明日香は、四角いタイルが敷き詰められた道に足を踏み入れた。雪はもうすっかり溶けていた。冷たい風が頬を打ち、彼女は思わずまた咳き込んだ。図書館に入り、いつもの席に腰を下ろした。いまの明日香にとって、帝都大学に合格して海外交換留学の資格を手に入れることだけが、唯一の望みだった。もしかしたら、そんな彼女の努力を見て、康生も少しは考えを変えてくれるかもしれない。娘は政略結婚の道具じゃない。月島家を支えることも、きっとできるはずだ。大きな窓の向こうで、突然また雪が降り出した。今度は、激しく。うつむいた明日香の姿が、窓ガラスにぼんやり映る。真剣な眼差し、静かに揺れる長い髪。いくつか試験問題を解き終えたころ、空腹を感じて携帯を見ると、ちょうど食事の時間だった。そのとき、不意にメッセージが届いた。【明日香さん、プレゼントを用意したんだ。気に入ってくれるといいな】画面に浮かんだその名前に、明日香の指は止まった。彼女は遼一の忠告を忘れたことがなかった。だから、樹からのメッセージには返事をしなかった。以前の会話履歴も、すべて削除した。あの夜のことさえなければ、きっと、いい友達になれたのに。初めて会ったときに、ちゃんと彼の本当の姿に気づいていればよかった。樹は、本当にいい人だった。少なくとも、明日香はそう信じていた。彼を救ったことは、何一つ間違っていなかった。命を手放させずにすんで、本当によかった。あのとき彼を助けられたことは、明日香にとって、人生最大の幸運だった。樹は、たくさんの温もりをくれた。話し相手になってくれて、つらいときにはそばにいてくれて、美術展にも連れて行ってくれた。そして、二人だけの秘密も......けれど遼一は、狭量で陰湿で、そして残酷だ。些細なことでさえ報復し、手段も選ばない。康生と裏の仕事をしていたころ、どれだけの命を奪ってきたか分からない。目的のためなら、どんな犠牲も厭わない男だ。樹はようやく足の病気を克服したばかり。たとえ藤崎家の次期当主であっても、遼一は彼を許しはしないだろう。あの人は、決して証拠を残さない。これ以上、無関係の人が傷つくのは見たくない。だから、もう会わない方がいい。それがお互いのためだよ、樹。......さようなら。明日香は立ち上がって、軽く体を伸ばした。
「私、6組に移ることにしたわ」そう言って、明日香は淡々と立ち上がり、ウォーターサーバーのところまで歩いてお湯をくみ、薬を飲む準備をした。その一言に、教室内はざわめき始めた。あちこちから、疑いや嘲りの声が上がった。「マジ?カンニングしてまで6組に行けるなんて、どこまで持つか見ものだな。あそこ、勉強量ハンパないぞ」「だよな。クラス替えのためにここまでやるとか、必死すぎて逆に痛い」「俺だったら、そんなとこ行くぐらいなら退学するね」その言葉に静香がカッと顔を赤らめ、怒りを露わにして叫んだ。「誰がカンニングしたって?あんたら、自分の目で見たの?さっきの数学の答案、見たでしょ!明日香の答え、全部合ってたじゃない!自分ができないからって人の努力を否定するなんて、情けないにもほどがある!」数学の答案?明日香の視線が、隣の淳也の前に座る珠子へと向かう。珠子は申し訳なさそうな顔で、無垢な瞳を彼女に向けていた。明日香は何も言わず、自分の席へ戻った。どうせすぐにクラスが変わる。今さらこんなことで揉めても意味がない。静香のことはありがたく思っている。でも、明日香にとって、他人の擁護はもう必要なものじゃなかった。明日香は静かに荷物と教科書をまとめ、教室を後にした。「明日香!」珠子が立ち上がり、追いかけようとしたが、隣の生徒が小声で制した。「ほっときなよ。もうすぐ次の授業始まるし」一方、哲は机に足を乗せ、体を反らせて淳也越しに悠真の方へ口笛を吹いた。悠真がそちらに目をやると、哲は眉を上げて言った。「なあ、あいつ、マジで6組に行くのか?」「さあな。俺に聞かれても困る」悠真は肩をすくめた。「うるせぇ!」突然、淳也が怒鳴った。場の空気が凍りつき、教室は静まり返った。淳也の視線の隅には、きれいに片づけられた明日香の席が映っていた。椅子を後ろ足で蹴り飛ばし、ドアを拳で叩いて教室を出ていく。「おい淳也、どこ行くんだよ!授業始まるぞ!」哲が追おうとしたところで、悠真が腕を伸ばして止めた。「なんで止めるんだよ?」「放っておけ。余計な世話は焼くな」「は?余計な世話って......俺たち三人組じゃん。淳也がいないなら授業なんて意味ねーだろ!」悠真は静かに言った。「どうせ行っても、殴られるだけだ
