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第300話

Author: 無敵で一番カッコいい
「遼一さん!」

張り詰めた空気の中、廊下から聞こえたのは珠子の声だった。次の瞬間、彼女の姿がドアの前に現れた。

遼一は顔を上げ、淡々と問うた。

「何か用か?」

「おじさんが、書斎に来るようにって」

「わかった」

その返事を聞いた瞬間、明日香は思わず胸を撫で下ろした。

助かった。

遼一と珠子が部屋を出ていくのを見届けると、明日香はすぐさま立ち上がり、ドアを閉めて内側から鍵をかけた。

その頃、書斎では。

康生が三本の線香に火をつけ、額の前に掲げて静かに手を合わせていた。煙がゆるやかに立ち上る中、香炉にそれを挿すと、彼は振り返って遼一に目を向けた。

「俺が不在の間、会社でいろいろあったようだな......何か言いたいことは?」

「桃源村での件は、俺の不手際です。明日香を守れませんでした。どんな処分でも受けます」

遼一は深く頭を垂れ、声に一切の弁明を許さなかった。

「黒幕は、誰だ?」

「加藤三郎(かとうさぶろう)の手下です。二年前、彼の縄張り拡大を妨害してムショ送りにした男です。出所後、明日香を標的にしたようです」

康生の目が細められ、低く吐き捨てるように言った。

「なら、同じ手口でもう一度ブチ込め。必要とあらば、藤崎家にやつの存在を知らせても構わん。奴らに後始末をさせろ、我々の手を汚すまでもない」

「......承知しました」

康生は灰皿の煙を見つめながら、さらに重々しく言葉を継いだ。

「帝都で地盤を固めるのは簡単じゃない。明日香を守り、できれば藤崎家に嫁がせろ。それが叶えば、お前が俺の後を継ぐ時に、誰にも文句は言わせん」

「はい......お父さん」

その瞳に、一瞬だけ鋭い光が走った。

「明日香だけではなく、お前自身のことも忘れるな......桜庭家との縁談は、急げ」

「順調に進んでおります。ご心配なく」

「それならよい......もう行け」

「はい」

背を向ける寸前、康生は冷ややかに付け加えた。

「女遊びは好きにしろ。ただし、大事を壊さないように」

書斎のドアを開けた瞬間、遼一はすぐそばで気配を殺していた珠子の存在に気づいた。

眉をひそめると、無言で彼女の手首を掴み、引きずるように二階のバルコニーへと連れていった。

「......書斎の前で立ち聞きとは、何様のつもりだ?父さんに気づかれないとでも?」

珠子
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