「点滴剤ですよね?」エリーは尋ねた。「そうよ。小瓶の点滴剤。その人が言うには、一回の使用量は2ミリリットルまでだって」「そうです、奥様。一日に2ミリリットルしか使えません。それ以上だと、効果が急激に現れて気づかれてしまいます」「わかったわ。薬は後であなたに渡す。紀美子のことは任せる」藍子は言った。「かしこまりました」エリーがそう言うと、藍子は電話を切った。「お嬢様、どうしてエリーにもう一本高額で買ったことを話さなかったんですか?」そばにいたボディーガードが藍子に尋ねた。藍子はボディーガードを一瞥した。「数百万円なんて大した金額じゃないわ。この薬、持っていればいざという時に役立つかもしれないもの」ボディーガードは頷いた。「では、後日の帰国便を予約しておきます」「お願いね」同時刻――佑樹と念江は、エリーと藍子の会話を聞き、そのことをすぐさま紀美子に知らせた。そのメッセージを見た紀美子は少し驚いた。藍子が戻ってきたら、安心して暮らせなくなる。どうすれば藍子が薬を仕込むのを防げるのだろう?考えあぐねた末、紀美子は階下の家政婦を思い浮かべた。藍子が薬を仕込むなら、間違いなくその家政婦を使って、食事に混入させるはず。どう対処すべきだろうか?考えていると、佑樹から新たなメッセージが届いた。「ママ、悟に一度話してみて。エリーをもう付き従わせないようにしてもらうっていうのはどう?」「それは悟自身が仕組んだことよ。彼がエリーを遠ざけるなんてありえない」紀美子は返信した。「悟を少し試してみたら? もしこのアイデアが彼のものじゃないなら、あなたの提案に応じるかもしれないよ」紀美子はそのメッセージを見て少し考えた。「そうとは限らないわ。悟はとても用心深いの。たとえエリーを遠ざけたとしても、家政婦がいる。それにボディーガードも」「それじゃ、ママに他のアイデアはあるの?危険が分かっている以上、避けないと」佑樹は心配そうに尋ねた。「なんとか考えるわ。あなたたちは心配しないで、しっかり食事をして、学校にも通いなさい」「分かった」会話を終えた後、紀美子はやはり家政婦と話をしてみようと思った。しかし、あまり直接的に動くわけにはいかない。相手に弱みがなければ、脅し
入江紀美子は「おやすみ」と返信して、携帯を置いてから計画に着手した。このまま沼木珠代の所に行くのは無理だ。エリーは用心深いので、絶対に盗聴されるだろう。行くなら、エリーに悟られずにやらなければならない。紀美子は、いろいろ考えた末ようやく方法を思いついた。彼女は再び携帯を手に取り、渡辺瑠美にメッセージを送った。「瑠美、睡眠薬を少し買ってきてくれない?」「また自殺を考えてるの?」瑠美はメッセージを見て驚き、すぐに返信した。「違う、ちょっと別のことに使いたいだけ」紀美子は慌てて説明した。「自殺じゃなければいいわ。夜に例の場所に置いておくから、取りにきて」紀美子は暫く考えてから、もう一通のメッセージを送った。「瑠美、この間墓参りに行ったとき、お兄ちゃんを見かけた気がするの」瑠美はそれを見て画面に釘付けになり、随分経ってから返事した。「あの時に?見間違えじゃない??彼の顔を見たの?」「見えたのは後ろ姿だけだったけど、他に誰がうちの母の墓参りに来るっていうの?彼以外に考えられないわ。あの時私は確かにはっきりと見たわ。追いかけたら、すぐに消えちゃったの」「……まさか、妄想症にでもかかったんじゃないよね?とても受け止めがたいかもしれないけど、兄はまだ行方不明よ」「あんたも、彼が死んだと思っていないじゃない。行方不明だって!」「まあいいわ。どう思うかは自由だけど、とりあえず12時を過ぎたらものを取りにきて」紀美子も、それ以上何を言っても意味がないと分かっていた。そのため、彼女はただ「分かった」とだけ言った。翌日。土曜日。紀美子は早起きして朝食を食べに階下に降りた。