Alle Kapitel von 余命を偽った私と、愛を忘れられなかったあなた: Kapitel 1 – Kapitel 10

23 Kapitel

第1話

優璃が陽一に言われたものを買って、南雲学院高等学校に駆けつけると、校門の外に場違いなロールスロイスが停まっているのが目に入った。車体がかすかに揺れている。中から女の甘い喘ぎ声と、男の低く押し殺した呻き声がかすかに漏れてくる。その声の一つ一つが鋭い刃のように、優璃の胸をえぐった。爪が掌に深く食い込んでいるのに痛みは少しも感じない。強く握りしめてひしゃげてしまった箱を指で撫でながら、少しずつ元の形に整える。車のそばまで行き、後部座席の窓から伸びてきた、すらりと長い指に箱を渡した。これもいつものことで、彼女は立ち去らず、助手席に乗り込んだ。ルームミラー越しに、後部座席での情事が優璃の目に飛び込んできた。陽一は前席の優璃に背を向けるようにしていた。スーツをきっちりと着込んだまま、一糸纏わぬ女に覆いかぶさっている。表情は冷え切っているのに動きだけが狂おしく激しい。組み敷かれた女は悦びと苦しさの入り混じった声で手加減を乞い、全身を情欲の色に染めていた。「あっ……社長……もう少し、優しく……っ」陽一は冷たく笑った。低く凍えるような声だった。「手加減したら、お前は満足できないだろう?」そう言うなり、動きはいっそう激しくなる。車の揺れが前の席にまで伝わり、優璃の身体もそれに合わせて震えた。それでも目を逸らさない。まるで自分を痛めつけるようにすべてを見つめ続けた。やがて女が甲高い声を上げ、ようやく陽一は身を離して座席に座り直すと、無造作に窓を下ろした。冷たい風が吹き込み、車内にこもっていた濃密な情事の気配を吹き飛ばしていく。陽一は煙草に火をつけた。立ちのぼる紫煙に霞んで、優璃には陽一の顔がよく見えない。先に優璃に気づいたのは、女のほうだった。「きゃっ!」女は小さく悲鳴を上げると、陽一の胸元に身を寄せた。「社長、なんで使用人まで乗ってるんですか?早く降ろしてくださいよ」陽一は優璃をちらりと見やり、気のない口ぶりで言った。「使用人なんかじゃない。こいつは俺の初恋の相手だ。愛しても手に入らなかった、忘れられない女だよ」陽一は煙を深く吸い込むと、煙草を挟んだ右手をゆっくりと持ち上げた。「この手が見えるか?彼女を庇って事故に遭って、今も重い後遺症が残ってる。もう一生、車は運転できない」まるで他人の身の
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第2話

それから数日、陽一は一度も屋敷に帰ってこなかった。けれどそのことに優璃はほっと胸を撫で下ろしていた。癌と診断されてからというもの、優璃は毎日病魔と闘い続けている。これまでどれだけ薬を飲み、何度化学療法を受けても病状は良くならず、緩和ケアに切り替えた今も、毎日のように血を吐き、髪はごっそりと抜け落ちていった。体は無数の槌で打ちつけられているようで、骨が少しずつ砕けていくような痛みが走る。どれだけ睡眠薬を飲んでも眠りは訪れなかった。その夜も、また激しい痛みに襲われた。優璃はふらつきながら蛇口をひねり、洗面台に残った血を水で流した。勢いよく流れる水の音に紛れても、苦しそうな息遣いだけは隠しきれなかった。蛇口を閉め、重い足を引きずるようにして、一歩ずつ寝室へ向かう。そのとき、リビングのテレビが速報ニュースに切り替わった。「……長谷部グループ社長の長谷部陽一氏と、夏井家のご令嬢、夏井加莉奈(なつい かりな)が婚約を発表しました。お二人は来月、結婚式を挙げる予定です……」優璃の足がぴたりと止まった。思わずテレビのほうへ顔を向ける。画面の中で陽一は仕立てのいい黒いスーツに身を包み、その隣には明るい笑顔の加莉奈が寄り添っている。優璃の目が大きく見開いた。そして心臓まで、鷲掴みにされたようだった。画面の向こうでは、記者が遠慮なく質問を投げかけていた。「長谷部社長はこれまで、女性関係の噂が絶えませんでしたよね。それなのに、なぜ突然、夏井さんとの婚約を決めたんですか?」普段は冷たい印象の陽一も、その時ばかりは少しだけ表情を和らげた。「昔、事故で腎臓を損傷して倒れたことがあるんです。その時、腎臓を提供してくれて、命を救ってくれた人がいました。ずっとその人を探していました。見つけたら、どんな望みでも叶えて、恩を返したいと思っていたんです。それが加莉奈だったと知ったのは、つい最近です」優璃は息を呑んだ。胸元をきつく握りしめる。そうすれば引き裂かれるようなこの痛みが少しは和らぐとでもいうように。違う……そうじゃない……あの頃、陽一の父に迫られて、陽一と別れた優璃は、海外へ渡った。ところが陽一は諦めきれずに追いかけてきて、そのうえ事故に遭い、腎臓が破裂してしまったのだ。知らせを聞いて慌てて戻り、名前を伏せて陽一に腎
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第3話