こうすれば、遼一が康生に復讐しても、彼女に何かすることはないだろう。その瞬間、明日香は何かに気づいたようだった。これまで彼女は帝都を一歩も出たことがなく、ずっと遼一に籠の中の鳥のように飼われ、すでに形骸化した結婚生活に閉じ込められていた。視野も狭く、深い見識もなかった。これが、彼女にとって唯一のチャンスなのかもしれない。明日香は志望校の欄に記入し、第一志望に「帝都大学」と書いた。そして決めた。大学を卒業する前に、康生には何も告げず、海外に交換留学する。3年か、あるいは4年。それくらいの時間を経てから帰国しよう。たとえ康生が金銭的な支援を打ち切ったとしても、その頃にはきっと自立できているはずだ。あるいはその頃には、康生はもう彼女の存在すら忘れているかもしれない。あるいは康生はそのとき、すでにこの世にいないかもしれない。月島家は遼一の手に渡っている可能性だってある。いずれにしても、そのときの彼女はきっと、南のリゾート地か、あるいは北の果ての辺境で、この世のものとは思えないほど美しい夜に酔いしれていることだろう。前世で、小澤は明日香にこんな話を一度もしたことがなかった。けれど、前世で起きたことが、今世でも同じように起こるとは限らない。もしかしたら、すでに明日香の運命は変わっているのかもしれない。珠子も、もし明日香の干渉がなければ、きっと元気に生き、最終的に遼一と結ばれ、家庭を築き、子どもをもうけ、遼一の前世の苦しみを癒してくれるだろう。あと3年。我慢しよう。3年だけ頑張ればいい。前世で十数年の苦しみを乗り越えてきた明日香にとって、この3年なんて大したことではない。教室に戻ると、ちょうど45分の授業が終わる頃だった。一番後ろの席は元々空いていたが、今は淳也たちが来ていて、やたらと騒がしかった。席に座ると、明日香はすぐに自分の机に誰かの手が触れた形跡に気づいた。前の授業で使った下書きの紙が乱雑にめくられ、机の上に広げられていた。自分のいない間に、何があったのか、それは分からない。でも......もう、どうでもいい。もうすぐ明日香は別のクラスに移るのだから。これは担任との約束だった。第一志望を帝都大学にすること。さらに、今年の大学入試でトップを目指すこと。そして唯一の条件が、クラス替えだった。遼
授業が始まる直前まで、明日香は男子生徒たちに絡まれていた。やっとのことで解放されたものの、その疲労感と嫌悪感は残り、彼女は思わず心の中で呟いた。こんなことになるくらいなら、学校になんて戻ってくるんじゃなかった。自分の席に腰を下ろしたばかりのところで、明日香は副担任に呼び出され、職員室へ向かうことになった。職員室では、副担任の小澤千恵(おざわちえ)が引き出しの中を忙しなく探していた。「座ってください」その一言に促されて、明日香は傍らの椅子を引き寄せて腰を下ろした。ほどなくして、小澤は志願票を取り出し、明日香に向き直った。「こんなに長い間学校に来ないし、電話にも出ない。明日香......家で何かあったの?」小澤は1組の国語教師であり、江口が学校を辞めたあと、担任の職も引き継いだ人物だった。もともとクラスの実務の大半は、彼女が担っていた。明日香にとって、小澤の印象は悪くなかった。打算的なところがなく、誰に対しても分け隔てなく接してくれる。少なくとも江口のように、偽りの愛情や策略をもって近づいてくるような大人ではなかった。「別に、何もありません。先生、私を呼んだのは......何かご用ですか?」明日香の問いに、小澤は一枚の用紙を手渡した。「クラスのみんなはもう志願書を出してるの。前に家庭訪問したときは、ご家族の方にも会えなかったし。やっと学校に来てくれたから、まずはこれを書いてもらおうと思って。クラスでまだ出していないの、あなただけなのよ。上からも急いで出すように言われてるしね。それに......今回の中間模試の保護者会にも、お父さん、いらっしゃらなかったわね」明日香は視線を落とし、制服の裾をぎゅっと握りしめた。何と答えていいのか、言葉が見つからなかった。康生は、一度たりとも明日香のことを気にかけたことがなかった。時折、彼女は自分が本当に康生の実の娘なのか、疑ってしまうことがある。遼一への気遣いや配慮は、明日香のそれを遥かに凌いでいた。むしろ、遼一こそが康生の実の息子なのではないかと思うほどだった。「あなたの家の事情は、先生もある程度は把握してる。でもね、覚えておいてほしいの。運命は、自分で切り開くものよ。もし今の状況をただ受け入れてしまうのなら、それは本当に、もったいないと思うの。明日香さん、あなたは
