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2食目

작가: はるくぼ
last update 게시일: 2026-08-06 13:43:20

 入学式の翌日、放課後の常盤台高校は、昨日より少しだけ学校らしい音に満ちていた。

 教室から吐き出された生徒たちの声が廊下に重なり、部活動見学へ向かう一年生の足音が階段へ流れていく。まだ制服の着方も鞄の置き方もどこか固い新入生たちの中で、蓮は迷うことなく更衣室へ向かった。

 昼のうちに確認しておいた場所だった。

 トレーニングウェアに着替え、靴紐を結び直し、入部届の入ったクリアファイルを鞄から取り出す。鏡の前で髪を軽く整えると、人工芝のグラウンドへ続く通路を抜けた。

 フェンスの向こう側から、鋭いホイッスルの音が飛んでくる。

 続いて、腹の底に響くような掛け声。

 蓮は一度だけ足を止めた。

 広い。

 昨日、教室の窓から見下ろした時にも分かっていたが、実際にグラウンド脇へ立つと、人工芝の緑は思っていた以上に遠くまで広がっていた。その上を、赤いトレーニングウェアを着た部員たちがいくつもの集団に分かれて動いている。

 ランニングをする組。

 ボール回しをする組。

 ゴール前でシュート練習をする組。

 コーチの笛に合わせ、別の場所では守備のスライド練習が始まっていた。

 百人はいる。

 それだけでなく、誰も止まっていない。

 ドイツで過ごしていたユースチームが、限られた人数で必要な強度を積み上げる場所だったとすれば、ここは一つの大きな組織だった。全員が同じ色を着て、同じ時間に、同じピッチの上で、それぞれの立場を取りに来ている。

 日本のトップレベル。

 蓮は芝の端に片足を乗せ、靴裏の感触を確かめてから、近くにいた学生マネージャーらしき上級生へ声をかけた。

「一年、天根蓮です。入部届、持ってきました」

「あ、はい。……え?君があの天根くん?」

 上級生が名前を確認した瞬間、近くでボールを拾っていた部員の動きがわずかに遅れた。

「あれが、ドイツ帰りの?」

「トップ下だろ? ユースにいたって聞いたけど」

「マジでいたんだな」

 声は大きくない。

 けれど、隠すつもりもないらしい。

 蓮はそれらを聞き流し、グラウンドの中央へ視線を移した。自分を見る目があることは分かっている。期待も、好奇心も、試すような温度も、ピッチに立てばどれも同じだった。

 何を見られているかではない。

 何を見せるかだ。

「天根。こっちだ」

 コーチの一人が名前を呼んだ。

 蓮が歩いていくと、すでに何人かの一年生が集められていた。体格も表情もばらばらで、緊張している者もいれば、早くボールに触りたくて足元を落ち着かなく動かしている者もいる。

「今日は簡単に見る。ポジションは?」

「トップ下です」

「分かった。途中で変えるかもしれない。まずは入れ」

 体力測定でも、基礎練習でもなかった。

 用意されたのは、ミニゲーム用の短いピッチだった。新入生主体の即席チームと、二年生の控え組らしきチーム。人数の多い強豪校では、細かい自己紹介より先に、ピッチで何ができるかを見られるらしい。

「おい、一年。これ着ろ」

 上級生にビブスを渡される。

 蓮はそれを受け取り、頭から被った。

 中央の、トップ下の位置に立つ。

 周囲を見渡すと、右に足の速そうなウイングがいて、前には身体の強いフォワードがいる。左サイドの一年生はボールを持ちたがるタイプで、後ろのボランチは少し硬い。対する二年生は体格で勝り、最初から前に圧をかけるつもりで立っていた。

 芝の感触は悪くない。

 ボールの走りも、見た限りでは素直だ。

 笛が鳴った。

 開始直後、蓮は無理にボールへ寄らなかった。

 首を振る。

 右、左、背後。

 味方の一歩目、相手の寄せる角度、ボールを受けた時に顔が上がる選手と、下がる選手。二年生のセンターバックは強く前へ出るが、出た後の戻りは少し遅い。右サイドバックは中へ絞る癖があり、左サイドの一年生は受ける前に足元を見すぎる。

 数分あれば、把握するには十分だった。

 二年生チームのプレッシャーは強い。

 身体を当て、声を出し、新入生たちが判断する前に距離を詰めてくる。後ろのボランチが一度身体を入れられ、苦し紛れに中央へボールを逃がした。

 蓮の足元へ転がる。

「囲め!」

 二年生が二人、左右から潰しに来た。

 蓮は足を止めない。

 右足の裏でボールの勢いを殺し、身体の向きだけを半歩ずらす。前から来た一人の重心が外へ流れた瞬間、左足でボールを引き寄せ、背中で寄せてきたもう一人を外しながら、二人の間を抜けた。

