱっちりした目で窓の外の明るい三日月を見つめ、「いったい誰と約束したんだろう」と考え込んでいたが、いつの間にか夢の中へ落ちていった。夢の中では、一匹の美しい白い狐がゆみの周りをぐるぐると回っていた。ゆみが嬉しくなって追いかけていくと、突然、足が引っ掛かって地面に転んだ。痛いと言う間もなく、誰かが優しく彼女の腕をそっと掴んだ。ゆみが顔を上げると、目の前に長い巻き毛の女性が腰を屈めていた。顔はぼんやりとしていてよく見えなかったが、その雰囲気は、どこか母と似ていた。「あなたは、だあれ?」ゆみは彼女を見つめながら尋ねた。女性は何も言わず、ゆみをゆっくりと起こした。ゆみは立ち上がって女性の顔をじっくりと眺めたが、彼女が誰なのかは全く分からなかった。霧のようなものが自分の視界を遮っているのだが、女性も自分の顔を見せまいとわざと顔を伏せているようだった。女性は、ゆみの足の埃を払うと立ち上がった。すると、その姿は徐々に透明になっていった。ゆみは慌てて掴もうとしたが、何も掴めなかった。「ねえ、あなたは、だれ?どうして何も言わずに行っちゃうの??」女性の姿が消えた瞬間、優しい声がゆみの耳元に届いた。「送りに来てくれるのを待っているわ」その声が消えると同時に、ゆみはパッと目を開け、小さな体を起こした。窓の外には、すでに夜明けの光が差し始めていた。ゆみの頭はまだぼんやりしていて、夢の中の女性の声と姿が頭から離れなかった。「なんか知ってる人みたい……
「そうだ」翔太は言った。「こういう時は、信頼している誰かの一言がスッと心に響くものだ」晋太郎は黙って目を伏せ、翔太の言葉を頭の中で繰り返し考え込んだ。食事会が終わり、晋太郎は車に戻った。しばらく考えた後、彼は小林に電話をかけた。電話がつながった途端、ゆみの声が聞こえてきた。「お父さん?」ゆみの甘えた声が晋太郎の耳に届いた。「ゆみ、ご飯は食べたか?」晋太郎の整った唇が自然と緩んだ。「食べたよ!」ゆみは笑いながら答えた。「お父さんは小林おじいちゃんに用事?おじいちゃんは今、お線香あげててお仕事中だけど、すぐ戻るよ」「そうか。ところで、ゆみは最近どうだ?」「まだ帰ってきたばかりじゃん!」ゆみは頬を膨らませ、不満そうに言った。「お父さんは何してたの?記憶力悪すぎ!」「少し頭を悩ませる問題があったんだ」晋太郎は軽く笑いながら言った。「えっ?何なに?ゆみ先生が分析してあげるよ!たったの100円で!」ゆみは楽しそうに言った。「お母さんがお父さんと結婚したくないみたいけど、ゆみはどう思う?お父さんはどうすればいい?」晋太郎の目には優しさが溢れていた。「えーっ?」ゆみは驚きのあまり思わず叫んだ。「お母さんはどうして結婚したくないって?どうしてきれいなお嫁さんになりたくないの?」「ゆみはなぜだと思う?」晋太郎は逆に尋ねた。「お父さん、浮気でもしたの??」ゆみは小さな眉を寄せ、真剣に考えた。「お父さんがそんなことをすると思うか?」晋太郎の端正な顔が一瞬こわばった。「だって、したことあるじゃん……」ゆみは小さく呟いた。「……それは違う」「じゃあ、お母さんはお父さんを愛してないのかな?」晋太郎の目尻がピクッと動いた。「あっ、わかった!お父さんは年を取ったから、お母さんは他の若いイケメンが好きになっちゃったんだ!あーもう、お父さん、お母さんが他の人を好きになっても仕方ないじゃん。お父さんはゆみのお父さんであることに変わりはないでしょ?女の人の気持ちに、一切口出ししないでよ!」晋太郎の顔は一瞬で真っ赤になった。「もう、いい!これ以上当てなくていい!」晋太郎は思わず遮った。ゆみは本当に自分の娘なのだろうか。ちっとも自分の味方にな
