로그인駅前のスーパー『サニー』は、放課後の時間帯にしては思っていたより混んでいた。
学校帰りの生徒が菓子パンや飲み物を手に取り、仕事帰りらしい会社員が弁当の棚の前で足を止める。総菜コーナーには買い物かごを提げた主婦たちが並び、店内に流れる明るい音楽とレジの電子音が、練習後の身体には少しだけ遠く聞こえた。
蓮は買い物かごを手に、精肉コーナーの前で立ち止まっていた。
腹は減っている。それは分かる。
練習で使った分を補わなければならないことも、疲労を明日に残さないために食べるべきだということも、知識としては理解している。
ただ、棚に並んだ肉のパックを前にすると、そこから先が急に曖昧になる。
鶏むね肉。
脂質は少ない。タンパク質も取れる。価格も高すぎない。蓮はしばらく表示を見比べ、一番量の多いパックをかごに入れた。
続いて青果コーナーへ向かい、ブロッコリーを手に取る。色は濃い。悪くなさそうに見える。ドイツで出されていた食事にも、似たような野菜はよく入っていた。
鶏むね肉。
ブロッコリー。 あとは水と、足りなければプロテインバー。並んだ食材を見下ろしながら、蓮は小さく息を吐いた。
間違ってはいないはずだ。
少なくとも、身体に悪いものを選んでいるつもりはない。けれど、ピッチでパスコースを見つけた時のような確信は、どこにもなかった。
「……それ、本気で夕飯にするつもり?」
横から声がした。
蓮が顔を上げると、隣に立っていた少女がこちらのかごを見ていた。学校指定のスカートに、ブレザーではなく薄手のパーカーを羽織っている。手には自分の買い物かごがあり、中には魚の切り身や野菜、牛乳のパックが整然と収まっていた。
見覚えがあった。
昨日、校内案内の途中、狭い廊下で何度か同じ方向へ避けてしまった少女だ。「……あ。昨日の」
蓮がそう言うと、少女も少し目を細めた。
「ああ、廊下で。えっと……天根くん、よね? ドイツ帰りの」
「そうだけど」
名前まで知られていることには、もうあまり驚かなかった。グラウンドでも、同じような反応は何度か浴びている。
少女は蓮の顔と、かごの中身を順に見た。
「練習帰り?」
「ああ」
「サッカー部、よね?」
「そうだな」
「それで、夕飯が鶏むね肉とブロッコリーだけ?」
確認するような声。責めているというより、どうにか自分の見間違いであってほしいと言いたげな声音だった。
蓮はかごを少し持ち直す。
「足りなければ、家にプロテインバーがある」
「……足りる足りない以前の問題だと思うわね」
少女は小さく息を吐き、蓮のかごから視線を外さないまま、少しだけ眉を寄せた。
「その組み合わせ、誰かに言われたの?」
「いや。世界のトップ選手は、脂質を抑えて鶏肉や野菜を中心にしていると聞いたから」
「誰の話?」
「クリスティアーノ」
「ああ……」
少女は納得したように頷いたが、その顔は少しも安心していなかった。
「参考にする相手は間違っていないと思う。でも、真似する場所が違うわ」
「場所?」
「食事の目的」
短く返され、蓮は言葉を止めた。
目的。
ピッチの上なら、自然に考えていることだった。前進するのか。
時間を作るのか。 相手を動かすのか。 味方を走らせるのか。けれど、食事に同じ言葉を向けたことはなかった。
少女は、蓮のかごの中へ手を伸ばすことはせず、隣の棚に並んだ別の食材へ視線を移した。
「トッププロの食事は、完成した身体を高い水準で維持するためのものよ。もちろん練習量も違うし、年齢も違うし、身体の出来上がり方も違う。あなたはまだ高校一年生でしょ。今は維持じゃなくて、作る時期なの」
「作る……」
「練習で使った分を戻すだけじゃ足りない。壊れた組織を修復して、そのうえで成長する材料を入れないといけない。タンパク質だけ入れても、それを使うためのエネルギーが足りなければ意味が薄くなるし、ビタミンやミネラルが不足しても回復は遅れるわよ」
声は大きくない。
