LOGIN男というものは、従順で気が利く女を好むものだ。遙と遼一が籍を入れてまだ日が浅く、明後日にはもう結婚式を控えている。だからこそ、遥は今、二人の関係をぎくしゃくさせたくなかった。遥が部屋を出ていくと、病室には遼一と明日香だけが残された。元々、彼と二人きりになるのが好きではない明日香にとって、その沈黙はすぐさま重苦しいものとなった。明日香の顔色は病的なまでに蒼白く、とても「転んだだけ」で済むような状態には見えない。そして遼一の視線は、まるで侵略者のように冷たく鋭い。「ここ数年、お前はあいつとずっと連絡を取っていたのか」遼一の声は厳寒の刃のようだった。「そんなこと気にするより、お義姉さんのことを気にしたら?それに、妹の私に変な真似をするのはやめてよ。世間に知れたら、私の評判が悪くなるでしょう」明日香は容赦のない口調で言い返した。遼一は眉間に皺を寄せた。「お前は、そんな言い方しかできないのか」「事実を言っただけでしょ。あなたほど気持ち悪い人、いないわ。遼一、あなたに触れられるたび、私は心の底から吐き気がするの。偽りの心配なんてしないで。私の体がどうして良くないのか、一番よく知ってるのはあなたでしょう。私がいつか死ぬことがあったとしても、それは全部あなたのせいよ」遼一は明日香の側に立ち、伸ばした手で触れようとした。「触らないで」明日香の冷えきった声に、遼一の手は宙で止まった。「明日香……俺と遥は、ただの契約結婚なんだ」その声には、ごくかすかに焦りが混じっていた。「契約だろうが何だろうが、私には関係ないわ。ただ、私のそばに来ないでほしいの。……もういい、出て行って。あなたなんか見たくない。出てって!」ちょうどその頃、病室の外では、遙が中の会話を一言一句逃すまいと立ち尽くしていた。握り締めたドレスは、指の跡が残るほど皺くちゃになっている。遼一が出てくると、遥はかろうじて笑顔を作った。「あなた……」だがその言葉は遼一に遮られた。「明日香を頼む」「え、ええ……」病室に入った時、遥の顔色は決して良くはなかった。しかし、それを表に出すわけにはいかなかった。自分たちの将来のためにも、いま明日香を敵に回すわけにはいかない。それに、もうすぐ死ぬかもしれない人間に、争う資格などない。「本当に治療しないつもり
「思ったより早かったな」哲朗は、どこか含みのある笑みを遼一に向けた。遼一がいずれ明日香に惹かれる。その未来は、最初から見えていた。たとえ二人が血を分けた兄妹だという証明書を突きつけられようとも、遼一は迷いなく明日香を愛してしまったのだ。遼一と遥の視線は同時に明日香へと向けられた。しかし、明日香の瞳はただ一人、哲朗に釘付けになったままだった。遥がそっと明日香の側へ歩み寄り、手を握る。「どうしたの?こんなところに……どこか具合が悪いの?」遥は明日香の病状を知っている。だからこの言葉は、明日香の状態を隠すための助けであり、同時に遥自身の思いも少し混ざっていた。明日香は視線を戻し、薄く笑ったまま、成り行きを楽しんでいるような哲朗の表情をあえて無視した。哲朗は、何かを待っているようだった。明日香の胸中には、深い霧のような疑念が渦巻いていた。哲朗は自分に一体何を話そうとしているのか。母とどういう関係があったのか。母の墓前に供えられていた花束も、彼の手によるものなのだろうか。前世の明日香は、哲朗と母の関係について何も知らなかった。母は明日香を産む際に大出血で亡くなった、と教えられていた。しかし、あれは本当に真実だったのか。前世では、誰も真相を語ろうとはしなかったのだ。「山を下りる時に、足元を見ていなくて……うっかり転んじゃったの」淡々としたその言葉は、ボディーガードと遥とで事前に合わせたものだった。哲朗は全てを見透かしているかのように、口元に意味深な笑みを浮かべた。遼一の射抜くような視線が哲朗をとらえ、鋭い声が落ちる。「明日香の検査報告書はどこだ」哲朗は肩をすくめ、軽く言ってのけた。「明日香ちゃんが言ったじゃないか。ただ転んだだけで大したことはないって。明日香ちゃん、本当にひ弱でね。歩いていて転ぶなんて。これからは大人しく家にいて、あちこち出歩かないようにすることだな」二人のやり取りに、明日香はうんざりしてため息をついた。「私のことはいいから、二人とも帰って。点滴が終わったら自分で帰るから」遥が遼一に向き直る。「遼一、あなたは先に帰りなさい。午後には会議があるでしょう?私は病院で彼女を見ているわ。家に着いたらまた電話する」明日香は、遼一を一度も見ようとはしなかった。哲朗は気配を読んで病室を出て
