「どういう意味だ?」晴は驚きながら聞いた。「うちにはまだ工場が空いてるから、お父さんに言って、うちの工場に移転させればいいよ。それほど広くはないけど、十分使えるはずだ」晴は感謝の気持ちを込めて答えた。「隆一、本当にありがとう!お礼にお酒をおごるよ!」「おいおい、そんなこと言わなくてもいいよ。兄弟が困っているのに放っておけるはずがないだろ?」夜。紀美子が仕事を終えて帰宅すると、佳世子からメッセージが届いた。「紀美子、私、帰ることにした」メッセージを見た瞬間、紀美子の表情には喜びが浮かんだ。しかしすぐにその笑顔は消えた。佳世子が突然帰ってくるということは、何か大きな問題があるに違いない。「急にどうしたの?」紀美子は尋ねた。佳世子は簡潔に晴の状況を説明した。紀美子はため息をついた。「昨日の晴の暴走を見て、いつかこうなるとは思ってたけど……まさか、こんなに早いとはね」「別に晴が軽率だったわけじゃないよ。私だって同じ立場なら、悟をぶっ飛ばしに行ってたと思う。あの二人、いつかは決着をつけなきゃならない。紀美子、もうすぐ飛行機に乗るから、明日の夜会おう」「……分かった」晴がトラブルに巻き込まれると、佳世子の行動は早い。まぁ、そうだよね。佳世子は本当に晴を愛しているから。田中家。晴は隆一の提案を父親に伝えた。晴の父親はまだ顔色が悪かったが、少し落ち着いたようだった。晴は泣き腫らした目をしている母親に目を向けた。「母さん、父さん、もう一つ言いたいことがあるんだ」夫婦は晴を見つめた。晴は続けた。「佳世子が帰ってくる。彼女の身を守るために、何人か護衛をつけたい」「まだあの女と関わる気なの!?あの女、エイズ持ちなのよ!!」晴の母親は震える手で指差しながら怒鳴った。「全部、あの女のせいよ!!うちがこんな目に遭ったのは、全部!!」晴は眉をひそめた。「……佳世子のせい?本当にそう思ってるのか?嘘のインボイスを発行したのは、佳世子が無理やりやらせたのか?違うだろ?それに、藍子はともかく、佳世子がうちに不利益をもたらしたことがあるか?ただあなたたちが、彼女の家柄を気に入らないからって排除しようとしただけじゃないか!言っとくが、佳世子は、俺たちを助けるために戻ってくる
佳世子を見つけた瞬間、紀美子の唇には微笑みが浮かんだ。彼女は手を高く上げて、佳世子に向かって大きく手を振った。「佳世子!」その声に反応し、佳世子は紀美子の方を振り向いた。しかし、紀美子の顔に派手なメイクが施されているのを見て、一瞬誰だか分からなかった。佳世子は驚きの表情を浮かべ、早足で近づいた。「ちょっと、紀美子!?しばらく見ない間にイメチェンしたの?!クラブにでも行くつもり?」紀美子は佳世子の腕を軽く引っ張った。「違うの。話せば長くなるから、車に乗ったら説明するよ」それを聞いた佳世子は、ふと納得したように言った。「ああ、分かった。晴から話は聞いたわ」紀美子の瞳が一瞬暗くなった。「うん……その話は今は置いておこう。まずは、あなたが海外でどうしていたか、ゆっくり話して」しかし、二人が車に乗り込んだ後にも佳世子は一度も海外のことを口にしなかった。代わりに紀美子に言った。「食事は後にしよう。まず藍子のところへ行きたい」紀美子は驚いて目を瞬かせた。「そんなに急ぐの?」佳世子は深く息を吸い込むと、力強く頷いた。「うん。じゃなきゃ、話を聞いたその日のうちに飛んで帰ってきたりしないわ。晴にもまだ何も言ってないのよ」紀美子はしばらく考え込んでから言った。「分かった。悟の別荘に行きましょう。藍子はそこにいるはず」「あの二人、一緒に住んでるの?」「そう。ずっとニュースを見てたから、藍子が悟の別荘にいるのは知ってる」佳世子は少し心配そうに紀美子を見つめた。「紀美子、晋太郎のことも聞いたよ。あなた……」「大丈夫よ、佳世子」紀美子は彼女の言葉を遮るように言った。「私は乗り越えられる。それに、彼が本当に死んだなんて、信じられないもの」「そうだ、肇のこと知ってる?それと小原のことも」紀美子は眉をひそめた。「肇が今悟の側についてるのは知ってるけど、小原のことは聞いてないわ」「小原、死んだよ」佳世子は言った。「喉に深い切り傷があった」紀美子の顔色は一瞬で青ざめた。「それって……エリーがやったのか?」「エリー?」佳世子は少し考え込んでから続けた。「晴がそんな名前を言ってた気がする。でもどんな人物かは知らない」紀美子はすぐに携帯を取り出し、エリー
