今日は、ちょうど展覧会に足を運ぶ予定の日だった。明日香はそれを忘れず、朝早く起きて身支度を整えた。白のカシミアコートに、黒のニットロングスカート。その下にはフリース素材のタイツを履いている。空は一面の曇り空で、気温は零度。肌を刺すような冷気が頬をなでていた。最近の帝都の天気はまるでジェットコースターのように目まぐるしく変わり、別荘の花壇には霜が降りていた。つい昨日まで緑色をしていた楓の葉が、一晩で鮮やかな紅に染まっている。白く降りた霜を目にした瞬間、明日香は身震いした。顔をマフラーにうずめると、吐息で頬がほんのり赤くなる。今日は、雪が降るかもしれない。タクシーが到着すると、明日香は小走りでドアに向かい、すばやく乗り込んだ。人を待たせるのが嫌いな明日香は、集合時間より三十分も早く家を出た。その甲斐あってか、会場に到着した頃にはすでに入場口前に長蛇の列ができていた。人々は手にチケットを握りしめ、開場の時を静かに待っていた。明日香が到着してからまだ十分も経たぬうちに、一台の高級車が滑るように到着した。車の中から樹は、窓越しに階段の上を見やった。そこには白い服を着た明日香が、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている姿があった。樹の口元が自然と緩んだ。「ここで降りるよ」「かしこまりました」もう一枚、靴下を履いてくればよかった。足が、少し冷える。「明日香さん......」背後から聞き覚えのある声がして、振り返ると田中が車椅子を押して、少年と共に立っていた。「待たせてごめんね」と、樹が微笑んで言った。「いいえ、私もさっき着いたばかりなの。それじゃあ、中へ入りましょう」その時、田中が彼女を呼び止めた。「明日香さん、私どもは中には入りません。若様のお世話をお願いできますか?」東条は気を利かせ、電話がかかってきたふりをしてその場を離れた。田中もまた、静かに背を向けて去っていった。残されたのは、樹ひとり。「迷惑をかけるよ」「大丈夫よ。それに、そんな薄着で本当に平気?今日は雪が降るかもしれないって言ってたのよ?手、冷たくない?」明日香は心配そうな顔で、まるでお節介を焼くように彼の手に触れた。指先はまるで氷のように冷たかった。「手袋をしてないと思って、予備を持ってきたの」そう言ってバッグから取り出し
あの二人は、たしかに愛し合っていた。前世の珠子を死へと追いやったのは、他でもない、明日香だった。そのせいで、遼一に憎まれることにもなった。すべては、自業自得。すべて、自分のせいだった。明日香は、すっかり眠気が覚めていた。車窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めながら、吹き込んでくる風に肩を震わせ、しっかりとコートの前を合わせた。時の流れは早い。気がつけば半年以上が過ぎ、正月まで残すところ一ヶ月あまり。運転手がルームミラー越しに彼女を一瞥し、無言で窓のボタンを押して閉めた。三十分後、南苑の別荘に到着した。建物の前に立つと、漆黒の闇に沈んだその屋敷には、一つの明かりも灯っていなかった。街灯のかすかな明かりの下、数匹の虫が弱々しく飛び回っている。かつてなら、どんなに遅く帰っても、必ず誰かが灯りを残して待っていてくれたものだ。明日香の好物である、温かい麺を作ってくれていた。今は、明日香を待つ人など、どこにもいない。時折、明日香は思う。この世界に自分ひとりだけが取り残されてしまったような、そんな孤独を。けれど幸いなことに、こうした状況にも、もうすっかり慣れてしまっていた。手を擦り合わせて息を吹きかけると、鞄から鍵を取り出し、冷えきった家の扉を開けた。ここ数日、明日香は「食べる」「眠る」「鍛える」という単調なサイクルを、ただ淡々と繰り返す日々を送っていた。帰宅は毎晩遅く、康生と顔を合わせることもめったになくなった。聞くところによれば、彼は江口と共に南国でバカンスを楽しんでいるらしい。遼一も、今は海外出張中だ。明日香が家に戻るのは、いつも夜の十時ごろ。気がつけば、今の生活ペースにもすっかり馴染み、以前は苦手だったダンスも、いまではすんなり腰を落とせるようになり、開脚も自由自在にこなせるようになった。恋愛なんて、結局、何の役にも立たない。勉強や稽古に支障をきたすだけのものだ。稽古を終えれば、次に待っているのは試合、あるいは資格試験。やるべきことは山のようにあり、帝雲学院の中間模試にさえ出席していない。そのとき、学校から電話がかかってきた。芳江がちょうど掃除中で、手を止めて受話器を取った。「もしもし、どちらさんですかね?」「月島明日香さんはいらっしゃいますか?」「私に代わります!」ちょうど