キッチンでの物音は、すぐさま外にいた陽一の耳に届いた。ドアを押し開けた陽一の目に飛び込んできたのは、床に倒れて火傷で脚を赤く腫らした加莉奈と、その傍らで青ざめて立ち尽くす優璃の姿だった。陽一の顔がたちまち険しくなる。大股で歩み寄ると、加莉奈を抱き起こした。「どうした!」加莉奈は目尻を赤くし、うるんだ瞳で陽一を見上げた。「陽一、さっきあなたのところの使用人が、あなたの物を盗んでたのよ。止めようとしたら、その人が……」言葉は語尾を濁して消えたが、何が言いたいかは明らかだった。優璃が弁解しようとした矢先、陽一に突き飛ばされ、床へ倒れ込んだ。割れた器の破片の上に手を突いてしまい、血がどっとあふれ出した。頭も戸棚の角に強く打ちつけている。「羽村優璃、お前はそんなに金が好きなのか!昔は金のために俺を捨てて、今度は盗みまで働くというのか!」骨まで凍りつくほど冷たい声。その目には、嫌悪の色しかない。優璃は喉が詰まり、長いあいだひと言も絞り出せなかった。陽一は加莉奈を抱き上げ、振り返りもせずキッチンを出ていく。優璃は床に丸まり、声もなく涙をこぼした。昔の陽一なら、人混みの中でもひと目で自分を見つけ出してくれた。ほんの小さな怪我でも大慌てで心配してくれたのだ。けれど今、陽一の目に映っているのは、あの加莉奈だけだ。でも、それでいい……そのほうが自分が死ぬとき、陽一はそれほど悲しまずに済むから。味をしめたのか、それからの数日、加莉奈は長谷部家の屋敷に居座り、ひっきりなしに優璃をこき使うようになった。お茶を運ばせ、水を持ってこさせる。挙げ句には下着まで洗わせる。加莉奈が陽一の心の中でどんな存在か、優璃は痛いほど分かっていた。だからただ耐えるしかなかった。その日、加莉奈は新しい楽しみを思いついたらしく、優璃を無理やりショッピングモールへ連れ出し、下着を選ばせた。「仕方ないのよー。最近、陽一が激しくて。下着を何着も破られちゃったんだから……」優璃は胸を刃でえぐられる思いで、それでもじっと耐え、何でもないふりをした。加莉奈は何着か選んで試着室に入った。優璃がカーテンを閉めようとしたとき、ふいに手首を強くつかまれた。「どこへ行くのよ。さっきからこの下着ばっかり見ていたじゃない」加莉奈は冷たく笑った。
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第4話

