第17話

優子は顔を上げ、嘲るような笑みを浮かべた。

「離婚を言い出したのはあなたでしょう、佐藤さん？」

峻介は彼女の言葉に耳を貸すことなく、冷たい空気をまとって近づいてきた。

「ずっとあいつと一緒だったのか？」

至近距離で彼の顔がはっきり見えた。濃い睫毛の下、目は冷たく、白目には赤い血管が浮かんでいて、その顔全体に荒々しい狂気が漂っていた。

「違うよ。今日はタクシーが捕まらなくて、たまたま先輩が通り道だったから送ってもらっただけ」

そう否定する彼女に、峻介は冷笑を浮かべた。

「お前、嘘をつくときいつも目を上に向ける癖、いまだに直ってないな。一年間も頑なだったのに突然折れて、病気の父親を放って消えたのも、全部あの男のためか？」

そんなことを言われても、彼女にはもう説明する気などなかった。

彼ほど賢い男に下手な言い訳など通じるはずもない。

言い訳を重ねれば重ねるほど、自分の愚かさを露呈するだけだ。

だから彼女は話を強引に変えた。

「そんなことより、離婚を済ませましょう」

彼女が歩き出そうとした瞬間、峻介が彼女の手首を掴んだ。

力を込めているわけではないはずなのに、鋭い痛みが走る。

彼女は眉をひそめながら彼を睨んだ。

その表情には狂気が浮かんでいた。

「以前は離婚がお前にとって一番の罰だと思ってた。だが今は考えを変えた」

「何が言いたい？」

彼の目に邪悪な光が浮かび、低く冷たい声が落ちてきた。

「離婚する気が、なくなった」

彼の長い指が彼女の頬を撫でるように這い、瞳が冷たく細められる。

「佐藤奥様、嬉しいか？」

もしこれが半月前なら、彼のその一言に喜びを感じていたかもしれない。

だが今となっては、その手が触れるだけで吐き気を催す。

「離して！今すぐ離婚してよ！」

彼女の抵抗を物ともせず、彼は軽々と彼女を抱き上げた。

かつて彼女にとっての港だったその腕が、今ではただ恐怖の象徴だった。

「放してってば！あんたほんとに頭おかしいんじゃないの！？」

力の差は歴然だった。

今の優子は、まるで紙のように脆く、彼の手の中で無力だった。

後部座席に押し込まれた彼女は、もはやそれだけで全身が疲れ果てていた。

肩で大きく息をしながら、かすれた声を絞り出した。

「何がしたいの？」

「何が？」

峻介は邪魔なネクタイを緩めながら、冷たい目を細めて言った。

「お前に地獄を味わわせるよ。別の男と幸せになるなんて、俺が許すとでも思ったのか？俺は甘く見るなよ。死んでも離婚しないって言ってた女が、今じゃ他の男とイチャついてる。そんなに男に飢えてたか？」

その言葉に、優子は頭痛が走り、胸が針で突かれたように痛んだ。

唇を噛みながら反論した。

「離婚したがってたのはあんただよ？私は応じただけ。今になって何をグズグズしてるの？あんたの方が最初に私を裏切った！私が他の男と幸せになるの、何が悪いの？」

彼の顔がぐっと近づき、淡々と、そして冷酷に言い放った。

「誰が幸せになっても構わない。だが、お前だけは許さない」

彼の黒い瞳に見下ろされ、冷たい圧力が彼女を押し潰す。

「離婚するかどうかは、俺が決める」

彼が身を屈めると、ネクタイが彼女の頬に垂れ、ウールのコートが乱れることなく彼の威圧的な姿勢を際立たせていた。

まるで彼の前ではすべての人間が蟻にすぎないと言わんばかりに。

視線の先、反対車線には渋滞の列。

そしてその先頭にはガードレールにぶつかって停まっているカイエン、悠斗の車だった。

彼女を送った直後に事故に遭ったのか？

血の気が引いた彼女は叫んだ。

「車止めて！」

運転席の昇は、たとえどんなに鈍くても、今ここで止まるわけにはいかないと理解していた。

彼は何も聞こえないふりをするしかなかった。

ドアを開けようとした彼女の手首を、峻介が強く引き寄せた。

そのまま彼の胸元に倒れ込む。

彼の低い声が耳元に落ちた。

「どうした？心配か？」

「頭おかしいの！？先輩はただ、同じ学校の出身で、私の父に病院で少し気を遣ってくれてただけ。私と彼の間に何の関係もない。どうしてこんなことをするの？」

峻介はゆっくりと手を伸ばし、冷たい指先で彼女の頬を撫でる。

「だって......お前が苦しめば苦しむほど、俺は気分が良くなる」

彼女は力なく彼のシャツを掴みながら、怒りを込めて叫んだ。けれど、すでに体力は限界だった。

「私の父は、辻本恵の学費を出してあげた。もし二人の間に何かあったとしても、彼は絶対に彼女を傷つけるようなことはしないと信じてる」

その名前が出た瞬間、峻介の表情が一変した。

さっきまで冷たく笑っていた顔が、次の瞬間には激しい怒りに染まる。

彼は彼女の身体を乱暴に引き剥がした。

「お前がその名前を口にする資格がない！」

彼女の背中は硬いドアに激しく打ちつけられ、虚弱な身体はバラバラになりそうだった。苦しげに身を傾け、骨の奥からの痛みに耐えていた。

彼がその名前にこれほどまでに敏感ということは、彼女の直感は正しかった。

辻本恵は、彼が失った妹なのだ。

だが、もはや追及する力すら残っていなかった。

目を閉じ、乱れた感情と不快感を静めようと必死だった。

もはや怒る気力すらなかった。

彼女は身体を小さく丸め、座席に寄りかかっていた。

幸い出発前にチークとリップを塗っていたため、顔色の悪さは少しは隠せていた。

彼女が黙り込んだのを、峻介はただの駄々だと勘違いして無視したが、激しく鼓動する胸だけは収まらなかった。

車が峻介の家に到着した。

彼女はあまりにも弱っていて、動くことすらしたくなかった。

先に車を降りた峻介に続いて、昇がドアを開け、小声で訊いた。

「奥様、具合でも悪いんですか？」

彼女が返事をする前に、峻介の皮肉が響いた。

「またその手か。弱って見せれば俺が情けをかけると思ったか？」

たしかにこの一年、彼女は苦肉の策を使って彼の心を引き戻そうとしていた。

だが、「オオカミ少年」の話と同じで、本当に狼が現れても、もう誰も信じてはくれなかった。

数秒待っても彼女が降りてこないのに苛立ち、峻介が言い放つ。

「中村家に手を出されたくなければ、とっとと降りろ」

悠斗に送ったメッセージはまだ既読もつかず、彼が無事かどうかも分からない。

優子は歯を食いしばり、ようやく車から降りた。

だが、足が地面についた瞬間、冷たい空気が容赦なく吹き付け、彼女の体はふらついた。次の瞬間、視界が真っ暗になり、彼女の身体は崩れ落ちた。