けれど、言葉に迷いがなかった。蓮は黙って聞いていた。
さっきまで棚に並んでいた食材は、どれも同じように見えていた。肉。魚。野菜。米。パン。惣菜。それらはすべて、ただの選択肢だった。
だが、彼女が口にした瞬間、それぞれが別の役割を持ち始める。
試合中の味方の立ち位置が、突然意味を持って見える時の感覚に少し似ていた。「……詳しいんだな」
「スポーツ栄養科だから」
少女はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「管理栄養士になりたいの。だから、昔からそれなりには勉強してる」
それなり、という言い方に反して、その視線はすでに別の棚へ向いていた。
「とりあえず、今日の練習後なら鶏むね肉だけじゃなくて、魚も入れた方がいいと思うわ。白身魚なら胃にも重くないし、今ならこれ。あと、バナナ。すぐ使える糖質も入れたいから」
少女は自分のかごを腕に掛け直し、鮮魚コーナーへ歩き出す。
蓮は一拍遅れてついていった。「いいのか?」
「何が?」
「そこまで見てもらって」
「見ちゃったから。あのかご」
少女は淡々と言った。
「あれを見て、同じ学校の運動部の人をそのまま帰すのは、管理栄養士を目指す身としてはちょっと気分が悪いわ」
蓮は返す言葉に迷い、結局そのまま黙って後を追った。
鮮魚コーナーで白身魚の切り身を選び、青果コーナーでバナナと小松菜を足す。米は家にあるかと聞かれ、蓮が「ある」と答えると、少女は少し安心したように頷いた。
「練習後なら、炭水化物を怖がらない方がいいわ。身体を戻すための燃料だから。タンパク質だけを頑張っても、運ぶものが足りないと効率が落ちる」
「運ぶ?」
「糖質を取ると、インスリンっていうホルモンが出るの。ざっくり言えば、筋肉に栄養を入れるスイッチみたいなものね。細かい話は置いておくけど、少なくとも練習後に鶏むね肉とブロッコリーだけで済ませるのは違うわね」
「インスリン……」
聞いたことはある。
だが、今日の自分の夕飯と結びつけたことはなかった。少女は豆腐の棚の前で足を止め、少し考えてから一丁を取った。
「これも入れて。明日の朝にも使えるし」
「朝?」
「朝も大事よ? 今日の夕飯だけ整えても、明日の練習まで身体は続いてるから」
蓮は黙ってかごを見る。
最初は鶏むね肉とブロッコリーだけだった場所に、白身魚、バナナ、小松菜、豆腐が加わっていた。食材が増えたというより、かごの中に理由が増えたように見えた。
それが不思議だった。
ピッチの外にも、こういう見方をする人間がいる。「……助かる」
蓮がそう言うと、少女は少しだけ目を丸くした。
「素直なのね」
「正しいと思ったからな」
「まだ食べてもいないのに?」
「少なくとも、俺よりは見えてる。
それはわかる」少女は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「......変な言い方」
「そうか?」
「ええ。でも、嫌いじゃないわ」
レジへ向かう途中で、少女は思い出したようにこちらを見た。
「そういえば、ちゃんと名乗ってなかったわね。私は橘椿。常盤台高校スポーツ栄養科の一年」
「天根蓮。スポーツ科の一年。去年までドイツにいた」
「それは知ってる。天根くん、有名だから」
「……そんなに?」
「少なくとも、サッカー部に関係ある人なら知ってるんじゃない? ドイツ帰りの一年が来るって」
「そうか」
蓮はレジの列に並びながら、店内の音に混じる椿の声を聞いていた。
ドイツ帰り。
将来を期待される選手。そう呼ばれることには慣れている。
だが、スーパーの買い物かごを見て、食事の目的から指摘されたことはなかった。
会計を終えると、袋は思っていたより重くなった。
蓮が片手で持ち上げると、椿も自分の荷物を持ち直し、店の外へ出る。自動ドアが開くと、夜に近い冷たい空気が頬に触れた。
「で、天根くんはどっち?」
