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リュゼリア・ディルクレイド
旧姓:フォンティア
年齢:24歳 立場:公爵夫人 / 元侯爵令嬢基本プロフィール
侯爵家の長女として育ち、政略のためディルクレイド公爵家へ嫁いだ女性。
社交界では「静謐の花」と呼ばれるほど穏やかで上品な美貌を持つが、その内面には誰よりも強い矜持を秘めている。結婚後は冷え切った夫婦関係の中でも公爵夫人として完璧に振る舞い続け、屋敷の内外を陰で支えてきた。 しかし余命半年の宣告を受けたことで、ようやく“誰かのためだけではない人生”を選ぶ決意をする。容姿
柔らかな月光を思わせる、淡い蜂蜜金の長い髪を持つ。
髪質は繊細でやわらかく、光を受けると金糸のように透ける。普段は上品にまとめていることが多いが、ほどけた時にはどこか儚く、触れれば消えてしまいそうな印象を与える。 瞳は澄んだ薄青。静かな湖面のような色合いで、感情を押し隠す時ほど冷たく美しく見えるが、本来はとても優しい目をしている。 肌は白くきめ細かいが、最近は体調不良の影響でやや血色を失っている。細身で華奢な体つきながら、立ち姿や首筋の角度に育ちの良さがにじみ、弱々しいだけでは終わらない気高さがある。 派手な美人というより、目を離したあとでじわじわ残る類の美しさ。性格
穏やかで、聡明で、感情を人前で荒げない。
もともと人の機微を読むのが得意で、相手の立場や事情を汲み取り、自分を後回しにしてでも場を整えようとする性質がある。 一見すると従順でおとなしいが、実際には芯がとても強く、いったん「もう戻らない」と決めたら簡単には覆らない。 愛されない苦しみを長く抱えてきたせいで、自分の痛みには鈍感になっているところがある。耐えることに慣れすぎていて、限界を越えてもなお笑おうとしてしまう。 その反面、最後には誰にも奪えない尊厳を自分の手で守り抜く、静かな強さの持ち主。得意分野
・社交術
・帳簿管理、屋敷運営 ・人間関係の調整 ・花の手入れ、庭づくり ・刺繍や室内装飾 ・相手の体調や感情の変化を察すること派手に目立つ才ではないが、彼女がいることで場が整い、人が回り、家が保たれる。
ディルクレイド公爵家が内外で高く評価されてきた陰には、彼女の細やかな支えがあった。弱さ・傷
愛されたい気持ちを長く押し込めてきたため、自己肯定感が低い。
「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と考えてしまう癖があり、傷ついても平気なふりをする。 夫に対しても本当はずっと期待していたが、その期待が裏切られるたび、少しずつ心を削られていった。 だからこそ離縁を告げる時の彼女は、怒っているのではなく、もう“諦めきってしまった”静けさを帯びている。ヴィルレオ・ディルクレイド
年齢:28歳
立場:ディルクレイド公爵家当主 / 王国を支える若き公爵基本プロフィール
王国でも屈指の権威と実力を誇るディルクレイド公爵家の現当主。
若くして政治、軍務、領地経営のすべてを高水準で担い、国王からも厚い信頼を寄せられている。 社交界では「氷の公爵」と恐れられるほど冷静沈着で隙がなく、感情を表に出さない。 妻であるリュゼリアに対しても、その不器用さゆえに冷たい態度しか取れず、結果として彼女を深く傷つける。 失いかけて初めて、自分の中にあった愛の深さと、取り返しのつかない過ちを知る男。容姿
艶を抑えた黒髪に、深い青灰色の瞳。
整った顔立ちは鋭く、表情が乏しいため近寄りがたい印象を与える。黙って立っているだけで空気が張りつめるような、静かな威圧感をまとっている。 長身で肩幅も広く、鍛えられた体躯を持つため、正装や軍装風の衣服がよく似合う。 指先まで無駄なく整っていて、所作には一切の緩みがない。 美形だが柔らかさはほとんどなく、“冷たく美しい刃”のような男。性格
