Masukステージでのプロポーズのあと、ふたりはすぐに結婚式の準備に取りかかった。優璃は初めての全国ツアーを終えたあと、もともと長めの休暇を取る予定だった。結婚の準備を始めたことで、その休みは半年に延びた。式の準備は両家の両親が引き受けてくれたので、自由な時間を持て余したふたりは車に乗って、この街をあちこち巡った。昔なじみの和菓子屋で買った餅菓子は、今も記憶のままの味だった。ただ今の優璃は体型を保つために、その大半を陽一に食べてもらっていた。夜の海風は格別に涼しく、夜空に咲く花火もきれいだった。けれどいちばんきれいだったのは、陽一の瞳に映る優璃の姿だった。最後にふたりは手をつないで、南雲学院高等学校へ向かった。夕日の下、影がぴったりと寄り添っている。校内の記念掲示には、あの頃ふたりが表彰された際の写真が、今も貼られていた。しばらく見つめて、優璃はしみじみとつぶやく。「もうこんなに年月が経ったのに、この写真まだ貼ってあるなんて」そう言いながら陽一の手を引き、隣の写真掲示コーナーへ目を向けた。貼られている写真が多すぎて、卒業写真を探し出すまでにずいぶん時間がかかった。「そういえば、あのときあなたが先に海外へ行っていなかったら、私たちも一緒に卒業写真を撮れたかもしれないね」あの頃の陽一は高校卒業後、卒業アルバム用の写真撮影にも参加できないまま、慌ただしくA国へ発った。陽一は残念そうな優璃の顔を、愛おしそうに見つめて笑った。「でも大丈夫。今から撮ったって遅くないよ」「え?」驚く間もなく陽一の唇が優璃の頬に触れ、同時にスマホのシャッター音が鳴った。陽一の愛おしそうな眼差しと目を丸くした優璃の姿が、その瞬間のままカメラに収められた。……時は飛ぶように過ぎ、やがて結婚式の当日を迎えた。前日、陽一が電話をかけてたわいもない話をして、気持ちをほぐしてくれたのに、緊張のあまり一睡もできなかった。メイク担当の女性がパフを優璃の頬にしっかり叩き込みながら、自分の結婚式の面白い思い出話をして緊張をほぐそうとしてくれた。「私も夫と結婚したときはすごく緊張したんです。でも入場して夫の顔を見た途端に、急に緊張が消えたんですよ。だって、夫のほうが私よりもずっと緊張してて」そのときの光景を思い出したのか、彼女はふいに
それから半月、優璃はチームを連れて全国ツアーで各地を回った。道中、多くの人の愛情を受け取った。ただひとつ変わらなかったのは、どの会場にも公演のたびに陽一から花が届いていたことだ。ツアー最終公演の地に、優璃はずっと暮らしてきたこの街を選んだ。最終公演にこの地を選んだ理由を記者に問われると、彼女はふとカメラを見上げて笑った。「ここに、私がいちばん愛している人がいるからです」優璃のチームが会場を探していたとき、10万人を収容できる都心の大型スタジアムから直々にオファーがあった。このスタジアムはこの街の顔だ。多くのアーティストがこの街で公演をするなら、ここで演奏したいと願っている。けれどスタジアムの審査はきわめて厳しい。完成から10年でここで公演を行ったアーティストは、20組あまりしかいない。優璃は24組目のアーティストとなった。奇しくも、優璃自身も今年で24歳になる。そのことを心から光栄に思っていた。やがて公演の日がやってきた。開演の30分前、最前列のVIP席の観客がついに入場した。陽一が入ってきて、最前列の真ん中に座ったのを見て、周りの観客はひときわ沸き立った。この数年、ふたりが努力を重ねたおかげで、多くの人が名前を知るようになった。さらに高校時代の同級生ということもあって、ファンの間ではふたりを推す声も多かった。ほかのカップルが仲の良さをアピールしている中、ふたりだけはそうした演出どころか、必要最低限のやり取りすらほとんどなかった。ファンがネタを探すには、高校時代を掘るかゴシップ記者の質問を頼りにするしかなかった。その陽一が自ら公演に姿を現して、家族のために用意された席に座っている。ふたりを推していたファンたちは、これ以上ないほど盛り上がった。もし陽一がそっと指を立てて静かにしてほしいと合図しなかったら、ファンの歓声で会場が揺れるほどの騒ぎになっていただろう。やがて照明が落ちる。せり上がったステージに、青いドレスをまとった優璃がゆっくりと姿を現した。その瞬間、10万人の観客の歓声が空にまで響き渡った。陽一が演奏を生で聴くのはこれが初めてだった。そして7年ぶりにこれほど近くで見るのも。ステージの照明が滝のように降り注ぐ。柔らかな光の輪が優璃を幻想的なヴェールで包み込んでいた。整った顔