ダイニングルームで、エリーが使用人と話していた。紀美子を見て、彼女は一瞬で警戒し、トレーを持ってキッチンに入った。紀美子がテーブルに着くと、使用人が朝食を持ってきてくれた。食べようとした時、エリーが牛乳を持ってキッチンから出てきた。牛乳を見て、紀美子はとあることを思い出した。エリーは毎日欠かさず牛乳を飲んでいる。朝食、昼食、そして夕食の時に必ず1杯飲んでいた。紀美子は突破口を見つけた気がした。朝食を食べ終えると、エリーはリビングにいて、沼木珠代は2階の部屋の掃除を始めた。紀美子はキッチンに入
沼木珠代の瞳孔が揺れたが、無表情で言った。「入江さん、一体何の話ですか?私はただの使用人です。やるべき仕事以外、何も知りませんよ」紀美子は隣のイスを引っ張って座った。「いい?違法行為はバレなきゃいいってもんじゃないわよ」紀美子は珠代を見つめ、平静に言った。「あんたの息子の嫁は元からあんたのことが気に入っていないんでしょ?もしあんたが捕まっても、今後彼女が孫に会わせてくれることはないと思うわ」珠代は驚いて紀美子を見た。「そんなこと、あなたはどうして知っているのですか?」「そんなことはどうでもいいわ」紀美子は答えた。「私が知りたいのは、エリーがあんたに何を指示したかだ」珠代は緊張しているように見えたが、口はしっかりと閉じていて、依然として喋るつもりは無いようだった。「そんなに言いづらいのなら、取引をしよう」珠代は戸惑った様子で紀美子を見た。紀美子はポケットから一枚の小切手を出してテーブルの上に置いた。「この中に1000万円が入ってる。教えてくれれば、これを情報代としてあげるわ。これからも、情報を教えてくれれば、その情報の価値を見て代価を払ってあげる」珠代はテーブルの上の小切手を見て、決意が揺らいだ。そんな彼女の様子を見て、紀美子は少し笑みを浮かべた。そして紀美子は続けて言った。「珠代さん、このお金はあまり多くないかもしれないけど、経済的に余裕を持てばあんたの息子の嫁も見直してくれるんじゃないの?少なくとも、もうあんたを家から追い出したりしないんじゃない?あんたの今の歳を考えれば、これくらいの金額を稼ぐのは簡単ではないはずよ」紀美子の話を聞き、珠代は動揺した。珠代は歯を食いしばり、決心をした。「入江さん、本当のことを言います。確かにエリーから指示がありました。でも、言われた通りにするべきかどうか迷っていました。エリーさんが言うには、1回すれば20万円をくれるって」紀美子は眉を顰めた。「はっきり教えて」「明後日から一錠の薬を渡すと言っていました。これから毎日あなたの水或いはご飯に入れてって。私が、それはどんな薬なのかと聞くと、知る必要はないと言われ、それでことの重大さに気づきました。確かにお金は大事です。紀美子さんの額を見ると、あなた側につくしかありませんね」「口約束では
そうだとしても、決して油断してはいけない。沼木珠代が今回のことを塚原悟に教える可能性がないとは限らない。何しろ珠代は悟が雇ってきた人なのだから。全てが……賭けだ。入江紀美子が賭けているのは、人間の貪欲だ。翌朝。一日眠らされたエリーはまだうとうととしながらベッドから降りた。彼女が腫れぼったい目を擦りながら階下に降りてきた頃、紀美子は既にダイニングテーブルについて朝ごはんを食べていた。エリーは紀美子を見つめた。ふと、何処かが違う気がした。自分の体はいつも健全で、丸1日目を覚ますことなくぐっすりと寝込むはずがなかった。こいつが絶対自分に何かをしたに違いない!!エリーは怒りながら紀美子に近づいた。彼女が口を開こうとした時、珠代がキッチンから出てきた。「エリーさん?」珠代は心配そうに尋ねた。「何で起きてきたの?今お食事を持っていってあげようとしたのに」エリーは疑わしい目つきで珠代を見た。