遼一は珠子の体を抱き上げ、助手席にそっと座らせた。そしてシートベルトを締めた。ウェイターが気を利かせて、彼女のバッグも手渡してくれた。「お客様、このお嬢さん、彼女さんですか?一人でずいぶん飲んでらして、危うく痴漢に絡まれるところでしたよ。こんなに可愛い彼女さんなら、今後は一人で出歩かせない方がいいですよ」遼一は無言のまま財布から千円札を数枚取り出し、チップとして差し出した。感謝の言葉はなく、静かに車の前に回り込むと、運転席に乗り込み、エンジンをかけてそのまま車を発進させた。目的地は高級マンション「ガーデンレジデンス」。到着すると、遼一は車から降り、腕時計に目をやった。まだ約一時間の余裕がある。珠子を支えながら車から降ろすと、彼女はふらつく足取りのまま、遼一の胸に身を預けるように倒れ込んだ。「帰りたくない......まだ飲みたいの......」「珠子、騒ぐな。明日は学校があるだろう」その瞬間、珠子のどこにそんな力があったのか、突如として遼一を強く突き飛ばした。よろけた彼女は数歩後退し、今にも転びそうなほどだった。遼一は深いまなざしで彼女を見つめた。「珠子、今日......何かあったのか?」珠子はかぶりを振ると、涙で潤んだ瞳を彼に向けて見上げた。「私......海外から帰ってこなければよかったのかな......ううん、最初から助けられなければよかった......そうすれば、こんなに苦しまなくて済んだのに。どうして......どこに行っても、誰も私のことを好きになってくれないの?遼一さん、私のどこがいけないの?私って......足手まといで、何一つあなたの役に立てない」泣きじゃくりながら、珠子は両手で顔を覆った。涙は止まる気配もなかった。「お前は、何もする必要なんてない。他人の目を気にすることもない。ただ、自分が正しいと思えることをやればいい。珠子、お前はまだ子供だ。あの子が持っているものは俺が与える。あの子が持っていないものも、俺が与える。もう二度と、お前を一人にはさせない」「遼一さん......」珠子は抑えきれない感情のまま、彼の胸に飛び込んだ。「今の私には、あなただけなの。これからも、私を捨てないでね?もしあなたまでいなくなったら、珠子には、もう誰もいなくなっちゃう......」遼一はそっと彼女を抱
「ごめんなさい......感情のコントロールが、どうしても苦手で」冷ややかな視線は一瞬で消え、珠子は無垢な表情を浮かべて静香に謝った。「本当に、ごめんなさい。わざときついことを言ったわけじゃないの。ただ、いま私たち、一緒に住んでいないから。明日香にはきちんと伝えておくわ。だから、気にしないで」静香は訝しげな眼差しを向けた。最初に抱いた珠子への好感は、すでに跡形もなく消え失せていた。感情のコントロールが苦手。聞こえはいいが、ただの言い訳に過ぎない。結局は、演技を続けられなくなっただけではないか。クラスに来たばかりの頃は、誰にでも優しく、どこか儚げで、周囲の保護欲を巧みにくすぐっていたのに。静香が去った後、個室には誰一人残っていなかった。先ほどまでの賑わいはすっかり静まり返り、まるで何事もなかったかのようだった。最初はうまくいっていた。なのに、珠子にも、なぜこんなことになってしまったのか、わからなかった。「天下一」を出た後、明日香はピアノと書道を習い始め、最後にはダンスのレッスンにも手を伸ばした。運動神経に恵まれない明日香だったが、天は彼女に驚くほど柔らかな身体を与えていた。だが、どうしてもリズムに乗れず、鏡に映る自分の姿はまるで妖怪のように見えた。それでも一番の苦痛はストレッチだった。三ヶ月ぶりの練習、夜八時半過ぎにスタジオを出るころには、明日香は床に崩れ落ち、救急車を呼ぶか、その場で一夜を明かすか、本気で迷ったほどだ。加藤が珠子を迎えに行っていたため、明日香は仕方なくタクシーで帰宅することになった。分厚い黒いコートに身を包み、ポケットに手を突っ込み、目を閉じてシートにもたれかかると、すぐに浅い眠りに落ちた。「お客様、行き先をまだおっしゃってませんよ!お客様......」運転手の声に、明日香はまどろみの中、窓にもたれたまま答えた。「南苑の別荘まで......」株式会社スカイブルー社内。「遼一社長、マンチェスター行きビジネスクラスのチケット、出発一時間半前の便で手配済みです。あと三十分で出発可能です」中村は必要な資料をすべて整えていた。遼一は、いつも会社で最後まで残る人物だった。マンチェスターとの時差を考慮し、この時間に出発する必要があったのだ。遼一は最後のメールを送り終えると、即座にパソコンの