優璃はしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと体にかかった上着を握りしめ、その中に顔をうずめた。声を殺して流す涙が、上着を濡らしていく。胸が引き裂かれるように痛んだ。どれほどのあいだ床にうずくまっていたのだろう。ふたりが去ってからずいぶん時間が経って、ようやく優璃は重い体を起こし、上着を羽織って出口へ向かった。そのとき、モールの火災報知器がけたたましく鳴り響いた。大勢の人が我先にと非常口へ殺到する。優璃は焦り、衰弱した体も顧みず必死に人波へ紛れ込んだ。けれど足元はふらつき、後ろの人々は容赦なく優璃を押しのけていく。「邪魔だ!どけよ!」弱りきった優璃の体は、軽く押されただけで簡単に床へ崩れ落ちた。数えきれない足が頭上を踏み越えていき、痛みが波のように全身を襲う。優璃は床に丸まり、両手で必死に頭を庇った。耳に届くのは騒がしい足音と悲鳴ばかり。まぶたはどんどん重くなり、視界がゆっくりとかすんでいく。目からあふれた涙が、床の埃と混じり合って頬を汚した。痛みに耐えきれず意識が途切れようとしたそのとき、遠くから聞き慣れた声が響いた。「……優璃!羽村優璃!」朦朧とした意識のまま顔を上げると、誰かが我を忘れたようにこちらへ駆けてくるのが見えた。あまりに必死で、あまりに慌てていて、その目には優璃への思いだけがあふれている。あれは……陽一。……優璃は言い争う声で目を覚ました。ゆっくりと目を開けると、自分が病院のベッドに横たわっていることに気づいた。病室のドアは半開きで、外から陽一と加莉奈の言い合う声が聞こえてくる。加莉奈は涙の跡だらけの顔で、目の前の陽一を責め立てていた。「ただの使用人だって言ってたじゃない!火事の中まで飛び込んで助けたりするなんて!あの女、いったい何者なの!?」陽一は眉間を押さえ、加莉奈を腕の中に抱き寄せた。「言っただろ。あいつはただの使用人だって。余計なことまで気にするなよ。な?いい子だから。これからはもう、あいつには関わらない。それでいいだろ?」加莉奈は明らかに信じていない。泣き声混じりに言った。「じゃあ、証明してみせてよ!陽一にとって何でもないって!」陽一はしばし黙り込み、やがて病室のドアを押し開けて入ってきた。視線が優璃に落ちる。冷たく、そして複雑な色をし
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第5話

今度は優璃が凍りつく番だった。ずっと隠し通してきた秘密が、こんな形で暴かれるなんて、思ってもみなかったからだ。慌てて弁解しようと口を開いた途端、大量の血が彼女の口からあふれ出し、そして目の前が真っ暗になり、意識は完全に途切れた。「優璃!」意識を失う最後の瞬間、目に映ったのは、我を失って狼狽する陽一の顔だけだった。救急救命室の外で、陽一は血に染まった両手を見つめていた。その目には、恐怖しかない。人がこれほど大量の血を吐けるなど、今まで知らなかったのだ。救急救命室に運び込まれてから丸ひと晩が過ぎたが、それでも優璃は出てこなかった。激しい不安が茨のように心臓に絡みつき、じわじわと締めつけていく。息もできないほどの重苦しさだった。ついにじっとしていられなくなり、陽一は勢いよく立ち上がって救急救命室へ向かった。扉に手をかけたとき、頭の中にいくつもの光景が次々と浮かんだ。医師たちに必死の救命処置を受けている優璃の姿を、直視できる自信がなかった。扉に添えた手が激しく震え出し、一瞬、押し開ける勇気さえ失った。石像のようにその場に立ち尽くし、ずいぶん経ってからようやく扉を開けた。しかし思い描いていたような光景は、そこにはなかった。それどころか、優璃は何事もなかったかのように、主治医の前に座っていたのだ。顔には先ほどまでの衰弱した様子も青白さもなく、血色のいい頬には笑みさえ浮かべている。その手には分厚い札束が握られていた。昨日、酒を飲ませるために叩きつけたあの金だ。その光景を見て陽一の胸に安堵が込み上げた。よかった。無事だった。様子を尋ねようと歩み出しかけたとき、優璃が札束を医師の前に差し出し、こう言うのが聞こえた。「先生、先ほどは合わせてくださってありがとうございます。あの人、まんまと騙されてくれましたね。このあとも私の病状をもう少し重く伝えてもらえませんか。まだ信じてくれるようならもっとお金を出すかもしれません。そのときは山分けにしましょう」医師は嬉しそうに笑い、金を受け取りながら何度もうなずいた。「任せてください、お安い御用ですよ」陽一の足がその場で凍りついた。胸の奥で怒りの炎が燃え上がった。勢いよく駆け寄ると、机の上の札束をまとめて優璃の顔に叩きつけた。「羽村優璃、また俺を騙
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第6話

