社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない

社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない

Oleh:  花野めいOngoing
Bahasa: Japanese
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早坂三久(はやさか みく)の元夫・酒井由樹(さかい ゆき)は、冷淡で無口な男だった。 彼女は昼は秘書として彼に仕え、夜は妻として彼のそばに寄り添った。 それでも二年間、本気で愛されていると実感した瞬間は、一度たりともなかったのだ。 彼の幼なじみである村上千歳(むらかみ ちとせ)が帰国したその日、二人は淡々と離婚届に判を押した。 それなのに半年後、三久は思いがけず妊娠に気づいた。 長年片想いしてきた元夫なんて、もういらない。三久は迷わず、お腹の子と共に彼の前から姿を消した。 由樹が千歳との交際を公表した?私には関係ない。 由樹が千歳にプロポーズした?祝福の言葉を贈ってあげる。末永くお幸せに、どうぞ子宝にも恵まれますように! ところが、千歳と再婚すると噂されていた由樹が、出産当日、「やり直したい」と産院の前に現れたのだ。 三久は「まさか」と言うように、激しくかぶりを振った。 「社長、この子は本当にあなたの子じゃないわ!」 「俺の子じゃなくても、俺が育てる!」

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Bab 1

第1話

深夜、早坂三久(はやさか みく)はSNSに生まれたばかりの赤ちゃんの写真を投稿した。

【ついにママになりました。男の子で〜す!】

一時間も経たないうちに、半年前に離婚した元夫・酒井由樹(さかい ゆき)がドアを叩くなんて、思いもよらなかった。

ドアを開けた瞬間、由樹の暗く沈んだ表情が目に飛び込んでくる。ただそれだけで、この2DKの安アパートが、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥った。

「……なんで来たの」

三久はドアノブをきつく握りしめたまま問いかけた。

由樹は何も答えない。無言のまま上がり框の手前で、磨き上げられた高級な革靴が、玄関の古びた花柄タイルを硬く叩き、ひどく場違いな音を響かせた。

ここへ来るのは、これが初めてではない。由樹は迷う素振りすら見せず、真っ直ぐに三久の寝室へと向かった。

あとに残された彼の特別補佐、小林哲朗(こばやし てつろう)が、分厚い書類の束を三久へと恭しく差し出す。

「早坂さん、お久しぶりです。社長の顧問弁護士が徹夜で作成した、親権に関する協議書です」

三久は書類を受け取り、ぱらぱらとページをめくる。

【酒井家の長男は、酒井家で養育されるものとする】

びっしりと無機質な文字が並ぶページの中から、三久はその冷酷な一文だけを、正確に目に焼き付けた。

やっぱり。由樹は親権を争うつもりなのだ。

一応の情けはあるらしく、子どもが三歳になるまでは母親である三久が育てることも認めると記されている。

もっともそれは、三久がすべての条件に同意すればの話だが――拒否するなら、今すぐ力ずくで連れて帰るという言外の脅しが透けて見えた。

胸の奥が、じわりと焼け焦げるように痛んだ。その鈍い痛みは、血液に乗ってゆっくりと手の先まで伝わっていく。

呆然と立ち尽くしているうちに、由樹が寝室から戻ってきた。

「あの子は?」

彼と結婚した二年前から、三久はとうに知っていた。この男は口数が少なく、そして氷のように冷たいのだと。

それでも、由樹は彼なりに誠実ではあった。ある夜の過ちで体を重ねてしまったことに重い責任を感じ、自ら結婚を申し出てきたほどに。

三久がその提案を承諾したのは、彼に対して六年間も抱き続けた、切実な片想いがあったからだ。

なのに今この瞬間だけは、その美徳であるはずの口数の少なさが、これほどまでに腹立たしく感じられたことはなかった。

労いの言葉もないの?

