「10分以内に、遊船の中の人間を全員始末しろ」相手が電話に出ると、晋太郎は片手でギアを入れ、ハンドルを切りながら言った。彼がそれまでずっと我慢していたは、紀美子がまだ中にいたからだ。今まで、誰も彼の前でこんなに図々しく振る舞う者はいなかった。彼の限界に挑戦する輩に対して、そのまま平然と去ることは許さない。晋太郎の言葉を聞いて、紀美子の心臓は一瞬にして高鳴った。悟のほかに、中のボディガード少なくとも20人以上はいた!晋太郎は彼らを血祭りにあげるつもりなのか?彼がまだ電話を切っていないのを見て、紀美子は慌てて口を開いた。「晋太郎、ほかのボディガードたちは無関係よ!」紀美子がこの言葉を口にした時、晋太郎はすでに電話を切っていた。「彼らは全員悟の命令に従っている。彼が命令を出せば、今夜死ぬのは俺たちだった。それでも彼らが無関係だと思うのか?」紀美子は言葉を失った。確かに彼の通りだが……それでも、あんなに沢山の命を奪うなんて……彼女は仏ではないが、これだけの命が奪われるのを目の当たりにして、当事者として受け入れがたかった。「シートベルトを締めろ、ヤツらは必ず追ってくる!」晋太郎は警告した。紀美子は呆然とした。「どういうこと?」「悟がそう簡単に俺達を帰すと思うか?」晋太郎は徐々にスピードを上げた。「もし彼がそんな人間なら、俺たちは今日こんな状況に陥ることはなかっただろう」「バン!」晋太郎の言葉が終わらないうちに、車体が被弾した。紀美子は全身が震え、思わず振り返った。彼らの車の後ろには、何台かの車が猛スピードで追ってきていた。紀美子は恐怖で目を見開いた。晋太郎の言葉は正しかった。悟は簡単には彼らを逃すつもりはなかった!「怖いなら目を閉じろ」晋太郎の顔は険しく、声は冷たく鋭かった。彼はバックミラーを覗きながら、車を蛇行に操作した。車線が曲がるたびに、紀美子は飛ばされそうになっていた。車のスピードがますます速くなり、紀美子は晋太郎の操作に影響を与えないように必死に息を押し殺した。「バン、バン——」また二発の銃声が響き、車が再び被弾したが、幸いにもタイヤは破れなかった。紀美子は必死にシートベルトを掴み、後ろから追ってくる車を見た。後ろからさらに
晋太郎が徐々にスピードを落としたが、紀美子はまだ我に返っていなかった。車は漸く路肩に止まった。彼は紀美子を見つめ、整った眉間に心が痛む表情が浮かんだ。「もう大丈夫だ」晋太郎は震えている紀美子の手を握ろうとしたが、彼女がまだ自分は記憶が回復したことをまだはっきり把握していないことを思い出し、手を引っ込めた。まだ耳鳴りが響いていた紀美子は、硬直したまま、男の深い視線と向き合った。口を開こうとした瞬間、後ろから急ぎ足でボディガードが近づいてきた。晋太郎は視線を戻し、窓を下ろした。「社長、悟に逃げられました。奴のボディガード30人のうち、3人が逃亡し、残りは全て始末しました」「わかった、美月に悟の行方を探させろ。見つけたら俺の前に連れて来い」「はい!」窓を閉め、晋太郎は再び紀美子を見た。「同情は必ずしも良いことではない」紀美子は黙ってうなずいた。晋太郎は正しかった。今夜、あの人たちを倒さなければ、殺されるのは自分達だったのだ。紀美子は複雑な思いを抱きながらシートに寄りかかり、沈黙した。悟……今回は完全に手切れになっただろう。彼はすでに彼女をも巻き込んで攻撃を仕掛けてきた。ならば、次に狙われるのは子供たちかもしれない。車が再び動き出し、紀美子は唇を噛みしめて言った。「子供たちが心配だわ」「大丈夫だ、既に警戒の強化を手配した」晋太郎の返事を聞いた紀美子はやや安心した。「いつ手配したの?」「子供たちを別荘に連れてきた時だ。悟のような陰謀家には油断できない。最初は彼が子供たちを使って俺を狙うと思っていたが、まさか彼が君を選ぶとは思わなかった」紀美子の心に罪悪感がよぎった。「ごめん、今日彼と出かけたのは、龍介さんが拉致されたからだ」突然、晋太郎に嫉妬が湧き上がり、軽く嗤った。「龍介のために自分の安全を捨てて悟と出かけたのか?」まだ恐怖が完全に抜けきっていない紀美子は頷き、晋太郎の言葉の裏の意味を深く考えようとしなかった。「彼は無実だし、私のせいで悟に拉致された。だから、そうするしかなかった」晋太郎の目には不満が浮かんだ。自分がいない間に、こんなにも多くの男が紀美子に群がっていたのか!龍介のやつ、一体どこまで紀美子に貢ぐのだろうか。沈黙が流れ、紀美子は突然