あの「茶番」が暴かれて以来、陽一は完全に優璃を遠ざけるようになった。どこへ行くにも優璃を連れて行こうとはせず、ひと言も口をきかなくなった。その冷たさは鋭い刃となって、少しずつ優璃の胸をえぐっていく。そんな態度をすべて見ていた加莉奈はすっかり満足し、それからは優璃への嫌がらせをもう隠そうともしなくなった。1日目。加莉奈は優璃を炎天下に立たせ、芝生の上にまき散らされた小さな真珠を1粒ずつ拾わせた。容赦ない日差しの下で腰をかがめ、1粒、また1粒と拾い続ける。汗で服はぐっしょり濡れ、目の前が何度も真っ暗になった。ようやく最後の1粒を拾い上げたところで、熱中症で倒れた。2日目。今度は屋敷の床をすべて磨き上げるよう命じてきた。隙間のひとつひとつまで丁寧に。優璃は床に膝をついて拭き続け、水に浸かった手は白くふやけ、膝は擦れて血が滲んだ。一睡もせず丸ひと晩かけて、ようやく床を磨き終えた。そして、3日目。加莉奈は突然の思いつきで、街の北端にある店のお菓子が食べたいと言い出した。優璃は何も言わず、街の南から北まで走って買いに向かった。ところが買って帰ると、加莉奈は嫌そうに眉をひそめた。「すっかり冷めているじゃない。買い直してきなさい」優璃は一言も言い返さず、踵を返してもう一度走り出した。今度は突然、激しい土砂降りに見舞われた。お菓子が濡れないよう上着を脱いで箱をきつく包み込み、自分の体は雨に打たれるままにした。顔の雨を拭う余裕もなく、彼女は長谷部家の屋敷へ向かってひたすら走る。だが道路を渡ろうとしたそのとき、暴走した車が優璃に突っ込んできた。ドンッ!優璃の体は羽の折れた蝶のように宙を舞い、無残にも地面に叩きつけられた。地面に落ちた瞬間、意識がかすんでいった。ブレーキの音、通行人の悲鳴、サイレン。すべてが少しずつ遠のいていく。死ぬのだと思ったそのとき、遠くから切羽詰まった声が聞こえてきた。「おい、お嬢さん!大丈夫ですか?すぐ病院に連れていきますから!」運転手が必死に肩を揺さぶり、優璃は少しずつ意識を取り戻した。優璃が最初に確認したのは、運転手への返答ではなく、腕の中のお菓子の箱だった。箱が無傷なのを確かめるとよろめきながら立ち上がり、かすれ声で絞り出した。「いえ……大丈夫です。行か
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第7話

優璃は痛みで目を覚ました。やっとの思いで目を開けると、自分が使用人部屋のベッドに寝かされていることに気づいた。時間を確かめようとスマホに手を伸ばしたが、腕が鉛のように重くどうしても持ち上がらない。頭は重くぼんやりしている。喉は火に焼かれたように乾ききって、唾を飲み込むたびに刃物を飲み込むようだった。事故のせいなのか、癌の痛みなのか、もう分からない。痛みは鋭い針のように容赦なく優璃の全身を貫き、ベッドの上で丸くなって歯を食いしばった。それでも彼女は、苦しげな呻きを堪えきれなかった。這うようにしてベッドを降り、引き出しを開けて薬を探そうとする。けれど薬を取り出す前に、喉の奥に鉄の味がこみ上げ、勢いよく血を吐き出した。優璃の手の中の錠剤がぱらぱらと床にこぼれ落ち、思わず胸を押さえるほどの激痛が走った。そのとき、すぐそばに転がっていたスマホが鳴った。彼女は朦朧としたまま手を伸ばし、電話に出た。電話の向こうから陽一の息遣いが聞こえてきた。一瞬、優璃の頭がぼんやりとする。愛し合っていた頃、熱を出したり具合が悪くなったりするたびにそうしていたように、彼女は無意識のうちに、電話の向こうの陽一に甘えるように、泣き声を漏らしていた。「陽一……痛いの……痛い……痛くて、死んじゃいそう……」電話の向こうの陽一は何も言わなかった。長い沈黙のあと、氷のように冷たい声がスピーカーを通して鼓膜を刺した。「羽村優璃。そういう芝居はもうたくさんだ」冷や水を浴びせられたように、優璃は一瞬で我に返った。通話画面に表示された【長谷部陽一】の文字を見て、自分が何をしたのかようやく気づいた。彼女は大きく息を吐き、痛みをどうにか抑え込んで必死に笑みを作った。「もう騙されてくれないのね。陽一、その様子だと、本当にもう私を愛していないんだ」愛していない。それでいい。愛されていないほうが、ずっといい。それから数日、陽一は一度も家に帰ってこなかった。優璃は冷え切った部屋で丸くなっていた。捨て猫のようにやせ細り、息も弱々しい。顔色は土気色になり、皮膚は透けそうなほどで、口元にはまだ拭いきれていない血の跡が残っている。瞳は光を失ったガラス玉のように虚ろだった。優璃が陽一の姿を見られる方法はたったひとつ、加莉奈のSNSだった
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第8話