珠代は持っている食べ物を置いて、手をエリーの額に当てて体温を確かめた。「良かった、熱が退いたみたい」珠代は手を戻しながら笑って言った。「どういう意味?」エリーは深く眉を顰めて尋ねた。「昨日ね、あなた40度まで熱が出てたのよ、覚えてない?」「私が?」エリーは戸惑った。「熱が出てた?」珠代はしっかりと頷いた。「やっぱりちゃんと休まなきゃダメだよ。最近帝都の気温が上がったり下がったりと不安定だからね。病気にかかりやすいのよ」その時。掌にずっと汗をかきながら紀美子は珠代をみた。自分はまだ何も言っていないのに、珠代が気を利かせてくれたのが少し意外だった。しかも自発的に話を丸めてくれている。この賭け、自分は勝ったのか?暫く見つめてから彼女は視線を戻し、続けてご飯を食べた。エリーは暫く考えてから、珠代をダイニングルームの外に呼びつけた。「あの女、昨日外に出かけたりしなかった?」エリーは尋ねた。珠代はダイニングルームの方を一瞥してから口を開いた。「どこにも行かなかったよ。それどころか、彼女が医者を呼んでくれてあなたを診るように指示していたわ」「彼女が?」エリーはあざ笑いをして、全く信じようとしなかった。「医者を呼んでくれたって?」「そうなの
ドアを閉めてから、入江紀美子は沼木珠代をソファに座らせ、尋ねた。「で、何が聞きたいの?」珠代はため息をついた。「入江さん、私にはどうしても理解できないのよ。何で息子の嫁があんなに私のことを嫌っているのか」紀美子はどう答えたらいいか迷った。「私はね、これまで帝都の名門に何回も仕えてきたの。毎月の給料は何十万円もあって少なくないし、おまけに英語も少しできるのよ」「あんたの息子の嫁さんって、名門大学の卒業生だよね?今は何処で仕事してるの?」「MK社よ」珠代は答えた。「運営部の副部長を勤めてるらしい」「MK、なるほど」紀美子は笑みを浮かべた。「それなら、彼女の考え方は分かったかも」「えっ?」「彼女のポジションにいる人間が気になるのは、あんたがどれくらい稼いでいるかではなく、自分にどれほどの利益をもたらしてくれるかよ」「なら、私がどうすればいい?」珠代は焦った様子で尋ねた。「私がいくら稼いでも意味がないってこと?」「もし私の意見を受け入れてくれるのなら、これから私の言う通りにすれば、その嫁さんの態度を改めさせることができるはずよ」珠代はしっかりと頷いた。「入江さんのいう通りにするわ。今後は何でも言って。彼女が私を家に入れてくれるなら、私は何だってするわ」「戻らせてもらうのではなく、彼女に自発的にあんたを迎えにこさせるのよ」紀美子は笑みを浮かべながら訂正した。珠代は戸惑い、随分時間が経ってからやっと悟ったようだ。「分かったわ、入江さん。それを私がしっかりできれば、私が頼れるお義母さんだと思ってくれるようになるわね」「もしあんたが広い人脈があって、その上にお金もしっかりと稼いでいるとしれば、彼女は絶対見直してくれるわ。珠代さん、私についてきて。こんなことすぐに解決してあげるわ」珠代は力を入れて頷いた。「ありがとう、入江さん、これからはよろしくね!」珠代が帰ってから、紀美子は暫くドアをじっと見つめた。珠代は厳しい外見をしているが、意外と頼れるところがある。やはり人は見た目によらず、か。紀美子は笑って自嘲した。そうだよね、塚原悟だってそうだったじゃない?……夜7時。エリーは空港まで加藤藍子を迎えに出向いた。2人が車に乗ってから、藍子は手に持っ