凱旋公演を前に、優璃は記者会見を開いていた。公演に関するお決まりの質問がひと通り終わると、ゴシップ担当の記者が質問を投げかける。「羽村さん、学生時代、長谷部グループの長谷部陽一社長と交際していたという噂があったと聞きました。今でも連絡は取り合っていらっしゃるのでしょうか?」記者の口からまた陽一の名前を聞いた瞬間、優璃の瞳がふと揺れた。あの日、約束を交わしてから、陽一は一度も優璃の前に姿を現さなかった。年越しや節目のたびにかかってくる電話や、届くメッセージがなければ、この世に本当にそんな人がいるのかと疑ってしまいそうなほどだった。この数年、優璃が未来のために必死にもがいているあいだ、陽一もまた努力を続けていた。高校在学中から大学レベルの勉強を先取りし、卒業後は名門ハーバード大学へ進学した。18歳になった年には、父から長谷部グループの経営を任され、若くしてトップに立った。3年のうちにグループをかつてない高みへと押し上げ、業界でも一、二を争う存在へと成長させた。一方は若き天才ピアニスト。もう一方は冷徹な若きカリスマ社長。これ以上ないほどのお似合いの組み合わせだ。だからゴシップ担当の記者たちも、過去を掘り下げて何か派手なネタを引き出そうとしているのだった。優璃はふっと微笑んだ。「ずっと連絡は取り合っていますよ。ただ友人として、気にかけていただいているだけです」そのあっさりとしたひと言に、記者たちの目に宿っていた下世話な好奇心はすっと消え失せた。やがて会見は終わり、席を立って公演前の最後の準備のために楽屋へ向かう。そこへアシスタントの高橋莉子(たかはし りこ)が、豪奢な赤いバラの花束を抱えてやってきて化粧台の前に置いた。「優璃さん、これ、長谷部社長が公演のご成功をお祝いしてわざわざ手配してくださったお花です」莉子は花を置くと、荷物を載せたワゴンが次々と運び込まれるのを横目に、説明を続けた。「こちらはスタッフ全員にと長谷部社長がご用意くださった、スイーツとコーヒーです」そのひと言で楽屋中が歓声に沸いた。みんなが口々に感謝を伝える。「優璃さん、ありがとうございます!長谷部社長にも!」「長谷部社長って、本当に優璃さんのことを大切にしてますよね!」莉子は隣に座ってケーキを頬張りながら、うらやましそうに
そのとき、控えめなノックの音とともに、母がそっと扉を押し開けた。「陽一」陽一は壁に手をつき、重い体を支えて床から立ち上がった。「母さん」息子のふらついている様子を見て、母は慌てて歩み寄って支えた。「陽一、あなたに話したいことがあるの」羽村家。机に向かって教科書を復習していた優璃は、ふいにノックの音を聞いた。両親は家にいなかったので、本を置いて玄関へ向かう。扉を開けた瞬間、陽一の姿が視界に飛び込んできた。彼女は反射的に扉を閉めようとしたが、陽一が強引にドアの隙間に手を差し込んだ。驚いて扉を開け直す。「何しに来たの」その口調は今でも冷たかったが、陽一は泣いたあとのかすれた声を聞き取った。陽一の胸が締めつけられ、思わず手を伸ばして頭を撫でようとした。けれどふたりの関係を忘れなかった。伸ばしかけた手をぐっと握りしめる。「優璃、ちゃんと話がしたいんだ」その日の午後、陽一はたくさんのことを話した。けれど優璃の頭は高熱のせいでぼんやりしていた。覚えているのは、最後に言ったことだけだった。「優璃。俺は、愛は何よりも大切なんだって伝えたい」あの日、母と話をしたあとでようやく、ふたりのあいだにある問題の本質を整理できた。優璃は確かに自分を愛している。けれど愛だけであらゆる障害を越えられるとは信じていない。それに、愛だけで成り立っているわけではないことも、忘れてしまっている。愛の中にはたくさんのものが含まれているのだ。そして今日、優璃と話をしに来たのは、優璃に愛とはどういうものなのかをもう一度分かってもらいたかったからだった。その前に、できるだけ早く成長しなければならない。この愛を守り抜く力をつけるために。だから、ひとつ約束をしたかった。この7年間、恋愛はしない。無理に互いを好きでいようとしなくてもいい。会うこともしない。ただ、互いに全力でそれぞれの道を切り開く。そして7年後、それぞれが頂点に立ったときに再会して、サプライズを贈る。優璃は目の前の人の揺るぎない決意に満ちた眼差しを見つめた。胸の内は複雑な思いでいっぱいだった。言いたいことはあまりにもたくさんあった。けれど最後には何も言わなかった。黙ったまま長いあいだ、ふたりは見つめ合う。やがて優璃はゆっくりと手を持ち上げ、指切りをし