紀美子は晋太郎にそんな風に誤解されるとは思っていなかった。「そうじゃない。ただ家に帰りたいだけ。だって、あんたの家には着替えがないんだから。そんなに深く考えないでくれる?もし私の安全が心配なら、まず家に帰って洗面用具や着替えを取りに行かせてちょうだい。そうしてくれるならあんたのところに行ってもいいわよ」彼女はため息をついた。「ボディガードに取りに行かせる」着替えなんて、誰が取りに行ってもいいだろう。紀美子がどうしても家に帰りたいのは、明らかに龍介のことがが気になるからに違いない。自分の女がそこまで他の男の安否を案ずるのを思うと、晋太郎の怒りはどんどん膨れ上がった。潤ヶ丘。晋太郎たちが着いた頃は既に真夜中だった。物音が聞こえた子供たちは、部屋から飛び出してきた。遊船の監視カメラが作動していなかったので、あそこに何が起こったかは彼らには知る由も無かった。だから彼らは心配でずっと起きていた。階下に駆け下りると、紀美子と晋太郎が一緒に入ってきて、子供たちは呆然とした。「あんたたち、まだ起きてるの?」「お母さん?」佑樹と念江が群がってきた。「何でここに来たの?」「お父さんに連れてきてもらったの。悟は見つかってないし、ここにいる方が安全かと」そう言って、紀美子は隣の晋太郎を見た。「無事でよかったよ、お母さん。悟はお母さんまで拉致したんだから、一人で住むのは確かに危ない」「お父さんもいるんだから、落ち着いて泊まってよ」念江も言い加えた。二人の子供たちが息の合った様子を見て、紀美子は笑みを浮かべた。「わかった、そうするよ」子供たちの言うことは聞くのに、自分の言うことは聞かないのか?晋太郎は眉をひそめた。その時、後ろからドアが開く音がした。皆がドアの方を見ると、美月が欠伸をしながら入ってきた。リビングに五人が立っているのを見て、彼女は呆然とした顔で目を瞬いた。「何で真夜中にこんなに人がいるわけ?」紀美子は子供たちから美月がここに住んでいるのを聞いたので、深く考えずに挨拶をした。「こんばんは、美月さん」美月は紀美子に笑顔を見せた。「『さん』づけで呼ばなくていいわ。森川社長がここに連れてきてくれたんだから、社長と同じように呼び捨てでいいから」そう言うと、
「顔を洗ってくる」晋太郎はそう言うと、2階に上がっていった。「入江さん、婚約者同士なんだから、遠慮しないで。多少大きな音を立てても、私は何も聞かなかったことにするから」美月は意味深に笑いながら紀美子の肩を叩いた。「あっ、そうだ、社長の部屋は二階の一番手前だよ」「……」佑樹と念江まで恥ずかしくて耳が真っ赤に染まった。子供たちは紀美子に「おやすみ」と言って、急いで自分たちの部屋に戻っていった。階下でしばらく躊躇した後、紀美子は緊張を抑えながら晋太郎の部屋に向かった。しかし、ドアを開けると、晋太郎の姿は見当たらなかった。浴室のドアも閉まっていて、明かりは消えていた。晋太郎はどこに行ったんだろう?紀美子は疑問を抱きながら部屋に入った。でも彼がいないなら、安心して洗面はできると思い、彼女は浴室に向かった。10分後、紀美子が浴室から出てくると、晋太郎はまだ部屋に戻っていなかった。彼は悟の件でまだ忙しいのかもしれない。そう考えて、紀美子はクローゼットから布団を出して、ベッドに敷いた。一晩中の騒動で、紀美子はすぐに眠りについた。紀美子が眠りについた後、部屋のドアが静かに開いた。晋太郎が部屋に入ると、紀美子を起こさないようにドアをそっと閉めた。彼はベッドの横にゆっくりと座った。寝ている紀美子はまだ軽く眉をひそめていて、晋太郎の深い瞳には一抹の心配が浮かんだ。「しばらくの間、辛い思いをさせてしまったな」彼は手を伸ばし、紀美子の頬に散らかった髪を優しくかき分けた。「全てが終わったら、結婚しよう」ぐっすりと寝ている紀美子を見て、晋太郎は優しい表情でゆっくりと身をかがめた。彼女の額に軽くキスをし、立ち上がって洗面に向かった。翌日。ベッドで目を覚ました紀美子は、自分が晋太郎の部屋にいることを思い出し、急いで体を起こした。隣の布団は乱れていて、昨夜晋太郎が隣で寝ていたのが分かった。。でも、今はもうベッドにはいなかった。紀美子はベッドサイドに置かれたスマホを取り、時間を見て驚いた。なんと11時まで寝ていた!紀美子は慌てて布団を蹴って起き上がり、洗面と着替えを済ませた。彼女が部屋を出ると、ちょうど二人の子供たちに出会った。「お母さん、今日は随分遅くまで寝てたね。