エリーは不快そうに眉を顰めた。「影山さんが高い報酬を払ってあんたを雇ってるんだから、相応なリスクは負ってもらうわ」そう言って、エリーは振り向いてその場を離れた。沼木珠代は離れていくエリーの後ろ姿を見て、口をへの字に曲げた。やはり彼らは自分を道具としてしか思っていない!入江さんが警戒して自分の所に訪ねて来なかったら、何か起こった時自分に濡れ衣を着せられるところだった!珠代は渡された薬剤を見て、脳裏に一つの考えを思い浮かべた。30分後。珠代は紀美子に牛乳を持ってきた。ドアが開いた後、珠代はわざと声を大きく張り上げて言った。「入江さん、牛乳を持ってきましたわ」そう言って、彼女はポケットから薬剤を出し、一枚の紙切れを加えて紀美子に渡した。紀美子はそれを見て、慌てて受け取ってポケットに入れた。そして彼女は珠代に言った。「ありがとう、中で飲むから渡してくれればいい」「入江さん、このまま飲んじゃって。コップを持っていって洗うから」珠代は紀美子にアイコンタクトを送りながら言った。紀美子は理解して、すぐに牛乳を受け取って浴室に流そうとした。しかし、この時、エリーの部屋のドアが急に開いた。紀美子は横目でエリーを見て、そして眉を顰めながらイラついたふりをして牛乳を一気飲みにした。エリーは紀美子の挙動を見て、冷笑を浮かべながら部屋に戻った。紀美子は慌てて空になったコップを珠代に返した。珠代は首を振り、牛乳に何もいれていないことを示した。紀美子はやっと安心してドアを閉めた。ソファに座り直して、紀美子は紙切れと薬剤をポケットから取り出した。紙切れには珠代からの伝言があった――「入江さん、その薬剤はエリーが持ち帰ってきたものよ。そのままあなたに渡すわ。私はもう一本見た目が同じだけどただの水を入れたものを用意したの。だから私のことは心配しないで安心してください」紀美子は掌の中の薬剤を見つめた。暫く考えた後、彼女は吉田龍介とのチャットを開き、その薬剤の写真を送った。数分後、龍介からの返信が届いた。「その薬剤、暫く私に預けてくれるか?」「帝都に来ているの?」「うん、今日は昼頃MKの株主との打ち合わせがあったけど、順調に終わった。明日の午後、そちらの会社に行くから、その時に受け
入江紀美子は深く眉を顰めた。「龍介さん、彼ら2人を挑発して仲たがいをさせるとでもいうの?」「そうだ」吉田龍介は真顔で言った。「私は、塚原が君に手を出していないのは、まだ君に未練があるからだと思っている」「そんなのありえないわ!」紀美子はきっぱりと否定した。龍介は紀美子を見て、無力そうにため息をついた。「ならば彼が君を残しているのは何の為だ?」「私を殺したら、世論が彼に対して否定的になるからじゃない?」龍介は首を振った。「君は考えたことないか?晋太郎のこともあるが、塚原は君の死を事故によるものに装うことだってできる。そうすれば彼に全く影響はない」紀美子はぼんやりと放心状態になった。彼女は随分の間考え込んでから呟いた。「つまり、彼がまだ私を殺していないのは、まだ私に未練があるから?」「それ以外思い当たる理由はない」龍介は言った。「如何せん今の君は彼にとって、もう利用価値はないのだから」紀美子は段々と拳を握りしめた。塚原悟が自分にまだ未練がある可能性を考えると、彼女は激しく吐き気がした。これまでは彼をただ憎んでいた。しかし今となってはもう、気持ち悪さ以外何も残っていなかった!殺人鬼に未練を持たれるなんて、誰でも気持ち悪さ以外感じないだろう!紀美子は歯を食いしばりながら深呼吸をした。「分かった、龍介さん。頭に入れておくわ」「君から何回か彼を招き入れれば、その事実を察することができるはずだ」龍介は言った。「立ち向かわなければならん」紀美子は爪を掌に刺して、険しい表情になった。「彼の顔を見るたびに、殺された大事な人達のことを思い出すの!彼を殺してしまいたい!彼に死んでもらいたい!!」龍介は紀美子の眼差しを見て、心底に悔しさが募った。彼は思わず彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、どうにか我慢できた。「紀美子、困難に立ち向かうこと以外、問題を解決する方法はない」紀美子は唇を噛みしめて頷いた。「龍介さん、注意してくれてありがとう」そして彼女は深呼吸をしてから、例の薬剤を出してテーブルの上に置いた。「この薬剤を預けるわ」紀美子は言った。龍介は薬剤を手に取り、一目見てから握った。「分かった、後で連絡する」「龍介さん、今MK社の方は