椿が駅前の道を見ながら尋ねる。
「あっち。住宅街の方」
蓮が駅の反対側を指すと、椿は同じ方向へ目を向けた。
「……同じね。途中まで一緒に行きましょう」
「いいのか?」
「荷物が重いから、どっちにしても早く帰りたいの」
椿はそう言って歩き出す。
蓮も少しだけ遅れて、その隣に並んだ。夜の道を、二人分のレジ袋が小さく揺れる。
練習後の身体はまだ空腹を訴えていたが、さっきまで感じていた頼りなさは少しだけ薄れていた。
鶏むね肉。
ブロッコリー。 白身魚。 バナナ。 小松菜。 豆腐。それぞれの食材に、理由がある。
蓮は隣を歩く椿の横顔を一度だけ見て、すぐに前を向いた。
この道の終点が同じ場所にあることを、この時の二人はまだ知らなかった。
朝の空気は昨日よりも少しだけ鋭く、外に出た瞬間に頬に触れる冷たさがはっきりと分かる。蓮はマフラーを軽く整え、靴紐を締め直してから玄関を出た。空は澄んでいて、遠くの音がいつもよりよく通る。 賢崇の車で、目的地の神社に向かう。「やっぱり、人、多いわねぇ」 車の中から、梓がそうこぼした。 神社の手前の道路にはすでに人の流れができていて、同じ方向へ向かう足取りが自然と揃っている。 付近の駐車場に車を停めた四人は、そのまま人の流れに合流する。 参道に入る前から密度は上がり、歩幅は自然と制限される。前との距離を詰めすぎればぶつかり、離せば流れから外れる。蓮は周囲の速度を見ながら位置を合わせる。「はぐれないようにね」 梓はそう言うと、賢崇の腕に軽く手を回す。 二人はそのまま並んで進む。 蓮と椿はその後ろに位置を取る形になる。距離は詰まりすぎず、離れすぎず。流れに合わせて歩く。 鳥居をくぐる頃には、人の密度が一段上がる。横からの流れも混ざり、足元の自由がさらに減る。 前方で一度、流れが詰まる。「おっと」 止まるほどではないが、速度が落ちる。 その隙間に、横から人が入ってくる。 椿の位置が、わずかに後ろへずれる。 蓮は、視界の端でそれを捉えた。腕を伸ばし、椿の腕を掴むと、そのまま引き戻した。 椿を引き戻したことを確認した蓮は、すぐに手を離した。「前、詰まってるな」 それだけ言って、視線を前に戻す。 流れはそのまま続く。 椿は蓮のすぐ後ろに続くように、歩幅を合わせる。 二人の間に会話はない。 人の流れに押されながら、進む。 少し進むと、今度は後ろから圧がかかる。前に詰まり、横の人と肩が触れる。 足元の自由はさらに減り、周囲と距離を保つこと自体が難しくなる。 蓮は前方の空きと横の動きを見て、位置を微調整する。 椿はその後ろをついてくる。 また横から人が入り込みそう
夕食の時間。テーブルの上には出来たばかりの皿が並び、味噌汁の湯気が静かに立ち上っていた。 蓮は、椿が小鉢を運ぶ様子を見ながら、どこか落ち着かない様子だった。「……どうしたの、そんなそわそわして」「いや、やっぱりなにか手伝えないか?やってもらいっぱなしは落ち着かなくって」「まだ慣れてないの?もうここに来て五日でしょ」 蓮にとっては、夕食の調理から配膳までやってもらうのは、落ち着けなかった。短期間とはいえ居候の身であるならなおさら。 椿が味噌汁のお椀を人数分運び終えて席につく。「ほら、食べましょ」「あ、ああ。いただきます」 揃った声に合わせて食事が始まる。蓮も同じように箸を取り、最初の一口を運ぶ。「どう? 今日の」 梓がそう言って蓮たちを見る。 蓮は口の中のものを飲み込んでから顔を上げて答える。「今日も、とても美味しいです」 簡潔だが、素直な気持ちだった。「ならよかったわ。蓮くんが来て食べてくれる量も増えたから、作りがいがあるわぁ」 梓は機嫌よく笑い、そのまま椿にも視線を向ける。「椿は?」「……うん。おいしい」 短く返して、椿は視線を皿へ戻す。その様子に内心で首を傾けながらも、蓮は何も言わずに食事を続ける。 賢崇が味噌汁に口をつけながら「今日も出汁がよく効いてるね」と穏やかに言うと、梓が「そうでしょ?今日のお味噌汁は椿が作ったのよ、ねぇ?」と嬉しそうに返し、食卓の空気はそのままいつものように流れていく。 そして食事が半分ほど進んだ頃、梓が思い出したように声を上げた。「そういえば、もうすぐ年末じゃない?」「そうですね」 蓮は短く返す。「今年の初詣、どうする?」 問いの形だが、梓は間を置かずに続ける。「うちは毎年皆で行ってるのだけど……初詣、蓮くんも一緒に行くでしょ?」「いいんですか? ご一緒しても」 蓮は箸を止め、