哲朗は複雑な眼差しで三久を見つめていたが、重苦しい空気を察して静かに部屋を出て行き、背後でドアをそっと閉めた。

狭い部屋。息が詰まるほど静かな夜。

三久はふいに、くすりと自嘲するように笑った。重い沈黙を自ら破るように。

「……何の話?」

由樹はリビングの真ん中に、背筋をすっと伸ばして立っている。

薄暗い裸電球の光が頭上から降り注ぎ、彼の彫りの深い顔立ちを曖昧な影でぼかしていた。

対して三久のほうは、振り返ったその青白い横顔が光にくっきりと照らし出されており、黒目がちの瞳は澄み切っていた。

まるで本当に、何のことだかさっぱり分からないようだ。

「計算すれば、離婚した頃にはすでに妊娠していたはずだ。それなら、なぜお前から離婚を切り出した」

感情の欠片もこもっていない、平坦な問い。

結婚して初めて、三久は悟ったのだ。由樹が自分と結婚したのは、ただ責任感だけからだったのだと。

もし責任以外に理由があったとすれば――妻という名目で気兼ねなく欲求を満たせる、都合のいい相手が欲しかっただけ、だろうか。

二年間の結婚生活で、三久は自分の立ち位置を正確に理解した。

身寄りがなく児童養護施設で育った三久には、無条件の愛情も、帰るべき場所という安心感も、最初から欠けていた。

そしてこの結婚は、そのどちらの渇きも潤してはくれなかった。

ただひとつ、深い夜の中でだけ、彼が微かな熱を帯び、その漆黒の瞳に自分だけを映し出してくれる――あの瞬間を除いては。

だからこそ、離婚を切り出したのは三久のほうだった。

その時、由樹はただ短くひとことだけ言った。

「後悔しないなら、それでいい」

離婚届を役所に提出した当日の午後、三久は会社へ異動願いを出した。そして西戸市の他の支社へ、支社長として着任することになったのだ。

あれから半年ぶりの再会で、まさか彼女が子どもを産んでいたとは。

由樹は自分でも、胸の奥底で渦巻く得体の知れない感情を、うまく整理できずにいた。

「村上さんのために、私が身を引いただけよ」

三久は淡々と、まるで他人の事のように笑って見せた。

「本当に子どもを連れて帰るつもり?いきなり隠し子なんて連れて帰って、村上さんが怒って別れるなんて言い出したら、あなた、どうするの?」

村上千歳(むらかみ ちとせ)――それは、由樹がこれまでの人生で唯一、本気で愛した女だと言われていた。

彼らは幼なじみだったが、理由は不明のまま別れ、千歳は遠く海外へと渡った。

その後、由樹は何年も頑なにひとりでい続けた。浮いたスキャンダルなど皆無で、ゴシップメディアは何度も「若き社長は、初恋の帰りを健気に待っている」と美談として報じたものだ。