「お前、最近口数が増えたぞ」晋太郎は眉をひそめた。「まあ、入江さんのことは置いといて、これからどうするつもりです?」美月はテーブルの横に座って言った。「各メディアに連絡しろ」晋太郎は目を細めた。「悟の犯罪証拠を全て暴露する。半日で事態をピークにまで持っていく」「そんなことをして大丈夫なんですか?」それを聞いて、美月の表情も厳しくなった。「何が言いたいんだ?」晋太郎は彼女を睨んだ。美月の心には一抹の疑念が浮かんだが、敢えて何も言わずに探りを入れることにした。「昨夜、あの遊船の中で何が起こったんですか?何故みんなの注目の中で船を爆破したんですか?その件に関して、私が昨夜すぐに議論を抑えていなかったら、今頃もう上層部にバレていましたわ」「俺が何をしようが、お前の意見を伺う必要はない」晋太郎は冷たく言い返した。「社長、そんな意味でないことはわかってるでしょう」美月は言った。「社長の怒りが頂点に達していなければ、こんなことにならなかったのは分かっています」晋太郎は冷たく笑った。「俺の命を狙うなんて、思い通りにさせるものか」「それだけじゃないでしょう、社長」美月は言った。「きっと他にも何かがあなたの心に積もっていて、それが爆発の引き金となったんですね」「言いたいことははっきり言え」晋太郎は目の前のコーヒーを手に取った。「社長、記憶が戻ったんでしょう」美月の口調は確信に満ちていた。晋太郎は軽く一口飲んだ。「どうしてそう判断した?」「まず、あなたの口調です」美月は言った。「どうして突然入江さんを連れて帰ってきたんですか?そんな疑り深いあなたが、入江さんを完全に見極めるまで、そんなことはしないはずです。敢えてそうしたのは、二人の関係が確定したか、あるいは……過去を思い出したかのどちらかです。それに、ご自身は気づいていないかもしれませんが、あなたの目には以前の迷いがなく、むしろ一抹の確信さえありました」晋太郎はコーヒーカップを持つ手を止めた。「確信、だと?」「そうです。どんな人や物事にも心を留めない、傲慢な狂気的確信」晋太郎は嗤いた。「お前、随分と細かく見てるな」それを聞いて、美月の目には一抹の喜びが浮かんだ。「本当に思い出したんですか
「ご安心ください、社長。あなたの安全が一番重要だとボスから言われています。では、これから準備をしてメディアに連絡します」美月が出ていった後、晋太郎は携帯を手に取り、隆久の連絡先を探し出した。彼については、晋太郎は未だにその正体が分からなかった。思い出そうとしても、彼に関する記憶は空白のままだった。しかし、彼の背後にいる勢力は強大で、自分がこれまで触れたことのない分野さえも掌握していた。A国、S国、そしてB国、多くの勢力が隆久に顔を利かせている。彼の実力は底知れず、どこまでが本当の姿なのか見極めがつかなかった。晋太郎が美月に記憶が戻ったことを伝えなかったのは、隆久が味方なのかどうかわからないからだった。もし敵なら、あらゆる動きを観察し、最善の対策を練る必要がある。そう考えながら、晋太郎は隆久に電話をかけてみることにした。相手はすぐに電話を出た。「もしもし、突然どうして電話をくれたんだ?」晋太郎はパソコンの日付を見て、声を低くした。「最近戻ってきたんだな。海外の件はもう片付いたのか?」「ああ、ほぼ終わった」隆久は言った。「もう少ししたら、一緒にまた出向く。そうすれば完全に終わる」「俺を連れて行く理由は?」晋太郎が尋ねた。「今はまだ教えられない。もう少し待て」「いつになったら教えてくれるんだ?」「それも言えない」隆久は答えた。「すべては、お前次第だ」晋太郎は疑問を抱きながら考え込んだ。隆久が自分を海外に連れて行く目的は何だ?全ては自分次第だと言うが、彼が海外で何をしているのかもよくわからない。ただ、一つ確かなのは、それがきっととんでもない仕事だということだ。「帰ってから話そう」「悟の行方はまだわからないようだが、少し気を抜いたらどうだ?」隆久は心配した。「時間があるなら、子供たちや紀美子と過ごした方がいい」「記憶が戻らない以上、彼女とずっと付き合っていくわけにはいかない」「たとえ記憶が戻っていなくても、彼女に対する気持ちは残っているはずだ。お前の行動がそれを証明しているだろう?」隆久は反論した。「今はそんなことを悩む時ではない」晋太郎は言った。「ここ数日は他のことを優先したい」「何か計画でもあるのか?」晋太郎の目が暗くなっ