四方の壁いっぱいに、かつての優璃と陽一の写真が貼られていた。とっくに燃やされたと思っていた日記、ラブレター、写真、贈り物。優璃にまつわるものすべてが大切に保管されている。優璃の心臓が激しく波打った。複雑な感情が怒涛のように押し寄せ、すべてを呑み込んでしまいそうだ。陽一はあれほど自分を憎んでいたはずなのに、どうしてこんな思い出を残していたのだろう。深くは考えられなかったし、勝手な想像をする勇気もなかった。陽一がまだ自分に未練があるなんて、そんな淡い期待を抱く勇気すらなかった。今の自分には、もう陽一の愛を受け止める力がない。「……それで、私が何をすればいい?」優璃は顔を上げた。声はかすれて疲れきっていた。加莉奈は写真の前まで歩き、色褪せた写真の上に指先をそっと滑らせて小さく笑う。「あんなにひどいことをしてきたのに、陽一は今でもあんたを愛しているわ。でもね、婚約者の心に他の女がいるのを許せる女なんて、どこにもいないのよ」その声は雑談でもしているかのように軽かった。「だから、彼があんたを完全に諦めるように、仕向けてくれない?」優璃は両手で服の裾を強く握りしめた。指の関節が白くなる。顔は紙のように青白く、虚ろな目で壁一面の写真を見つめていた。長い沈黙のあと、自分の声が響いた。ずっと遠くから聞こえてくるようだった。「……分かった。3日後の夜、陽一が屋敷に帰ってくるようにして」……3日後、雨の夜。黒いマイバッハが屋敷の前に静かに停まった。陽一は傘を差して石段を上がり、玄関の扉を押し開ける。中は真っ暗で静まり返り、自分の鼓動しか聞こえない。優璃に騙されて以来、陽一はこの家に帰りたくなくなっていた。優璃の顔も、もう見たくなかった。あの顔は、かつての自分の深い愛情がいかに滑稽なものだったかを、嫌でも思い知らされるからだ。けれど今日、加莉奈が突然、話があるから家に帰ってきてと言った。それで陽一は渋々帰ってきたのだ。1階には誰もいない。加莉奈は眠っているのだろうと思い、階段を上がっていく。そのとき、2階からかすかな声が聞こえてきた。陽一の足がぴたりと止まる。その声が何を意味するのか、陽一ほどよく知っている者はいない。勢いよく顔を上げ、声のするほうへ目をやった。半開きになったド
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第9話