その千歳が半年前、ついに帰国した。

それが、三久の背中を押した最後の一押しだった。いつか離れようと思いながら、彼の温もりに縋ってずっと離れられずにいた、愚かな自分への引導。

彼女の帰国を知ったその日の夜、三久は由樹に離婚を切り出したのだ。

「それはお前には関係ないし、考える必要もない」

由樹の氷のような態度は、微塵も揺るがなかった。

「お前は頭がいい女だ。子どもがこういう環境で育つべきじゃないことくらい、冷静になれば分かるはずだ。酒井家に戻るのが、あの子にとって一番正しい選択だ」

確かに、三久は賢かった。しかし、血の通った感情が絡めば、どんな賢い人間だって機械のようには割り切れなくなる。

「実の母を嫌がる子なんていないでしょう。私の子なら、こんな安アパートでも私を嫌ったりしないわ。それなのに、父親だからって勝手に決める気?」

負けん気の強さと口が減らないところだけは、昔から少しも変わっていなかった。

由樹は、三久という人間の本質をよく知っていた。自分の強い信念を持ち、一度決めたことは絶対に曲げない。

仕事でも自分に平気で食ってかかり、あるプロジェクトの評価を巡っては、クビを覚悟で真っ向から反論してきたほど、芯の強い女だ。

彼女が素直に甘い声を上げるのは、本当にベッドの上だけだった。

でも、今回ばかりは事情が違う。どれだけ三久が意地を張って踏ん張ろうとも、由樹は決して引くわけにはいかなかった。

「三久。お前は本気で、俺と張り合えるとでも思っているのか」

それは、あまりにも残酷な反則だった。三久はまるで見えない大きな手に喉をきつく掴まれたみたいに、呼吸を奪われ、一切の言葉が出なくなった。

言い返す言葉も、反撃する術も、今の彼女には何ひとつ残されていない。

長い沈黙ののち、三久は口の端をかすかに引き上げた。

「……誤解してるわ、社長。あれは、親友の梨々香の子よ。退勤後に病院へお見舞いに寄って、さっき帰ってきたばかりなの」

由樹はわずかに眉をひそめ、射抜くような鋭い視線で三久を見据えた。

言葉の真偽を疑い、品定めするように全身を観察し――その視線はいつの間にか、タイトスカートに包まれた引き締まった細い腰と、豊かな丸みのあるお尻へと流れていた。

そこには、出産を経たような痕跡など、どこにも見当たらない。出産直後の女性とは、とても思えない体型だった。

「鈴木梨々香(すずき りりか)のこと、覚えてる?結婚してた頃、よく話してたじゃない……」

何とか取り繕って説明を続けようとしたが、由樹はもう彼女の言葉など聞いてはいなかった。

仕立てのいいスーツのポケットからタバコを取り出し、薄い唇に挟んで火をつける。そのまま窓辺に寄りかかり、ひと口、またひと口と、静かに紫煙を吐き出した。

一時間足らずの間に、突然自分の子どもがいると知らされて父親になったと思えば、今度はそれが人違いの誤解だったと告げられた――少しばかり冷却期間を必要としていた。

半年ぶりに目の前で見る三久は、どこか雰囲気が変わったような気がする。うまく言葉にはできないが、記憶の中にいる彼女とは、決定的に何かが違うのだ。

夜の窓ガラスに薄っすらと映り込む彼女の姿を、由樹は煙越しにそっと目で追った。

一緒に暮らしていた頃の三久は、どれだけ気が強くても、いざ俺の前となれば、まるで飼い主に従順な猫みたいにおとなしかった。

それが今はどうだ。まるで野良猫みたいじゃないか。

こんな突拍子もない悪ふざけを仕掛けて、俺を振り回すなんて。

三久は静かに近づいてくると、由樹の目の前にある窓を、すっと開け放った。真冬の刺すような冷たい夜風が室内に吹き込み、彼が吐き出した煙を、容赦なく散らしていく。

「ねえ、誤解だったとしても、純粋に気になるんだけど。もし本当に私たちに子どもがいたとして、その子どもと村上さん、どうしてもどちらかしか選べない状況になったら……あなたは、どっちを選ぶの?」

