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第244話

Author: 無敵で一番カッコいい
どれだけの人があの言葉を聞いていたのかは分からない。けれど、明日香にとってはどうでもいいことだった。

淳也がどんな人生を歩んできたのか、すべてを理解しているわけではない。でも、今この瞬間、自分がどちらの側に立つべきかははっきりしていた。

命を懸けて助けてくれた人が、目の前であんなふうに殴られた。それも、多くの人の前で。

淳也は、いつだって誇り高い人だったのに。

明日香は素早く本を鞄にしまい、淳也の手を取って図書館を出た。背後から遥の叫び声が響いていたが、二人とも振り返ることはなかった。

「......騒ぎは、もう終わったか?」

遼一の声が低く響いた瞬間、図書館の空気が凍りついた。彼の目に宿る冷気が、辺りのぬるい空気を一瞬で締め上げていく。その気配に、遥は理由もなく恐怖を感じた。

こんな遼一は、今まで見たことがなかった。

「な、何......?どういう意味......?」

返事はなかった。遼一は無言のまま、速足で図書館を後にした。

遥は慌てて追いすがり、小走りでようやく彼の横に並んだ。車に乗り込むその姿を見て、置いていかれるのが怖くて、彼女も慌てて助手席に滑り込んだ。

シートベルトを締めた後、遼一はしばらくエンジンもかけず、俯いたまま何かを考えていた。

「私は...... あなたのために、明日香を連れ戻すために来たのよ。うまくいかなかったからって、私に当たらないでよ......」

遥の声には苛立ちと悔しさが滲んでいた。こんなに低姿勢な物言いは、彼女にしては珍しい。それほどまでに、遼一の前では感情の制御がうまくできなくなるのだった。

「ねえ......さっき明日香が言ってたこと、あれって......全部本当なの?」

視線をそっと横にやると、遼一の整った横顔が、沈黙の中に浮かんでいた。

「......答えが、欲しいのか?」

突然、彼がこちらを見た。

目が合った瞬間、遥の心臓が跳ねた。

彼の低い声の響きに一瞬で呑まれ、鼓動が乱れるのを感じた。慌てて首を振り、目を逸らした。

「ううん......知りたくない。あなたの家のことだし、私には関係ないわ。もう遅いし、送って。すごく眠いの......」

そう言ってあくびを隠すように口元を手で覆ったが、その目には一瞬、複雑な色がよぎっていた。

帰宅した明日香は、冷蔵庫から卵を取り出し、茹でてか
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