残された時間があと3日ほどだと告げられたその日、優璃は病院のスタッフに手伝ってもらいながら、身の回りの整理を始めた。自分名義の契約や連絡先を一つずつ確認し、必要な手続きを済ませていく。最後の書類を鞄にしまったところで、ふいに涙がこぼれ落ちた。こうして一つずつ片づけていけば、この世に残してきた自分の痕跡も、少しずつ消えていくのだろう。翌日、優璃はどうしても行きたい場所があると頼み込み、体調を見ながら短時間だけ外出を許された。車椅子で向かったのは、陽一と通った高校だった。注射の跡が残る細い手を伸ばし、並木道の木、バスケットゴールのネット、教室の机と椅子を、一つずつゆっくりと撫でていく。ふと、17歳だった頃の、まだあどけなさの残る陽一がそこにいるような気がした。優璃を背負って並木道を駆け抜けてくれたこと。抱き上げて、バスケットゴールに手が届くようにしてくれたこと。机の間に閉じ込められるようにして、思うままキスをされたこと。耳元で何度も「好きだよ」と囁いてくれた、17歳の陽一の声まで聞こえてくるようだった。そして、残された最後の日。優璃は病院の付き添いを受けながら、両親が眠る霊園を訪れた。車椅子を墓前で止めてもらい、墓石に刻まれた二人の名前をじっと見つめる。震える手で花を供えると、優璃は無理に笑った。「お父さん、お母さん。もう少しだけ待ってて」「もうすぐ、そっちに行くから」夕陽が傾き、優璃の後ろには寂しげな長い影が伸びていた。帰ろうと車椅子の向きを変えてもらったその時、優璃の視線がある一点でぴたりと止まった。視線の先には、寄り添うように立つ男女の後ろ姿があった。別れてまだ3日しか経っていないのに、病に苦しみ続けた優璃は、もう陽一の顔さえうまく思い出せなくなっていた。優璃は呆然と彼を見つめた。その姿を、この目に、記憶の奥に、最後まで焼きつけておきたかった。少し離れた場所で、加莉奈を連れて両親の墓参りに来ていた陽一も、やがて優璃の存在に気づいた。陽一はまるで見知らぬ他人でも見るように優璃を一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。優璃の胸が、針で何度も刺されるように痛んだ。もうこれ以上ここにはいられない。付き添いの人に車椅子を押してもらおうとした、その時だった。「羽村
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第10話

長谷部家と夏井家。二大名家の縁組とあって、各界の著名人が次々と式場に足を運んでいた。厳かなチャペルの中、きっちりとタキシードを着こなした陽一は牧師の隣に立ち、何度もスマホに目をやっている。朝、陽一は優璃にメッセージを送っていた。自分の結婚式にいつ来るのか、と尋ねる内容だ。もちろん、普通の招待客のように式へ出席してほしいわけではない。別の女とバージンロードを歩く姿を、その目で見せつけたかったのだ。優璃がいなくなっても、自分はこんなにうまくやっているのだと思い知らせたかった。それなのに今になっても返信はない。優璃らしくない。あれほど虚栄心が強く金に目のない女なら、きっとすぐに「行く」と返してくるはずだ。そしてそれをいいことに、結婚式を口実に大金をゆすり取ろうとするだろう。だからあらかじめ大勢のボディガードを手配しておいた。優璃が式で騒ぎを起こそうものなら、担当のボディガードがすぐさま口を塞いで引きずり出す手はずになっている。しかし優璃は、ひと言も返してこなかった。空白のままのトーク画面を見つめるうち、スマホを握る手にじわじわと力がこもっていく。ついに陽一は、傍らの秘書へ低く命じた。「優璃がどうしたのか、見てこい」アシスタントがうなずいて出ていこうとしたとき、ふいに呼び止めてもうひと言つけ加える。「本人が来たがろうが来たがるまいが関係ない。たとえ死体になっていても引きずってこい」言い終えるや否や、牧師が式の開始を告げた。陽一はようやく視線を戻し、遠くの固く閉ざされた扉へ目をやる。聖歌隊の歌声とともに重い扉がゆっくりと開かれた。純白のウェディングドレスをまとった花嫁が、スズランのブーケを手にしずしずと歩いてくる。ステンドグラスを通した暖かな陽光が降りそそぎ、その姿をいっそう美しく引き立てていた。バージンロードの両側で招待客が口々にその美しさを称え、遠くに立つ陽一までもが思わず息を呑む。どういうわけか、ふと優璃を思い出した。ずっと昔、まだふたりが貧しかった頃、帰り道にブライダルショップの前を通ったことがあった。ショーウィンドウに飾られた美しいドレスに、優璃は羨ましそうに憧れのまなざしを向けていた。あの頃の陽一はお金がなかった。それでも約束した。金持ちになったら、世界でいちばん高いド
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