その選択肢の中に、自分自身が含まれていないことくらい、三久には痛いほど分かっていた。

「……そんな無意味な仮定の話に、答える価値はない」

由樹は吸いかけのタバコを指先で無造作に押しつぶした。灰皿を探したが見当たらず、火の消えた吸い殻を手に持ったまま、無言で部屋を出て行った。

こんな夜中に、未練がましく元妻と昔話に花を咲かせる趣味など、彼には持ち合わせていない。

あんな軽はずみなSNSの投稿さえ見られなければ、きっと今日が、彼はもう二度と会ってくれないだろうと、三久は閉まるドアを見つめながら思った。

――そう、一ヶ月前の「あの夜」さえなければ。

ホテルで偶然鉢合わせてしまい、ひどく酔っていた彼に流されるまま、二人はまた、熱い一夜を共にしてしまった。

朝になって気まずい空気が流れるのが耐えられず、三久は彼が目を覚ます前に、逃げるようにその部屋を後にしたのだ。

あの夜の過ちのことは、一生誰にも言わず、自分だけの胸の奥底に固くしまっておくつもりだった。

なのに、彼が残した種は、彼女の胎内で命の芽を出していた。

そう、彼女は本当に妊娠していたのだ。現在、六週目。昨日の検診で、胎児はすこぶる健康だと言われたばかりだった。

開け放たれた窓の外では、いつの間にか雪が降り始めていた。ふわりと大きな綿雪がゆっくりと舞い落ちて、街灯の下を歩く黒いコートの男の背中を、ひときわ際立たせている。

三久は静かに窓を閉め、氷のように冷たいガラスに額をそっと預けながら、遠ざかる彼の後ろ姿をじっと見つめた。

由樹は手に持っていた吸い殻を携帯灰皿へ捨てると、路肩に停めていた漆黒のブガッティに乗り込み、あっという間に走り去っていった。

あの超高級車が、この壁の剥げかけたボロアパートの前に停まっている光景が、どれほど滑稽で場違いだったことか。

そしてそれは、由樹という存在自体が三久の人生に、決して現れるべき人ではなかったのようだ。
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第1話
深夜、早坂三久(はやさか みく)はSNSに生まれたばかりの赤ちゃんの写真を投稿した。【ついにママになりました。男の子で〜す!】一時間も経たないうちに、半年前に離婚した元夫・酒井由樹(さかい ゆき)がドアを叩くなんて、思いもよらなかった。ドアを開けた瞬間、由樹の暗く沈んだ表情が目に飛び込んでくる。ただそれだけで、この2DKの安アパートが、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥った。「……なんで来たの」三久はドアノブをきつく握りしめたまま問いかけた。由樹は何も答えない。無言のまま上がり框の手前で、磨き上げられた高級な革靴が、玄関の古びた花柄タイルを硬く叩き、ひどく場違いな音を響かせた。ここへ来るのは、これが初めてではない。由樹は迷う素振りすら見せず、真っ直ぐに三久の寝室へと向かった。あとに残された彼の特別補佐、小林哲朗(こばやし てつろう)が、分厚い書類の束を三久へと恭しく差し出す。「早坂さん、お久しぶりです。社長の顧問弁護士が徹夜で作成した、親権に関する協議書です」三久は書類を受け取り、ぱらぱらとページをめくる。【酒井家の長男は、酒井家で養育されるものとする】びっしりと無機質な文字が並ぶページの中から、三久はその冷酷な一文だけを、正確に目に焼き付けた。やっぱり。由樹は親権を争うつもりなのだ。一応の情けはあるらしく、子どもが三歳になるまでは母親である三久が育てることも認めると記されている。もっともそれは、三久がすべての条件に同意すればの話だが――拒否するなら、今すぐ力ずくで連れて帰るという言外の脅しが透けて見えた。胸の奥が、じわりと焼け焦げるように痛んだ。その鈍い痛みは、血液に乗ってゆっくりと手の先まで伝わっていく。呆然と立ち尽くしているうちに、由樹が寝室から戻ってきた。「あの子は?」彼と結婚した二年前から、三久はとうに知っていた。この男は口数が少なく、そして氷のように冷たいのだと。それでも、由樹は彼なりに誠実ではあった。ある夜の過ちで体を重ねてしまったことに重い責任を感じ、自ら結婚を申し出てきたほどに。三久がその提案を承諾したのは、彼に対して六年間も抱き続けた、切実な片想いがあったからだ。なのに今この瞬間だけは、その美徳であるはずの口数の少なさが、これほどまでに腹立たしく感じられ
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第2話
