紀美子の胸は一瞬ぎゅっと締め付けられ、急いでその背中に向かって駆け出した。しかし、彼女がたどり着いた時には、墓碑の前にはもう誰もいなかった。紀美子は慌てて周囲を見回した。確かに見たはずだ。どうしていなくなるのか?間違いない。あの背中は間違いなく兄さんのものだ!だが一体、どこへ行ってしまったのか!?紀美子は思わず呼ぼうとしたが、振り向くと一緒に後をついてきたエリーの姿が目に入った。「兄さん」と呼びかけようとした言葉が、喉元でぐっと詰まった。紀美子は唇をぎゅっと結び、エリーをじっと睨みつけた。エリーは彼女を上から下までじっくりと見て言った。「何よ、そんなふうに私を見て?」紀美子は徐々に感情を抑えきれなくなり、声を荒らげた。「どうしてついてくるの?!」エリーは眉をひそめた。「いつもこうしてついて行ってるじゃない。どうかした?」「お願いだから離れて!」紀美子は激しく訴えた。「私から離れて!!」もしエリーがいなければ、兄さんは絶対に立ち去らなかったはずだ!彼はエリーに見られるのを恐れ、悟に自分が生きていることを知らせるのを避けたのだ。絶対にそうに違いない!「あんた、正気なの?」エリーは言った。「出て行け!」紀美子は怒鳴った。「今すぐここから消えて!」「私にかまってないで、墓参りをするならさっさと済ませなさい。しないなら、さっさと私と帰るわよ!」紀美子の目に涙が浮かんだ。エリーがここにいる限り、兄さんは絶対に現れない。この機会を逃せば、またいつ兄さんに会うことができるのだろうか?もし兄さんが無事なら、どうして連絡をよこしてくれないのか。みんなが待っているのに、どうしてそんなにも冷酷にみんなを捨て去ったの?紀美子の目には涙が溢れ、無力感に苛まれながら周囲を見渡した。お兄さん……一体どこにいるの?無事だって知らせてほしい……何か目印を残してくれるだけでもいい……生きていてくれるってわかれば、それでいいのに……三日後。州城。秘書がノックして龍介のオフィスに入った。龍介が娘のためにケーキを取り分けているのを見て、秘書は黙ってその場で待った。ケーキを娘のために分け終わると、龍介は秘書に目を向けた。「何か用か?」
「点滴剤ですよね?」エリーは尋ねた。「そうよ。小瓶の点滴剤。その人が言うには、一回の使用量は2ミリリットルまでだって」「そうです、奥様。一日に2ミリリットルしか使えません。それ以上だと、効果が急激に現れて気づかれてしまいます」「わかったわ。薬は後であなたに渡す。紀美子のことは任せる」藍子は言った。「かしこまりました」エリーがそう言うと、藍子は電話を切った。「お嬢様、どうしてエリーにもう一本高額で買ったことを話さなかったんですか?」そばにいたボディーガードが藍子に尋ねた。藍子はボディーガードを一瞥した。「数百万円なんて大した金額じゃないわ。この薬、持っていればいざという時に役立つかもしれないもの」ボディーガードは頷いた。「では、後日の帰国便を予約しておきます」「お願いね」同時刻――佑樹と念江は、エリーと藍子の会話を聞き、そのことをすぐさま紀美子に知らせた。そのメッセージを見た紀美子は少し驚いた。藍子が戻ってきたら、安心して暮らせなくなる。どうすれば藍子が薬を仕込むのを防げるのだろう?考えあぐねた末、紀美子は階下の家政婦を思い浮かべた。藍子が薬を仕込むなら、間違いなくその家政婦を使って、食事に混入させるはず。どう対処すべきだろうか?考えていると、佑樹から新たなメッセージが届いた。「ママ、悟に一度話してみて。エリーをもう付き従わせないようにしてもらうっていうのはどう?」「それは悟自身が仕組んだことよ。彼がエリーを遠ざけるなんてありえない」紀美子は返信した。「悟を少し試してみたら? もしこのアイデアが彼のものじゃないなら、あなたの提案に応じるかもしれないよ」紀美子はそのメッセージを見て少し考えた。「そうとは限らないわ。悟はとても用心深いの。たとえエリーを遠ざけたとしても、家政婦がいる。それにボディーガードも」「それじゃ、ママに他のアイデアはあるの?危険が分かっている以上、避けないと」佑樹は心配そうに尋ねた。「なんとか考えるわ。あなたたちは心配しないで、しっかり食事をして、学校にも通いなさい」「分かった」会話を終えた後、紀美子はやはり家政婦と話をしてみようと思った。しかし、あまり直接的に動くわけにはいかない。相手に弱みがなければ、脅し