紀美子は真っ先に、その件が晋太郎の仕業だと気付いた。悟の惨状は全て自業自得だ。かつては友達だったとしても、今はもう同情をかける必要はない。「こうなってしまったのも、全部あいつ自身のせいだよ」佳世子は力強くうなずいた。「私も同感よ。最初から計画を練る時点で、晋太郎が簡単にやり過ごせる相手じゃないって気づくべきだわ」昨夜の出来事がまだ鮮明に記憶に残っており、紀美子は悟の話題に触れることすら拒否した。たとえ今すぐ彼に目の前で死なれても、自分はまったく動じないだろう。せいぜい「自分たちの手で殺してやりたかった」という悔しさだけが残る程度だった。「何か食べたいものある?」紀美子はメニューを佳世子に渡した。「紀美子、昨夜の港の爆発事故、聞いた?」佳世子はメニューを受け取りながら尋ねた。「もう報道されてるの?」紀美子はコップを持つ手を一瞬止めた。「うん、でも具体的な原因はまだ公表されてないから、あんたなら何か知ってるかかと思って」「知ってるよ」紀美子はレモンウォーターを一口飲んだ。「遊船の爆発は、晋太郎がやったの」佳世子は目を丸くして驚いた。「晋太郎が?昨夜、何があったの?」紀美子は周囲を見回し、近くに客がいないのを確認すると、昨夜の出来事を佳世子に簡潔に話した。「まさか…悟がそんなことを?死ぬ気だったのかしら?」佳世子は全身に震えが走った。「全ては賭けだったんだろうね」紀美子は言った。「悟のような狂気的な人間なら、自分自身にも平気で牙をむく。でなければ、何年も忍び続けることはできないでしょう」佳世子の眉間に憂色が浮かんだ。「よく考えたら少し怖くなってきたわ」「どうして?」佳世子は目の前の二人の子供たちを見て、声を潜めて紀美子に近づいた。「悟があんたを狙ってくるかもしれないって」紀美子は眉をひそめた。「恨みを全部私に向けるなんてありえないでしょ?私は彼の苦しい過去に何も関わってないよ」佳世子は首を振った。「復讐するって意味じゃないの。極端な行動に出るんじゃないかと心配よ」「例えば?」「あんたを連れ去って監禁するとか」佳世子はそう言うと、再び身震いした。「あー、鳥肌が立っちゃう」紀美子は苦笑した。「考えすぎだよ。今の晋太郎の
佑樹はプログラムにログインした。「先生にメッセージを送ってみる。返事が来るかどうかわからないけど」佑樹は先生の連絡先を見つけ、3つのはてなマークと共に一文を送信した。――読んだら返信して。手伝ってほしいことがある。報酬についてはまた話そう。送信すると、佑樹は背もたれに凭れながら祈った。「先生が早く見てくれますように。悟の居場所がわかれば、こんなに毎日怯えずに済む」階下では、紀美子がソファに座って携帯を操作していた。彼女はアパレルサイトを漁りながら、頻繁にLINEの画面に切り替えてメッセージを確認していた。今日はこれまで何通ものメッセージを龍介に送ったのに、全く返事がなかった。電話もかけてみたが、相手の携帯は相変わらず電源を切っていた。紀美子は心配でたまらなかったが、勝手に藤河別荘の様子を見に行く勇気はなかった。いろいろ考えた末、紀美子は珠代に電話をかけ、様子を見に行ってもらうことにした。しかし、電話をかけても呼び出し音が鳴るだけで誰も出なかった。紀美子は呆然とし、次に自宅の固定電話にかけてみた。それでも同じく、応答がなかった。この時間帯に珠代が出かけるはずがない。だとすれば、彼女が電話に出ないのは何かが起こったのだろうか?そう思うと、紀美子は慌てて立ち上がり、家を出た。庭で、昨夜荷物を運んでくれたボディガードを見つけると、彼女は声をかけた。「あのう、昨夜藤河別荘に荷物を取りに行った時、家に誰かいた?」「いましたよ。家政婦の方がドアを開けてくれましたが、どうかしました?」紀美子は眉をひそめた。昨夜いたなら、なぜ今日はいないのだろう。「家政婦さんと連絡が取れないんですか?」ボディガードに聞かれると、紀美子は不安そうに頷いた。「ええ」「防犯カメラを確認してみては」ボディガードが提案した。紀美子はハッと思い出した。そうだ、防犯カメラがあった!ボディガードに礼を言って、紀美子は別荘に戻り、当日の録画映像を確認した。防犯カメラのクライアントアプリを開くと、庭には誰もいなかった。リビングのカメラに切り替えても、明かりだけがついているが人影はなかった。悟が配置したボディガードを含め、通常は最低5人が24時間体制でいたはずだ。彼らは紀美子の許可なしに勝手に動