児童養護施設の出身で、これほどの出世を果たしたのは三久だけだった。ずば抜けた成績で、国内トップクラスの大学へ全額免除で入学したのだ。由樹と出会ったのは、その頃だ。名家の御曹司たちが集まる華やかな輪の中でも、彼はひときわ別格で、自然と視線が吸い寄せられた。この二年間の結婚生活と、夜ごとの温もり――それだけで、一生分の思い出としては十分だと思っていた。なのに、お腹の中に命が宿ってしまった。産むことをためらう気持ちは、三久にはなかった。この世界でただひとり、血の繋がった尊い存在なのだから。由樹に奪われるのが怖かった。でも一方で、淡い期待もあった。もしかしたら由樹は、最愛の千歳を怒らせたくなくて、この子を認知しないかもしれない。結果は、あの通りだった。三久は小さくため息をつき、まだ膨らみのないお腹をそっと見下ろした。あの夜のことを由樹は覚えていない。それでも、万が一に備えておくに越したことはない。由樹の目の届かない遠くの場所でこっそり産んでしまえば、きっと気づかれないはずだ。万が一バレたとしても、今回の一件がある。もし本当に子どもができたと知っても、もう追ってくることはないだろう。年の瀬が近づき、百栄グループの年次総会が開かれた。三久は年次報告書を抱えて本社へ向かいながら、バッグの奥にもう一通、退職願を忍ばせていた。ここを出よう。由樹から、できるだけ遠いところへ。九時十分開始の会議。九時半になっても、由樹は姿を見せなかった。ある支社の責任者が、「さっき村上さんを見ました。社長室にいらっしゃるみたいですよ」とそっと囁いてきた。「それで遅刻するわけですね。村上さんにかまけているんですよ」由樹はいつも仕事最優先で、時間に几帳面な人間だった。千歳の登場が、あっさりとそのルールを破らせた。三久はようやく理解した。「特別扱いされる」とはどういうことなのかを。席を立ち、会議室の窓辺へ歩み寄り、少し開いたカーテンの隙間からそっと社長室を覗いた。深いグレーで統一された空間の中に、鮮やかな紫色が揺れていた。秘書として長く働いてきた三久には、あの部屋の間取りが目を閉じても浮かぶ。椅子に座る由樹のそばで、千歳がデスクの端に腰を預け、二人が視線を交わして微笑み合っている――そんな光景が、自然と脳裏に浮かんだ。
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第3話
千歳が社長室に戻ると、哲朗が手際よく航空券の手配を進めているところだった。「由樹さんは?それ、何の予約?」「社長は休憩室にいらっしゃいます。海外支社で急ぎの対応が必要になりまして、社長ご自身が現地へ向かうことになりました」哲朗が言い終わる前に、千歳はバッグからパスポートを取り出して突き出した。「私の分も取って。一緒に行くから」「え……っ?」有能な哲朗も思わず目を見張った。千歳はさも当然といった顔で、「何?由樹さんの許可がないと動けないの?」この半年、由樹の行くところには必ず千歳がいた。哲朗はそれもそうだと納得し、パスポートを受け取った。「承知しました」千歳は開封された封筒に視線を向けた。中身はすでに由樹が持っていったようだ。眉がそっと寄る。瞳の奥に、女特有のわずかな警戒が滲んだ。しばらくして、由樹が着替えて出てきた。鞄を手に、迷いのない足取りで出口へ向かう。退職願は広げられることもなく、ベッドの脇に無造作に置かれていた。荷物をまとめる際に手が触れ、そのまま床に落ちた。――三久がひとりアパートで妊娠初期の注意事項を調べていると、ニュースアプリの通知が画面に表示された。由樹が急遽出国したことを、その時初めて知った。年の瀬、会社が最も忙しい時期に、由樹は仕事を放り出して千歳と海外へ飛んだ。「婚前旅行では」とメディアはこぞって書いた。この半年、ふたりに関する記事は何度も目に触れたが、三久はいつも開かずにいた。見ないようにしていた。逃げていたのだ。それでも一ヶ月前、偶然会ってしまったら結局拒みきれなくて、また同じ過ちを繰り返してしまった。もう逃げるのはやめよう。どうせ離れるのだから、傷つくなら早いほうがいい。三久はリンクをタップし、写真を拡大した。黒いスーツの男が、ピンクのスーツケースを引いている。腕には女性のバッグがかかっていた。女性用トイレの前に立ち、待っているのだと一目でわかった。百栄グループの社長。酒井家の長男にして唯一の後継者。どの肩書きを取り上げても、手の届かない存在だ。一度だって三久をちゃんと見なかったその人が、大勢の目の前で女のトイレの前に立って待っている。盗撮だというのに、由樹はどの角度から切り取っても隙がなかった。骨格の整った顔立ちが、滲み出る品
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第4話
リビングにいる全員が反応する間もなく、二階から足音が響いた。由樹の母、酒井摩美(さかい まみ)が急ぎ足で降りてきた。五十近いとは思えない、三十代にしか見えないほど若々しい体型だ。真紅のショールを羽織っただけで、氷点下の外気も厭わず玄関へ向かった。眩しいほどのヘッドライトが消え、三久の目にようやく全体が映った。由樹と並んで車を降りてきたのは、千歳だった。三久の前ではいつも澄ました顔をしている摩美が、千歳に親しげに腕を組まれたまま笑っている。由樹は穏やかな顔でトランクを開け、いくつかの紙袋を取り出しながら、ふたりが話し込むのを静かに待っていた。絵に描いたような理想の家族の光景が、三久の胸に刺さった。たまらず視線を逸らす。急に、針のむしろに座らされているような心地がした。現在進行形の相手を連れてきた中で、自分がここにいるのはどういうつもりだろう。でも今から出ていけば、確実に鉢合わせる。「千歳ちゃん、痩せたんじゃない?由樹がろくに面倒を見てくれなかったの?