入江紀美子は「おやすみ」と返信して、携帯を置いてから計画に着手した。このまま沼木珠代の所に行くのは無理だ。エリーは用心深いので、絶対に盗聴されるだろう。行くなら、エリーに悟られずにやらなければならない。紀美子は、いろいろ考えた末ようやく方法を思いついた。彼女は再び携帯を手に取り、渡辺瑠美にメッセージを送った。「瑠美、睡眠薬を少し買ってきてくれない?」「また自殺を考えてるの?」瑠美はメッセージを見て驚き、すぐに返信した。「違う、ちょっと別のことに使いたいだけ」紀美子は慌てて説明した。「自殺じゃなければいいわ。夜に例の場所に置いておくから、取りにきて」紀美子は暫く考えてから、もう一通のメッセージを送った。「瑠美、この間墓参りに行ったとき、お兄ちゃんを見かけた気がするの」瑠美はそれを見て画面に釘付けになり、随分経ってから返事した。「あの時に?見間違えじゃない??彼の顔を見たの?」「見えたのは後ろ姿だけだったけど、他に誰がうちの母の墓参りに来るっていうの?彼以外に考えられないわ。あの時私は確かにはっきりと見たわ。追いかけたら、すぐに消えちゃったの」「……まさか、妄想症にでもかかったんじゃないよね?とても受け止めがたいかもしれないけど、兄はまだ行方不明よ」「あんたも、彼が死んだと思っていないじゃない。行方不明だって!」「まあいいわ。どう思うかは自由だけど、とりあえず12時を過ぎたらものを取りにきて」紀美子も、それ以上何を言っても意味がないと分かっていた。そのため、彼女はただ「分かった」とだけ言った。翌日。土曜日。紀美子は早起きして朝食を食べに階下に降りた。ダイニングルームで、エリーが使用人と話していた。紀美子を見て、彼女は一瞬で警戒し、トレーを持ってキッチンに入った。紀美子がテーブルに着くと、使用人が朝食を持ってきてくれた。食べようとした時、エリーが牛乳を持ってキッチンから出てきた。牛乳を見て、紀美子はとあることを思い出した。エリーは毎日欠かさず牛乳を飲んでいる。朝食、昼食、そして夕食の時に必ず1杯飲んでいた。紀美子は突破口を見つけた気がした。朝食を食べ終えると、エリーはリビングにいて、沼木珠代は2階の部屋の掃除を始めた。紀美子はキッチンに入
沼木珠代の瞳孔が揺れたが、無表情で言った。「入江さん、一体何の話ですか?私はただの使用人です。やるべき仕事以外、何も知りませんよ」紀美子は隣のイスを引っ張って座った。「いい?違法行為はバレなきゃいいってもんじゃないわよ」紀美子は珠代を見つめ、平静に言った。「あんたの息子の嫁は元からあんたのことが気に入っていないんでしょ?もしあんたが捕まっても、今後彼女が孫に会わせてくれることはないと思うわ」珠代は驚いて紀美子を見た。「そんなこと、あなたはどうして知っているのですか?」「そんなことはどうでもいいわ」紀美子は答えた。「私が知りたいのは、エリーがあんたに何を指示したかだ」珠代は緊張しているように見えたが、口はしっかりと閉じていて、依然として喋るつもりは無いようだった。「そんなに言いづらいのなら、取引をしよう」珠代は戸惑った様子で紀美子を見た。紀美子はポケットから一枚の小切手を出してテーブルの上に置いた。「この中に1000万円が入ってる。教えてくれれば、これを情報代としてあげるわ。これからも、情報を教えてくれれば、その情報の価値を見て代価を払ってあげる」珠代はテーブルの上の小切手を見て、決意が揺らいだ。そんな彼女の様子を見て、紀美子は少し笑みを浮かべた。そして紀美子は続けて言った。「珠代さん、このお金はあまり多くないかもしれないけど、経済的に余裕を持てばあんたの息子の嫁も見直してくれるんじゃないの?少なくとも、もうあんたを家から追い出したりしないんじゃない?あんたの今の歳を考えれば、これくらいの金額を稼ぐのは簡単ではないはずよ」紀美子の話を聞き、珠代は動揺した。珠代は歯を食いしばり、決心をした。「入江さん、本当のことを言います。確かにエリーから指示がありました。でも、言われた通りにするべきかどうか迷っていました。エリーさんが言うには、1回すれば20万円をくれるって」紀美子は眉を顰めた。「はっきり教えて」「明後日から一錠の薬を渡すと言っていました。これから毎日あなたの水或いはご飯に入れてって。私が、それはどんな薬なのかと聞くと、知る必要はないと言われ、それでことの重大さに気づきました。確かにお金は大事です。紀美子さんの額を見ると、あなた側につくしかありませんね」「口約束では