「ゆみ、十分凄いよ。まだ始めたばかりなのにここまで上手く描けるなんて」森川念江は妹を褒めた。入江佑樹は念江を見て、「ちょっと甘やかし過ぎていないか」と注意した。「ゆみは自発的に努力しているんだから、褒めてあげるべきだ」念江は説明した。佑樹は口をへの字に曲げた。「それにしてもちょっとやりすぎだよ」すぐ、ゆみからの返信があった。「ちょっと!随分の間会っていないのに、お兄ちゃんは相変わらず冷やかししか言わないのね!!お兄ちゃんのバカ!お兄ちゃん大嫌い!やっぱり念江お兄ちゃんの方が優しい。念江お兄ちゃんとお母さんに会いたいよ」佑樹はメッセージを読んで暗い顔になった。「僕が悪いのか?」「お兄ちゃんはゆみをからかうから!フンッ!」憂鬱になりかけた佑樹は、携帯をタップしてさらにメッセージを送った。「やっぱり君と会話して損した!」「なら黙っててちょうだいよ!」二人がまた兄妹喧嘩を始めたのを見て、入江紀美子の先ほどまでのイラつきは殆ど吹き飛ばされた。「はいはい、喧嘩はやめて。ゆみ、凄いわ。お母さん、ゆみが描いた呪符を受け取れるのを楽しみにしてる」「お母さんも、甘やかし過ぎないで!あんな呪符、怖くて付けられないよ!」「もう!お兄ちゃん、うるさい!!」そしてすぐ、ゆみは悔しい顔のスタンプを貼った。「お母さん、ゆみは頑張ってるよ。掌もみなしさんのお仕置きで腫れてるんだから……」ゆみは赤く腫れたちいさな掌の写真を撮り、グループチャットにあげた。紀美子は心が痛んだが、みなしさんが、ゆみに早く成長してもらいたくてそうしているのが分かっていた。この前もみなしさんに、ゆみの体質は不潔なモノを惹きつけやすいと言われたばかりだった。「今度お母さんが揉んであげるから。ゆみは本当に頑張ってるのね」紀美子は娘を慰めた。「お母さん、会いたいよ……」「もう赤ちゃんじゃないんだから」佑樹はすかさずまた妹にツッコミを入れた。佑樹の発言を見て、念江は目元が赤く染まった彼を見た。「佑樹くんもゆみのことを心配してるじゃないか」佑樹はフンと鼻を鳴らした。「そんなことない!」念江は口元に笑みを浮かべた。「ゆみ、戻ってきたらお兄ちゃんが美味しいものを奢ってあげるから」「ありがとう、念江お兄ち
「なに?」ゆみは頭を傾けて言った。「誰かと約束したのに、まだ果たしていないことがあるんじゃないか?」小林は微笑んで尋ねた。「誰かと約束?そんなのないよ?ゆみはまだ一人前じゃないのに、軽々しく約束なんてできないもん」ゆみはじっくり考えてから言った。「もう一度よく考えてごらん。誰かと何か約束をしていないか。人とではなく、霊とだ」小林はヒントを与えた。「霊?」自分はいつ霊などと約束したんだろうか?ゆみはますます分からなくなった。「まあ、急がなくともよい。じっくりと考えて、思い出したら帝都に行くといい」小林はにっこり笑いながらゆみの頭を撫でた。小林のこの言葉のせいで、ゆみは一晩中寝返りを打ち、なかなか眠れなかった。彼女はぱっちりした目で窓の外の明るい三日月を見つめ、「いったい誰と約束したんだろう」と考え込んでいたが、いつの間にか夢の中へ落ちていった。夢の中では、一匹の美しい白い狐がゆみの周りをぐるぐると回っていた。ゆみが嬉しくなって追いかけていくと、突然、足が引っ掛かって地面に転んだ。痛いと言う間もなく、誰かが優しく彼女の腕をそっと掴んだ。ゆみが顔を上げると、目の前に長い巻き毛の女性が腰を屈めていた。顔はぼんやりとしていてよく見えなかったが、その雰囲気は、どこか母と似ていた。「あなたは、だあれ?」