これじゃあ村上家に顔向けできないわ」摩美の声が近づいてくる。ハイヒールの音とともに、千歳の笑い声が続いた。「うちの母が心配するのは私が痩せたかどうかじゃなくて、由樹さんの仕事の邪魔にならないかどうかでしょ。私たちって小さい頃から、お互いの親が自分の子より相手の子の心配ばっかりしてるよね!」摩美が声をあげて笑い、千歳の手の甲を軽く叩く。そんな楽しそうな声が、リビングに入った途端にぴたりと止まった。由樹が紙袋を手に後から歩み入り、三久を見た瞬間、眉がわずかに寄る。一瞬で、場の空気が凍りついた。和やかさを切り裂いたのは、三久の存在だった。「あら、お客様がいらしてたのね」千歳は三久を見た瞬間に誰かわかった。想像より、ずっと綺麗だった。ただそこにいるだけで、他の女が自分の存在を意識してしまうような顔立ち。由樹が選んだことに、納得がいく気がした。摩美は本当に気づかなかったのか、気づいていないふりをしたのか。笑顔が消え、あからさまな不満の色が滲んだ。「あんた、何しに来たの?」「私がお義姉……みくさんを呼んだの」依果が立ち上がり、デザートの盛り合わせをテーブルに置いた。「友達を連れてきたらいけないの?」「この子、依果の『お友達』よ。
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第5話
三久は思わずダウンジャケットの前を合わせ、まだ平らな腹を隠した。「出ていたよ。年のせいか、今年は特に寒くて」席に着きながら、さりげなく話題をそらす。「私のパソコンを使いましょうか?車から取ってきますが」「俺のを使え」由樹がノートパソコンを三久の前に滑らせた。スクリーンセーバーには古い写真が映っていた。男女の後ろ姿。男のほうは一目で由樹だとわかる。女の体型は、千歳に似ていた。三久はそちらを見ないようにしてファイルを開き、機械的に議事録を打ち始めた。仕事の上では、三久と由樹の呼吸は完璧に合っていた。彼が一つ視線を向ければ、どの項目を指摘して後で重点的に確認すべきかがわかる。軽く手を上げれば、今の報告者を切り上げて次に回すタイミングだと察知できる。半年離れていても、その息の合い方は少しも変わっていなかった。由樹の眉間のしわが、少しずつほどけていった。いつの間にか、彼の意識が仕事から三久へと移っていた。堅苦しい仕事着を脱いだ三久の顔は、驚くほど若々しくて綺麗だ。白くて細い指は、柔らかそうで――かつて夜の暗がりの中で、薄いシーツをあんなにも強く握りしめていた指だ。部屋が暖かいのに、三久はダウンジャケットを脱がなかった。白い額にうっすらと汗が滲んでいる。頬がほんのり赤く色づき、長い睫毛が瞬きのたびにふわりと揺れた。ぱっと見ても、じっくり見ても、目が離せない顔立ちをしている。気づけば由樹は、静かに見入っていた。オンライン越しの相手が報告を終えても、由樹はしばらく反応しなかった。三久はキーボードを打ちながらふと顔を上げ、視線が絡んだ。胸がどきりとする。素早く目を伏せた。最後の数文字を打ち終え、さりげなく服の前を整える。「暑いなら脱いでいい。会議はまだかかる」由樹はその小さな仕草に気づき、ひとこと言ってから会議に戻った。後ろめたさから、三久は脱げなかった。「大丈夫、暑くないので」由樹がもう一度横目で見た。電球の光が額に当たって、汗の粒がきらきらと光っている。「続けてください」由樹はそれ以上何も言わなかった。額の汗はやがてしずくとなり、頬を伝って、髪を濡らした。暑さと空腹が重なり、じわじわと体がつらくなってくる。胃の中が、波のように何度も酸っぱくせり上がってきた。
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第6話
依果は口では「わかった」と言いながら、部屋を出ていく摩美の背中に向かって、思いきり舌を出した。――千歳が由樹の腕を取ってダイニングへ向かう残酷な場面が、三久の頭から離れなかった。あれは、見るんじゃなかった。帰り道、冷たい夜風を浴びながら少し正気を取り戻した三久は、途中の店で温かい食事を食べてからアパートへ帰った。それから数日、由樹と千歳に関する華々しいニュースが連日のように報じられていた。もどかしかったのは、肝心の退職手続きにまだ何の動きもないことだ。人事部で顔のきく大島沙織(おおしま さおり)に電話をして事情を聞いてみた。驚いたことに、沙織は三久が退職を申し出ていたことすら知らなかった。人事部長のアシスタントとして、三久の退職申請は必ず沙織の手を通るはずだ。知らないということは、トップである由樹がまだ決裁を下していない証拠だ。三久は車のアクセルを踏んで、百栄グループ本社へ直行した。あいにく由樹は会議中で、秘書室のスタッフに応接室で待つよう促された。三十分ほど待っていると、千歳が現れた。今季限定のブランドバッグを腕にかけて、完璧なメイクに血色のよい肌。秘書室のスタッフと笑いながら話すその姿には、すでにここの女主人のような貫禄があった。社長室に入る前に、千歳は応接室に座る三久をちらりと目に入れた。そっと若い秘書の松村奈緒(まつむら なお)を手招きして聞く。「あれ、何?」