昼間の騒ぎは、生徒同士で謝罪し合い、それで終わりとなった。先生たちはゆみの背景をよく知っていたので、不良たちの保護者に謝罪を促し、一件落着となったのだ。午後の授業もあるので、保護者たちは先に帰っていった。ゆみは澈を連れて校庭で父に電話をかけた。ゆみは石のベンチに座り、嬉しそうに小さな足をぶらぶらさせていた。澈の視線は、不良たちにつねられて赤く腫れたゆみの頬に止まった。「痛くないのか?」と聞きたい気持ちでいっぱいだった。最初から最後まで、殴られても、ゆみは他の女の子のように泣きわめいたりしなかった。むしろ、何かを思い出した彼女は今、ご機嫌ですらあった。こんな女の子は珍しい。彼が今まで出会ったことのない、明るくて楽天的な性格だった。澈がそう考えているうちに、晋太郎が電話に出た。「お父さん!」ゆみは嬉しそうに叫んだ。「今夜、ボディガードさんに迎えに来てもらえる?小林おじいちゃんの件は、ゆみが解決するわ!」ちょうど晋太郎は、晴や紀美子、佳世子と一緒に食事をしていた。ゆみの言葉を聞いて、彼は席を立ち、個室から出た。「小林さんが帰っていいと言ったのか?」晋太郎は尋ねた。「うん!お婆ちゃんとの約束、今なら果たせるから。早く済ませて、借りを返すの!」ゆみは何度も頷いた。「お婆ちゃん?」晋太郎は足を止め、振り返って紀美子と佳世子を見た。どうして紀美子の母親が関係しているのだろう?もしかして、小林さんが言っていたもう一人の人物とは、紀美子の実母なのか?「わかった、迎えの準備を手配する」晋太郎は視線を戻して返事した。「うん!」ゆみは大きく頷いて返事した。「お父さん、ゆみが帰ってくるのはお母さんに内緒にしておいてね。サプライズしたいから!」「わかった、そうするよ」晋太郎の目には笑みが浮かんだ。電話を切ると、ゆみはポケットに携帯をしまった。「今夜、帰るんだ?」澈は尋ねた。「うん!」ゆみは澈と目を合わせた。「すぐ戻ってくるから、寂しがらないで!」「……うん」澈は一瞬固まり、少し頬を赤らめて視線を逸らした。「もうすぐお正月だな」しばらくして、澈は空を見上げた。「そうだね!お正月まであと少し!冬休みは20日以上もお父さんとお母さんと
「僕のせいで、ゆみまでいじめられるのは嫌だ」澈はポケットに手を突っ込んだ。「私は怖くないよ!」ゆみは澈の手を押さえ、目の前の不良たちを睨みつけた。「渡しちゃダメ!お金が欲しいなら自分の親にでもねだって!みっともない!」ゆみの言葉は鋭く、彼らの心に刺さった。「クソガキが、調子乗りやがって!親の話をするなんて、今日は学校から出られねえようにしてやる!」不良は怒鳴り返した。「殴りたいなら殴ってみなよ!くだらない脅しはよして!」ゆみは歯を食いしばった。「年上が弱い者いじめなんて、最悪!」「上等じゃねえか、二度とほざけないようにその舌をひっこ抜いてやる!」不良は、叫ぶといきなり殴りかかってきた。やり合っているうちに、ゆみと澈は傷だらけになったが、不良たちも無傷ではいられず、腕や足にはゆみの歯形が残り、血が滲んでいた。騒ぎが大きくなり、他の生徒たちが先生たちに通報した。ゆみと澈、そして不良たちは職員室に呼び出された。1時間も経たないうちに事情を聞き終えた先生たちは、すぐに保護者を呼ぶことにした。最初に到着したのは、澈の家族だった。澈の叔母は祖母を支えながら、慌てて宿院室に来た。澈の汚れた顔と腫れ上がった頬を見て、叔母は心配そうに近寄った。「澈!どうしてケンカなんかしたの?」叔母はしゃがみ込み、澈をよく見た。「大丈夫だ、ゆみが助けてくれたから」澈は冷静に叔母と祖母を見上げた。おばあちゃん……ゆみはその呼び名を聞いて、ふと考え込んだ。頭の中に一瞬、何かの情景が浮かんだが、澈の叔母の声で遮られた。「ゆみ?あんたがゆみちゃんなの?」叔母は澈の後ろに立つゆみを見て尋ねた。ゆみは頷いたが、澈のあの「おばあちゃん」という言葉で再び頭が混乱し始めた。「うちの澈を助けてくれてありがとう!」叔母はゆみに礼を言ってから、先生の方に視線を移した。職員室の中は騒がしいので、ゆみはうつむいて少し端に移動した。彼女がふさぎ込んでいる様子を見て、澈はゆみの家族がまだ来ないために悲しんでいるのだと考えた。「ゆみ、焦らなくていい。小林おじいさんはすぐ来るから」澈はゆみに近づき、そばに立った。「違う」ゆみはまばたきして言った。「すごく大事なことを考えてるから、ちょっ
