Masuk早坂三久(はやさか みく)の元夫・酒井由樹(さかい ゆき)は、冷淡で無口な男だった。 彼女は昼は秘書として彼に仕え、夜は妻として彼のそばに寄り添った。 それでも二年間、本気で愛されていると実感した瞬間は、一度たりともなかったのだ。 彼の幼なじみである村上千歳(むらかみ ちとせ)が帰国したその日、二人は淡々と離婚届に判を押した。 それなのに半年後、三久は思いがけず妊娠に気づいた。 長年片想いしてきた元夫なんて、もういらない。三久は迷わず、お腹の子と共に彼の前から姿を消した。 由樹が千歳との交際を公表した?私には関係ない。 由樹が千歳にプロポーズした?祝福の言葉を贈ってあげる。末永くお幸せに、どうぞ子宝にも恵まれますように! ところが、千歳と再婚すると噂されていた由樹が、出産当日、「やり直したい」と産院の前に現れたのだ。 三久は「まさか」と言うように、激しくかぶりを振った。 「社長、この子は本当にあなたの子じゃないわ!」 「俺の子じゃなくても、俺が育てる!」
Lihat lebih banyak西戸市は今、一年で最も過酷な厳冬期を迎えていた。毎年の酒井家の慣わしで、潔子は使用人全員に正月休みを出して、実の家族だけで水入らずの年越しを過ごす。ところが今年は摩美たちが揃って海外旅行に出ていて、広い家の中はひどくひっそりとしていた。「ねえ、おばあちゃん。もう一度みくさんを呼んでみようよ」依果はまだ諦めきれずにいた。「みくさんが来てくれたら絶対に賑やかになるし、夜はみんなで一緒に年越しそばを食べて、楽しい年越しができるじゃない!」潔子は依果を呆れたように一瞥した。「あなた、三久ちゃんを家に呼んで働かせようってことでしょ」三久が酒井家に嫁いでからの二年間、お正月の豪華な手料理は、三久が一人で取り仕切って作っていた。彼女の料理の腕は確かで、いつもは文句ばかりの摩美でさえ、味には口出しせず認めていたほどだ。だからお正月のこの二日間だけは、冷え切った家族がめずらしく和やかに過ごせる唯一の時期で、潔子も依果も、あの温かい空気が心底恋しかったのだ。「そんなことないよ!」依果はむきになって言い切った。「だって、お正月をひとりで年越しするみくさんが可哀想だし、みくさんだって、本当に一人でいたいわけじゃないと思う。病院で誘った時だって、気を遣って遠慮してたんだよ、きっと」「……じゃあ、もう一度電話をかけてみなさいな」潔子も内心、三久に来てほしかった。三久が誰の子を妊娠しているかも、由樹と復縁するかどうかも、今の潔子には関係なかった。ただ、三久という娘のことが純粋に好きなのだ。依果はさっそくスマホで電話をかけた。しばらくコールが続いて、三久がようやく出た。「依果ちゃん」「みくさん、今お家にいる?」依果は電話の向こうがとても静かなことに気づいた。いつも子どもたちで騒がしい児童養護施設とは違う。朝の九時。三久はようやく二時間ほど仮眠を取ったところを起こされたのだ。声がひどくかすれている。「家にいるよ。どうしたの?」「おばあちゃんが、やっぱりみくさんにうちで一緒に年越しをしてほしいって。お手伝いさんはみんな休みで誰もいないし、お父さんもお母さんも外国に行ってて、今は私たちだけで。もう、私たちだけじゃまともなご飯も作れなくて……」三久に料理を作りに来てもらうつもりは毛頭なかったが、この哀れっぽい言
「早坂さん。そういえば、一年くらい前のニュースで、酒井の首元に引っ掻き傷があったじゃないか。あれ、心当たりはないか?」洲人はわざわざ、昔のゴシップまで面白そうに掘り起こしてきた。由樹の一挙手一投足が世間に注目されているのだ。三久は夜を共にする時も、彼の体に痕を残さぬよう細心の注意を払っていた。ただ、あの一度だけ。由樹が酔って理性の制御を完全に失い、三久も抗いきれなくなって――まさかそのたった一度の傷が、パパラッチのカメラに収められていたとは。だが、由樹が本気で愛していた女は海外にいて、彼自身もずっと浮いたスキャンダルがなかったから、会社が表立って説明しなくても大きな騒ぎになる前に鎮火したのだ。「……知りません」洲人がわざとらしく舌打ちを連発した。「相変わらず口が堅いね。酒井にしかこじ開けられないってわけか」あの夜の駐車場での、嵐のような口づけを匂わせた言葉だった。三久はハンドルを握り、洲人の自宅の前に車を止めて告げた。「神崎社長。約束を忘れないでくださいね」「わかってるよ」洲人が車のドアを開けて降り、運転席側に回ってきて窓をとんとんと軽く叩いた。「降りて。夜明けまでこの家にいてくれたら、君の付き人はこれで終わりにする」明日は大晦日で、洲人は長男として神崎の本家へ帰らなければならない。三久を付き人として連れていくことは絶対にできないのだ。二日間の約束が、たった一晩で済む計算になる。悪い取引ではないように聞こえる。でも――三久は目の前にそびえる、途方もない価値があるであろう豪邸を警戒して見上げた。煌びやかなライトアップとは裏腹に、どこかひどく不穏な空気が漂っている。「安心して。この家、君一人で自由に使えばいい。俺は本家に帰るから」洲人は車の屋根をぽんと軽く叩いた。「降りて。今、鍵を開けてくるから」彼が理由もなく、ただ夜明けまで女をここに一人でいさせようとしているわけではないのはわかる。だが、三久にはもう、彼の企みから逃れる選択肢がなかった。仕方なく車を降りて、洲人の後について別荘の中へ入った。洲人がスイッチを入れると、建物全体が真昼のように明るく照らし出された。「好きな部屋を適当に選んでいいよ」洲人は広い玄関の壁に凭れて、顎で中を促した。「自分の家だと思って、ゆっくり