「早坂支社長が社長にご用があるようですが、事前にアポイントメントがなかったので、お待ちいただいております」奈緒は千歳に愛想よく笑いかけた。千歳は手入れの行き届いた爪をいじりながら、目を光らせて奈緒に何かを小声で耳打ちした。ほどなくして、奈緒が応接室に入ってきた。「早坂支社長、社長はお時間がございません。お引き取りいただけますか」三久は顔を上げた。「会議はまだ終わっていませんよね。それは社長がおっしゃったことじゃないはずです」奈緒が言葉に詰まった。三久は冷静に言った。「会議が終わりましたら、五分だけお時間をいただきたいと社長にお伝えください」「お電話ではなくわざわざ直接いらしたのは、何か特別なご事情でも?」奈緒は探りを入れてくる。「電話が繋がらなかったもので」そうでなければ、わざわざここ
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第7話
三久は足を止めた。静かに息を飲み込んで、表情が少しずつ固まっていく。「どういうことですか?」哲朗には事情がまったくわからない。「早坂さんが本社に戻りたいってことじゃなかったんですか?」三久はかぶりを振った。「違います。退職を申し出に来たんです」哲朗が目を丸くした。「退職?なぜですか!」「個人的な理由です」三久は端的に答えた。「本社への異動、撤回できますか?」「撤回するにも社長の許可が必要ですし……」哲朗は困り顔だ。三久はこめかみを指で押さえた。じわじわとした絶望的な無力感が込み上げてくる。哲朗がなだめるように言った。「年末は会社が一番忙しい時期ですし、退職のことは年明けにもう一度落ち着いて話しましょう。とりあえず荷物を取りに行って、戻ってきてください。さっそく頼まれごとが入っています。村上さんから、午後の出勤時にタピオカを買ってきてほしいとのことです」「……わかりました」三久はそれだけ言って、支社に荷物を取りに向かった。午後一時、三久は本社の社長秘書席に座っていた。荷物を整理して、マンゴーのタピオカティーを手に社長室へ入る。午後の陽光が窓から差し込み、デスクに向かう由樹を照らしていた。白いシャツに、整った目鼻立ち。品格と威圧感が自然とにじみ出ている。ソファには千歳が腰かけ、テーブルの上は高級な袋菓子だらけだった。三久が入ってきても、由樹はちらりと見ただけで、すぐ仕事に戻った。「村上さん、ご注文のタピオカです」「置いといて」千歳は爪を磨きながら、素っ気なく言った。三久は静かに置いて、席に戻った。自分のデスクを片づけ始めたところで、内線が鳴った。低い声が響くる。「入ってこい」三久は手を止め、再び社長室へ向かった。ドアを開けると、やはり最初に目に入るのは、デスクの前に座る由樹だ。彼がちらりと千歳を見る。三久もつられてそちらを向くと、千歳の不満そうな視線とぶつかった。「買ってきたのはなんで温かいの?」「今は冬ですので。冷たいものがよろしければ……」三久は静かに確認した。千歳は軽くふんと鼻を鳴らした。「当然でしょ」三久は思わず由樹を見た。由樹はデスクの前に平然と座ったまま、何も言わない。「では、今から冷たいものをお持ち
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第8話
宴会場では、由樹が動くたびに自然と人の輪ができた。財界の重鎮たちと和やかに言葉を交わしながらも、次々と彼のもとへ挨拶に訪れる客が途切れることはない。「由樹さん」千歳が横に歩み寄り、親しげに腕を絡めてきた。由樹の腕が一瞬だけわずかに固まったが、すぐにふっと力が抜けた。「ちょうどよかった、紹介しよう。こちらは金子(かねこ)会長だ」千歳は由樹にぴたりと寄り添いながら、愛くるしい笑顔を向けた。「金子様、父からお噂はかねがね伺っております。今日ようやくお会いできて光栄です」「千歳ちゃんが小さい頃、抱っこさせてもらったことがあるんだよ……」金子会長は千歳と和やかに言葉を交わしながら、目を細めて懐かしんだ。その談笑の合間、由樹がさりげなく会場を見回した。三久の姿がない。形の良い眉がわずかに寄った。「由樹さん」千歳がそっと袖を引いた。「みんなにからかわれてるの。いつ結婚するのって」いつの間にか、周囲の話題がそちらへ流れていた。由樹は口の端をかすかに上げた。ただしその完璧な笑みは、決して冷たい瞳の奥までは届いていない。「もうすぐですよ。その時は、ぜひお祝いに来てください」その一言で、周囲の人々がわっと一斉に集まってきた。口々に華やかな祝いの言葉が飛び交う。ビジネスの場とはいえ、財界の頂点に君臨する若き総帥の慶事となれば、座が一気に盛り上がるのは当然だ。群衆の中から、誰かが声を上げた。「酒井社長。あちらは、酒井社長の秘書ですね!?」驚きと、隠しきれない感嘆の混じった声。全員が釣られてそちらへ視線を向け――三久を見た瞬間、場が大きくどよめいた。三久は漆黒のドレスを身につけていた。片側だけにかかる細いストラップが、華奢な鎖骨のラインをいっそう際立たせている。もともと縫い付けられていた悪趣味なリボンはすべて跡形もなく外され、装飾を外した跡が目立つ箇所は、むしろ大胆なスリットに作り変えられていて、美しい背中が大きく露わになっていた。引き締まった細い腰と、蝶のように浮かび上がる肩甲骨。透けるような白い肌が照明を浴びて艶かしく浮かび上がり、凛とした佇まいの中に、どこか危うく艶めいた空気が漂う。手が加えられているとはいえ、名ブランドの隠れた名作は時代を超える。薄化粧で、漆黒の長い髪をあえて巻か