藍子は無意識に周囲の住人を見回し、誰かが窓を開けてこちらを見ているのを確認すると、顔色を急に変えた。怒りと悔しさを飲み込み、藍子は低い声で言った。「話があるなら、中で話しましょう」佳世子は動かずに立っていた。「どうしたの?まさか、自分がやったことを他人に知られたくないの?」藍子は体が固まり、感情が制御できなくなった。「中で話せって言ってるでしょ!!」「そう言われたからって素直に入ると思う?」佳世子は鼻で笑った。「あんな巣窟に足を踏み入れたいわけないでしょ?」藍子は両手をぎゅっと握りしめて言った。「一体、何の用で来たの?」佳世子は一歩前へ出た。ボディガードがすぐに佳世子の前に立ちはだかった。佳世子は何も言わず、ボディガードを一瞥した後、藍子に向かって言った。「ちゃんと話す気があるなら、彼らを引き下げさせなさい」藍子は息を深く吸い込みながら、呼吸を整えた。「下がって」ボディガードたちは道を開けた。佳世子は藍子の前に歩み寄ると、藍子は無意識に二歩後ろに下がった。佳世子は冷笑した。「私をそんなに恐れているなら、どうして私にあんなことしたの?」藍子は反論できる立場ではないため、佳世子の言葉に何も言い返せなかった。「今日は、あんたに伝えに来たの。晴を脅すのは今すぐやめなさい。さもないと、明日記者会見を開いて、加藤家のお嬢様が私を陥れてHIVを感染させたことを公にする!」藍子の顔が一瞬で青ざめた。「そんなことをして、あんたに何の得があるの!?帝都中に自分がHIVだって知られてもいいの!?」「それがどうしたの?」佳世子は嘲笑しながら言った。「あんたが痛い目を見れば、私はどうなろうと構わないわ!」藍子は必死に冷静さを保とうとした。「証拠もないのに、そんなことを言ったって、誰も信じないわよ」「自分が留置場に入ったこと、もう忘れたの?」佳世子は冷たく言った。「それだけじゃない。晴の手元には証拠があるわ」藍子は歯を食いしばった。「佳世子、たかが田中家のために自分の名誉を捨てるつもり?晴の母の態度は覚えてるでしょ?彼らにはあなたを受け入れる気なんてないのに、そこまでして何になるの?」佳世子は、藍子が彼女の感情を刺激しようとしていることを分かっていた。
今、この薬が役に立ちそうだ。次は、どうやってこの薬を使って佳世子と紀美子の二人を苦しませるか、じっくり考えないと。藍子が薬を元の場所に戻したちょうどその時、廊下から聞き慣れた足音が響いてきた。すぐに、ドアの開く音がした。ドアが開くと、悟が部屋の前に立っていた。藍子がいるのを見て、彼は少し眉をひそめた。「客室で何しているんだ?」藍子の心臓がドキリと跳ねた。普段は悟がこの部屋にいるので、彼の問いに対して藍子は明らかに動揺した。彼女はクローゼットを一瞥してから言い訳をした。「ちょっと、あなたのクローゼットを整理しようかと思って」悟は開けられたクローゼットを見て、冷ややかに言った。「家政婦を雇って整理させればいいだろ」藍子は頷いた。「うん、わかった。明日、家政婦を呼ぶわ。あの、話したいことがあるの」悟はネクタイを緩めながら言った。「話せ」「今晩、佳世子と紀美子が来たの」悟は手を止め、冷たく言った。「佳世子が戻ってきたのか?」「そう」藍子が答えた。「彼女は私に、田中家に手を出さないよう脅してきた」「お前、承諾したのか?」悟は冷たい口調で尋ねた。藍子は目を伏せた。「ごめん。無理だったの。彼女は私に、撤回しなければ私が彼女にしたことを公表すると脅してきたの。名誉に関わることだから、どうしてもそうするしかなかった」悟は無関心そうに言った。「そうか、わかった」「彼女には別の方法で対処するつもりよ。田中家の態度は耐えられるものじゃないから」「好きにしろ」悟は冷たく言った。「もう出ていけ」藍子は頷いた。「わかった、明日家政婦を探しておくわ」藍子は部屋を出て、ドアを閉めると、悟の目には冷徹な光が宿った。彼女の能力を少し甘く見ていたかもしれない。だが、構わない。まだ時間はある。一方。紀美子は佳世子を引き連れてレストランへ向かっていた。注文を済ませた後、紀美子はため息をつきながら佳世子を見た。「佳世子、これから悟にどう対処するか考えないと。田中家への指示はきっと悟も関係がある。あなたが彼の計画を妨害したんだから、絶対に黙ってはいないはずよ」佳世子は少し考え込んでから言った。「紀美子、私たちは受け身ではダメよ。彼らが動く前