朝、目を覚ましたとき、空気の冷たさは昨日と変わらなかった。 蓮は布団から起き上がり、室内の温度を一度だけ確かめてから立ち上がる。外はまだ明るくなりきっておらず、窓の外に見える空もいつも通りの色で、日付が特別であることを示すものは何もない。 洗面を済ませ、着替えを終え、時間を確認する。予定通りだ。 ドアを開けて廊下に出ると、家の中は静かで、キッチンの方からかすかに水の音が聞こえる。 そのままトレーニングルームへ向かう。 扉を開けると、賢崇はすでに中にいて、マットの位置を整えていた。「おはようございます」「おはよう。今日は大晦日だね」「はい」「とはいえ、やることは変わらない。整えて終わろう」「お願いします」 いつもと変わらない、一日の始まり。 マットの上に立ち、足の位置を確認する。股関節の可動域を確かめ、重心を移し、体幹を固定したまま動作をつなげていく。 賢崇は少し離れた位置から見て、必要な箇所だけを短く指摘する。「戻しを急がない。そこを揃えよう」「はい」 一度止めて、最初からやり直す。 速さではなく、同じ形で通すことを優先する。昨日までに整えた動きを崩さないこと。それだけに意識を置く。 繰り返す。 同じ動きが同じ位置に収まるかを確認しながら、無駄な力を抜き、次へつなげる。 呼吸を合わせ、負荷のかかり方を揃える。「今の形でいいよ」 賢崇が言う。「深く入れようとしなくていい。そのまま維持することがまず大事だよ」「分かりました」 その状態を数回繰り返し、最後にもう一度通す。 賢崇は一度だけ頷いた。「今朝はここまでにしよう」「ありがとうございます」 マットを離れ、軽く呼吸を整える。 窓の外は少しだけ明るくなっていた。 器具を元の位置に戻し、床を整えてから部屋を出る。 リビングに入ると、出汁の匂いが広が
夕食の時間。テーブルの上には出来たばかりの皿が並び、味噌汁の湯気が静かに立ち上っていた。 蓮は、椿が小鉢を運ぶ様子を見ながら、どこか落ち着かない様子だった。「……どうしたの、そんなそわそわして」「いや、やっぱりなにか手伝えないか?やってもらいっぱなしは落ち着かなくって」「まだ慣れてないの?もうここに来て五日でしょ」 蓮にとっては、夕食の調理から配膳までやってもらうのは、落ち着けなかった。短期間とはいえ居候の身であるならなおさら。 椿が味噌汁のお椀を人数分運び終えて席につく。「ほら、食べましょ」「あ、ああ。いただきます」 揃った声に合わせて食事が始まる。蓮も同じように箸を取り、最初の一口を運ぶ。「どう? 今日の」 梓がそう言って蓮たちを見る。 蓮は口の中のものを飲み込んでから顔を上げて答える。「今日も、とても美味しいです」 簡潔だが、素直な気持ちだった。「ならよかったわ。蓮くんが来て食べてくれる量も増えたから、作りがいがあるわぁ」 梓は機嫌よく笑い、そのまま椿にも視線を向ける。「椿は?」「……うん。おいしい」 短く返して、椿は視線を皿へ戻す。その様子に内心で首を傾けながらも、蓮は何も言わずに食事を続ける。 賢崇が味噌汁に口をつけながら「今日も出汁がよく効いてるね」と穏やかに言うと、梓が「そうでしょ?今日のお味噌汁は椿が作ったのよ、ねぇ?」と嬉しそうに返し、食卓の空気はそのままいつものように流れていく。 そして食事が半分ほど進んだ頃、梓が思い出したように声を上げた。「そういえば、もうすぐ年末じゃない?」「そうですね」 蓮は短く返す。「今年の初詣、どうする?」 問いの形だが、梓は間を置かずに続ける。「うちは毎年皆で行ってるのだけど……初詣、蓮くんも一緒に行くでしょ?」「いいんですか? ご一緒しても」 蓮は箸を止め、梓を見