寡黙で理性的、責任感が非常に強い。
公爵としての資質は申し分なく、誰よりも義務を重んじ、民にも部下にも誠実であろうとする。 だが、私情の扱いだけが致命的に下手。 大切なものほどどう扱えばいいかわからず、言葉にできず、守ろうとして距離を置く悪癖がある。 自分の感情を後回しにしてきた人生のせいで、「愛している」「そばにいてほしい」という単純な本音を口にできない。 その結果、本人の中では大切にしていたつもりでも、相手から見れば“何も与えてくれない夫”になってしまっている。得意分野
・政治判断
・領地経営 ・軍略、危機管理 ・剣術 ・交渉、対外折衝 ・情報整理と状況把握公の場ではほぼ完璧。
混乱の中でも感情に流されず、常に最善手を選べる男として周囲から絶大な信頼を得ている。弱さ・欠点
人に弱みを見せることができない。
幼い頃から「当主は強くあれ」と叩き込まれてきたため、感情を表に出すこと自体に無意識の抵抗がある。 愛情も心配も、言葉にせず行動で示せば十分だと思い込んでいるが、その行動すら相手に伝わる形で届けるのが下手すぎる。 結果として、守るべき相手を孤独に追い込み、自分が“何もしていなかった”のと同じ状況を作ってしまう。 後悔してからは非常に執着深くなるが、その愛はどこまでも遅い。リュゼリアへの感情
結婚当初から、彼女に惹かれていなかったわけではない。
むしろ静かで聡明で、誰にも見えないところで場を支える彼女に、早い段階から心は動いていた。 ただ、その感情を「愛」と認めた瞬間に失うのが怖くて、仕事と義務に逃げた。 距離を置くことで平静を保とうとした結果、彼女には冷たさしか伝わらなかった。 離縁を告げられ、去られ、初めて彼女がどれほど自分の生活と心の中心にいたのかを知る。 それ以降の彼は、遅すぎた愛と後悔に足を取られながら、それでも「……いつだ」「王都にて、奥様が夕食の席で倒れかけた翌日でございます。奥様付きの医師と侍女頭に確認を、と」 記憶の底に、薄い影が浮かぶ。 あの日、彼は何と言った。 多忙だった。王宮からの呼び出しが続いていた。取引の問題もあった。リュゼリアの体調について、医師が診ているならそれでよい、と短く返した覚えがある。 そこで止めたのは自分だ。 クラウスではない。 ヴィルレオは手を握り込んだ。 爪が掌へ食い込む。「そうか」 それだけを言うのが精一杯だった。 クラウスは責めなかった。 その沈黙がかえって重い。「旦那様」 やがてクラウスが静かに言った。「今からでも、できることはございます」「……ああ」「すぐに手配いたします」 クラウスが出ていく。 扉が閉まると、部屋の中にはまた雨音だけが残った。 ヴィルレオは机の上の診断書を見つめた。 摂取物の精査を要す。 その一文は、ただの疑いにすぎない。 まだ何も確かではない。 それでも彼には、リュゼリアが毎朝何の疑いもなく薬を飲み、茶を口にし、苦しみを病の一部として受け入れてきた姿が浮かんでしまう。 奥様のためです。 よく眠れますように。 咳が楽になりますように。 そんな言葉の下で差し出されるものを、彼女は拒めなかっただろう。 いや、拒む理由を持たされていなかった。 彼女はいつも、与えられた苦しみに名前をつけるのが遅かった。 冷たい沈黙を、夫の多忙だと思おうとした。 孤独を、妻としての務めだと思おうとした。 身体の異変さえ、病なのだから仕方がないと飲み込もうとした。 その従順さにつけ込んだ者がいるのなら。 あるいは、悪意ではなくとも、彼女の身体を軽んじ、眠らせておけばよい、静かにさせておけばよいと考えた者がいるのなら。 ヴィルレオの中で、低く冷たい怒りが音もなく広がっていった。 怒鳴り散らすような怒りではなかった。 もっと重く、もっと底冷えのするものだった。 だが、その怒りの奥に、どうしようもない恐怖がある。 もし、本当に何かが混じっていたとして。 もし、それが彼女の命を縮めていたとして。 その時間は戻らない。 奪われた食欲も、眠らされて失われた夜も、脈の弱りも、咳の深まりも、彼女が「自分の病だから」と受け入れてしまった苦しみも。 戻らない。 ヴィルレ