 派手なフェイントではない。

 必要な分だけ触り、必要な分だけ身体をずらした。

 視界が開くと、右サイドのウイングが縦へ走るのが見えた。

 その前には、相手のサイドバックがいる。

 普通に出せば引っかかる。足元へ付ければ止まる。浮かせればセンターバックが処理する。

 蓮は左足を振った。

 ボールは右ウイングの足元ではなく、相手センターバックとサイドバックの間に残された、誰もいない芝の上へ滑っていく。

「は?」

 二年生の誰かが短く声を漏らした。

 その空白へ、新入生フォワードが斜めに走り込む。

 ボールは、彼の一歩先に届いた。

 トラップはいらない。

 フォワードは走る勢いのまま右足を振り、低いシュートがゴールネットを揺らした。

 一瞬、グラウンドの音が薄くなった。

 近くで別メニューをしていた部員が顔を上げる。ボールを拾おうとしていた上級生が手を止める。コーチの笛が鳴る前に、二年生のセンターバックが後ろを振り返っていた。

「今の、通るのかよ」

「どこ見て出した?」

「いや、あそこ走った一年もよく分かったな」

 蓮は小さく息を吐き、乱れた前髪を指先で戻した。

 特別なことをしたつもりはない。

 センターバックが出て、サイドバックが中へ寄り、フォワードが斜めに入る。

 それなら、その到達点へ出す。

 ピッチの上では、見えたものを正しく選べばいい。

「続けろ」

 コーチが少し離れた場所から声をかけ、ゲームはすぐに再開された。

 その後、蓮は何度もボールを受けた。二年生は明らかに寄せを速くし、背後から身体を当てる回数も増えたが、蓮は無理に抜こうとはしなかった。

 ワンタッチで落とし、受ける前に肩越しを見る。

 味方のスピードが足りなければ、足元へ付ける。

 走れる選手には、走る前へ出す。

 一年生の即席チームは、最初こそ二年生の圧に呑まれていたが、蓮が中央でボールの逃げ道を作るたびに、少しずつ顔が上がり始めた。

「もう一回、右」

「戻せ!」

「前、空いた!」

 最初は遠慮がちだった声も、いつの間にかピッチの中で通るようになっていた。

 蓮はその変化を聞きながら、次の受ける位置へ動く。

 チームは即席でも、ボールは一つしかない。

 誰がどこにいて、誰が何を見ているか。

 それさえ揃えば、形は作れる。

 ミニゲームが終わると、周囲の空気は始まる前とは少し変わっていた。

 冷やかしは消えている。

 代わりに、測るような視線が増えていた。

 監督らしき男性も、遠くのタッチライン際からこちらを見ていた。何かを言うわけではない。ただ、腕を組み、蓮の立っている位置と、周囲の反応を静かに確認している。

 蓮はビブスを脱ぎ、軽く畳んで上級生へ返した。

「……よし、次だ」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 自分の価値は、このピッチでなら示せる。

 そう思った。

   ◇

 一時間半後。

 練習が終わる頃には、空の色はすっかり変わっていた。

 強度そのものは、想定の範囲内だった。

 ただ、部活動という場所は、練習が終わったところで終わらない。

 ゴールを戻し、ビブスを集め、ボールを数える。

 人工芝に落ちたテープや空きボトルを拾い、グラウンド脇に並んで挨拶をする。

 更衣室に戻る頃には、汗は少し冷え、脚には試合とは違う重さが残っていた。

「お疲れ」

「お疲れさまでした」

 上級生に頭を下げ、荷物をまとめる。

 校門を出ると、外はもう夕方ではなく、夜に近かった。

 腹が減っている。

 その事実は、駅へ向かって歩き始めてすぐに分かった。胃の奥が空っぽになり、足取りが少しずつ重くなる。昼食は食べた。朝も食べた。プロテインバーも鞄には入れていた。

 それでも足りない。

 今日の練習量に対して、何をどのタイミングで入れるべきだったのか。

 そこが分からなかった。

 鶏むね肉は買ってあるし、卵もある。

 野菜も、少しは残っているはずだ。

 けれど、今の身体に必要なのは何なのか。疲労回復を優先するなら何を合わせるべきか。明日の練習を考えるなら、どの程度食べればいいのか。

 蒸すのか、焼くのか、茹でるのか。

 はたまた、塩分を足すのか、炭水化物を増やすのか。

 頭の中に選択肢は並ぶのに、どれも正解には見えなかった。

 駅近くのスーパーの前で、蓮は足を止めた。

 自動ドアの向こうには、惣菜を選ぶ主婦や、弁当を手に取る会社員、菓子パンをかごに入れる学生がいる。誰も迷っていないように見えるのに、蓮だけが入口の横で動けずにいた。

 ピッチなら見える。

 相手の重心も、味方の走る先も、ボールを置くべき場所も。

 けれど、棚に並んだ肉と野菜と惣菜の前では、どこへ出せばいいのか分からない。

「……難しいな」

 小さく呟き、蓮は空腹を抱えたまま店内へ入った。

 ドイツ帰りの天才。

 将来を期待される選手。

 そんな言葉がどれだけついて回っても、夕飯の献立は誰も決めてくれない。

 買い物かごを手に取った蓮の背中は、ピッチに立っていた時より、少しだけ頼りなく見えた。

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