「どう説明すればいいかわからないけど、私の目と体質に関係があるみたい」ゆみは肩をすくめた。「どういうこと?」澈は理解できなかった。「外の音楽は聞こえる?私、これやってるの!幽霊退治!これで分かるかな?」ゆみは窓の外を指さした。「村の小林お爺さんのことなら知ってるけど、ゆみは彼と一緒に来たんだね?」澈は少し考え込んでから言った。「そうだよ!」ゆみは言った。「本当は、お父さんとお母さんと離れたくなかったんだけど……」ちょうど話の途中で授業のベルが鳴り、ゆみはそれ以上澈の邪魔をしないよう黙った。しかし、授業中でも、澈をじっと見つめることはやめられなかった。真面目に勉強する彼を見ていると、ゆみは思わず見惚れてしまうのだった。ここ数日の間、ゆみは先生に何度も注意されていた。宿題や生活態度の問題だけでなく、授業中によくぼんやりとしていたからだ。先生に相談され、小林はゆみと真剣に話したが、ゆみはやはり授業に集中することができなかった。何かが彼女の注意を奪っているのだろう。どうしても集中できなかった。金曜日の昼休み、学校の食堂。澈とゆみが食事を取って席に着くと、学校の悪ガキたちが近づいてきた。ゆみの家の事情を知っている彼らは、彼女には手を出さないが、代わりに汚れた手を澈の肩に乗せた。二人は同時に顔を上げ、自分たちより二頭身大きい六年生の男の子を見た。その六年生の周りには三四人の子分もいた。ろくなやつらではないことは、一目瞭然だった。「おい、出てこい。ちょっと話がある」不良っぽい男の子が澈に言った。「何の用?」澈は冷静に彼を見た。「質問が多いんだよ、出てこいっつってんだろ!」不良は眉をひそめた。そう言うと、彼は澈の腕をつかみ、外に引きずり出そうとした。「本人が行きたくないって言ってるのに、なんで無理やり連れ出そうとするの?」ゆみは突然立ち上がり、彼らを睨みつけた。「お前に関係ねえよ!チビ!黙って飯食ってろ!」「絶対に思い通りにはさせないわ!」ゆみは箸を置き澈のそばに駆け寄り、不良の手を払いのけた。彼女は胸を張り、不良に向かって挑戦的な態度で顎を上げた。「どけっつってんだよ!」不良はゆみを睨んだ。「どかないよ。どうせならやってみ
「ゆみ、学校に行きなさい。私は先に用事を済ませるから」小林はゆみに言った。ゆみは、そのおばさんの家が学校からわずか数分の距離にあることを知っていた。「わかった、おじいちゃん。道は同じだし、おじいちゃんたちは用事を済ませて。私は学校に行くから」ゆみは素直にうなずいた。午後。おばさんの家からの葬式の音楽は、村中にゆったりと流れてきた。ゆみは窓際の席に寄りかかり、その音楽を聞いていた。昨夜の小林の話の影響か、その哀しい音楽が耳に入ると、ゆみはすぐに上の空になり授業に集中できなかった。夢の中の女性は、いったい誰だったのだろう。彼女の言葉は、なぜこんなにも耳に残っているのだろう……「ゆみ?」突然、隣の席からの呼び声が聞こえた。「どうしたの、澈くん?」ゆみはぼんやりとしたまま彼の方に向き直った。布瀬澈は爽やかで痩せぎみの少年で、肌は白く、端正な顔立ちをしていた。田舎の子供らしく日焼けした肌ではなく、声もいつも穏やかで、大声を出すことはなかった。彼の感情の起伏がほとんどないところが気に入っており、ゆみは彼に好感を持っていた。「何か悩み事でもあるの?前の授業からずっと集中できていないみたいだけど」澈は首を傾げて尋ねた。「あるんだけど、どこから話せばいいかわからない」ゆみは頬杖をつき、憂鬱そうにため息をついた。「そうだ、澈くん、ずっと気になってたんだけど、あなたってここらの子じゃないよね?」そのまま考え続けても埒が開かないのはわかっていたので、ゆみは話題を変えた。「うん、そうだね。転校してきたから」澈は笑って、真っ白で整った歯を見せた。「転校生?やっぱり!あんたって都会の子って感じがするわ。で、出身はどこなの?」ゆみは目を輝かせた。「帝都」「帝都?」「確かゆみも帝都出身だったよね?」澈はうなずき、なにか考え込んだ様子で尋ねた。「そうそう!」ゆみは思わず興奮した。「どうして転校してきたの?」「父と母が出張中に交通事故に遭ったから。今は叔母さんの家で預かってもらってるんだ」澈は平静にそう語った。「ごめんね、そんな事情があるの知らなくて」ゆみは表情を硬くした。「大丈夫」澈は少し目を伏せたが、その表情は相変わらず落ち着いていた。「