メッセージを読んだ入江紀美子はすっと身体を起こした。うっかり渡辺瑠美がずっと塚原悟を監視していたのを忘れるところだった。瑠美がこのどうしようもない状況の突破口を見つけてくれた。紀美子は慌ててメッセージを返した。「瑠美、どうにかして使用人を一人送り込んでくれない?」杉浦佳世子はぼんやりとした表情で紀美子を見つめた。「何が書いてあったの?」紀美子は瑠美の話を彼女に教えてやった。「まさか、彼女まだ悟を監視しているの?」佳世子は驚いて尋ねた。「命が危ないじゃない」「瑠美はかなり用心しているから心配ないわ」紀美子は言った。その時、瑠美からの返信を受け取った。「また無理な要求を」「今はあんたしか頼れる人がいないの。お願い、瑠美」「別荘の使用人を買収できたんじゃないの?その人には、きっと助けになってくれる知り合いがいるはずよ。私は悟の監視で手一杯だから、もうこれ以上仕事を増やさないで!」瑠美のアイデアを聞いて紀美子はいいことを思いついた。「分かったわ、ありがとう」そうメッセージを返信してから、紀美子は珠代に電話をかけた。電話はすぐ繋がった。「入江さん?」「今、大丈夫?エリーは近くにいない?」「いないわ、入江さん。というか、エリーはあなたについているのでは?」珠代が聞き返してきたのを聞いて、紀美子は眉を顰めた。昨日エリーを見かけなかったけど、彼女は最近何をしているのだろうか?「珠代さん、ちょっとお願いがあるの」エリーのことは一旦置いて置いておくことにして、紀美子は言った。「悟が使用人を募集しているみたいなの。珠代さん、信頼できる人を紹介してくれない?」「そこに監視役を入れたいのね?」「そう」紀美子は簡潔に言った。「とにかく信頼できる人がいるの。お金は問題ないわ」「分かったわ。仲の良い人に声をかけてみるわ」「その人の能力はどう?採用されるような、ポテンシャルが高い人がいいわ」「私よりずっと器用だし、口数も少ない」珠代は答えた。「その人、協力してくれそう?」「大丈夫だと思うわ。話がついたら連絡するね」紀美子は了承してから電話を切った。「どうだった?」隣りの佳世子は慌てて尋ねた。「話はついたの?」「多分問題ないはず。珠代
「手慣れてるようね」入江紀美子は軽く笑いながら言った。「報酬が早く必要なの」石守菜見子は答えた。「分かったわ。あんたが審査に通れば、これから毎月の月初めと月末に金を払ってあげる」「分かった、また連絡する」「それって、相手はオッケーしてくれたってこと?」紀美子が電話を切った後、杉浦佳世子は尋ねた。「うん。でも彼女、毎月50万円欲しいって」「はっ?」佳世子は思わず吹いてしまった。「ぼったくりだわ!」「彼女の能力は報酬に見合っているはずよ。こんな金額を要求できるってことは、それなりの経験があるはずだから」「それもそうだけど……」佳世子は納得したようだ。「ご馳走様でした。もう帰ろう!明日あんたの会社に行くわ」「うん」紀美子も一緒に立ち上がった。佳世子を送ってから、紀美子は一人で別荘に帰った。玄関に着くと、丁度戻ってくるエリーが見えた。エリーの顔についていた傷を見て、紀美子は戸惑って眉を顰めた。余計なことは聞くつもりがなかったため、紀美子はそのまま別荘に入った。エリーは紀美子が入ったのを見て、後を追った。部屋に戻ってから、エリーは携帯で塚原悟に電話をかけた。電話はすぐに繋がった。「影山さん、森川貞則のこと、処理しました」「うん、よくやった」「影山さんは私の命の恩人です、影山さんのご指示とあらば何でもします」「警察に気づかれなかったか?」エリーは鏡越しに自分の顔の傷を見ながら、深呼吸をした。「気づかれましたが、奴らは私の顔が見えていないはずです」「出来るだけ早く警察側の監視カメラの録画データを消せ」「分かりました」エリーは肩と耳で携帯をはさみ、メモを取りながら答えた。電話を切った後、エリーは素早くパソコンを開き操作した。自分の姿が映った警察側の録画データを見つけだし、彼女は迷わずクラッシャーウィルスを発動させた。全ての操作を済ませた後、エリーは顔の傷に手を当てた。昨日の午前、影山さんが急に、どうにかして森川貞則を完全に排除するように命じてきた。株主総会までに、自分が必ず理事の座に着くように万全の準備をしなければならないとのことだった。貞則には、後々また余計なことを起こす可能性がある。その処理のために彼女は、今日このような