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第9話
財界の宴会の場で由樹に出くわすたびに、洲人は必ず何かしら突っかかってくる。とはいえ、真正面からぶつかっても由樹には到底歯が立たない。だから彼は代わりに、由樹の周りにいる人間に矛先を向けるのだ。たとえば、三久のような、立場の弱い者に。三久はすぐさま踵を返し、人目につかない裏口から出ようとした。だが、洲人はすでに獲物である三久を見つけていた。周りの取り巻きを強引に押しのけて、足早に追いかけてくる。三久が宴会場を出て、人気のない角の廊下に差し掛かった途端、行く手を阻まれた。「やあ。早坂さんじゃないか。見間違いかと思ったよ」由樹が冷徹で口数が少なく、整った顔立ちに一切の隙がない男だとすれば。対して洲人は、顔の造作こそ派手で整っているが、やたらと口が回り、隙あらばいつか一発顔面を殴ってやりたくなるような男だ。「君、支社に左遷されたんじゃなかったのか?どうしてまた、しれっと本社勤務に戻ってきたの?」三久は由樹の有能な右腕として、財界では広く顔が知られていた。半年前に突然支社へ異動して支社長に就いたことで、由樹の逆鱗に触れるような何か重大な失態を犯したのではないかと、尾鰭をつけて噂されていたのだ。「仕事の都合で戻っただけです」三久は感情を殺して短く答えた。「神崎社長。私はこれで失礼します」洲人は壁にドンと手をつき、行く手を強引に塞いだ。「酒井の奴も忙しそうで、声もかけられないしさ。あいつに免じて、君が代わりに俺の酒に一杯付き合ってよ」三久の手の中にあった水の入ったグラスを、強引に奪い取り、代わりになみなみと注がれた赤ワインのグラスを押しつけた。「残さず全部飲んでね」神崎家はこの街の財界では酒井家に次ぐ強大な影響を持つ。洲人も一声上げれば周りがすぐに動く存在だ。以前の三久なら、不要な波風を立てずに穏便に済ませたくて、彼に絡まれても適当に付き合って酒を飲んでいた。でも、今日は絶対に無理だ。「申し訳ありません。体調が優れず薬を服用しておりますので、お酒は一滴も飲めないんです」そのもっともらしい言い訳を、洲人は全く信じなかった。「顔色なんか全然悪くないじゃない。なに?酒井から、俺とは縁を切れって言いつけられてるわけ?」赤い液体の揺れるグラスが、三久の口元にじりじりと迫ってくる。このまま断り続け
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第10話
「なんだ酒井、情けないな」洲人は両手を広げ、勝ち誇ったように笑いながら由樹に歩み寄った。「お前の優秀な秘書、今にもお前から逃げ出したがっていたぜ」由樹は壁に深くもたれ、長い指の間で煙草をゆっくりと燻らせていた。冷たく細められた目が三久を舐めるように一瞥し、そのまま窓の外の暗い夜空に向けられた。「失せろ」薄い唇から、氷のような一言が吐き捨てられた。洲人の笑みは崩れない。挑発するように肩にかけた手を離し、両手を挙げて降参のポーズをとった。「わかった、わかった。酒井社長はさすが威厳がおありだ。俺は退散するよ。ごゆっくりどうぞ」去り際、三久に向かって弾けるような笑顔を向けた。「心配いらないよ。何があっても、俺が守ってあげるからね」見物を楽しんでいるのが丸わかりの軽薄な台詞だった。由樹は表面上は落ち着き払って見えた。だがその深い眸の底には、どろりとした抑えきれない不満と独占欲が濃く滲んでいた。洲人が去り、廊下が不気味に静まり返る。三久は由樹から三メートルほど離れた位置に、立ち尽くしていた。彼が煙草を一本吸い終えるのを、三久はただ黙って見ていた。紫煙が、彫刻のように整った彼の輪郭の周りをゆっくりと漂って消えていく。「社長」耐えきれずに、三久が口を開いた。「名刺は一応受け取りましたが、あれはその場から早く解放されたかっただけです。他意はありません」由樹は紫煙を深く肺へ吸い込み、吸い殻を横の灰皿へ無造作に落とした。端正な片眉がわずかに上がり、声は恐ろしいほど淡々としていた。「そうか」三久の黒目がちの瞳に、かすかな戸惑いがよぎった。問い詰められるかと思ったのに、こんな無関心な反応を予想していなかった。半信半疑なのだろうか?「……はい」三久はうなずいただけで、それ以上余計な説明はしなかった。「酒井社長!」宴会場の中から、呼びかける声がした。「村上さんがお呼びです」由樹は壁からすっと体を起こし、スーツの裾を優雅に整えた。踵を返して、三久を一瞥することもなく宴会場へ戻っていく。三久は二、三歩だけ彼についていこうとした。まだ退職の件で伝えるべきことがあった。すれ違う視線。でも彼女が声をかけるより前に、千歳がドレスの裾を愛らしく持ち上げながら駆け寄ってきて、一直線に由
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