「なに?」ゆみは頭を傾けて言った。「誰かと約束したのに、まだ果たしていないことがあるんじゃないか?」小林は微笑んで尋ねた。「誰かと約束?そんなのないよ?ゆみはまだ一人前じゃないのに、軽々しく約束なんてできないもん」ゆみはじっくり考えてから言った。「もう一度よく考えてごらん。誰かと何か約束をしていないか。人とではなく、霊とだ」小林はヒントを与えた。「霊?」自分はいつ霊などと約束したんだろうか?ゆみはますます分からなくなった。「まあ、急がなくともよい。じっくりと考えて、思い出したら帝都に行くといい」小林はにっこり笑いながらゆみの頭を撫でた。小林のこの言葉のせいで、ゆみは一晩中寝返りを打ち、なかなか眠れなかった。彼女はぱっちりした目で窓の外の明るい三日月を見つめ、「いったい誰と約束したんだろう」と考え込んでいたが、いつの間にか夢の中へ落ちていった。夢の中では、一匹の美しい白い狐がゆみの周りをぐるぐると回っていた。ゆみが嬉しくなって追いかけていくと、突然、足が引っ掛かって地面に転んだ。痛いと言う間もなく、誰かが優しく彼女の腕をそっと掴んだ。ゆみが顔を上げると、目の前に長い巻き毛の女性が腰を屈めていた。顔はぼんやりとしていてよく見えなかったが、その雰囲気は、どこか母と似ていた。「あなたは、だあれ?」ゆみは彼女を見つめながら尋ねた。女性は何も言わず、ゆみをゆっくりと起こした。ゆみは立ち上がって女性の顔をじっくりと眺めたが、彼女が誰なのかは全く分からなかった。霧のようなものが自分の視界を遮っているのだが、女性も自分の顔を見せまいとわざと顔を伏せているようだった。女性は、ゆみの足の埃を払うと立ち上がった。すると、その姿は徐々に透明になっていった。ゆみは慌てて掴もうとしたが、何も掴めなかった。「ねえ、あなたは、だれ?どうして何も言わずに行っちゃうの??」女性の姿が消えた瞬間、優しい声がゆみの耳元に届いた。「送りに来てくれるのを待っているわ」その声が消えると同時に、ゆみはパッと目を開け、小さな体を起こした。窓の外には、すでに夜明けの光が差し始めていた。ゆみの頭はまだぼんやりしていて、夢の中の女性の声と姿が頭から離れなかった。「なんか知ってる人みたい……
「そうだ」翔太は言った。「こういう時は、信頼している誰かの一言がスッと心に響くものだ」晋太郎は黙って目を伏せ、翔太の言葉を頭の中で繰り返し考え込んだ。食事会が終わり、晋太郎は車に戻った。しばらく考えた後、彼は小林に電話をかけた。電話がつながった途端、ゆみの声が聞こえてきた。「お父さん?」ゆみの甘えた声が晋太郎の耳に届いた。「ゆみ、ご飯は食べたか?」晋太郎の整った唇が自然と緩んだ。「食べたよ!」ゆみは笑いながら答えた。「お父さんは小林おじいちゃんに用事?おじいちゃんは今、お線香あげててお仕事中だけど、すぐ戻るよ」「そうか。ところで、ゆみは最近どうだ?」「まだ帰ってきたばかりじゃん!」ゆみは頬を膨らませ、不満そうに言った。「お父さんは何してたの?記憶力悪すぎ!」「少し頭を悩ませる問題があったんだ」晋太郎は軽く笑いながら言った。「えっ?何なに?ゆみ先生が分析してあげるよ!たったの100円で!」ゆみは楽しそうに言った。「お母さんがお父さんと結婚したくないみたいけど、ゆみはどう思う?お父さんはどうすればいい?」晋太郎の目には優しさが溢れていた。「えーっ?」ゆみは驚きのあまり思わず叫んだ。「お母さんはどうして結婚したくないって?どうしてきれいなお嫁さんになりたくないの?」「ゆみはなぜだと思う?」晋太郎は逆に尋ねた。「お父さん、浮気でもしたの??」ゆみは小さな眉を寄せ、真剣に考えた。「お父さんがそんなことをすると思うか?」晋太郎の端正な顔が一瞬こわばった。「だって、したことあるじゃん……」ゆみは小さく呟いた。「……それは違う」「じゃあ、お母さんはお父さんを愛してないのかな?」晋太郎の目尻がピクッと動いた。「あっ、わかった!お父さんは年を取ったから、お母さんは他の若いイケメンが好きになっちゃったんだ!あーもう、お父さん、お母さんが他の人を好きになっても仕方ないじゃん。お父さんはゆみのお父さんであることに変わりはないでしょ?女の人の気持ちに、一切口出ししないでよ!」晋太郎の顔は一瞬で真っ赤になった。「もう、いい!これ以上当てなくていい!」晋太郎は思わず遮った。ゆみは本当に自分の娘なのだろうか。ちっとも自分の味方にな