そうだとしても、決して油断してはいけない。沼木珠代が今回のことを塚原悟に教える可能性がないとは限らない。何しろ珠代は悟が雇ってきた人なのだから。全てが……賭けだ。入江紀美子が賭けているのは、人間の貪欲だ。翌朝。一日眠らされたエリーはまだうとうととしながらベッドから降りた。彼女が腫れぼったい目を擦りながら階下に降りてきた頃、紀美子は既にダイニングテーブルについて朝ごはんを食べていた。エリーは紀美子を見つめた。ふと、何処かが違う気がした。自分の体はいつも健全で、丸1日目を覚ますことなくぐっすりと寝込むはずがなかった。こいつが絶対自分に何かをしたに違いない!!エリーは怒りながら紀美子に近づいた。彼女が口を開こうとした時、珠代がキッチンから出てきた。「エリーさん?」珠代は心配そうに尋ねた。「何で起きてきたの?今お食事を持っていってあげようとしたのに」エリーは疑わしい目つきで珠代を見た。珠代は持っている食べ物を置いて、手をエリーの額に当てて体温を確かめた。「良かった、熱が退いたみたい」珠代は手を戻しながら笑って言った。「どういう意味?」エリーは深く眉を顰めて尋ねた。「昨日ね、あなた40度まで熱が出てたのよ、覚えてない?」「私が?」エリーは戸惑った。「熱が出てた?」珠代はしっかりと頷いた。「やっぱりちゃんと休まなきゃダメだよ。最近帝都の気温が上がったり下がったりと不安定だからね。病気にかかりやすいのよ」その時。掌にずっと汗をかきながら紀美子は珠代をみた。自分はまだ何も言っていないのに、珠代が気を利かせてくれたのが少し意外だった。しかも自発的に話を丸めてくれている。この賭け、自分は勝ったのか?暫く見つめてから彼女は視線を戻し、続けてご飯を食べた。エリーは暫く考えてから、珠代をダイニングルームの外に呼びつけた。「あの女、昨日外に出かけたりしなかった?」エリーは尋ねた。珠代はダイニングルームの方を一瞥してから口を開いた。「どこにも行かなかったよ。それどころか、彼女が医者を呼んでくれてあなたを診るように指示していたわ」「彼女が?」エリーはあざ笑いをして、全く信じようとしなかった。「医者を呼んでくれたって?」「そうなの
ドアを閉めてから、入江紀美子は沼木珠代をソファに座らせ、尋ねた。「で、何が聞きたいの?」珠代はため息をついた。「入江さん、私にはどうしても理解できないのよ。何で息子の嫁があんなに私のことを嫌っているのか」紀美子はどう答えたらいいか迷った。「私はね、これまで帝都の名門に何回も仕えてきたの。毎月の給料は何十万円もあって少なくないし、おまけに英語も少しできるのよ」「あんたの息子の嫁さんって、名門大学の卒業生だよね?今は何処で仕事してるの?」「MK社よ」珠代は答えた。「運営部の副部長を勤めてるらしい」「MK、なるほど」紀美子は笑みを浮かべた。「それなら、彼女の考え方は分かったかも」「えっ?」「彼女のポジションにいる人間が気になるのは、あんたがどれくらい稼いでいるかではなく、自分にどれほどの利益をもたらしてくれるかよ」「なら、私がどうすればいい?」珠代は焦った様子で尋ねた。「私がいくら稼いでも意味がないってこと?」「もし私の意見を受け入れてくれるのなら、これから私の言う通りにすれば、その嫁さんの態度を改めさせることができるはずよ」珠代はしっかりと頷いた。「入江さんのいう通りにするわ。今後は何でも言って。彼女が私を家に入れてくれるなら、私は何だってするわ」「戻らせてもらうのではなく、彼女に自発的にあんたを迎えにこさせるのよ」紀美子は笑みを浮かべながら訂正した。珠代は戸惑い、随分時間が経ってからやっと悟ったようだ。「分かったわ、入江さん。それを私がしっかりできれば、私が頼れるお義母さんだと思ってくれるようになるわね」「もしあんたが広い人脈があって、その上にお金もしっかりと稼いでいるとしれば、彼女は絶対見直してくれるわ。珠代さん、私についてきて。こんなことすぐに解決してあげるわ」珠代は力を入れて頷いた。「ありがとう、入江さん、これからはよろしくね!」珠代が帰ってから、紀美子は暫くドアをじっと見つめた。珠代は厳しい外見をしているが、意外と頼れるところがある。やはり人は見た目によらず、か。紀美子は笑って自嘲した。そうだよね、塚原悟だってそうだったじゃない?……夜7時。エリーは空港まで加藤藍子を迎えに出向いた。2人が車に乗ってから、藍子は手に持っ