ゆみは彼女を見つめながら尋ねた。女性は何も言わず、ゆみをゆっくりと起こした。ゆみは立ち上がって女性の顔をじっくりと眺めたが、彼女が誰なのかは全く分からなかった。霧のようなものが自分の視界を遮っているのだが、女性も自分の顔を見せまいとわざと顔を伏せているようだった。女性は、ゆみの足の埃を払うと立ち上がった。すると、その姿は徐々に透明になっていった。ゆみは慌てて掴もうとしたが、何も掴めなかった。「ねえ、あなたは、だれ?どうして何も言わずに行っちゃうの??」女性の姿が消えた瞬間、優しい声がゆみの耳元に届いた。「送りに来てくれるのを待っているわ」その声が消えると同時に、ゆみはパッと目を開け、小さな体を起こした。窓の外には、すでに夜明けの光が差し始めていた。ゆみの頭はまだぼんやりしていて、夢の中の女性の声と姿が頭から離れなかった。「なんか知ってる人みたい……
「そうだ」翔太は言った。「こういう時は、信頼している誰かの一言がスッと心に響くものだ」晋太郎は黙って目を伏せ、翔太の言葉を頭の中で繰り返し考え込んだ。食事会が終わり、晋太郎は車に戻った。しばらく考えた後、彼は小林に電話をかけた。電話がつながった途端、ゆみの声が聞こえてきた。「お父さん?」ゆみの甘えた声が晋太郎の耳に届いた。「ゆみ、ご飯は食べたか?」晋太郎の整った唇が自然と緩んだ。「食べたよ!」ゆみは笑いながら答えた。「お父さんは小林おじいちゃんに用事?おじいちゃんは今、お線香あげててお仕事中だけど、すぐ戻るよ」「そうか。ところで、ゆみは最近どうだ?」「まだ帰ってきたばかりじゃん!」ゆみは頬を膨らませ、不満そうに言った。「お父さんは何してたの?記憶力悪すぎ!」「少し頭を悩ませる問題があったんだ」晋太郎は軽く笑いながら言った。「えっ?何なに?ゆみ先生が分析してあげるよ!たったの100円で!」ゆみは楽しそうに言った。「お母さんがお父さんと結婚したくないみたいけど、ゆみはどう思う?お父さんはどうすればいい?」晋太郎の目には優しさが溢れていた。「えーっ?」ゆみは驚きのあまり思わず叫んだ。「お母さんはどうして結婚したくないって?どうしてきれいなお嫁さんになりたくないの?」「ゆみはなぜだと思う?」晋太郎は逆に尋ねた。「お父さん、浮気でもしたの??」ゆみは小さな眉を寄せ、真剣に考えた。「お父さんがそんなことをすると思うか?」晋太郎の端正な顔が一瞬こわばった。「だって、したことあるじゃん……」ゆみは小さく呟いた。「……それは違う」「じゃあ、お母さんはお父さんを愛してないのかな?」晋太郎の目尻がピクッと動いた。「あっ、わかった!お父さんは年を取ったから、お母さんは他の若いイケメンが好きになっちゃったんだ!あーもう、お父さん、お母さんが他の人を好きになっても仕方ないじゃん。お父さんはゆみのお父さんであることに変わりはないでしょ?女の人の気持ちに、一切口出ししないでよ!」晋太郎の顔は一瞬で真っ赤になった。「もう、いい!これ以上当てなくていい!」晋太郎は思わず遮った。ゆみは本当に自分の娘なのだろうか。ちっとも自分の味方にな
晋太郎は何も言わないまま指で机を叩き、この件をどう対処すべきか決めかねていた。「今焦っても仕方ないよ。はぁ……こんなに苦難を乗り越えてきたのに、紀美子が問題で結婚できないかもしれないなんて」晴は嘆いた。「開けない夜はい。今はただタイミングが合わないだけだ」晋太郎は低い声で言った。「どういう意味だ?」晴は理解できなかった。「何事も始めるのにはきっかけが必要だ。今はそのきっかけがまだできていないだけ。彼女が今結婚したくないのに、無理強いするつもりはない」「いやいや」晴は言った。「結局、結婚するのか?しないのか?お前らの結婚を待ってる人間もいるんだぞ!!」「待つ」晋太郎は唇を緩めた。「……」晴は黙って考えた。