晋太郎は何も言わないまま指で机を叩き、この件をどう対処すべきか決めかねていた。「今焦っても仕方ないよ。はぁ……こんなに苦難を乗り越えてきたのに、紀美子が問題で結婚できないかもしれないなんて」晴は嘆いた。「開けない夜はい。今はただタイミングが合わないだけだ」晋太郎は低い声で言った。「どういう意味だ?」晴は理解できなかった。「何事も始めるのにはきっかけが必要だ。今はそのきっかけがまだできていないだけ。彼女が今結婚したくないのに、無理強いするつもりはない」「いやいや」晴は言った。「結局、結婚するのか?しないのか?お前らの結婚を待ってる人間もいるんだぞ!!」「待つ」晋太郎は唇を緩めた。「……」晴は黙って考えた。つまり、自分の結婚式も延期になるってことだ。夕方、晋太郎は翔太とレストランで会う約束をした。「晋太郎、久しぶりだな」到着すると、翔太は疲れた表情で彼の前に座った。「最近忙しいのか?渡辺グループは今は安定しているはずだが」晋太郎は眉を上げて彼を見つめ、お茶を一口飲んで言った。「会社の問題じゃない」翔太は苦々しい表情で首を振った。「で、用件は?」「紀美子のことだ。彼女は心的外傷に加え、ストレス障害があるかもしれないんだ」晋太郎は言った。「大体予想はつくが、あんたが紀美子と結婚しようとして、断られたんだろう?」晋太郎の言葉を聞いて、翔太はしばらく黙ってから尋ねた。「ああ」晋太郎は湯呑みを置いた。「あんたが俺の立場だったら、どうやって彼女を説得するか聞きたい」「俺なら説得しないな」翔太は晋太郎の目を見て、真剣に言った。「彼女が出した決断を尊重する。あんたの話からすると、紀美子は婚約のことでトラウマがあり、抵抗しているんだろう?なぜ無理にストレスに直面させようとするんだ?」晋太郎は翔太に相談を持ち出したことが間違いだったと感じた。佑樹と念江が妹を甘やかしているのは、完全にこの叔父から受け継いた性格なのかもしれないとさえ思った。「つまり、あんたは彼女が結婚せずに俺と一緒にいることも許すのか?」晋太郎の表情は曇った。「お互いに愛しあっているのに、なぜいけないんだ?」翔太は言った。「あんたには今、親からのプレッシャーもないだろ
「MKの全株式を私に移すって言い出したの。TycをMKの子会社にしたくないって私が言ったから」「それ、最高じゃない!?」佳世子は興奮して声を弾ませた。「そこまでしてくれる男、帝都中探したって他にいないわよ!」紀美子は首を振った。「だからこそ、結婚したくないの。せっかく彼が一から築き上げた帝国が、結婚相手の私のものになるなんて……」「あなたの考え方、ちょっと理解できないな。彼の愛の証なのに、どうして負担に感じるの?」紀美子は軽くため息をついた。「私が求めているのはそういうことじゃない。彼には彼の生き方、私には私の生き方がある。結婚したからって、どちらかがもう一方の附属品になる必要なんてないでしょ?それぞれ自分の事業に集中するのがいいと思わない?」「本当に自立してるわね。じゃあ聞くけど、妊娠したらどうするの?」紀美子は遠い目をした。「それは……まだ考えたことないわ」「その時は、全部晋太郎に任せてもいいんじゃない?のんびりしたお金持ちの奥様になって、好きなことしたら?」「嫌よ!」紀美子はきっぱり拒否した。「何もしないで食べて寝てばかりのダメ人間にはなりたくないわ」佳世子は眉を上げ、からかうように紀美子の腕をつついた。「自分がダメ人間になるのは嫌なくせに、あの時は佑樹と念江を外に出したがらなかったじゃない」紀美子は佳世子を見つめて言った。「それは別の問題でしょ」佳世子は紀美子に腕を絡めながら言った。「紀美子、無理に勧めるつもりはないけど、あなたがここまで苦労してきたのは、結局晋太郎と結婚するためじゃなかったの?今やっと実現しようとしてるのに、どうして後ろ向きになるの?『附属品』なんて言い訳はやめて、本当の気持ちに向き合って。彼と一緒にいたいのかどうか」「……いやなら、同棲なんてしてないわ」紀美子は目を伏せた。「紀美子、あなた、言い訳ばかりしてるって気づいてないの?」佳世子はため息をついた。「前は晋太郎の記憶が戻ってないからって逃げてたし、今度は会社の問題って。本当に向き合うべきなのは、あなた自身じゃない?それとも……怖いの?」紀美子は一瞬ぽかんとしたが、慌てて答えた。「……怖がってなんかいないわ」佳世子は彼女の表情の変化を鋭く見据えた。「違う。あなたは怖が
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方