そう言い終えると、みんなの反応を見ることもなく傍らのカバンを掴んで出ていった。「優璃!」陽一はなりふりかまわず慌てて追いかけた。ずいぶん走って、やっと彼女の手をつかまえた。「放して」もう演技をすることもなく、優璃ははっきりと命じた。前世で陽一が家でくっつきすぎたとき、よくこんな口調で言ったものだった。すると彼は拗ねた大型犬のようにおとなしく手を放し、優璃がもう一度おいでと手招きするまで、部屋の隅で大人しく丸まっていたものだ。けれど今、目を伏せて見ると、大きな手が手首を強く握りしめている。力をこめすぎて痛み、赤くなっていた。それでも放さないどころか腰を抱き寄せ、優璃の全身を腕の中に閉じ込めた。陽一の目は真っ赤に血走り、声には悲痛な響きがにじんでいた。「優璃、いつまで身勝手でいるつもりだ!前世のお前はずっと俺を愛していたはずなのに、俺のためだと言って、去った本当の理由を最後まで隠し通した。お前は望みどおりになったのかもしれない。でも、俺がどれだけ苦しんだか考えたことがあるのか。全部話してくれれば俺も一緒に背負えたのに!今世だって同じだ。まだ俺を愛してるのに、どうして何度も何度も俺を突き放す!?俺が痛みで死ぬまで満足しないのか……!」最後のほうは声が嗚咽にまじり、震えて言葉もうまく続かなかった。優璃はたまらず目を閉じ、込み上げる涙声を必死に抑える。「陽一。私がどれだけあなたを好きでも、それだけじゃどうにもならないの。私の愛にできるのは、心を慰めて、疲れたあなたが一時でも寄りかかれる場所になることくらい。仕事で力になれるわけでもないし、結局あなたは自分の力で進んでいかなきゃいけない。それに、私だってそんな苦労をあなたにさせたくないし、あなたをここまで育ててきたご両親だって、きっと苦しいと思う。だから私は、勝手かもしれないけど、あなたを本来いるべき場所に戻したいの。陽一、もう現実を見よう。どれだけ好きでも、家のことや立場やお金まで全部乗り越えられるわけじゃない。私たち、最初から出会わないほうがよかったのかもしれない」彼女が言い終えると、もう見ようともせず、その手を引き剥がして黙って背を向けた。陽一は彫像のようにその場に立ち尽くし、最愛の人が遠くへ歩いていく後ろ姿を見つめていた。……その
本当は、記憶を持った陽一が目の前に現れたあの瞬間に、もう降参してしまいたかった。そういえば、陽一は優璃の前で泣くことがほとんどなかった。前世で、事業を立ち上げようともがいていた、最も苦しかった数年間でさえ、いつも笑っていた。だから彼が涙をこぼすたびに、自分も胸が痛くなって抱きしめて一緒に泣いたものだった。けれど、それは昔のこと。今の自分にはそうすることは許されない。だから心を鬼にして、彼女は自分を抱きしめる陽一を力いっぱい突き放した。「ごめんなさい。私たち、知り合いでしたっけ?」彼女の顔に浮かんだよそよそしさは、演技には見えなかった。陽一はその場に凍りついた。時を遡って再会する場面なら、いくつも思い描いてきた。罵られても殴られても受け止める覚悟はできていた。ただ、知らないふりをされるなんて、それだけは一度も想像したことがなかった。突然、胸にこれまで感じたことのない鋭い痛みが走る。よそよそしい眼差しはあまりにも冷たく、心臓に突き立てられた刃のようだった。けれど優璃は気づかないふりをして、傍らにいた学級委員に陽一を示しながら言った。「委員長、他のクラスの人がうちの教室に入ってきてるみたい」陽一が委員長に促され、おとなしく教室を出ていったあと、ずっとこらえていた優璃の涙が頬を伝い落ちた。今でも愛している。本当は自分も前世の記憶があると明かして、抱き合って泣きたい。けれど陽一は、選ばれた人間なのだ。その立場にふさわしい環境や人脈に恵まれ、それを生かして生きるべき人なのだ。自分のために頭を下げ、他人に媚びるような真似をさせてはいけない。もう身勝手で、彼を傷つけるわけにはいかない……決して交わることのない2本の平行線でいるしかないのだ。それからの数日、3組の教室の前では、いつしか見慣れた光景がひとつ増えていた。休み時間のたびに陽一の姿が現れ、燃えるような視線で最前列の席にいる優璃を見つめ続けるのだ。優璃もきつい言葉を投げつけたことはある。けれど彼は少しも動じなかった。そのうちに学校じゅうが知るところとなった。1年1組の長谷部陽一が、3組の羽村優璃にアプローチしている、と。両親も娘のことを信頼していて、少し注意しただけで、それ以上深く干渉することはなかった。ところが、先に動いたのは長谷