その時、不意に一陣の強風が吹き抜け、おみくじ箱が横倒しになった。僧侶は慌てて転がった籤の一枚を拾い上げた――そこには、信じがたいことに「大吉」と記されていた。明日香は、山を下りたら病院へ向かうつもりでいた。いつもなら、彼女が姿を見せると静乃は目を合わせまいと足早に立ち去るものだ。しかし、山道の途中で、明日香は突然、血を吐いた。同行していたボディーガードたちは凍りついたように肝を冷やした。明日香はそのまま意識を手放し、深い昏睡へと落ちていった。ここ数日、彼女は極度に身体を酷使し、ほとんど眠れていなかったのだ。ボディーガードたちは明日香を背負い、慌てて山を下りた。ちょうど駆けつけた救急車が彼女を静水病院へ搬送した。救急処置室へ運ばれる途中、明日香は薄闇のなかで意識を取り戻した。朦朧とした視界に入ってきたのは――最も会いたくなかった人物、哲朗だった。哲朗はマスク越しに明日香の身体を手際よく確認していた。「新垣先生、検査室の準備が整いました」「わかった」哲朗はマスクを外し、明日香を見下ろした。「明日香ちゃん、また会ったね」そばで看護師が明日香の血を拭き取り、別の看護師が控えめに声を掛ける。「新垣先生、患者さんを中へお運びしてよろしいでしょうか?」ベッドが動き始めたとき、明日香はかすれた声で言った。「もう検査しなくていい。脳腫瘍の末期……もう助からないから」看護師たちは思わず目を見張った。哲朗は細めた目で冷ややかに言った。「冗談好きだね。遼一が明後日結婚式を挙げるからって、そんなに無茶しなくてもいいのに」明日香は真っ直ぐに彼の視線を返し、静かに言う。「私が、自分の命を使って嘘をつくと思うの?」彼女は視線を逸らし、白い天井を見上げた。「バッグの中に薬があるわ。それから……新しい服を用意してくれると助かる。お願いね」口の中には鉄のような血の味が広がり、死臭にも似た匂いが鼻についた。どちらも、明日香が最も嫌うものだった。哲朗は明日香の言葉を無視し、脳のCT検査を強行した。結果、確かに彼女の頭蓋内には腫瘍が見つかった。哲朗は白衣のポケットに手を突っ込んだまま病室に入った。明日香はすでに看護師に手伝ってもらい、清潔な服へと着替えていた。哲朗は口元を歪め、彼女の目の前で煙草に火をつ
遼一は入籍を済ませた後も、相変わらずスプレンディア・レジデンスに滞在していた。ただ、明日香はもう彼と一緒に会社へ行く必要はなかった。明日香の存在はすでに多くの噂を呼んでいたが、今は遥が名実ともに「佐倉遼一の妻」、セイグランツ社の女主人である。もし明日香が再び姿を見せれば周囲が何を言うか、彼女自身がいちばんよく分かっていた。続く三日間、帝都は祝祭の渦に包まれた。セイグランツ社と桜庭グループの縁組という大ニュースは瞬く間に帝都の隅々にまで広がり、結婚式は帝都随一の高級ホテルで執り行われることになった。ホテルは三日間の休業を決め、式の準備に全力を注いだ。その一方で、明日香は遥が手配したボディーガードに「見守られ」ながら、今日は病院へは向かわず、再び清風寺へと足を運んだ。樹のために、明日香はほとんど毎日のように通っていた。悪天候でない限り、必ず自分の足で、一歩ずつ山道を登った。昨夜、遼一が戻らなかったため、明日香は早朝に出発し、山頂に着いた頃には夜明けの光が境内を淡く照らしていた。今日の清風寺は参拝客もほとんどおらず、明日香が最初の訪問者だった。本堂の戸が開くと、墨染の衣をまとった若い修行僧が深々と合掌した。「いらっしゃいませ、月島様」明日香が毎朝欠かさず参拝していることもあり、寺の僧たちの多くはすっかり顔なじみになっていた。彼女はいつものように仏像の前で静かに正座した。祈願のためであれば、一度座れば数時間でも動かない。二度目にここを訪れて以来、祈る内容はただ一つだった。樹が一日でも早く目を覚まし、元通りに回復しますように。彼が目覚めるその日まで、毎日ここに来続ける。それが明日香の揺るぎない決意だった。だが、樹の状態は日に日に悪化していた。腎臓は徐々に機能を失い、医師はついに最終通告を下した。もし今後五日以内に目覚めなければ、治療を続ける意味はないだろうと。そのとき、本堂の奥から住職が静かに近づき、柔らかく諭すように声をかけた。「……月島様、ご縁というものは、ただ受け入れるよりほかございません。どうか、この思いに囚われすぎませぬよう。南無阿弥陀仏」明日香の声は細く弱かったが、芯だけは確かに宿っていた。「私、昔は運命なんて信じてなかったし、宗教もまったく信じていませんでした。でも今は……信じたいの。彼のた