洲人は、根っからのどうしようもない遊び人だ。聞いた話では、家業を引き継いだ就任式の日でさえ、神崎家の人間がバーで朝まで飲んでいる洲人を無理やり引っ張り出して、会社へ連れていったという。今夜の彼のテーブルに並んでいる高級な酒だけで、軽く家が一軒建つ額になりそうだった。御曹司の中でも神崎の家格は随一で、巨大なグループを束ねる唯一の後継者だ。周りには羽振りのいい取り巻きが座って、彼に煙草を渡し、火を点け、酒を注ぎ、口々に「洲人さん」と媚びるように呼んでいた。三久は躊躇わず近づいて、洲人の前に立った。「神崎社長」「お、来たね」洲人は自身の腕に抱いていた女を邪険に押しのけ、空いた隣の席を指さした。「ここに座って」「いいえ、結構です。立っております。何なりとお申し付けください」三久は冷たく目を伏せた。グラブに来るからといって、特に着飾ってはいなかった。黒いスラックスにシンプルなニット、その上に地味な黒いダウンコート。隙のない自然体の中に、人を寄せ付けない氷のような冷気が漂っている。わざわざ着飾ってはいないが、その隠しきれない美貌に、一目見て下世話な興味を向けた男がいた。「洲人さん。その上玉、どこで見つけてきたんですか?」洲人は煙草を口にくわえ、紫煙を吐きながらその男に向かって得意げに眉を上げた。「綺麗だろ?」男は下卑た笑いを浮かべてうなずいた。「さすが洲人さんの審美眼!」「勘違いするな、今のところはまだ俺の女じゃない」洲人はからかうように、意味深に三久を見た。駐車場で、由樹が三久に無理やり激しく口づけしたあの場面の動画を見てから、洲人はずっと考えていたのだ。宿敵である由樹の有能な秘書を引き抜くのも、確かに痛快で面白い。だが、由樹が執着している女を自分のものにする方が、男としてずっとおもしろい。こんなに綺麗な女の傍にいて、あの冷血な由樹が本当に何も感じていないとしたら、それは絶対におかしい。洲人はにやりと笑って、また自分の隣の席をとんとんと叩いた。「本当にただの付き人として連れてきたわけじゃないよ。ほら、座って。これだけ人がいるんだから、いきなり変なことはしないよ」三久はしばらく警戒して迷ってから、仕方なく腰を下ろした。だが、洲人との間に、絶対に触れられないほどの距離を取っ
この半年で急成長した村上家の資産は、この数日間の株価上昇で、さらに頂点に達しようとしていた。――三久はアパートに戻って当面の荷物をまとめると、そのまま自分が育った場所である児童養護施設へ直行した。年末年始の数日間はそこに泊まり込んで、子どもたちの世話を手伝うつもりだった。個人で立ち上がったこの児童養護施設の規模は小さい。古い建屋が五、六棟で、暮らしている子どもは十数人。それぞれが何かしら重い体の不調や障害を抱えており、毎月の医療費は馬鹿にならない。支援者からの細々とした寄付は生活費にかろうじて足りる程度で、高額な薬代は、出世した三久と梨々香がほぼ全額を出してきた。残りの足りない分は、院長の浅野温子(あさの あつこ)が内職の手仕事で補っていたが、それで得られる収入は微々たるものだった。三久は買ってきたお菓子を子どもたちに配り終えると、温子の仕事を手伝った。「みくちゃん、りっちゃんから聞いたんだけど。お正月が明けたら、二人でこの街を出るつもりなの?」温子が、手を動かしながら遠慮がちに聞いた。三久が児童養護施設を出て自立してからは、決まった時期に戻ってきて手伝ったり仕送りしたりするだけで、自分のプライベートなことを話したことはなかった。由樹との結婚も、離婚も、そして今の妊娠も、温子は何も知らない。「そうなんです。向こうのほうがいい仕事があって。でも心配しないでください。毎月の仕送りは欠かしませんし、行事ごとには必ず顔を出しますから」温子はそれを聞いてほっとしたように、だが少し照れたような顔で笑った。「そうね……」少し言い淀んでから、「別にお金が心配なわけじゃないのよ。でも、遠くに行ってあなたたちが稼げなくなったりしたら、この子たちは一体どうなるのかと思って」と不安げに続けた。「大丈夫です。私も梨々香も、先のことはちゃんと考えてあります。子どもたちを放り出したり絶対にしませんから」仕事をして数年、まとまった蓄えがあったからこそ、勢いで仕事を辞めて子どもを産み育てる気になれたのだ。「本当に行かなければならないの?」温子が寂しそうにもう一度聞いた。「どこに行くの?」「まだ、はっきりとは決めていないんです。決まったら教えますね」三久は安心させるように微笑んだ。温子はそれ以上深く聞かなかった