晋太郎は何も言わないまま指で机を叩き、この件をどう対処すべきか決めかねていた。「今焦っても仕方ないよ。はぁ……こんなに苦難を乗り越えてきたのに、紀美子が問題で結婚できないかもしれないなんて」晴は嘆いた。「開けない夜はい。今はただタイミングが合わないだけだ」晋太郎は低い声で言った。「どういう意味だ?」晴は理解できなかった。「何事も始めるのにはきっかけが必要だ。今はそのきっかけがまだできていないだけ。彼女が今結婚したくないのに、無理強いするつもりはない」「いやいや」晴は言った。「結局、結婚するのか?しないのか?お前らの結婚を待ってる人間もいるんだぞ!!」「待つ」晋太郎は唇を緩めた。「……」晴は黙って考えた。つまり、自分の結婚式も延期になるってことだ。夕方、晋太郎は翔太とレストランで会う約束をした。「晋太郎、久しぶりだな」到着すると、翔太は疲れた表情で彼の前に座った。「最近忙しいのか?渡辺グループは今は安定しているはずだが」晋太郎は眉を上げて彼を見つめ、お茶を一口飲んで言った。「会社の問題じゃない」翔太は苦々しい表情で首を振った。「で、用件は?」「紀美子のことだ。彼女は心的外傷に加え、ストレス障害があるかもしれないんだ」晋太郎は言った。「大体予想はつくが、あんたが紀美子と結婚しようとして、断られたんだろう?」晋太郎の言葉を聞いて、翔太はしばらく黙ってから尋ねた。「ああ」晋太郎は湯呑みを置いた。「あんたが俺の立場だったら、どうやって彼女を説得するか聞きたい」「俺なら説得しないな」翔太は晋太郎の目を見て、真剣に言った。「彼女が出した決断を尊重する。あんたの話からすると、紀美子は婚約のことでトラウマがあり、抵抗しているんだろう?なぜ無理にストレスに直面させようとするんだ?」晋太郎は翔太に相談を持ち出したことが間違いだったと感じた。佑樹と念江が妹を甘やかしているのは、完全にこの叔父から受け継いた性格なのかもしれないとさえ思った。「つまり、あんたは彼女が結婚せずに俺と一緒にいることも許すのか?」晋太郎の表情は曇った。「お互いに愛しあっているのに、なぜいけないんだ?」翔太は言った。「あんたには今、親からのプレッシャーもないだろ
「MKの全株式を私に移すって言い出したの。TycをMKの子会社にしたくないって私が言ったから」「それ、最高じゃない!?」佳世子は興奮して声を弾ませた。「そこまでしてくれる男、帝都中探したって他にいないわよ!」紀美子は首を振った。「だからこそ、結婚したくないの。せっかく彼が一から築き上げた帝国が、結婚相手の私のものになるなんて……」「あなたの考え方、ちょっと理解できないな。彼の愛の証なのに、どうして負担に感じるの?」紀美子は軽くため息をついた。「私が求めているのはそういうことじゃない。彼には彼の生き方、私には私の生き方がある。結婚したからって、どちらかがもう一方の附属品になる必要なんてないでしょ?それぞれ自分の事業に集中するのがいいと思わない?」「本当に自立してるわね。じゃあ聞くけど、妊娠したらどうするの?」紀美子は遠い目をした。「それは……まだ考えたことないわ」「その時は、全部晋太郎に任せてもいいんじゃない?のんびりしたお金持ちの奥様になって、好きなことしたら?」「嫌よ!」紀美子はきっぱり拒否した。「何もしないで食べて寝てばかりのダメ人間にはなりたくないわ」佳世子は眉を上げ、からかうように紀美子の腕をつついた。「自分がダメ人間になるのは嫌なくせに、あの時は佑樹と念江を外に出したがらなかったじゃない」紀美子は佳世子を見つめて言った。「それは別の問題でしょ」佳世子は紀美子に腕を絡めながら言った。「紀美子、無理に勧めるつもりはないけど、あなたがここまで苦労してきたのは、結局晋太郎と結婚するためじゃなかったの?今やっと実現しようとしてるのに、どうして後ろ向きになるの?『附属品』なんて言い訳はやめて、本当の気持ちに向き合って。彼と一緒にいたいのかどうか」「……いやなら、同棲なんてしてないわ」紀美子は目を伏せた。「紀美子、あなた、言い訳ばかりしてるって気づいてないの?」佳世子はため息をついた。「前は晋太郎の記憶が戻ってないからって逃げてたし、今度は会社の問題って。本当に向き合うべきなのは、あなた自身じゃない?それとも……怖いの?」紀美子は一瞬ぽかんとしたが、慌てて答えた。「……怖がってなんかいないわ」佳世子は彼女の表情の変化を鋭く見据えた。「違う。あなたは怖が
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。