エリーは不快そうに眉を顰めた。「影山さんが高い報酬を払ってあんたを雇ってるんだから、相応なリスクは負ってもらうわ」そう言って、エリーは振り向いてその場を離れた。沼木珠代は離れていくエリーの後ろ姿を見て、口をへの字に曲げた。やはり彼らは自分を道具としてしか思っていない!入江さんが警戒して自分の所に訪ねて来なかったら、何か起こった時自分に濡れ衣を着せられるところだった!珠代は渡された薬剤を見て、脳裏に一つの考えを思い浮かべた。30分後。珠代は紀美子に牛乳を持ってきた。ドアが開いた後、珠代はわざと声を大きく張り上げて言った。「入江さん、牛乳を持ってきましたわ」そう言って、彼女はポケットから薬剤を出し、一枚の紙切れを加えて紀美子に渡した。紀美子はそれを見て、慌てて受け取ってポケットに入れた。そして彼女は珠代に言った。「ありがとう、中で飲むから渡してくれればいい」「入江さん、このまま飲んじゃって。コップを持っていって洗うから」珠代は紀美子にアイコンタクトを送りながら言った。紀美子は理解して、すぐに牛乳を受け取って浴室に流そうとした。しかし、この時、エリーの部屋のドアが急に開いた。紀美子は横目でエリーを見て、そして眉を顰めながらイラついたふりをして牛乳を一気飲みにした。エリーは紀美子の挙動を見て、冷笑を浮かべながら部屋に戻った。紀美子は慌てて空になったコップを珠代に返した。珠代は首を振り、牛乳に何もいれていないことを示した。紀美子はやっと安心してドアを閉めた。ソファに座り直して、紀美子は紙切れと薬剤をポケットから取り出した。紙切れには珠代からの伝言があった――「入江さん、その薬剤はエリーが持ち帰ってきたものよ。そのままあなたに渡すわ。私はもう一本見た目が同じだけどただの水を入れたものを用意したの。だから私のことは心配しないで安心してください」紀美子は掌の中の薬剤を見つめた。暫く考えた後、彼女は吉田龍介とのチャットを開き、その薬剤の写真を送った。数分後、龍介からの返信が届いた。「その薬剤、暫く私に預けてくれるか?」「帝都に来ているの?」「うん、今日は昼頃MKの株主との打ち合わせがあったけど、順調に終わった。明日の午後、そちらの会社に行くから、その時に受け
入江紀美子は深く眉を顰めた。「龍介さん、彼ら2人を挑発して仲たがいをさせるとでもいうの?」「そうだ」吉田龍介は真顔で言った。「私は、塚原が君に手を出していないのは、まだ君に未練があるからだと思っている」「そんなのありえないわ!」紀美子はきっぱりと否定した。龍介は紀美子を見て、無力そうにため息をついた。「ならば彼が君を残しているのは何の為だ?」「私を殺したら、世論が彼に対して否定的になるからじゃない?」龍介は首を振った。「君は考えたことないか?晋太郎のこともあるが、塚原は君の死を事故によるものに装うことだってできる。そうすれば彼に全く影響はない」紀美子はぼんやりと放心状態になった。彼女は随分の間考え込んでから呟いた。「つまり、彼がまだ私を殺していないのは、まだ私に未練があるから?」「それ以外思い当たる理由はない」龍介は言った。「如何せん今の君は彼にとって、もう利用価値はないのだから」紀美子は段々と拳を握りしめた。塚原悟が自分にまだ未練がある可能性を考えると、彼女は激しく吐き気がした。これまでは彼をただ憎んでいた。しかし今となってはもう、気持ち悪さ以外何も残っていなかった!殺人鬼に未練を持たれるなんて、誰でも気持ち悪さ以外感じないだろう!紀美子は歯を食いしばりながら深呼吸をした。「分かった、龍介さん。頭に入れておくわ」「君から何回か彼を招き入れれば、その事実を察することができるはずだ」龍介は言った。「立ち向かわなければならん」紀美子は爪を掌に刺して、険しい表情になった。「彼の顔を見るたびに、殺された大事な人達のことを思い出すの!彼を殺してしまいたい!彼に死んでもらいたい!!」龍介は紀美子の眼差しを見て、心底に悔しさが募った。彼は思わず彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、どうにか我慢できた。「紀美子、困難に立ち向かうこと以外、問題を解決する方法はない」紀美子は唇を噛みしめて頷いた。「龍介さん、注意してくれてありがとう」そして彼女は深呼吸をしてから、例の薬剤を出してテーブルの上に置いた。「この薬剤を預けるわ」紀美子は言った。龍介は薬剤を手に取り、一目見てから握った。「分かった、後で連絡する」「龍介さん、今MK社の方は
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く