ヴィルレオの指先が、紙を強く押さえた。 紙は薄く、破れそうだった。だが力を緩めることができない。 なぜ消えた。 誰が消した。 医師が自ら判断して削ったのか。誰かに求められたのか。あるいは、正式な診断書が屋敷の中を通る過程で差し替えられたのか。 問いが一気に立ち上がる。 そして、そのどれもが、リュゼリアの咳へ繋がっていく。 夕刻以降の傾眠傾向。 そういえば、王都にいた頃のリュゼリアは、夜になるとよく眠っていると報告されていた。体が弱いから。疲れやすいから。薬が効いているから。そんな説明を聞いて、それ以上考えなかった。 食が細いことも、病のせいだと思っていた。 顔色が悪いことも、病のせいだと思っていた。 指先が冷えていることも、歩く速度が落ちていることも、夕食の席で時折言葉が途切れることも、全部、病のせいだと。 病は確かにあった。 それは疑いようがない。 けれど、もし。 もし、その病の影に隠れて、別のものが彼女の体力を削っていたのだとしたら。 彼は椅子から立ち上がった。 急に立ったせいで、椅子の脚が床をこすり、低い音がした。控えの間にいたクラウスがすぐに扉を叩く。「旦那様」「入れ」 クラウスが入ってきた。 夜更けにもかかわらず、その身なりは乱れていない。いつ呼ばれても動けるようにしていたのだろう。彼はヴィルレオの顔を見るなり、ただ事ではないと悟ったらしく、余計な挨拶を省いた。「何かございましたか」 ヴィルレオは机の上へ二枚の診断書を並べた。「読め」 クラウスは静かに近づき、まず正式な診断書へ目を走らせた。次に、控えの紙へ視線を移す。 その目が、ほんのわずかに鋭くなる。「……こちらの一文が、正式な書面にはありません」「ああ」「摂取物の精査を要す、と」 クラウスの声は低かった。 ヴィルレオは机に手をついた。「王都の本邸に残っているものをすべて洗え。リュゼリアが飲んでいた薬、茶、蜜薬、食事に混ぜられていたもの、医師からの処方、薬局からの納品、侍女頭の記録、料理場の記録、全部だ」「承知いたしました」「明朝を待つな。今すぐ使いを出せ」 クラウスは一拍だけ黙った。 それは躊躇ではなく、必要な手順を頭の中で組み立てるための沈黙だった。「王都は雨です。夜間の馬車は危険ですが、馬を替えれば夜明け前には本邸へ通達
雨は、夜になっても止まなかった。 激しく叩きつける雨ではない。窓硝子に細い指を滑らせるような、静かな雨だった。けれど、その静けさがかえって館の中の音を際立たせる。暖炉の薪が崩れる音。遠い廊下を歩く使用人の足音。壁の向こうで扉が閉まる気配。雨粒が窓枠に溜まり、時折、小さくこぼれる音。 ヴィルレオは、そのすべてを聞いていた。 寝室へ戻れと言われたわけではない。誰も彼を咎めてはいない。けれど、リュゼリアの部屋の前にいつまでも立っているわけにもいかず、彼は隣の小さな控え室へ移っていた。 灯りは落としていない。 机の上には、未処理の書類が広げられている。王都の屋敷から運ばせた帳簿の写し、使用人の配置表、リュゼリアの療養に関する医師の報告書、別邸で必要な物資の一覧。 どれも目を通すべきものだった。 だが、文字はまるで紙の上で冷たく沈んでいるだけで、彼の頭へ入ってこなかった。 昼間のリュゼリアの咳が、まだ耳の奥に残っている。 細い身体が長椅子の上で折れるように前へ傾き、喉を裂くような咳をこらえ、呼吸を探していた。手を伸ばしかけた。けれど、触れていいのか、どう支えれば苦しませずに済むのか、それすらわからず、彼の手は途中で止まった。 結局、動けたのはアイダだった。 自分は立ち尽くしていただけだった。 何かしたいと思った。 けれど、何をすればいいのかわからなかった。 