久美子は下書き用紙を取り出し、ペンを手に取った。「じゃあ、見せてもらおうじゃない」曇り空の下、地面の雪はまだ溶けきっていなかった。湿った冷気が立ち込め、風が吹くたび木の葉から水滴が落ち、それが明日香の鼻先をかすめた。明日香は寒さに身をすくめ、マフラーに顔の半分を埋めた。保健室で測った体温は、37度8分。「少し熱がありますね。他に症状は?鼻水など出てますか?」「......少しだけ」「じゃあ、少しお薬出しますね。数日飲んでみてください。熱が下がらないようなら病院へ行ってください」「はい、ありがとうございます」薬の入った袋を受け取り、制服のポケットに手を突っ込んだまま、うつむき加減で廊下を歩いていると、不意に目の前に黒い影が立ちふさがった。白いスニーカーのつま先が見えた。「あ、あの......こんにちは......」顔を上げると、がっしりとした体格の男子が立っていた。髪は洗っていないのか、それとも濡れているのか、べったりと額に貼りついている。身長は180cm以上あり、太めの体型だった。「何か......用ですか?」明日香が問いかけると、彼はもじもじと視線を彷徨わせながら、間の抜けた笑みを浮かべた。「へへ......君、すっごく可愛いね。僕の彼女になってくれない?」その瞬間、隣のバスケットコートから笑い声が上がった。どこのクラスかわからない男子たちが、野次を飛ばしていた。明日香は彼の方に向き直り、なるべく穏やかな声で言った。「ごめんなさい。そろそろ試験の時期ですよね?勉強しなくていいんですか?」「大丈夫。うち、石油会社やってるから。父さん金持ちだし、大学落ちても金で入れてくれるって。へへ......彼女になってよ?欲しいもの、何でも買ってあげるよ。お菓子も毎日買うし、可愛い服もプレゼントするし......」「すみません。今は、そういう気持ちになれないんです」見た目やその間抜けな言動のせいではない。ただ、明日香には今、考えるべきことが他にあった。「クラスには可愛い子がたくさんいます。私はあなたにはふさわしくないので、他の子に当たってください」しかし男子生徒は即座に言った。「でも僕、君が好きなんだ。誰よりも、君が一番可愛い。君しか見えないよ」明日香は大きく息を吸い込んだ。本来なら怒るべ
午前は数学の授業が2コマ続いた。明日香は、ただの風邪でちょっと熱があるだけだろうと思っていた。珠子は答案用紙を預かろうと席に向かったが、そのときにはもう明日香の姿はなかった。保健室に向かったのだろう。机の上に置いた水にも、一口も手をつけた様子はなかった。珠子はぬるくなった水をさっと捨て、新しくお湯を注ぎ直した。ふと目に留まった明日香の答案用紙を手に取り、ざっと目を通した。5問ある選択問題のうち、2問が自分の答えと違っていた。最後の2問、珠子は2番目と3番目の選択肢を選んだが、明日香はどちらも「A」を選んでいた。......自分の方が間違ってるのかも?珠子は、クラスで2番の成績を誇る梅田久美子に声をかけた。彼女はクラスの委員長で、明日香が1位になる前まではずっと成績トップだった。だが、明日香が1位になったとき、その差はなんと60点以上。久美子はずっと6組への編入を目指していたが、今の成績では望みは薄い。期末試験で一気に順位を上げるしか道はなかった。大企業の令嬢で裕福な家に生まれた久美子にとって、田舎出身でいかにも「成金」らしい明日香に学力で負けていることは、我慢ならない現実だった。珠子は静かに近づき、声をかけた。「久美子さん、選択問題の最後の2問、何を選んだ?」久美子は鼻の上で眼鏡をクイッと直しながら、冷たく言った。「もう試験は終わったでしょ。今さら答え合わせしても意味ないわ。ていうか、あんた数学係じゃなかった?なんで私に聞くの?」嫌味な口調だったが、珠子はにこやかな表情を崩さず答えた。「私、ちょっと自信なくて......前回のテストも久美子さんの方が成績良かったから。言いたくなければいいの」久美子は机の上のペンをペンケースに片づけながら、あっさりと口を開いた。「4問目は何度やってもA。5問目は自信なかったから、近いと思ったBにしといたわ」「そっか......やっぱり、私の答えとは少し違うんだ。ありがとう......じゃあ、私、職員室に行ってくるね」そう言って立ち上がろうとした珠子の手にある答案用紙に、久美子が気づいた。「それ、明日香の答案?あのカンニングで1位取った子の?あんなの、将来何の役にも立たないわよ」珠子は即座に反論した。「明日香ちゃん、ちゃんと家でも努力してるよ。委員長