つまり、自分の結婚式も延期になるってことだ。夕方、晋太郎は翔太とレストランで会う約束をした。「晋太郎、久しぶりだな」到着すると、翔太は疲れた表情で彼の前に座った。「最近忙しいのか?渡辺グループは今は安定しているはずだが」晋太郎は眉を上げて彼を見つめ、お茶を一口飲んで言った。「会社の問題じゃない」翔太は苦々しい表情で首を振った。「で、用件は?」「紀美子のことだ。彼女は心的外傷に加え、ストレス障害があるかもしれないんだ」晋太郎は言った。「大体予想はつくが、あんたが紀美子と結婚しようとして、断られたんだろう?」晋太郎の言葉を聞いて、翔太はしばらく黙ってから尋ねた。「ああ」晋太郎は湯呑みを置いた。「あんたが俺の立場だったら、どうやって彼女を説得するか聞きたい」「俺なら説得しないな」翔太は晋太郎の目を見て、真剣に言った。「彼女が出した決断を尊重する。あんたの話からすると、紀美子は婚約のことでトラウマがあり、抵抗しているんだろう?なぜ無理にストレスに直面させようとするんだ?」晋太郎は翔太に相談を持ち出したことが間違いだったと感じた。佑樹と念江が妹を甘やかしているのは、完全にこの叔父から受け継いた性格なのかもしれないとさえ思った。「つまり、あんたは彼女が結婚せずに俺と一緒にいることも許すのか?」晋太郎の表情は曇った。「お互いに愛しあっているのに、なぜいけないんだ?」翔太は言った。「あんたには今、親からのプレッシャーもないだろ
「MKの全株式を私に移すって言い出したの。TycをMKの子会社にしたくないって私が言ったから」「それ、最高じゃない!?」佳世子は興奮して声を弾ませた。「そこまでしてくれる男、帝都中探したって他にいないわよ!」紀美子は首を振った。「だからこそ、結婚したくないの。せっかく彼が一から築き上げた帝国が、結婚相手の私のものになるなんて……」「あなたの考え方、ちょっと理解できないな。彼の愛の証なのに、どうして負担に感じるの?」紀美子は軽くため息をついた。「私が求めているのはそういうことじゃない。彼には彼の生き方、私には私の生き方がある。結婚したからって、どちらかがもう一方の附属品になる必要なんてないでしょ?それぞれ自分の事業に集中するのがいいと思わない?」「本当に自立してるわね。じゃあ聞くけど、妊娠したらどうするの?」紀美子は遠い目をした。「それは……まだ考えたことないわ」「その時は、全部晋太郎に任せてもいいんじゃない?のんびりしたお金持ちの奥様になって、好きなことしたら?」「嫌よ!」紀美子はきっぱり拒否した。「何もしないで食べて寝てばかりのダメ人間にはなりたくないわ」佳世子は眉を上げ、からかうように紀美子の腕をつついた。「自分がダメ人間になるのは嫌なくせに、あの時は佑樹と念江を外に出したがらなかったじゃない」紀美子は佳世子を見つめて言った。「それは別の問題でしょ」佳世子は紀美子に腕を絡めながら言った。「紀美子、無理に勧めるつもりはないけど、あなたがここまで苦労してきたのは、結局晋太郎と結婚するためじゃなかったの?今やっと実現しようとしてるのに、どうして後ろ向きになるの?『附属品』なんて言い訳はやめて、本当の気持ちに向き合って。彼と一緒にいたいのかどうか」「……いやなら、同棲なんてしてないわ」紀美子は目を伏せた。「紀美子、あなた、言い訳ばかりしてるって気づいてないの?」佳世子はため息をついた。「前は晋太郎の記憶が戻ってないからって逃げてたし、今度は会社の問題って。本当に向き合うべきなのは、あなた自身じゃない?それとも……怖いの?」紀美子は一瞬ぽかんとしたが、慌てて答えた。「……怖がってなんかいないわ」佳世子は彼女の表情の変化を鋭く見据えた。「違う。あなたは怖が
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。