同僚たちに囲まれながら、入江紀美子は杉浦佳世子を露間朔也が使っていた事務所に連れてきた。ドアを開けると、事務所はきれいに掃除されており、朔也が使っていたものは皆そのままだった。紀美子と佳世子の眼底には悲しい気持ちが露わになった。「社長、ご指示がなかったので秘書達は露間さんの事務所をそのままにしておいたようです。申し訳ございません。社長を余計に悲しませたくなく、社長の前では露間さんのことをできるだけ口にしないように気をつけていました。露間さんの事務所を埃かぶりにしないように、私達は毎日掃除をしています」竹内加奈がやや気まずそうに説明した。紀美子は感動して佳奈に笑顔を見せた。「よくやってくれた。こうしていると、まるで朔也がまだここにいるみたい」佳奈は心配そうに佳世子を眺めた。彼女の視線を感じた佳世子は口を開いた。「大丈夫よ。朔也は私達二人の親友だから、彼のものはそのままにしておいて。私も特に置きたいものはないから、このまま使わせてもらうわ」佳奈は頷いた。「分かりました、佳世子さん。コーヒーを入れてきますね」佳奈が出て行ったあと、紀美子と佳世子は一緒に事務所に入り、ソファに腰を掛けた。「彼の最期を見届けられなかったなんて……」事務所の中を見渡しながら、佳世子は残念そうに言った。「私も同じよ、佳世子。後で予定を合わせて、一緒にS国に朔也の墓参りに行こう」「彼の遺体はもうS国に送り返されたの?」佳世子は尋ねた。「骨壺が、ね」紀美子は答えた。「私もまだ、詳しく叔父様に聞けてないの」「うん、時間があったら一緒に会いに行こう」午後。紀美子が佳世子を連れて会社の部署を回っている時、彼女の携帯が鳴った。発信者の名前を見て、紀美子はすぐ電話に出た。「入江さん」電話から石守菜見子の声が聞こえてきた。「塚原の別荘の使用人に採用されたわ」「もう?」紀美子は少し驚いた。「うん。あの加藤さんがすぐに決めたわ。最終的に3人を残した」「3人もいるなんて、あんた、都合が悪くない?」紀美子は眉を顰めて尋ねた。「それはどうにかする。報酬分はしっかりとこなさせてもらうわ」「いつ別荘に入るの?」「明日の朝から」「分かったわ。あんたの情報を待ってるから、必ず漏れなく報告し
「紀美子、ちょっとこの契約書を説明してよ」杉浦佳世子がそれ以上言いたくないのを察して、入江紀美子も話題を変えた。午後2時半。田中晴はケーキを持ってやってきた。二人だけにしてあげるために、紀美子は口実を作って自分の事務所に帰った。紀美子が事務所に戻ってすぐ、吉田隆介から電話がかかってきた。「もしもし」「紀美子、二つの情報が入ってきた。どっちも悪いニュースだ」隆介の声は重々しかった。「どういうこと?」「昨晩、森川貞則が殺された。刃物による攻撃で、一発で心臓を貫かれたらしい」隆介の話を聞き、彼女は脳裏でエリーの姿を浮かべた。確か、昨晩エリーに会った時彼女の顔に傷が残っていた。「じゃあ、二つ目は?」紀美子は焦った様子で尋ねた。「DNA検査の結果によると、確かに塚原悟は貞則の隠し子らしい」「つまり……彼がそんなことをしたのは、MKの責任者のポストを奪うためだと?」「そう解釈できるかもな」隆介は言った。「あと、もう一つ調べたんだが、どうやら貞則は悟と晋太郎、次郎以外に、もう一人息子がいるようなんだ」「うん、確かにもう一人いるわ」「そいつが失踪した。警察がそいつに連絡してみたらしいが、繋がらなかったようだ。最近の動向も掴めないらしいんだ。それどころか、銀行口座の記録もなく、最新の履歴が2か月以上前らしい」「まさか悟がその人まで消したっていうの?」紀美子は手が震えた。「その可能性はゼロではない。一体彼は何人殺したんだ」紀美子は背筋がゾッとした。悟にはしょっちゅう会っているが、そんな殺人鬼がよく今まで自分を生かしてくれたものだ。「隆介さん、そこまでわかっても例の計画を進めるつもりなの?」紀美子は尋ねた。「もちろんだ」隆介は答えた。「あんなやつ、この世界に生きている資格はない。罪が重すぎる」「分かったわ、隆介さん。ありがとう」「そんなよそよそしいことは言うな。まだ処理しなければいけないことがあるから、また後で」「分かったわ」……一週間後。秋ノ澗別荘。加藤藍子は顔を洗ってから朝食をとるために一階におりた。悟はまだ会社に行っておらず、まだテーブルについていた。藍子が来たのを見て、彼は最後の一口の牛乳を飲んで立ち上がった。「もう会
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く