遼一は中村から差し出されたサインペンを受け取り、契約書の最後の欄に署名すると、そのまま静かに中村へ返した。「法務部に渡してくれ」「かしこまりました」遼一は、目的のためなら手段を選ばない男だ。形ばかりの結婚など、誰を妻に迎えようと取るに足らない。「食事は結構だ」「どうしたの?また会社に戻るの?でも今日は私たちが入籍した、大事な記念日じゃない。今回だけ、私に付き合ってくれない?あなた、一度だってちゃんと私と食事をしてくれたことないんだから……私のためだと思って、お祝いくらいさせてよ?」遥は遼一の袖をそっとつまみ、懇願するように言った。「遥、いい加減にしろ。役になりきりすぎだ。契約以上のものは求めないでくれ」その一言とともに、遼一は彼女の手を振り払い、遥はまるで時間が止まったように立ち尽くすしかなかった。遼一は迷うことなく車に乗り込み、車はあっという間に視界から消えた。「社長、会社へ戻られますか?それともスプレンディア・レジデンスへ?」運転手の声が車内に落ち着いた響きを残す。遼一は眉間を押さえ、深く目を閉じた。目的は達成したはずなのに、胸の奥の苛立ちだけが鎮まらず、息苦しさすら覚える。「スプレンディア・レジデンスに戻る」「かしこまりました」遼一は携帯の画面に表示された位置情報を見つめ、その眼差しはさらに沈んだ色を帯びていった。スプレンディア・レジデンスに戻り、主寝室の扉を開けると、バルコニーのソファに座り込む明日香の姿が目に入った。夜風に揺れるカーテンの向こう、彼女は膝を抱え、魂の抜け落ちたような瞳で一点を見つめている。長い足が視界に入った瞬間、明日香の羽のような睫毛が震え、落ち葉の擦れる音のようにか細い声がこぼれた。「おめでとう」遼一の視線は、まるで明日香の心の奥底まで射抜くようだった。「……他には?」「ご結婚、おめでとうございます」遼一は片手をポケットに突っ込み、もう一方の手で彼女の顎を持ち上げた。漆黒の瞳には危うい暗流が潜み、その声は酷薄なほど冷ややかだった。「俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃないと分かっているはずだ」明日香はゆっくりと視線を上げ、真っ直ぐに彼を見返す。「何が聞きたいの?『愛してる』って?それとも、『遥と結婚しないで』ってお願いしてほしい?私が言っ
明日香は胸の奥に渦巻く複雑な思いを抱えながらドアを押し開け、静かに病室へと足を踏み入れた。消毒液の鋭い匂いが、開いた扉の隙間から一気に流れ込み、彼女の神経を強く刺激する。ベッドに横たわる男は人工呼吸器につながれ、目を閉じたまま微動だにしない。痩せ細った体は痛々しく、手の甲には広範囲に及ぶ火傷の痕が生々しく残り、脚もまた、ほとんど無傷の皮膚が見当たらなかった。もしこれが樹だと知らなければ、彼を見分けることさえできなかっただろう。明日香は思わず口元を手で覆い、涙が音もなく頬をつたった。どうして……どうしてこんなことになってしまったの?樹のそばへと歩み寄ろうとしたが、両足は鉛を詰められたように重く、思うように前に進まなかった。全部、私のせいだ。樹がこんな姿になったのは、私のせいなんだよね。頭の奥でそんな声が絶えず響き続ける。彼が事故に遭ったのはあなたのせい。あなたが逃げなければ、樹はこんな怪我を負うことはなかったのに……どれほどの時間立ち尽くしていたのか。ようやく意識を取り戻した明日香は、重い足取りでベッドサイドへと近づき、そっと名前を呼んだ。「……樹」そっと触れた指先に、ひんやりとした体温が伝わる。その冷たさに、明日香の手は震え始めた。言いたいことは山ほどあるのに、言葉はすべて喉の奥で絡まり、ひとことも声にならない。やっと絞り出した声は、嗚咽まじりだった。「……樹、私、帰ってきたよ。聞こえてるかどうかわからないけど……早く良くなってね。お願いだから……」涙は止まることなく床に落ち、小さなしみをいくつも作っていく。明日香はそれを見つめながら、身動きひとつできなかった。一方その頃。役所では、遥が深紅のドレスをまとい、遼一の腕に自分の腕を絡ませていた。手には婚姻届受理証明書。頬は上気し、口元には抑えきれない笑みが浮かんでいる。まるで幸福そのものに浸る少女のようだった。傍のカメラマンがシャッターを切る。写真の中の遼一は穏やかに首を傾け、遥を見つめている。遥は恥じらうように微笑み返し、その姿は誰が見ても仲睦まじい新婚夫婦そのものだった。ついに、この日が来たのだ。遼一が心変わりすることを恐れるかのように、遥は慌てて婚姻届受理証明書をバッグにしまい込んだ。「……これは私が預かるわ。変な気を起こさないで







