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第350話

Author: 無敵で一番カッコいい
そう、確かに風邪くらいでは死なない。

でも、あの夜。もし翌朝、使用人が明日香の40度を超える高熱に気づかなかったら、遼一はおそらく医者を呼ぶことすらしなかっただろう。

それ以来、明日香は痛風を患い、毎日欠かさず滋養強壮剤を飲まなければならなくなった。

「薬は三分の毒」と言うように、長年にわたる病との付き合いは、彼女の身体を確実に蝕んでいった。

そうか。自分は、ずっと一人だったわけじゃなかったんだ。本気で心配してくれる人も、ちゃんといたんだ。

翌朝。明日香は、案の定寝坊した。

また早朝の自習に遅れたら、今度こそ渡辺先生に呼び出されるかもしれない。明日は絶対に遅刻しないと、心に誓いながら食卓に着いた。

「明日香さん、若様はご一緒に降りてこられないのですか?」と使用人が尋ねた。

蜂蜜入りの薬を飲みながら、明日香はわずかに眉をひそめた。

「え、まだ起きてないの?」

「はい。まだお部屋からお出になっていません」

「じゃあ、私が呼んでくるね」

ちょうど食事を終えたところだったので、彼女は席を立ち、二階へ向かった。

二階に上がると、樹の部屋のドアがわずかに開いていた。明日香が控えめにノックすると、扉は静かに押し開かれた。

その光景に、一瞬息を飲む。

部屋の中には、上半身裸の樹の姿。鍛え上げられた引き締まった体が露わになり、手の甲から首にかけて、複雑な模様の刺青が浮かんでいた。

それは動物でも文字でもない、見たことのない奇妙な文様だった。

明日香は思わず視線を逸らした。

だが、その気配に気づいた樹は、ベッドの上のシャツをさっと手に取り、ボタンを留めながら尋ねた。

「遅刻するの、気にならないの?」

「今日はどうしてこんなに遅いの?」

「これから、海市に一週間の出張なんだ」

樹は数歩、彼女に近づいた。

「僕がいない間、田中に薬を時間どおり飲むよう、しっかり見張らせておくから」

「それじゃ、出張の荷物、私がまとめるの手伝ってもいい?」

たくさん助けてもらってばかりの彼に、今度は自分から何かしたかった。

「もちろん。嬉しいよ」

もう遅刻は確定しているのだから、今さら数分遅れても同じだった。明日香にとって、荷造りは慣れた作業だった。スーツケースのファスナーを閉めて立ち上がった瞬間、後ろから、彼の両腕が腰に回された。

「ど、どうしたの?」
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Comments (2)
goodnovel comment avatar
朋子
彼氏も頭いいんから教えてもらえよ。 何様や?
goodnovel comment avatar
朋子
休んだ間の授業のノートは親切でやったんたやうの? 借りてもいいって上から目線やし、貸すって一言も言ってないよ?
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