「こんなに長い間会ってなかったけど、元気そうだな!」淳也は手にした金属製のライターを弄びながら、ふと顔を上げた。下から見上げるような視線の奥で、赤と青の炎が黒い瞳に揺れ、そこに感情の色は読み取れなかった。エレベーターはすでに12階にあり、間もなく到着した。平井が降下ボタンを押した。「知り合い?」「別に」明日香は目を伏せたまま、平井のあとについてエレベーターへと足を踏み入れた。「淳也、明日香はお前のこと、完全に無視してるぞ」哲は腹を抱えて笑った。悠真は淳也の肩を軽く叩くと、何も言わずに笑いながら個室へと入っていく。淳也は不遜な笑みを浮かべながら、手の中のライターの蓋を音を立てて閉じた。「恩知らずめ」そう呟くと、唇の端にかすかな皮肉を残したまま、その場を離れた。十階の個室は賑やかそのもので、笑い声が絶えず響いていた。花火、風船、ケーキにろうそく。本来なら、この誕生日パーティーは夜に開かれる予定だった。だが、遼一は今夜、海外市場開拓のために出発せねばならず、深夜十二時前に空港へ向かう関係で、誕生日の祝いはやむなく昼に繰り上げられたのだった。バースデーソングが終わると、珠子は最初の一切れのケーキを切り分け、皆の視線を背に受けながら窓辺に立つ遼一のもとへと運んでいった。「遼一さん、最初の一切れをあなたに。お忙しい中、私の誕生日のために時間を割いてくれてありがとう」遼一はもともと甘い物が苦手だったが、それでも黙って受け取った。視線はそのまま外に向けられ、車に乗り込む明日香の姿をじっと見つめていた。やがて無表情のまま顔を戻し、目元にわずかな苛立ちを滲ませた。「夜は加藤に送ってもらう。俺は会社に戻る」鍵を手にするとそのまま立ち上がり、テーブルの上に置かれたケーキには目もくれず、部屋を出ようとした。「遼一さん......」珠子が呼び止めるも、彼の足は止まらない。テーブルに残されたケーキを見つめ、彼女の目には明らかな落胆の色が浮かんだ。すぐに女の子たちが駆け寄って慰めの言葉をかけたが、珠子は静かに二切れ目のケーキを切り、今度は淳也へと差し出した。ソファにふんぞり返っていた彼は、まさに典型的な放蕩息子のような態度で、足をテーブルの上に投げ出していた。しかし人の気配を感じると足を下ろし、フォークを手にしてケ
「お兄さん......」明日香はまだ何か言いかけたが、遼一は冷ややかに「勝手にしろ」と吐き捨てるように言った。そう言い残すと、彼は踵を返し、振り返ることなくその場を去っていった。平井は、明日香のこわばった表情に気づき、優しく声をかけた。「座ったらいいよ。まだ時間はあるし、ここからそんなに遠くないからさ」明日香は少し居心地悪そうにしながらも席についた。そこへ、ウェイターがデザートを運んできた。平井は、先ほどのやり取りから何か不穏な空気を感じ取っていたが、それについては何も言わず、代わりに別の話題を振った。彼は天下一の施設をひとつひとつ紹介し、面白い話も織り交ぜながら、明日香を楽しませようと努めた。喜怒哀楽がすぐ顔に出る人がいるが、明日香はまさにそのタイプだった。彼女の心中がどう動いているのかは、表情を見ればすぐにわかってしまう。珠子の誕生日には、多くのクラスメイトが招待されていた。だが、珠子は明日香に、同じ学校へ転校してきたことだけでなく、もうひとつ大事なことをまだ伝えていなかった。それは――珠子もまた、明日香と同じ6組に転入していた、という事実だった。当然、淳也たちもその場にいた。珠子は女子たちに囲まれながら笑い声を上げ、楽しげに個室へと入っていった。その際、窓際の目立つ席に座り、年配の男性と楽しそうに話している明日香の存在には、まったく気づいていなかった。そのあとからゆっくりと歩いてきた淳也は、一目で明日香の姿を見つけた。久々に見る明日香の姿に、悠真と哲も意外そうな表情を浮かべた。「よりにもよって、一番会いたくない奴が来るとはな......」と哲が吐き捨てるように言った。ていうか、あいつって珠子の妹だよな?なんで誕生日パーティーに呼ばれてないんだ?まあ......あの性格じゃ、誰からも好かれないのも無理ないけど」「いや......そういや、普段は全然気にしてなかったけど、明日香って今回の試験でクラス1位だったんだよな。1組の中でもトップ5だって。あいつ、まさかチートでもしたんじゃないのか?」哲は淡々と呟くように言った。「忘れたとは言わせないぞ。明日香が6組でどれだけいじめられてたか。いい成績を取って、クラスを変えたくなるのも、まあ、理解はできる」二人の視線が同時に淳也に向けられた。