それは今に始まったことではない。ヴィルレオは、ずっとそうだったのだろう。彼女が苦しんでいた時、自分は何を見ればよいのかわからぬふりをした。何を聞けばよいのかわからないから、聞かなかった。どう触れればよいのかわからないから、触れなかった。 その沈黙を、冷静さだと思っていた。 今になって思えば、あれはただの怠慢だった。「ここへ来て、少しだけ生きている気がするようになったの」 夕方、リュゼリアはそう言った。 穏やかな声だった。 責める声ではなかった。 だからこそ、その言葉は刃になった。 王都の屋敷で、彼女は生きている気がしていなかったということだ。夫のいる家で、夫の名を冠した屋敷で、妻として暮らしていたはずの時間の中で。 彼女は、ただ削られていた。 雨音が、窓を薄く叩く。 ヴィルレオは机の上の紙を一枚取った。目を通していない書類の束から、偶然指に引っかかっただけの封筒だった。
◇ その夜、雨が降った。 窓を細かく打つ、静かな雨だった。嵐ではない。だが、春の前の冷たい雨は、館じゅうの空気を少しだけ重くする。暖炉の火がいつもよりあたたかく感じられ、廊下を歩く人の足音まで湿りを帯びるようだった。 リュゼリアは寝台へ移されたあとも、しばらく眠れなかった。 雨の音を聞きながら、胸の奥に残る咳の痕を感じていた。今日は昼にも強く咳き込んだ。朝だけではなかった。明日はどうだろう。明後日は。そう考えかけて、やめる。 先を数えたところで、咳は止まらない。 ただ、こうして雨の夜にも自分が“怯えるだけではない”ことに、ふと気づく。 怖くないわけではない。 怖い。 咳が消えないことも、少しずつ食べられなくなっていくことも、疲れやすくなっていくことも。 けれど、それと同じだけ、自分はまだ花の咲くところを見たいと思う。明日の風が弱ければいいと思う。白いマーガレットの花弁がどこまで開くのか、青いネモフィラがどれだけ色を深めるのかを見たいと思う。 それは生きたいということなのだろう。 病が消えなくても。 体が確実に蝕まれていても。 その二つは、同時に存在できるのだと、ここへ来てからようやく知った。 部屋の隅では、アイダが静かに本を閉じた。「奥様」「何?」「おやすみになれそうですか」 リュゼリアは少しだけ考えてから、微笑む。「ええ。……今日は少しだけ」 アイダは寝台の脇へ近づき、掛布の端を静かに整える。「夜中に咳が続きましたら、すぐにお呼びくださいませ」「ええ」「遠慮なさってはいけません」「わかっているわ」 そう答えながら、以前の自分なら呼ばなかったかもしれないとリュゼリアは思う。 耐えられる程度なら、一人で耐えた。 誰かを起こすほどではない。 朝まで待てばいい。 そんなふうに考え、自分の苦しみをいつも小さく扱っていた。 だが今は、必要なら呼んでもいいと思える。 アイダは迷惑そうな顔などしない。 ミナも、医師も、館の侍女たちも、自分の咳によって空気を壊されたとは思わない。 苦しい時に苦しいと言っても、誰かの時間を奪った罪人にはならない。 それを知れたこともまた、この別邸で取り戻したものの一つだった。 雨の音は途切れない。 窓の外の花壇も、今は冷たい雨に濡れているだろう。 白い花弁は重みで
咳の痛みが引いたあと、リュゼリアはゆっくり目を開けた。 窓の外は夕方に近い色へ変わっている。部屋の隅ではヴィルレオがまだ椅子に座っていた。彼は彼女が目を開けたのにすぐ気づき、身を起こす。「水は」「大丈夫」「熱は」「少し、落ち着いたわ」 そう答えると、彼はほんのわずかに息を吐いた。その安堵があまりにも露骨で、リュゼリアはかえって少しだけ困ってしまう。「旦那様」「何だ」「そこにいてくださるのはありがたいけれど」 言葉を選ぶ。責めたいのではない。けれど、その張りつめ方の中にいると、自分のほうまで余計に息が詰まりそうになる。「そんなに苦しそうなお顔をなさらないで」 ヴィルレオの眉がわずかに寄る。