夕方、窓の外がまだ明るさを残し、机に落ちる影は伸び切らないまま止まっている頃。 公園から帰宅した椿は、ノートとプリントを揃えて設問の条件を追い、ペン先を止めずにいた。 次々と問題をとき進め、途中で一度だけ見直してから次へ流している。 ふいに、スマホの通知音が響いた。通知を開くと、陽菜からメッセージがきていた。【つばきー、宿題助けてー】 表示を確認した椿がすぐに通話を開始すると、二回の呼び出し音で繋がった。「反応はやっ、暇してたの?」「私も課題やってる最中よ。ちょうどよかったわ」「そうなの?天根くんのご飯作ってる時間かと思ってたよ」「……今は実家に帰省中だから」「そっかー。まぁたまには羽伸ばしなよ」「そうね」「それはそうとさ、天根くんから離れると不安になんないの?ちゃんとご飯食べてるかなー、とか」「彼、最低限の調理はできるから。……レシピも置いてきたし大丈夫のはずよ」「へぇ、手料理食べたことある?」「ないわよ。最初のころは作ったものの写真送られてたから」「へー」「……聞いといてそれ?」「いいじゃん別にー」「はぁ……それで?どこで詰まってるの?」 通話をつなげてから、椿はペンを持ち直し、プリントの問題を解き進めていく。「栄養学のエネルギー換算のとこー。なーんか途中でズレるんだよね」「単位揃えてる?」「たぶん……」「たぶんでやらない。最初に揃えてから計算」「はーい」 軽く流す声に対して、椿はそのまま続ける。「炭水化物と脂質の係数、途中で混ぜないで。入れ替えると合わなくなるわよ」「あ、それかぁ。ちょっと待ってね」 紙をめくる音が入り、その間に椿は一行進め、途中で一度だけ式を見直して係数の位置を確認し、そのまま最後まで通す。「……できた、これで合う?」「見せて」「カメラ向け
「じゃあ、今日から少し負荷を上げていこうか」 立った状態で揺れが出ないのを見て、賢崇は短く言った。 蓮はマットの中央に立ち、足幅を整える。骨盤と肋骨の位置を揃えたまま呼吸を通すと、腹部の奥に圧が残り、体の内側だけで支えが立ち上がる。「そのまま、片脚に乗ってみようか」 蓮は重心を右へ移し、左足をわずかに浮かせる。支点が片側に寄るが骨盤は傾かず、呼吸の流れも崩れない。吐き終わりでも圧は抜けないまま残る。 数呼吸維持するが、揺れない。 賢崇が一歩近づく。「少しだけ押してみるよ」 肩口に指が触れる。押すほどの力ではないが、外へ逃げる方向が一瞬だけ生まれる。蓮の体がわずかに揺れる。 だが、崩れない。 呼吸を止めず、圧を残したまま支点を戻す。「……今の、外に逃げかけたね」「はい」「でも戻した。力で固めてない」 蓮は何も言わず、そのまま維持する。 賢崇は反対側に回り、今度は背中側に指を当てる。わずかに強く後方へずらす。体が一瞬だけ遅れるが、呼吸を合わせるとすぐに戻る。骨盤は落ちず、支点も崩れない。「いいね。戻れるようになってる」 蓮はゆっくりと足を戻し、もう一度同じ姿勢に入る。今度は最初から揺れが小さく、外へ逃げる前に内側で収まる。 賢崇は腕を組む。「支えるだけじゃなくて、戻せてる。ここからが使える状態だね」 蓮は短く頷く。 壁際では椿がノートに視線を落とし、ペンを走らせている。視線を上げるのは、揺れが出て戻るその瞬間だけで、記録のタイミングに無駄がない。「反対もやってみようか」 蓮は続いて左脚に乗る。わずかに揺れが出るが、呼吸を合わせるとすぐに収まる。 賢崇は間を置き、同じように肩へ触れる。今度は内側へ崩す。膝がわずかに内へ入るが、そのまま戻る。足裏で踏ん張るのではなく、骨盤の位置だけで修正が入る。「……左右差はまだあるね。でも問題ない範囲だ」 蓮は姿勢を戻し、呼吸を整える。