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第9話

作者: 叶ちゃん
残された時間があと3日ほどだと告げられたその日、優璃は病院のスタッフに手伝ってもらいながら、身の回りの整理を始めた。

自分名義の契約や連絡先を一つずつ確認し、必要な手続きを済ませていく。

最後の書類を鞄にしまったところで、ふいに涙がこぼれ落ちた。

こうして一つずつ片づけていけば、この世に残してきた自分の痕跡も、少しずつ消えていくのだろう。

翌日、優璃はどうしても行きたい場所があると頼み込み、体調を見ながら短時間だけ外出を許された。

車椅子で向かったのは、陽一と通った高校だった。

注射の跡が残る細い手を伸ばし、並木道の木、バスケットゴールのネット、教室の机と椅子を、一つずつゆっくりと撫でていく。

ふと、17歳だった頃の、まだあどけなさの残る陽一がそこにいるような気がした。

優璃を背負って並木道を駆け抜けてくれたこと。

抱き上げて、バスケットゴールに手が届くようにしてくれたこと。

机の間に閉じ込められるようにして、思うままキスをされたこと。

耳元で何度も「好きだよ」と囁いてくれた、17歳の陽一の声まで聞こえてくるようだった。

そして、残された最後の日。

優璃は病院の付き添いを受けながら、両親が眠る霊園を訪れた。

車椅子を墓前で止めてもらい、墓石に刻まれた二人の名前をじっと見つめる。

震える手で花を供えると、優璃は無理に笑った。

「お父さん、お母さん。もう少しだけ待ってて」

「もうすぐ、そっちに行くから」

夕陽が傾き、優璃の後ろには寂しげな長い影が伸びていた。

帰ろうと車椅子の向きを変えてもらったその時、優璃の視線がある一点でぴたりと止まった。

視線の先には、寄り添うように立つ男女の後ろ姿があった。

別れてまだ3日しか経っていないのに、病に苦しみ続けた優璃は、もう陽一の顔さえうまく思い出せなくなっていた。

優璃は呆然と彼を見つめた。

その姿を、この目に、記憶の奥に、最後まで焼きつけておきたかった。

少し離れた場所で、加莉奈を連れて両親の墓参りに来ていた陽一も、やがて優璃の存在に気づいた。

陽一はまるで見知らぬ他人でも見るように優璃を一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。

優璃の胸が、針で何度も刺されるように痛んだ。

もうこれ以上ここにはいられない。

付き添いの人に車椅子を押してもらおうとした、その時だった。

「羽村優璃!」

加莉奈の声に呼び止められ、優璃はわけも分からないまま振り返った。

目の前に差し出されたのは、華やかな結婚式の招待状だった。

そこには、二人の名前が並んでいる。

【夏井加莉奈・長谷部陽一】

お似合いに並んだ二人の名前が、優璃の目に痛いほど突き刺さった。

ずっと昔、陽一に言われたことがある。

いつか結婚する時は、招待状には優璃の名前を俺より先に書く。

優璃がいつだって俺の一番だから――と。

耳元で、加莉奈の得意げな声が響いた。

「陽一は、あんたを長谷部家から追い出して、二度と顔も見たくないって言ってたけど、あれは勢いで言っただけよ。

だって、使用人が勝手に男を家に連れ込んで、家の中であんなことをしてたら、誰だって腹くらい立つでしょう?

でも私から言っておいたの。あんたも長谷部家で何年も働いてたんだし、せっかくだから来てもらおうって。

明日、私と陽一、結婚式を挙げるの。ぜひ来てね」

結婚式。

優璃は口元にかすかな笑みを浮かべた。

きっと、行けない。

けれど結局何も言わず、ただ招待状を受け取って黙ってその場を離れた。

病院へ戻る道すがら、ふと昔、陽一と暮らしたアパートの前を通りかかった。

かつてふたりで暮らしたあの部屋にまた暖かな明かりが灯り、カーテンには寄り添うふたつの影が映っている。

ぼんやりと見入っていると、年老いた声が現実に引き戻した。

「あら、優璃ちゃんじゃない。何年ぶりかしら。あの頃の彼氏さんとはどうなったの?結婚した?」

声のほうを見ると、かつての大家さんが目もとに笑みを浮かべてこちらを見ていた。

優璃もつられて笑う。

「はい、うまくいってます。もうすぐ結婚するんです」

ただ、花嫁は自分ではない。

翌日、この街には珍しく、雲ひとつない青空が広がっていた。

優璃は病室のベッドに横たわり、静かに窓の外を眺めていた。

もう起き上がる力もほとんど残っていない。

痛みを和らげるための点滴がゆっくりと落ちる中、意識は少しずつ遠のいていった。

眠りに落ちそうになった、その時だった。枕元に置いていたスマホの画面が、ふいに光る。

久しぶりに、陽一からメッセージが届いていた。

【今日、俺の結婚式だ。いつ来る?】

優璃は震える手を伸ばし、どうにかスマホを手に取り、返事を打とうとする。

けれど指にはもうほとんど力が入らず、視界もぼやけて、文字さえまともに見えなかった。

それでも何度か画面に触れようとしたが、やがて腕から力が抜け、スマホがそっとシーツの上に落ちた。

もう、目を開けていることすらできない。

最後に、優璃の目尻からひと粒の涙がこぼれた。

「行かないよ、陽一……

もう……あなたの前には、現れないから……」

それきり、優璃は二度と目を開けなかった。

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