「していたか」「ええ」「……そうか」 それだけしか返ってこない。だが、それが彼なりの精一杯なのだろうともわかる。 リュゼリアは少しだけ目を伏せた。「咳が消えたわけではないの」「……」「ここへ来たからって、急に治るわけでもない」「わかっている」「ええ。頭では、ね」 その一言で、ヴィルレオが黙る。 そうなのだ。彼は頭ではわかっている。医師の説明も聞いている。余命半年という言葉も聞いた。けれど実際にこうして、穏やかな暮らしの中でなお咳が消えない現実を見せつけられると、身体のほうが受け止めきれていないのだろう。 リュゼリアはそのことを責められない。 自分ですら、こうして静かな館で花を見て、ひとり分の食卓で少しずつ食べ、土の匂いのする午後を知ってもなお、体が確実に蝕まれていることに時々ひどく驚くのだから。 穏やかさは、病を止めない。 ただ、苦しみの中で少しだけ呼吸をしやすくするだけだ。 それだけなのに、その“それだけ”がどれほど大きいかも、今の自分にはわかっている。「わたくし」 リュゼリアは小さく言った。「ここへ来て、少しだけ生きている気がするようになったの」 ヴィルレオが顔を上げる。「ええ。咳もするし、熱も出るし、立っていられない日もある。……でも、それでも、前よりは“生きている”の」 言葉にして、自分でもその真実味に少し驚く。 病んでいるのに。 弱っているのに。 たしかに少しずつ身体は遠ざかっていくのに、それでも前より“生きている”と感じる。 それはきっと、王都での時間がどれだけ生きている実感から遠かったかと
「……花は」 少ししてヴィルレオが言う。「昨日より開いたな」「ええ」 リュゼリアはようやく外から視線を離し、薄く笑った。「白のほうが先にたくさん」「青はまだ小さい」「でも、根はついたみたい」 その会話のあいだは、咳も痛みも少しだけ遠い。花の話をしている間だけは、自分が病んでいることを忘れるわけではないが、それだけではなくなれる。 けれど、その穏やかさも長くは続かなかった。 次に喉へ上がってきた咳は、朝より深かった。「っ……、ごほ、……っ、げほ、ごほ……!」 胸が一気に引き絞られる。長椅子の縁を掴む指に力が入り、視界の端が白くなる。喉の奥が焼けるように痛み、息を吸おうとするたびにまた咳が返ってくる。前かがみになりかけたその瞬間、反射的にヴィルレオが立ち上がった気配がした。 手が伸びかける。 けれど、その手は途中で止まる。 その一拍のためらいが、今の二人のすべてみたいで、リュゼリアは咳の痛みの中でそれを感じた。 結局、先に動いたのはアイダだった。すぐに水を差し出し、呼吸が整うのを待つ。背へ触れる手つきも、かつての焦りを失っている。彼女はもう、リュゼリアの咳の波を知っている。 対してヴィルレオは、長椅子の脇で立ち尽くしていた。 彼の顔を見る余裕はなかった。だが、その沈黙の重さだけでわかる。何かしたいのに何もできない、そのぎこちなさが空気へ滲んでいる。 咳は長かった。 ようやく落ち着いた時には、胸の内側に刃物の跡みたいな痛みが残り、目尻にはまた涙が滲んでいた。リュゼリアはゆっくり息を整えながら、差し出された布で口元を拭う。赤いものはない。それだけは少し救いだった。「……大丈夫」 掠れた声でそう言うと、ヴィルレオが低く問う。「それを、毎日か」 その声には、驚きと、怒りに近い痛みと、どうしようもない無力が混ざっていた。 リュゼリアは少しだけ目を閉じる。「毎日、というわけではないわ」「だが、あるのだろう」「ええ」 隠しても仕方がないことだった。「朝に少し。夜に少し。……あと、こういうふうに時々」 ヴィルレオは何も言わない。 その沈黙が、まるで彼自身の呼吸まで止めているように感じられる。「前より、増えているのか」 やがて、低い声が落ちる。 リュゼリアは答えるまで少しだけ間を置いた。 嘘をつくことはできたかもし